歴史を紐解く(廃藩置県)- 愛知県編


今回は、愛知県の歴史を紐解いてみます。愛知県と言えば、私は真っ先に犬山城を思い出します。何故か名古屋城よりも犬山城です。しかし、愛知県を一度も観光したことがありません。途中下車して駅前のタワービルから市内を一望した程度です。勿論そこから名古屋城が見えましたが、現地に行ったことはありません。いつかはスケジュールに入れようと思っていますが、中々、実現できていません。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の愛知県になるまでの変遷です。



岐阜県と同様、藩が多く存在していますね。特に三河は小藩に分割されていたようです。それでは、最初はやはり名古屋を抑えておきましょう。

 

名古屋藩


名古屋藩(なごやはん)は、江戸時代、尾張藩(おわりはん)と呼ばれ、明治の初めには「名古屋藩」と呼ばれるようになりました。愛知県西部にあって、尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を領した親藩です。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有していました。藩庁は、ご存知のとおり名古屋城(愛知県名古屋市)に置かれました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」終結まで、尾張は清洲城主「福島正則」が、24万石で領していました。「福島正則」は、戦功により安芸広島藩に加増移封され、代わって、「徳川家康」の四男「松平忠吉」が、これも戦功により清洲藩52万石で入封します。しかし、慶長12年(1607年)に嗣子なく死去したため天領となりました。
代わって、甲斐甲府藩から同じく家康の九男で忠吉の弟である「徳川義直」が、47万2344石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って(清洲越し)、尾張藩が立藩しました。
藩領は随時加増されて行き、元和5年(1619年)5月16日に56万3206石となりました。さらに寛文11年(1671年)には、紀伊徳川家との格差をつけて御三家筆頭の家格を示すため、給人領(「渡辺半蔵」らに幕府から与えられていた領地)5万石を加増され、61万9500石の知行高が確定しました。給人とは、地方知行を与えられる階級の武士に栄誉的に与えた格付けの事です。
領域は尾張のほぼ一国のほか、美濃・三河・信濃(木曽郡のヒノキ御用林)・近江・摂津と広範囲に跨って飛地が存在していました。中でも木曽の御用林から得られる木材資源は藩財政の安定に寄与する重要なものでした。また、表高こそ62万石弱でしたが、新田開発を推し進めた結果、実高は100万石近くに達したと言われ、財政には比較的余裕があったことから、領民には四公六民の低い税率が課されたとそうです。近江(蒲生郡)や摂津(川辺郡)にあったのは給人領地です。
初代藩主「徳川義直」は、着任当初まだ幼少であったため、初期の藩政は家康の老臣たちによって行なわれていましたが、成長してからは義直自ら、米の増産を目的とした用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めて藩政を確立しています。
第2代藩主「徳川光友」は、寺社政策に尽力しましたが、寺社再建を行いすぎて藩財政が苦しくなり、藩札を発行するも失敗して、藩財政が益々苦しくなりました。このため、光友以後の藩主は倹約令や上米などの財政改革を行い、藩財政が黒字になることもありまししたが、天災なども相次いで、結局藩財政は悪化しました。
第3代藩主「徳川綱誠」は、実母の「千代姫」が第3代将軍「徳川家光」の長女であったこともあり、御家門の中でも最も将軍家に近い存在でした。異母兄「松平義昌」は、陸奥梁川藩3万石を得て、大久保松平家として独立、同母弟「松平義行」は、美濃高須藩3万石を得て、四谷松平家として独立、異母弟「松平友著」は、尾張藩内で家禄を得て、川田久保松平家を称し、三つの分家御連枝が出来ました。
第4代藩主「徳川吉通」は、第6代将軍「徳川家宣」から高く評価され、家宣の子「鍋松(後の徳川家継)」がまだ幼く、政務に耐えられないと判断し、第7代将軍に就任するように要請されるほどの人格者でしたが、家宣薨去1年後に突然死しています。
第6代藩主「徳川継友」は、第7代将軍「徳川家継」が重病に臥した際、第8代将軍候補の有力者でした。継友は、第6代将軍の御台所、「天英院」の姪「近衛安己」を婚約者に持ち、祖母が第3代将軍「徳川家光」の長女であり、将軍家に最も近い存在であったことから、第8代将軍有力候補でした。しかし、同じ御三家の紀州藩主「徳川吉宗」が将軍に就任しました。
その後、尾張徳川家は、御三家で唯一将軍を輩出することなく明治維新を迎えることになります。第4代藩主「徳川吉通」は、「尾張は将軍位を争わず」と述べており、尾張藩では家訓として将軍位を継承することよりも、「徳川家康」より与えられた尾張藩を護ることのほうが大切であるとされていたことが理由のようです。
歴代藩主で最も有名なのが、第7代藩主「徳川宗春」で、宗春は第6代藩主「徳川継友」の弟です。
宗春は、倹約を主とする江戸の幕閣の政策を批判し、名古屋城下に芝居小屋や遊廓の設置を許可し、規制緩和政策を推進しました。これは江戸幕府の緊縮財政に対して真っ向から対立するものでした。
享保20年(1735年)に入ると、幕府よりも5ヶ月早く遊興徘徊を禁じる令を出します。また、翌年の元文元年に行われた幕府の「元文の改鋳」によるインフレ政策に先立って、すでにインフレ状態にあった尾張藩内の引き締め政策を展開していました。
幕府より一手先を行く宗春の政策は、幕閣に警戒感を与えてしまいます。丁度その頃、幕府は朝廷が禁じた「大日本史」の出版を強行し、幕府と朝廷に緊張が走っていました。元文3年(1738年)、朝廷が反幕府の象徴的儀式である大嘗会を開くことになります。
宗春と御付家老「成瀬正泰」が、参勤交代で江戸に下向すると、もう一人の御付家老「竹腰正武」が、名古屋で宗春の政策をことごとく否定して行きます。そのため、尾張藩内は少なからず騒乱状態となります。
翌元文4年、大嘗会に使いに出ていた使者が、江戸に戻り将軍吉宗に報告すると、吉宗は病と称し引きこもってしまいます。そして数日後吉宗は、尾張藩内の騒乱状態を理由に宗春を隠居謹慎処分に処しました。吉宗は、その日の内に朝廷対策として、朝廷の中心であった「一条兼香」に多額の献金、宗春の甥「二条宗基」には、諱の「宗」の字を与えました。
尾張藩は、藩祖「徳川義直」の頃から朝廷との縁が深く、「王命に依って催さるる事」とされていました。朝廷は、宗春を高く評価しており、宗春は朝廷と幕府の間に挟まれて隠居謹慎せざるを得なくなりました。
宗春の後を継いだ従弟の第8代藩主「徳川宗勝」は、宗春時代の藩政を改め、倹約令を中心とした緊縮財政政策を行ない、藩財政を再建する一方で、学問を奨励して「巾下学問所」を創設しました。
第9代藩主「徳川宗睦」は、父「徳川宗勝」の政策を受け継いで財政改革を継続し、その治世は38年間にも及びました。一時期は財政が好転したこともありましたが、宝暦治水にも関わらず庄内川の氾濫など、天災による被害を受けて財政が結局は悪化しました。
市中の富商56人から金5000両を調達し、幕府に2万両の公金拝借を願い出ました。以後、財政難によりこの金策は繰り返されていくことになります。なお、この宗睦の時代にも学問が奨励され、天明3年(1783年)には、藩校「明倫堂」が創設されています。軍制改革も実施され、寛政5年には幕府の「海軍防備令」に即応した知多半島の防備を再編成し、上方の変事に対応する計画を策定しました。更に、この作戦に応じた歩兵銃砲主体の編成を大番組・寄合組・馬廻り組を拡充させました。
寛政11年(1799年)12月に宗睦は死去し、宗睦の実子は早世していたため、義直以来の尾張徳川家の男系の血統は藩主家から断絶しました。
代わって、寛政12年(1800年)1月に一橋家から養子「徳川斉朝」が、第10代藩主となりました。斉朝は、尾張藩第4代藩主「徳川吉通」の外孫である「二条宗基」の曾孫にあたり尾張徳川家の血を受け継いでいました。
第11代藩主「徳川斉温」や第12代藩主「徳川斉荘」、第13代藩主「徳川慶臧」らは、第11代将軍「徳川家斉」の実子か御三卿から迎えられた養子などで、いずれも紀州藩主から将軍となった「徳川吉宗」の血統で、一橋家の血筋になります。
彼らは、寿命や在任期間が短かったこともあり、尾張に入国せず江戸に在住することが多かったことから藩政は停滞し、藩財政は赤字になりました。「徳川慶臧」の時代には、幕府への財政依存が更に高まり、嘉永元年に米切手(藩札)の回収を条件に10万両が幕府から貸与されています。
このため藩内は二分され、幕府に迎合的で御三卿・徳川将軍家などからの養子を藩主に迎えて財政支援を期待する付家老などの江戸派、これに反対する尾張派、寛政軍革により拡充された大番組を中心として結成された独立志向の金鉄党が、幕府の藩政介入に反発し、藩主擁立運動が起こりました。
結局、将軍家御三卿系の養子は阻止され、支藩の美濃高須藩から本家を継いだ第14代藩主「徳川慶恕(後の慶勝、血統としては水戸系)」は、養子藩主時代の人事を一新し、財政改革にも一応の成功を収めています。
しかし、安政5年(1858年)に将軍後継者問題・条約勅許問題などから一橋派に与して「井伊直弼」ら南紀派と対立し、この政争に敗れた慶勝は、紀州家からの将軍擁立を妨害するために押しかけ、登城を行ったことなどにより、直弼の「安政の大獄」によって強制的に隠居処分に処され、慶勝の弟「徳川茂徳」が第15代藩主となりました。
その後、直弼が「桜田門外の変」で暗殺され、文久3年(1863年)9月13日には、茂徳に代わり、慶勝の子「徳川義宜」が第16代藩主となりましたが、慶勝は隠居として藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮として活躍しました。
尾張藩は、藩主と元藩主の二重支配体制となり、慶勝は、第一次長州征伐の総督に任じられましたが、第二次長州征伐での総督任命は辞退しています。
大政奉還後、慶勝は新政府の議定に任ぜられ、小御所会議で決定された辞官納地を慶喜に求める使者となっています。慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」によって、新政府と幕府の対立が明らかになると慶勝も新政府側につき、藩内の佐幕派は「青松葉事件」によって弾圧されました。「鳥羽・伏見の戦い」後に明治新政府により東征軍が編成されると、前藩主「徳川慶勝」は、東海道諸藩の触頭に任命され、佐幕色の強かった東海道譜代諸藩を勤皇側へ動かして新政府軍の東海道通過を容易にしました。
明治3年(1870年)には、財政難に陥った支藩の高須藩を吸収し、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により廃藩となり、名古屋県を経て犬山県と統合、愛知県へ改称後、額田県を統合しました。

