かつて北九州市内を走っていた路面電車を写真で紹介します。
路線図
「世界の鉄道’73」昭和47年10月14日・朝日新聞社発行より
西日本鉄道(西鉄)北九州線(きたきゅうしゅうせん)は、かつて福岡県北九州市内で運行していた軌道路線の総称です。
北九州市内の門司区・小倉北区・八幡東区・八幡西区の市街地を東西に貫く北九州本線、小倉北区と戸畑区の中心部を結ぶ戸畑線、戸畑区と八幡東区の中心部を結ぶ枝光線、小倉北区と小倉南区の北方地区を結ぶ北方線の4路線がありましたが、昭和55年(1980年)の北方線廃止を皮切りに、いずれの路線も平成12年(2000年)までに以下の通り全廃されました。
- 北方線:昭和55年(1980年)11月2日全線廃止
- 戸畑線・枝光線:昭和60年(1985年)10月20日全線廃止
- 北九州本線:昭和60年(1985年)10月20日(門司 – 砂津)廃止
- 北九州本線:平成4年(1992年)10月25日(砂津 – 黒崎駅前)廃止
- 北九州本線:平成12年(2000年)11月26日(黒崎駅前 – 折尾)廃止
但し、西鉄の関連会社が運行する筑豊電気鉄道(黒崎駅前 – 筑豊直方)だけは、現在も運行を継続しており、筆者の最寄り駅があります。
今回ご紹介する写真は、平成4年(1992年)10月25日廃止された(砂津 – 黒崎駅前)区間、全31停留所を同年10月10日に筆者が歩いて撮影したものです。尚、説明文は私の記憶に基づいております。中には記憶違いもあるかも知れませんが、悪しからずご了承ください。
砂津(すなつ)
かつて、門司まで路線があった頃は車庫があり、バスが停まっている方に引込線がありました。砂津までの電車は引込線から車庫に入り、門司までの電車は直進していました。
米町(こめまち)
この辺りから小倉の繁華街になり、停留所の間隔も短くなります。
小倉駅前(こくらえきまえ)
JR(旧国鉄)の小倉駅に最も近い停留所です。徒歩5分程度離れています。
魚町(うおまち)
小倉の中心部と言っても良い停留所です。すぐ近くに小倉の老舗デパート「井筒屋」があります。
室町(むろまち)
JR西小倉駅に最も近く、昭和33年(1958年)に現在のJR小倉駅が出来るまでは、こちらが小倉駅でした。また、小倉城に最も近く、「森鴎外」が小倉の地で最初に住んだところでもあります。現在は再開発により様変わりしています。
大門(だいもん)
戸畑線が廃止になるまでは、ここで戸畑方面と八幡方面に分岐していました。ホームの前後で乗り場が分かれており、乗り場表示があるのはその名残です。
堅町(たてまち)
ご覧のとおり道幅が狭く、ホームがありません。自動車の通行を気にしながら道路から直接乗降するしかありませんでした。
金田(かなだ)
近くには、福岡地方裁判所小倉支部やJR九州小倉工場があります。
下到津(しもいとうづ)
歯科大学前
九州では唯一の歯科専門大学「九州歯科大学」があり、こちらを卒業された歯医者さんは、九州では信頼性が高いとされています。
遊園前(ゆうえんまえ)
西鉄が運営する動物園併設の「到津遊園地」への最寄り停留所でしたが、経営悪化のため閉園し、現在は、北九州市が経営を引き継ぎ「到津の森公園」となっています。
遊園前バス営業所(ゆうえんまえばすえいぎょうしょ)
昭和(しょうわ)
七條(しちじょう)
昭和から七條にかけては、小倉・戸畑・八幡の境界に位置しています。
荒生田(あろうだ)
約1300年前、天平時代に藤原氏と官軍が戦った場所で、敗れた藤原氏の怨霊を鎮めるために荒武党明神が祀られました。その荒武党がなまって荒生田になったそうです。また、新日鉄住金高見社宅があります。官営八幡製鐵所時代は、高見官舎と呼ばれ、幹部職員の住宅でした。現在は、高級住宅街として整備されています。
三条(さんじょう)
七條からのこの辺りは、京都を思わせる地名があります。古来よりあった地名かどうかは分かりませんが、日本の近代化のため官営製鉄所を建設し、都のように整備したかったのかもしれませんね。私の勝手な憶測です。因みに停留所や地名はありませんが、信号の看板などに四條や六條の名前が見受けられます。
大蔵(おおくら)
近くには大蔵川が流れ、上流には製鐵所に大量の水を供給するため河内貯水池(新日鐵住金所有のダム湖)があります。貯水池にかかる「南河内橋」は、日本で唯一現存するレンティキュラートラス構造の橋梁で、重要文化財に指定されています。
上本町(かみほんまち)
近くには高炉台公園があり、明治34年(1901年)に稼働し始めた東田第一高炉を眺めることが出来ます。現在の東田第一高炉周辺は、史跡広場や2017年末で閉園となるスペースワールドとなっています。
