歴史を紐解く(廃藩置県)- 山梨県編


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今回は、山梨県の歴史を紐解いてみます。山梨県で思い出すのは、「武田信玄」公ですが、戦国の武将なので、今回は詳しく触れません。もう一つ思い出すのが、身延山久遠寺です。私の父と母が良く行っていたので、父が亡くなったときに私も慰霊のため訪れました。また、父が健在の時にも一度行っており、その時に石和温泉に泊まったことを思い出します。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の山梨県になるまでの変遷です。



藩がありませんね(^-^;。甲府城がありますし、甲府藩が存在するはずですよね。やはり、慶安4年(1651年)から享保9年(1724年)まで、甲府藩は存在していたようです。版籍奉還時には、既に藩が存在せず年表に載っていないだけのようです。年表にはありませんが、甲府藩から見ていきましょう。

 

甲府藩


甲府藩(こうふはん)は、甲斐国に存在した藩です。藩庁は、甲府城におかれました。
甲斐国は戦国時代、武田氏を守護として国内統一され、「武田信虎」から「武田晴信(信玄)」期にかけて甲府(甲斐府中)に政庁が移され、甲府盆地北縁の相川扇状地に居館「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」が築造されました。
要害山城や一条小山城(後に甲府城が築かれる)などの支城が築かれ、甲斐府中防衛体制が整えられました。また、館を中心とした城下町の整備も行われました。
信玄期から勝頼期にかけて武田氏は、信濃・駿河に領国を拡大させ、甲府城下町も拡張しました。勝頼期には「長篠の戦い」で、織田・徳川連合軍への大敗を契機とした領国の動揺を招き、甲府から西の韮崎に新たに政庁の移転を試み、新府城を築城して領国の維持を図りますが、天正10年(1582年)には織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡しました。
「武田信玄」公については、ご存知のとおり詳しく触れると戦国ドラマが出来てしまいますので、別の機会にします。
武田氏滅亡後、「織田信長」は家臣の「河尻秀隆」に甲斐一国を与えますが、同年6月に「本能寺の変」で信長が横死すると、甲斐では武田家遺臣による一揆で秀隆が殺害され、無主状態に陥りました。
武田家遺領は、遠江の「徳川家康」と相模の「北条氏政」が争った「天正壬午の乱」の結果、徳川氏の支配となります。家康は家臣の「平岩親吉」に新たに一条小山に甲府城を普請させ、甲斐の守備を任せました。
天正18年(1590年)、豊臣政権に臣従した家康は関東に移封され、徳川領と接する甲斐国は重要視され、「豊臣秀勝」「加藤光泰」「浅野長政」「浅野幸長」などの豊臣系大名が入国しました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、「浅野幸長」は東軍に与して功を挙げたため、紀州藩へ加増移封されました。その後、家康の八男で平岩親吉の養子「徳川仙千代」が、親吉の後見のもとに入封しましたが、同年のうちに夭折してしまいます。そのため、家康の九男「徳川義直(五郎太丸)」が25万石で入封しますが、幼少であったため親吉の後見を受けました。
その後、義直と親吉が尾張清洲藩に加増移封され、「徳川秀忠」の三男「徳川忠長」が駿河国府中に入封し、遠江・甲斐も忠長の所領となりました。やがて忠長は素行の悪さから改易されました。詳しくは静岡県編で触れています。
その後、甲斐国は幕府直轄領(天領)となっていましたが、慶安4年(1651年)に「徳川家光」の三男「徳川綱重」が甲斐を拝領し、甲府藩が立藩します。甲府徳川家による甲斐統治は、それまでの幕府代官を召し抱え、在地支配を委託していましたが、寛文元年には家臣団への知行宛行・代官など支配機構の整備や甲斐国内の旗本領の整理などを行い、藩政支配が開始されました。
綱重は嗣子のない兄「徳川家綱」の後継者と目されていましたが早世し、子の「徳川綱豊」が後を継ぎました。しかし、嗣子がない「徳川綱吉」が娘婿の「徳川綱教」死後、綱豊を後継者と決め、「徳川家宣」として江戸城西の丸に移ることになりました。
その後、綱吉政権下で有力となった側用人「柳沢吉保」が15万石で入封します。甲斐には将軍の一族以外が入るという前例は無く、これは異例中の異例のことでした。吉保は、綱吉からの信任が厚かったようです。
吉保隠居後は、吉保の長男「柳沢吉里」が家督を継ぎますが、享保9年(1724年)、「徳川吉宗」によって、大和国郡山藩に移封されました。以後、甲斐国は甲府城に詰める甲府勤番の支配となり、再び天領となりました。
幕末動乱期の慶応2年(1866年)、甲府勤番を廃止し甲府城代を設置しました。また、「戊辰戦争」での旧幕府軍と新政府軍が激突した「甲州勝沼の戦い」の場となり、明治時代を迎えました。
甲府勤番とは、享保9年(1724年)の「柳沢吉里」郡山藩移封後、将軍「徳川吉宗」が「享保の改革」の一環として天領拡大を行い、甲斐国直轄支配のため、老中支配下に創設された江戸幕府の職制です。
定員2名で役高は3000石、甲府城内大手と山手に配置され、配下に勤番士200人、与力20人、同心50人を付けられ、甲府城の守護と政務や訴訟の処理を務めました。
幕府小普請組から多く任命されており、平均着任年齢は50代で、勤番を機に要職から退くケースも多く、幕臣の素行不良の懲戒や仕事場を失った余剰幕臣の受け皿となっていたようです。
勤番任命は「山流し」と言われ、旗本・御家人にとっては改易一歩寸前の左遷にも等しい職務であるとも評されています。要するに窓際族と言うところでしょうか。