名古屋城復興天守

名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(愛知県名古屋市中区・北区)にあった平城です。別名、名城(めいじょう)・金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)・金城(きんじょう)の異名を持っています。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されています。
第二次世界大戦前は、旧国宝24棟をはじめ、多数の建造物が城内に現存していましたが、太平洋戦争中の昭和20年(1945年)5月14日8時20分頃、アメリカ陸軍のB-29が投下した焼夷弾により大小天守を含むほとんどを焼失しました。
現在残る尾張藩時代の建物は、本丸辰巳隅櫓・本丸未申隅櫓・本丸南二之門・旧二之丸東鉄門二之門(本丸東二之門跡に移築)・二之丸西鉄門二之門・御深井丸戌亥隅櫓の6棟のみになっています。これらすべてが重要文化財です。現存する門3か所は、元々、櫓門(一之門、内門)と高麗門(二之門、外門)の二重構えでしたが、いずれも高麗門のみが現存しています。また、昭和27年(1952年)3月29日に城域内が国の特別史跡に指定され、昭和28年(1953年)に二之丸庭園が名勝に指定されたほか、二之丸北側の石垣上に、「南蛮たたき」の工法で固められた土塀の遺構が現存しています。

明倫堂跡

藩士の子弟だけでなく、農民や町人にも儒学や国学を教え、初期の生徒数は約50名でしたが、後に約500名まで増加しています。明治4年(1871年)に廃校となり、明治8年(1875年)には、跡地に名古屋城内から名古屋東照宮が移されました。その後、明治32年(1899年)に明倫中学校として復活し、現在、愛知県立明和高等学校となっています。