中央町①(中央町①)
かつて、製鐵マン達がお金を落として行った繁華街です。旧富士銀行(みずほ銀行)と製鐵所との取引関係からか都市銀行で唯一、八幡に支店が存在します。
中央町②(ちゅうおうまち②)
中央町には、前述と二つの停留所が存在します。枝光線との分岐点であり、記憶が定かではありませんが、枝光には八幡製鐵所の本事務所があったので、中央町①と中央町②、それぞれ片方しか通らない電車があったので、その名残だと思います。
春の町(はるのまち)
近くにある製鐵記念八幡病院(旧官営製鐵所附属病院)は、製鐵所従業員の厚生施設として設置され、従業員とその家族しか診療していませんでした。そのためか製鐵所に入所することは一生の安泰に繋がっていたようです。また、新日鐵住金所有の大谷球場や大谷体育館があります。これも製鐵所従業員の専用厚生施設でした。
尾倉(おぐら)
八幡駅前(やはたえきまえ)
製鉄西門前(せいてつにしもんまえ)
西門前の名称ですが、西門までは徒歩10分程かかります。そこから更に職場までは、製鐵所構内バスを利用していたようです。
前田(まえだ)
桃園(ももぞの)
陣山(じんやま)
紅梅(こうばい)
前田から紅梅までは、製鐵所従業員の社宅が沢山ありましたが、従業員の減少と共に各方面に譲渡され、マンションや公共施設などに代わっています。
藤田(ふじた)
この辺りまでは、北九州市誕生以来、副都心黒崎地区の一部となって商店街が黒崎駅前まで延びています。
黒崎駅前①(くろさきえきまえ①)
JR黒崎駅の直前です。写真のようなペデストリアンデッキが出来る前はここが降車専用になっていました。尚、そごう百貨店は撤退し、北九州の老舗デパート井筒屋となっています。
黒崎駅前②(くろさきえきまえ②)
こちらが乗車専用です。黒崎駅前折り返し電車のためにホームを2本設置していました。また、ここから先は専用軌道を走ります。現在は、再開発ビルの1階部分にホームがあり、筑豊電気鉄道が事業を引き継いでいます。
全国の皆様には、退屈な内容かも知れませんが、10年先・20年先に貴重な資料として残ると思い、ブログにまとめました。恐らく私自身、これを見ないと思い出せなくなっていると思います。
大変懐かしく拝見しました。堅町は「かたまち」となっていますが正しくは「たてまち」だと思います。
失礼しました。正しくはタテマチです。修正したと思っていましたが、出来ていませんでした。
アップありがとうございます。懐かしい写真ばかりで嬉しいです。今は東京に住んでいますが、40年以上前に皿倉山の麓(八幡駅の近く)に住んでいました。当時はカブスカウトに入っていて、日曜日の朝は尾倉電停の掃除をやってました。たばこの吸い殻を拾うことが主で嫌な作業でした。
幼いころは到津遊園からの玉屋で買い物・食事が本当に楽しみでした!
中高は黒崎にそごうができて遊びの主戦場でしたが、こんなに寂しくなるとは思いませんでした。
返信が遅くなって申し訳ございません。
閲覧いただきありがとうございます。全国に散らばる北九州人のために書いたブログです。ルースター様のように感じていただけることが目標だったので感無量です。北方線・門司線・戸畑線の廃止の時も撮影したかったのですが、若かったので経済的・時間的余裕がありませんでした。これを撮影した当時は30代で、砂津から黒崎駅前まで歩いて撮影しました。
1980年生まれ、北九州市育ちです。
十歳くらいの頃の、荒生田周辺の写真を探していて、おぼろげに覚えている景色に近く、とても懐かしく拝見しました。
返信が遅くなって申し訳ございません。
そのように思っていただけることが、なによりの楽しみです。
路面電車に関するニュースを見てそういえば自分の実家の近くにも路面電車があったような?と
記憶を掘り出しググってこちらにたどり着きました。
鮮明で写真とわかりやすいまとめがあり、当時を思い出し感動しました!
(ちなみに83年生まれ、実家は八幡の中央町付近でした)
今は関東に住み、北九州にもなかなか帰れない中とても良い資料を拝見できて嬉しい限りです。
ぜひ貴重な資料として後世に残して欲しいです。
そのように思っていただけることが何よりの楽しみです。
大阪出身の私ですが、先輩がいる関係で北九州へはちょくちょく行きます。
元気な都市には路面電車は欠かせないと思います。
YouTubeで西鉄の路面電車が走ってた頃を見たりしましたが、砂津〜黒崎の廃線は惜しまれますね。
閲覧いただきありがとうございます。北九州は市長が変わりました。私としては門司港に観光用に路面電車が欲しいですね。