甲府城跡

稲荷櫓(復元)

山手渡櫓門(復元)

鍛冶曲輪門(復元)

内松陰門(復元)

甲府城(こうふじょう)は、山梨県甲府市にあった平山城です。別名、舞鶴城(まいづるじょう・ぶかくじょう)と呼ばれています。
甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となり、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されましたが、武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配し、甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備されました。
豊臣政権では「徳川家康」を牽制する要所、江戸時代では将軍家に最も近い親藩(甲府藩)の城となり、江戸時代を通じて統治の拠点となっています。天守台はありますが、天守が建てられていたかは不明です。
明治時代に廃城処分となった以降も甲府は政治的・経済的中心地として機能し、甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ、内堀が埋め立てられて官業施設化されます。さらに中央線(JR東日本中央本線)の開通と甲府駅(甲府城清水曲輪跡にあたる)の開業により城跡は分断されました。
分断後も石垣以外はほとんど手付かずの状態でした。平成4年(1992年)から山梨県埋蔵文化財センターや県教育委員会などによる発掘調査が行われ、甲府城跡総合学術調査団が組織されて総合的な調査が行われており、復元整備が開始されました。
これまでにいくつかの曲輪や門の整備が行われ、平成15年(2003年)に稲荷櫓が、平成19年(2007年)には分断された北側の山手渡櫓門が復元されました。
私は、JR身延線乗換のために甲府駅のホームから城らしきものが、すぐ傍に見えた記憶があります。元々は城の中だったようですね。

躑躅ヶ崎館水堀

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館跡です。別名、武田氏居館跡と呼びます。
戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっています。信虎・晴信(信玄)・勝頼3代、60年余りにわたって府中として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となっています。
県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置し、東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を配置した構造になっています。
現在、跡地は大正8年(1919年)に創建された武田神社の境内にあたりますが、このときに南面の主殿の規模が縮小されています。また、武田神社の本殿を立てる際には南の石垣を崩し、正門を新たに造った際に三重構造の原型の大半が崩されてしまいましたが、昭和15年(1940年)に国の史跡に指定されています。
遺構として土塁・堀・石垣・虎口などがあり、陶磁器などの出土遺物も確認されたほか、神社の近くには往時のままの場所にあると伝えられている井戸が2箇所存在します。そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、信玄の子息誕生の際に産湯に使用されたと伝えられています。なお、信玄の時代の通用門は現在の神社東側にあり、内堀によって道と隔てられていました。