 

犬山藩


犬山藩(いぬやまはん)は、尾張国(愛知県犬山市犬山北古券)を領した藩です。ただし、正式に認められて立藩したのは慶応4年(1868年)1月の新政府の計らいによるものでした。藩庁は、犬山城に置かれました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、西軍に与した犬山城主「石川光吉」は改易されました。
尾張(清洲藩)には、徳川家康の四男「松平忠吉」が52万石で入封し、忠吉の御附家老「小笠原吉次」が、犬山に所領を与えられました。しかし、慶長12年(1607年)に下総佐倉藩へ移封となりました。同年、清洲藩では藩主の忠吉が嗣子なくして病死し、清洲藩は無嗣改易となりました。
その後、家康の九男「徳川義直」が尾張藩主として尾張を支配し、犬山城には義直の御附家老として、徳川氏譜代の重臣「平岩親吉」が、11万3000石(一説に9万3000石)で入封しました。しかし、慶長16年(1611年)、親吉は嗣子無くして病死し、その遺言によって所領は尾張藩に吸収されることとなりました。ただし、犬山藩史では「平岩吉範」が、親吉の後を継いで元和3年(1617年)まで支配したとされています。
元和3年(1617年)、義直の御附家老である「成瀬正成」が3万石で入封し、尾張藩を補佐する犬山成瀬氏が成立しました。第3代当主「成瀬正親」時代の万治2年(1659年)に5000石の加増を受け、合計3万5000石を支配することとなり、尾張藩最大の知行を領する重臣となりました。なお、犬山城は吉次の治世で城下町と城が整備され、最古の天守を持つ城として国宝に指定されています。
ところが、犬山成瀬氏はあくまで身分は尾張藩の徳川家を補佐する重臣という立場であり、独立した大名として見られることはありませんでした。このため、第7代当主「成瀬正寿」や第8代当主「成瀬正住」は、尾張藩から独立しようと企てたものの何れも失敗しています。
慶応4年(1868年)1月、新政府の維新立藩により、犬山成瀬家は正式に犬山藩主となり、尾張徳川氏の尾張藩から独立しました。第8代当主「成瀬正肥」が藩主となり、明治2年(1869年)に版籍奉還により犬山藩知事に任じられています。
明治4年(1871年)旧暦7月14日)の廃藩置県で犬山藩は犬山県となり、11月22日に名古屋県に統合され、愛知県と改名後、額田県(旧三河国と旧尾張国知多郡)を併合しました。明治28年(1895年)には、犬山城は成瀬氏の所有するところとなりました。
国宝犬山城は、大変興味深く感じていましたが、江戸時代に藩として認められていなかったとは驚きです。

国宝犬山城

徳林寺山門

犬山城(いぬやまじょう)は、愛知県犬山市にあった平山城です。天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつとなっています。また、天守が国宝指定された5城(姫路城・松本城・彦根城・松江城・犬山城)の一つです。
廃藩置県の際に払い下げられた建造物として矢来門が専修院東門に、黒門が徳林寺、松ノ丸門が浄蓮寺、内田門と伝わる城門が瑞泉寺にそれぞれ移築され現存しています。また、どこの門かは不明ですが、旧城門と伝わる門が運善寺他に移築現存しています。
私は、国宝5城の中で唯一「犬山城」だけ見たことがありません。是非、早いうちに見たいものですね。

 

田原藩


田原藩(たはらはん)は、三河国田原(愛知県東部・渥美半島)に存在した譜代大名の藩です。藩庁は、室町時代末期に築かれた田原城に置かれました。
田原城は、文明12年(1480年)に国人領主である「戸田宗光」によって築城されたと言われています。その後、「徳川家康」の支配を経て、三河吉田城主となった「池田輝政」の支配下に入り、輝政は家老の「伊木忠次」を城代として入れていました。
慶長5年(1600年)9月の「関ヶ原の戦い」で、輝政は東軍に与し、岐阜城攻めや関ヶ原本戦で武功を挙げたことから、戦後に播磨姫路藩に加増移封されました。
慶長6年(1601年)3月、伊豆下田5000石より徳川氏譜代の家臣で、かつて田原を治めていた「戸田宗光」の傍系一族に当たる「戸田尊次」が1万石で入封したことにより、田原藩が立藩しました。
寛文4年(1664年)5月9日、第3代藩主「戸田忠昌」は、加増の上で肥後天草郡の富岡藩に移封されました。代わって、三河挙母藩より「三宅康勝」が、1万2000石で入封します。三宅氏は小大名ながら城持大名であることを許されるほどの名門でしたが、知行高に較べて藩士が多く、さらに田原の地も痩地であった上に風水害の被害も多く、常に財政難に苦しみました。
第9代藩主「三宅康和」時代の文化7年(1810年)、藩校「成章館」が、藩医「萱生玄淳(かようげんじゅん)」の献策によって創設されました。
第11代藩主「三宅康直」時代の天保3年(1832年)、家老に登用された「渡辺崋山(登)」は、有能な人材登用のために各高分合制の給与改革、備蓄制度の義倉制度の整備などを行ない、「天保の大飢饉」から藩を救いました。天保12年(1841年)の崋山の死後には、農政家の「大蔵永常」などによる藩政改革・財政改革が行なわれ、「村上範致」による軍制改革も行われて、大砲の鋳造や洋式砲術の導入を推進しました。
第12代藩主「三宅康保」時代の明治2年(1869年)6月、版籍奉還で康保は田原藩知事に任命され、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で廃藩となり、田原県を経て額田県に編入され、後に愛知県に編入されました。

田原城復元桜門

田原城(たはらじょう)は、三河国渥美郡田原(愛知県田原市田原町巴江)にあった平城です。別名、巴江城とも呼ばれています。
石垣を初めとした遺構を多く残していますが、建物は昭和以降に再建されたものです。また、城地の多くは地域住民の公共的な施設となっています。内郭は、本丸が三宅氏の家祖である南朝の忠臣「児島高徳」を祀る巴江神社になっており、9月半ばには年に一度の祭りが大々的に行なわれて、地区住民のシンボルとなっています。この神社は、三宅氏が文化年間に二ノ丸に建立した社から、魂を移したものです。
二ノ丸には二の丸櫓が再建されていますが、古写真で見ると櫓は下見板張となっており、過去にあったものとは異なる外見となっています。郭内は田原市博物館となっていますが、1990年代の博物館建設の際、施設と通路の再整備のために多くの遺構を崩してしまったことは批判も受けています。なお、博物館建設以前は町立保育所となっていました。
三ノ丸は、護国神社となっており、併せて「渡辺崋山」「村上範致」「岡田虎二郎」など郷土の偉人の顕彰碑が建設されています。
大手門が再建され、石垣は16世紀と思われる野面積みのものが現存しています。石も田原市北部から産出する石灰岩が混ざっていて、地域性が出ています。
城の外郭にも長らく土盛りなどが残っていましたが、近年の再開発で多くは崩されてしまいました。現在でも田原中部小学校の南側にわずかながら石垣と土盛りが残されています。また、城の南側・西側などの道は当時武家屋敷が並んでいたところで、道の多くは拡幅などの再開発により消滅しましたが、一部に城下町の風情を残しています。本丸跡には巴江神社が建てられています。

藩校成章館跡

田原藩校「成章館」は、田原城桜御門前の広場(田原中部小学校の東半分)にあたります。創設のきっかけは、享和3年(1803年)、「伊能忠敬(いのうただたか)」率いる幕府の測量隊がこの地を訪れたことにあります。その測量技術から学問の重要性をさとった藩医「萱生玄淳(かようげんじゅん)」が、藩に働き掛けたからとも言われています。
当初は、稽古所や学館と呼ばれ、文化8年(1811年)の田原藩日記の記事に初めて「成章館」という呼称が出てきます。
藩の規模にそぐわない程の力を入れ、優れた人材を多く輩出しました。天保3(1832年)に家老となった「渡辺崋山」も藩政再建の中で、教化(藩内秩序の再建)と養才(有能な行政官僚養成)を重視し、成章館に大きな期待をかけていたとされます。
明治4年(1871年)の廃藩置県により、当時の藩知事「三宅康保」が罷免となり、廃校になりましたが、明治34(1901年)に再興され、町立・郡立・県立と移管されて、戦後に県立成章高等学校となりました。現在は、跡地に碑が立っています。

 

吉田藩


吉田藩(よしだはん)は、三河国吉田(愛知県豊橋市今橋町)を領した藩です。藩庁は、三河吉田城に置かれました。以降、伊予吉田藩と区別するために、三河吉田藩(みかわよしだはん)と表記します。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称されました。
譜代大名が歴代藩主を務め、三河吉田藩に入封することは、幕閣になるための登竜門のひとつとされていました。
天正18年(1590年)の小田原征伐後は、「豊臣秀吉」の家臣「池田輝政」が吉田城主として入っていました。輝政は後に「徳川家康」の娘婿となり、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で東軍に与して、岐阜城攻めで武功を挙げたことから、戦後に播磨姫路藩に移封されました。
慶長6年(1601年)2月、武蔵八幡山藩から徳川氏譜代の重臣「松平家清(竹谷松平家)」が3万石で入封したことにより、三河吉田藩が徳川家臣として立藩します。
慶長8年(1603年)に「徳川家康」は、「後陽成天皇」より征夷大将軍の宣下を受け、正式に徳川幕府が発足し、三河吉田藩も正式に幕藩体制下の藩となります。
慶長15年(1610年)12月21日に家清が死去すると、子の「松平忠清」が第2代藩主となりますが、忠清は慶長17年(1612年)4月20日に死去し、嗣子が無かったために断絶改易に処されました。
同年11月12日に三河深溝藩から「松平忠利」が入封します。しかし、第2代藩主「松平忠房」時代の寛永9年(1632年)8月11日に三河刈谷藩に移封となり、入れ替わる形で「水野忠清」が入封しますが、寛永19年(1642年)7月28日に信濃松本藩に移封されます。その後、駿河田中藩より「水野忠善」が入封しますが、正保2年(1645年)7月14日に三河岡崎藩に移封されます。
代わって、豊後杵築藩から「小笠原忠知」が入封します。第2代藩主「小笠原長矩」は、寛文3年(1663年)に弟「小笠原長定」「小笠原長秋」に各3000石と2000石を分与したため、三河吉田藩は4万石となります。第4代藩主「小笠原長重」時代の元禄10年(1697年)4月19日に武蔵岩槻藩に移封されます。
小笠原氏が入封するまで、短期間で藩主家が代わり、藩政における治績は「松平忠利」時代の寛永5年(1628年)に行なわれた検地くらいしかありません。
小笠原氏は52年間の入封の中で、新田開発や三河吉田城と城下町の改築・整備を行ない、藩政の確立に務めました。
元禄10年(1697年)6月10日に丹波亀山藩から「久世重之」が入封し、新居関所を管理することになります。しかし、重之が宝永2年(1705年)9月に若年寄に就任したことを契機に、10月には下総関宿藩に移封となります。入れ替わる形で「牧野成春」が入封しますが、第2代藩主「牧野成央」が幼少で第2代藩主となったことから、江戸幕府では三河の要衝を任せておけぬとして、正徳2年(1712年)7月12日に日向延岡藩に移封されました。
その後、下総古河藩より「松平信祝」が7万石で入封しますが、享保14年(1729年)2月2日に信祝が大坂城代に任じられたため、2月15日には所領を遠江浜松藩に移封され、入れ替わる形で「松平資訓」が入封しますが、寛延2年(1749年)10月15日に京都所司代に任じられたため、遠江浜松藩に再封されます。
入れ替わる形で「松平信祝」の子「松平信復」が7万石で入封し、ようやく藩主家が定着しました。信復は宝暦2年(1752年)7月に藩校「時習館」を創設しました。
第4代藩主「松平信明」は、天明8年(1788年)4月に老中に任じられ、「松平定信」の「寛政の改革」に参与したことで有名です。寛政5年(1793年)に定信が辞職すると老中首座となり、事実上の最高権力者として幕政を主導しました。信明は、享和3年(1803年)12月に老中を辞職しましたが、文化3年(1806年)5月に復帰し、再び老中として幕政を主導しています。信明は老中として幕政参与することが大半だったため、藩政の治績はありません。
第5代藩主「松平信順」は、大坂城代・京都所司代を歴任した後、天保8年(1837年)5月16日に老中になりますが、同年8月6日には辞職しています。辞職の理由は、天保4年(1833年)12月の新居宿の打ちこわしや辞職後の9月に起こった加茂一揆などが起こったように、藩財政が苦しかったためと思われています。
第7代藩主「松平信璋」は幕閣にはならず、もっぱら藩政改革に専念しました。嘉永元年(1848年)9月には家臣の知行借上・御用金調達・諸経費4割節減を目的とした5カ年計画を実施しましたが、嘉永2年(1849年)7月27日に死去し、改革は挫折しました。
最後の藩主「松平信古」は、「間部詮勝」の次男として生まれ、大坂城代に任じられて、幕末における畿内の混乱収拾に務めました。
慶応4年(1868年)1月に「戊辰戦争」が起こると、藩内では佐幕派と尊王派が分裂して抗争しますが、2月に新政府軍が吉田に迫ると尾張藩の斡旋もあって、3月に信古は上洛して新政府に降伏しました。
明治2年(1869年)6月17日、版籍奉還により信古は吉田知藩事に任じられますが、早くから幕府を見限って新政府に降伏していた伊予吉田藩を嫌い、同名であることから6月19日に豊橋藩と改称しました。
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で豊橋藩は廃藩となり、豊橋県、額田県を経て、愛知県に編入されました。