麓から望む要害山

要害山城(ようがいやまじょう)は、山梨県甲府市上積翠寺町(かみせきすいじまち)にあった山城です。躑躅ヶ崎館(武田氏館)の詰城として築かれました。別名、要害城・積翠山城とも呼ばれています。
主郭に至る通路や枡形・曲輪・堀切・見張台等の遺構のほか、要所をかためる石垣もほぼ完全に遺存しており、戦国大名武田氏の築いた城郭として、また、中世豪族の居住形態を示すものとして極めて重要であり、1991年3月30日、「要害山(ようがいさん)」の名称で国の史跡に指定されました。しかし、主郭以外の整備は行き届いておらず、郭は藪化している所も多いようです。
登上口に説明板は有りますが、それ以外、主郭などには解説・説明板のたぐいは見当たりません。城に至るまでの案内板も無く、観光案内所にも要害山城としてのパンフレットも有りません。
これは残念ですね。国の史跡に指定されている歴史的遺構ですから、是非、観光資源としても活用してほしいものです。

 

府中県


府中県(ふちゅうけん)は、慶応4年(1868年)に甲斐国内の幕府領を管轄するために明治政府によって設置された県です。現在の山梨県西部を管轄していました。県庁は、甲府陣屋(こうふじんや)に置かれました。
享保9年(1724年)に甲斐一国が幕府直轄領化されると、甲府町方は幕府直轄都市として老中配下の甲府勤番支配、在方は勘定奉行配下の三分代官支配となり、甲府代官所・市川代官所・石和代官所が設置されました。
慶応4年(1868年)、甲府代官の「中山誠一郎」は新政府軍から留任を命じられ、町奉行を兼帯しますが、同年8月には甲府代官所の支配地は府中県となり、「赤松孫太郎」が知県事に任命され、甲府陣屋は府中県役所となります。同年10月には府中県・市川県・石和県の3県が甲斐府に統合されたことにより廃止されました。甲斐府は甲府県を経て、山梨県に改称され現在に至っています。

甲府代官所跡(旧富士川小学校)

甲府代官所(こうふだいかんしょ)は、現在の山梨県甲府市中央三丁目に所在した甲斐国の代官所です。甲府代官所は長禅寺前に所在したことから、長禅寺前陣屋(長禅寺前役所)とも呼ばれています。
代官所の所在する長禅寺前(甲府市中央2・3丁目)は、甲府城ニノ堀東に位置する内郭外の武家地です。東西に長く、中央には南北通りが通過し、北側には東流する藤川が流れ、南北通りから藤川に架かる橋を経て長禅寺前参道に至ります。南側には、町人地を囲郭する甲府城三ノ堀があり、南北通りは堀を隔てて魚町通りに至ります。
代官所は南北通りの東側に位置し、西には同心組屋敷や牢屋が所在していたほか、畑地も見られます。
長禅寺前は明治5年(1872年)に富士川町と改称し、代官所跡は甲府市立富士川小学校(2011年3月閉校)敷地内にあたります。
南方は甲府城下町の中心市街地で、東西に甲州街道が通過し、「裏見寒話」で、府中一のよき所と評され、甲府町年寄屋敷や高札場の存在する甲府八日町に近接しています。

 

市川県


市川県(いちかわけん)は、慶応4年(1868年)に甲斐国内の幕府領を管轄するために明治政府によって設置された県です。現在の山梨県中部・南部を管轄していました。県庁は、市川陣屋(いちかわじんや)に置かれました。
甲府町方は幕府直轄都市として老中配下の甲府勤番支配、在方は勘定奉行配下の三分代官支配となり、甲府代官所・市川代官所・石和代官所が設置されました。
慶応4年(1868年)9月、新政府は市川陣屋に市川県を設置し、同年10月には府中県・市川県・石和県の3県が甲斐府に統合されたことにより廃止されました。甲斐府は甲府県を経て、山梨県に改称され現在に至っています。