鉄櫓(模擬再建)

本興寺の奥書院

本興寺の山門

三河吉田城(みかわよしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった平城です。築城当初は今橋城と呼ばれ、明治維新後、吉田から豊橋への改名に伴い、豊橋城とも呼ばれました。
昭和29年(1954年)に本丸北西の鉄(くろがね)櫓址に櫓が模擬再建されています。また、公園化された本丸から三の丸には石垣・土塁・堀が残っています。本丸石垣は、平成17年(2005年)の修復の際に「池田輝政」時代の石垣であることが判明しました。
静岡県湖西市鷲津の本興寺の奥書院(静岡県指定文化財)と山門(湖西市指定文化財)は、久世氏によって寄進移築された三河吉田城の御殿と大手門であると伝えられています。

時習館跡碑

時習館(じしゅうかん)は、三河吉田藩(愛知県豊橋市)の藩校で、豊橋市公会堂の近くに碑が建てられており、愛知県立時習館高等学校として名前を残しています。

 

半原藩


半原藩(はんばらはん)は、武蔵国榛沢郡岡部(埼玉県深谷市)の岡部藩が、慶応4年(1868年)4月に藩庁の所在地を三河国八名郡半原村(愛知県新城市富岡)に移転したことによって立藩しました。藩庁は、半原陣屋に置かれましたが、3年後の明治3年(1871年)に廃藩になっています。
岡部藩安部氏は元々、武蔵国岡部に陣屋を置く5千石の旗本でしたが。当主が変わっていくうちに徐々に所領が拡大していき、ついに2万石の藩になるまでに至りました。そして、陣屋を本領である武蔵国以外に三河国・摂津国にも設置し、代官が地方の行政を行っていました。
その後、慶応4年(1868年)に明治新政府に従って所領安堵を受けた際、藩の所在地を武蔵国岡部から三河国半原へと移転することが認められて、半原藩と名称を変えました。

半原陣屋跡碑

国道301号線、県道81号線が交差する富岡信号交差点から国道301号線を北上し、左5
本目の脇道を入ると、右手に藩邸跡の歴史看板・石碑が在ります。

 

西大平藩


西大平藩(にしおおひらはん)は、三河国額田郡西大平(愛知県岡崎市大平町)を領した藩です。藩庁は、西大平陣屋に置かれました。
第8代将軍「徳川吉宗」の信任を受け、江戸南町奉行として「享保の改革」を実行した大岡宗家当主「大岡忠相」が、寺社奉行時代の寛延元年(1748年)に奏者番に就任し、それまでの功績により4000石の加増を受け、西大平1万石の大名となりました。江戸時代を通じて、江戸町奉行から大名になったのは忠相のみです。以後、忠相の子孫が代々受け継ぎました。
忠相時代の所領は、本貫地である相模国高座郡大曲村(神奈川県高座郡寒川町大曲)のほか関東各地に分散しており、晩年には所領統合を申し出ています。忠相は、西大平を訪れることなく死去し、第3代藩主「大岡忠恒」の頃には、三河国への所領統合が完了しています。藩主は、江戸に居住し参勤交代をしない定府大名であり、西大平村に陣屋のみが設置されました。
大岡氏の本領である大曲村は相伝され、忠相をはじめ歴代藩主の墓は三河ではなく、現在の神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺にあります。テレビ時代劇「大岡越前」ゆかりの地だったわけですね。

西大平藩陣屋跡

西大平陣屋(にしおおひらじんや)は、寛延元年(1748年)に築かれた岡崎市にあった陣屋です。現在、跡地は陣屋跡広場として岡崎市教育委員会により暫定的に整備されています。地元によって管理されていますが、現在も整備途上で、高麗門と白壁がまず整備され、調査によって確認された井戸を中心に西大平藩の所領などを表した庭園が整備されています。平成25年(2013年)4月7日、家康行列が行われた日に「西大平藩陣屋跡」の看板が高麗門に設置されました。

 

岡崎藩


岡崎藩(おかざきはん)は、三河国(愛知県東部)を領した藩です。藩庁は、岡崎城に置かれました。歴史ドラマなどでよく登場するので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
岡崎城は、「徳川家康」生誕の地であり、三河における徳川氏の最重要拠点でした。小田原征伐後、家康が関八州に移封されると、豊臣氏の家臣「田中吉政」が10万石で入りました。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、吉政は東軍に与して武功を挙げたことから、筑後国柳河藩32万5000石へ加増移封されました。
慶長6年(1602年)2月に徳川氏譜代の重臣「本多康重(本多彦次郎家)」は、家康の信任が厚く、上野国白井藩2万石より3万石加増の5万石で入封し、岡崎藩が立藩しました。
康重は、慶長9年(1604年)に検地を実施し、東海道の整備・城下町の建設などに尽力しましたが、岡崎は立地条件が悪く、「岡崎の27まがり」と呼ばれて細長い城下町になったと言います。
第3代藩主「本多忠利」時代の寛永11年(1634年)に5000石の加増を受けます。正保2年(1645年)6月27日、第4代藩主「本多利長」は、遠江国横須賀藩5万石へ移封されました。
同年7月14日に三河吉田藩から「水野忠善」が5万石で入封します。忠善は、新田5000石を弟「水野忠久」に分与しています。藩政では、慶安2年(1649年)の検地をはじめ、新田開発・支配機構の整備などが行なわれました。
しかし、第2代藩主「水野忠春」が奏者番・寺社奉行に任じられ、第4代藩主「水野忠之」は、老中として「享保の改革」に参与しました。このように歴代藩主が幕閣に入ったことから出費が激しく、さらに領内での天災も相次ぎ、藩財政は悪化しました。このため、第6代藩主「水野忠辰」は、財政再建を目指して保守的な家老を隠居させ、藩政改革を行ないますが、保守派家老の妨害により改革は失敗し、失意に落ちた忠辰は保守派家老によって押込められ、隠居させられています。
第7代藩主「水野忠任」は、宝暦12年(1762年)9月30日に肥前国唐津藩6万石へ加増移封されました。代わって、下総古河藩より「松平康福」が5万4000石で入封します。康福は幕閣として幕政に参与していたことから、藩政の治績はほとんど無く、明和6年(1769年)11月18日に石見国浜田藩へ移封されました。
入れ替わる形で「本多忠粛(本多平八郎家)」が5万石で入封し、藩主家が定着しました。本多平八郎家の統治時代は財政難に悩まされ、「本多忠勝」以来の名門ではあるものの相次ぐ移封と石高に較べての家臣の多さから財政は窮乏していました。
第2代藩主「本多忠典」は、「中根忠容」を家老に登用し、「服部平兵衛」も登用して、財政再建を目指しました。さらに江戸商人「三谷喜三郎」の協力を得て、緊縮財政政策を実施し、財政改革は一時的な成功を収めました。また、矢作川沿いの農村で綿作が盛んに行なわれ、三河木綿が生産されるようになりました。しかし、天保期には飢饉が続いて一揆も起こり、財政窮乏が再びひどくなりました。
第5代藩主「本多忠民」は、再び財政改革を行ない、農村有力者と協力して再建に当たりました。一方で忠民は、京都所司代・老中として幕末の幕政に参与し、公武合体に尽力しました。しかし、藩内では佐幕派と尊王派で争い、脱藩者も出る騒動が起こりました。
第6代藩主「本多忠直時代」の明治2年(1869年)の版籍奉還により、岡崎藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で廃藩となりました。
岡崎藩の歴代藩主は全て譜代大名であり、徳川氏より信任が厚く、縁も深い人物が多く存在します。

岡崎城(再建天守)

岡崎城(おかざきじょう)は、愛知県岡崎市康生町にあった平山城です。別名、龍城とも呼ばれています。
北曲輪門が額田郡額田町の民家に、北門(二の門)が西尾市西浅井町の宿縁寺に、念沸堂赤門が市内東阿知和町の謁播神社に、それぞれ移築現存しています。また、市内下青野町の慈光寺に、太鼓楼を移築したものと伝わる建造物が残っています。
平成19年(2007年)の発掘調査によって石垣が発見されました。現地を視察した広島大学大学院の三浦正幸教授は、大林寺郭堀跡のこの石垣は、「豊臣秀吉」の命令で、1590年(天正18年)に岡崎城主となった「田中吉政」が築いたと推定しています。野面の乱積みによる犬走りの構造は、慶長13年(1608年)以前の形式のためだそうです。
平成27年(2015年)、中心市街地再開発「乙川リバーフロント地区整備計画」の工事で河川敷を掘り起こしたところ石垣の一部が発見されました。この石垣は岡崎城の絵図にも描かれた江戸時代前期の石垣「菅生川端石垣(すごうがわばたいしがき)」であり、発掘調査により総延長は400mにわたり、現存する城壁としては国内最長となるようです。
石垣は地下3mにまで及び地上部分を含めると最大5mで、敵の侵入を防ぐための射撃用の突出部「横矢枡形(よこやますがた)」が3か所あり、80m間隔で続いています。

 