市川陣屋移築門

市川陣屋(いちかわじんや)は、明和2年(1765年)に駿府の紺屋町陣屋(静岡県静岡市)の主張陣屋として「小田切新五郎」により構えられ、支配地域の行政や年貢の取立てなどが行われました。
寛政7年(1795年)に正式な陣屋として格上げされ、「榊原小兵衛」が、その任を担いました。敷地内部には表門・長屋・運上紙蔵・代官所事務所・代官居宅・まき小屋・元締役宅・役宅(6棟)・稲荷社(鎮守社)・便所などがあり、敷地の奥行は33間ありました。
甲斐府に統合後、市川郡政局となり、西八代郡役所、市川大門町役場、市川小学校などに利用され、建物は随時、縮小、破棄されました。
陣屋門は、大正11年(1922年)に町に払い下げとなり、昭和38年 (1963年)に市川三郷町市川大門に移築保存されました。また、役宅の1棟が富士川町に移築され公民館として利用されています。

 

石和県


石和県(いさわけん)は、慶応4年(1868年)に甲斐国内の幕府領を管轄するために明治政府によって設置された県です。現在の山梨県東部を管轄していました。県庁は、石和陣屋(いさわじんや)に置かれました。
甲府町方は幕府直轄都市として老中配下の甲府勤番支配、在方は勘定奉行配下の三分代官支配となり、甲府代官所・市川代官所・石和代官所が設置されました。
慶応4年(1868年)9月、新政府は石和陣屋に石和県を設置し、同年10月には府中県・市川県・石和県の3県が甲斐府に統合されたことにより廃止されました。甲斐府は甲府県を経て、山梨県に改称され現在に至っています。

石和陣屋跡(石和南小学校)

石和陣屋移築門

石和陣屋(いさわじんや)は、寛文元年(1661年)、甲府藩15万石の藩主「徳川綱重」の命により「平岡良辰」によって設けられました。
甲斐府に統合後、石和郡政局となり、敷地は石和南小学校の校庭として整備された為、その姿を見る事は出来ません。
石和陣屋の唯一の遺構である陣屋門は、八田家(山梨県指定史跡)の表門として移築現存しています。陣屋門は、寛文元年(1661年)に建てられたもので、寄棟・桟瓦葺・大壁造・塗屋造り・白漆喰仕上げ・長屋門形式・中央部が門扉となっています

 


如何でしたでしょうか。山梨県は、江戸時代の一時期、僅か70年余しか藩が存在しておらず、ほぼ江戸時代を通じて天領だったと言って良いでしょう。しかも明治政府により3つの代官所に県を設置したものの僅か数ヶ月で甲斐府に統合され、その後、明治4年(1871年)の廃藩置県で甲府県となり、明治9年(1876年)には、山梨県となっています。
やはり戦国時代より甲府を中心に一極集中していたと言う印象ですね。私は、甲府市以外には富士吉田市くらいしか知りません。富士吉田には、サラリーマン時代のグループ会社があったことと富士急ハイランドがあったため知っています。
甲斐国の基礎を築いたのは、甲斐武田氏であり「武田信玄」公によって整備されたと言っても良いと思います。
静岡県編では、「明治時代を紐解いた方がすっきりした」と記載していますが、今回は戦国時代を紐解いた方がすっきりしたのかもしれませんね。


 

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2 thoughts on “歴史を紐解く(廃藩置県)- 山梨県編

    1. 返信が遅くなって誠に申し訳ございません。
      介護休業中なもので、ブログの更新もおろそかになっております。
      今後ともよろしくお願い申し上げます。

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