挙母藩


挙母藩(ころもはん)は、三河国の北西部(愛知県豊田市中心部)を領した譜代大名の小藩です。藩庁は、挙母城に置かれました。挙母藩の歴史は、領主により大きく4つに分かれます。
三宅家時代(1604年~1619年、1636年~1664年)
慶長9年(1604年)、武蔵国から「三宅康貞」が祖先ゆかりの地である三河国加茂郡衣に入封し、衣藩1万石が始まりました。三宅氏はそれまでの衣城を廃し、現在の豊田市元城町付近に陣屋を構えます。これは矢作川の水運と岡崎藩・尾張国・信濃国への交通の要所をおさえる意味もあり、陣屋を中心に7か町を形成しました。
元和5年(1619年)、第2代藩主「三宅康信」は2000石を加増の上、伊勢国亀山藩に領地替えされます。寛永13年(1636年)、康信の長男「三宅康盛」が再び1万2000石で衣城に入り、第3代藩主となります。寛文4年(1664年)には、第4代藩主「三宅康勝」の時代に三河国田原藩へ領地替えとなり、衣における三宅氏の時代は終わります。
幕府領時代(1664年~1681年)
寛文4年(1664年)の三宅氏転封後、衣の地は幕府領となり、三河代官鳥山氏の支配下に入ります。鳥山氏は三宅氏の築いた陣屋を廃し、町の郷倉を建て、堀を埋め立てて田地としました。他に道路の拡張や養蚕の奨励、灌漑などの事業を行いました。
本多家時代(1681年~1749年)
天和元年(1681年)、陸奥国石川藩より「本多忠利」が、挙母に1万石で入封し、再立藩しました。「本多忠利」は、「徳川家康」の家臣「本多忠勝」の曾孫にあたり、幕府でも寺社奉行を務めています。また、近隣の伊保藩と足助藩も忠利の兄弟が治めており、西三河における本多氏一族の一体的支配の動きの中での立藩とも言えます。本多氏は「衣」を「挙母」と表記することを定め、城下町の整備に努めます。本多氏は忠利、忠次、忠央の3代にわたり支配しています。
内藤家時代(1749年~1871年)
寛延2年(1749年)、上野国安中藩より「内藤政苗」が、挙母へ領地替えとなります。以後、明治維新までの約120年間にわたり内藤氏が、挙母の地を支配しました。
内藤氏は、本多氏から受け継いだ挙母1万石の他にも、遠江国と美作国に1万石を領し、都合2万石の大名となりました。入封後、幕府より4000両が与えられ、それまでの陣屋から挙母城築城の計画が進められました。しかし、築城の計画は一揆や洪水、政争などの要因で遅々と進みませんでした。現在、移転前の城は桜城と呼ばれているようです。
結局、第2代藩主「内藤学文」は、安永8年(1779年)に挙母城の移転を決意し、挙母城より西方の樹木台に新しい城の築城を進めることになります。そして天明5年(1785年)に築城工事が終わり、江戸から戻った学文は新城の見分をしています。それが現在の七州城と呼ばれる城にあたります。また、学文は藩校「崇化館」も創立しています。以後、挙母の城下町は旧城を中心とした下町と新城を中心とした樹木の両地域で発展し、明治維新を迎えます。
第4代藩主「内藤政成」は、近江彦根藩主の「井伊直中」の五男で、養子として迎えられました。質素倹約に励むなど藩財政の好転に尽くしましたが、天候不順や矢作川の氾濫などで芳しい実績は生まれませんでした。政成は、文政13年(1830年)9月に実弟「内藤政優(井伊直中の八男)」を養子として迎え、これに藩政を委ねて隠居しましたが、この縁組は実家の井伊家からの持参金目当てであり、挙母藩の借財整理に充てられたと伝わります。因みに大老「井伊直弼」は、「井伊直中」の十四男で政成や政優の実弟にあたります。
天保7年(1836年)9月、現在の松平地区で大規模な百姓一揆「加茂一揆」が発生します。飢饉に苦しむ農民が年貢の減免や市場価格の抑制を求めて起こした一大農民一揆で、1万人以上の農民が参加する大騒動に発展しました。藩主の「内藤政優」は、鉄砲隊を組織して矢作川の堤防で農民を撃退し、一揆を武力鎮圧しました。「鴨の騒立(かものさわだち)」という別名でも知られるこの一揆は、東海地方有数の規模で、天保8年(1837年)の「大塩平八郎の乱」にも影響を与えることとなりました。
嘉永4年(1851年)、政優が嗣子なく死去すると、第6代藩主も井伊家から「内藤政文(政成・政優の甥)」が養子として迎えられました。政文の時代の安政元年(1854年)には、挙母地方を大地震が襲ったと記録されています。
安政5年(1858年)に政文が死去し、嫡男の「内藤文成」が4歳で第7代藩主となりました。内藤氏歴代藩主の中で、家督が父子相続された唯一の例となっています。
安政6年(1859年)には、洋式の軍政(英式銃陣法)が取り入れられ、習練が行われました。慶応3年(1867年)には、全国的に流行していた「ええじゃないか」が挙母でも起きています。
慶応4年(1868年)2月に「戊辰戦争」がはじまると、挙母藩は藩主が領国不在のまま新政府に対して恭順しました。同年3月には文成が帰藩し、4月に官軍の東海道軍人馬兵食賄方として、駿府警衛のため一小隊を派遣します。
同年7月、文成は京の御所へ参内し、勤王の意をあらためて表しました。明治2年(1869年)、文成は挙母藩知事に就任し、明治3年(1870年)に挙母藩が廃止され挙母県になりました。幕末時、士族は100戸、卒族は200戸を数え、文成は、維新後子爵となり、明治34年(1901年)まで存命しました。
私が挙母の地名を知ったのは、つい最近です。佐藤浩市主演の「リーダーズ」と言う大型ドラマで知りました。トヨタ自動車の創業者、「豊田喜一郎」をモデルにしたドラマですが、城下町だったとは知りませんでした。

七州城復興隅櫓

崇化館跡

又日亭

七州城(しちしゅうじょう)は、現在の愛知県豊田市小坂本町付近にあった平山城です。七州城は通称で、正式には地名の通り挙母城(ころもじょう)と言います。
豊田市美術館敷地内に櫓台の石垣が残り、昭和52年(1977年)に隅櫓が復興再建しました。隅櫓に隣接する書院は「又日亭」(ゆうじつてい)といい、明治までは寺部城の城内にあった書院です。明治年間に千足町の竜寿院に移築され、その後解体される予定でしたが、隅櫓再建とともに、豊田市によって現在地に移築されました。また、挙母祭りの山車蔵に、城の解体部材が転用されています。その他、豊田市内の個人宅に、蔵を移築したものと伝承のある建物が現存しています。
藩校「崇化館」は、天明7年(1787年)に創立され、設立に当たっては、京都より「伊藤仁斎」の孫「伊藤東所(とうしょ)」を学頭に招請しています。
東所により崇化館と命名され、現在、豊田市郷土資料館に「崇化館記」が所蔵されています。
崇化館跡石碑前の道路の辻は、江戸時代には大手門前の表玄関であり、人馬や籠などの往来が多かったそうです。

 

西尾藩


西尾藩(にしおはん)は、三河国幡豆郡西尾(愛知県西尾市)に存在した藩です。藩庁は、西尾城に置かれました。
西尾は、「徳川家康」が今川氏から自立した永禄4年(1561年)に家臣の「酒井正親」を西尾城主に任命して治めさせた地です。なお、正親は徳川家臣団の中で、家康から初めて城主に任命された人物です。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」後、豊臣氏恩顧の大名は家康によって西国に移封され、慶長6年(1601年)2月に下総小篠から「本多康俊」が2万石で西尾藩に入封し、立藩しました。
康俊は、元和3年(1617年)10月に近江膳所藩に移封され、代わって、下野板橋藩から「松平成重」が2万石で入封しました。しかし、元和7年(1621年)7月に丹波亀山藩に移封されます。その後、康俊の後を継いで近江膳所藩の第2代藩主となっていた「本多俊次」が3万5000石で入封しましたが、寛永13年(1636年)6月23日に伊勢亀山藩に移封され、一旦幕府領となりました。
寛永15年(1638年)4月24日、下野山川藩から「太田資宗」が3万5000石で入封し、再立藩します。資宗は、西尾城と城下町の改築に尽力しましたが、完成直前の寛永21年(1644年)2月28日に遠江浜松藩に移封されました。このため再び廃藩となりました。
正保2年(1646年)6月23日、上野安中藩から「井伊直好」が3万5000石で入封します。直好は、「井伊直政」の孫に当たり、西尾城の改築を完成させた後の万治2年(1659年)1月28日に遠江掛川藩に移封されました。
同年2月3日に相模国内から「増山正利」が2万石で入封します。正利の姉「お蘭(お楽の方)」は、第4代将軍「徳川家綱」の生母で、正利は家綱の教育係を行なった人物であり、その縁から家綱によって大名に取り立てられました。第2代藩主「増山正弥」は、寛文3年(1663年)7月に常陸下館藩に移封されました。
代わって、下野国内から「土井利長」が2万3000石で入封します。利長は、江戸幕府の老中・大老として前期幕政を主導した「土井利勝」の三男です。第2代藩主「土井利意」は、税制改革・農政に尽力した善政を行なった名君と言われています。
第4代藩主「土井利信」時代の延享4年(1747年)2月11日に三河刈谷藩に移封され、入れ替わる形で、「三浦義理」が2万3000石で入封します。しかし、第2代藩主「三浦明次」時代の明和元年(1764年)6月21日に美作勝山藩に移封されます。
このように、江戸時代前期の西尾藩は転封が多く、入封しても十数年で再度移封されるという状況でした。
出羽山形藩より「松平乗祐」が6万石で入封して以降、この状況はようやく解消され、藩主家が安定しました。乗祐の家は、十八松平家の一つ大給松平家の宗家に当たり、6万石の表高でしたが、西尾のみでは石高が足りず、越前国内にも飛び地として所領が与えられました。また、松平一門の名門として、播磨国尼崎藩主桜井松平家と共に諸大夫の筆頭として殿中での拝謁では、従五位下の大名の中で最初に拝謁することになっており、以降の歴代藩主は老中として幕政に関与するものが多数いました。そのため、松平氏の財政は困窮することになりました。
第3代藩主「松平乗寛」は、「松平定信」の「寛政の改革」に参与し、幕政改革に従って藩政改革も行ない、幕府機構の取り入れを行なっています。第4代藩主「松平乗全」は、「井伊直弼」の「安政の大獄」で井伊派として一橋派の処分に務めました。
第5代藩主「松平乗秩」時代の慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では、佐幕派と尊王派による大論争が行なわれ、藩が分裂の危機に陥りましたが、下級武士層による尊王派が大局を占め、尾張藩に従って新政府に与しました。
乗秩は、明治2年(1869年)の版籍奉還で西尾藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免官されました。
西尾藩は、市川崑監督作品映画「どら平太」の原作「町奉行日記」(山本周五郎作)の舞台となった藩のモデルと言われています。

西尾城本丸丑寅櫓

西尾城(にしおじょう)は、三河国幡豆郡西尾(愛知県西尾市錦城町)にあった平山城です。別名、「鶴城」・「鶴ヶ城」・「錦丘城」などと呼ばれています。また、西条城が旧称とされていますが、改名時期については諸説存在しています。
平成8年(1996年)に本丸丑寅櫓(3重櫓)、二の丸鍮石(ちゅうじゃく)門、本丸と二の丸の土塁や堀等を復元し歴史公園として整備されています。更に天守の再建が計画され、既に天守台は完成しています。

 

西端藩


西端藩(にしばたはん)は、三河国(愛知県碧南市湖西町)に存在した藩です。藩庁は、西端陣屋に置かれました。
近江国膳所藩主「本多康俊」の次男「本多忠相」が、元和2年(1616年)に三河国碧海郡西端で1000石を賜り立領します。その後、三河国・上総国・下総国・安房国で加増を重ね、8000石の大身旗本となります。子の第2代領主「本多忠将」の時、更に加増されて9000石を領するようになりました。天明3年(1783年)、第6代領主「本多忠直」の時、西端に陣屋を置きました。
元治元年(1864年)、第10代領主「本多忠寛」が、江戸警備の功績などにより1万500石への高直しを許され、本多氏は諸侯に列して西端藩が立藩しました。慶応3年(1867年)5月20日、忠寛は病気を理由に隠居し、嫡男「本多忠鵬」が家督を相続しました。忠鵬は、明治元年(1868年)に新政府方に与し、陣屋を官軍に兵営として貸し与えました。
翌年6月には農民兵を募集して洋式訓練を行い、藩政改革を行ない始めましたが、間もなく同月23日に版籍奉還となり、忠鵬は藩知事となって華族に列しました。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で西端藩は廃藩となり、西端県・額田県を経て、愛知県に編入されました。

本多忠鵬の墓

西端陣屋(にしばたじんや)は、現在の愛知県碧南市湖西町1丁目付近にありましたが、現在は宅地となって遺構は残っていません。 陣屋の北にある康順寺には、本多忠鵬の墓が残っています。

 

刈谷藩


刈谷藩(かりやはん)は、三河国に存在した藩です。藩庁は、刈谷城(愛知県刈谷市城町)に置かれました。
戦国時代の刈谷は、「徳川家康」の生母「於大の方」の実家である水野氏が支配していました。於大の父「水野忠政」は、松平氏とともに今川方の豪族でしたが、刈谷城を築城し、緒川から刈谷に本拠地を移しました。
子の「水野信元(於大の兄)」は、今川氏を離れ織田氏と同盟関係を結びましたが、後に「佐久間信盛」の讒言にあい、「武田勝頼」との内通を疑われて殺害されました。この時、一族郎党は離散し、一時的に水野氏は滅亡しました。しかし、刈谷を領した「佐久間信盛」もまた「織田信長」の命令で高野山追放となり、信長は信元の弟「水野忠重」に刈谷を与え、「織田信忠」の与力としました。
「小牧・長久手の戦い」では、「織田信雄」「徳川家康」に味方して功をあげ、その後は「豊臣秀吉」に仕えて伊勢国神戸に移封されましたが、後に刈谷に復帰します。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」において、忠重は東軍に与しましたが、西軍で美濃加賀野井城主であった「加賀井重望」によって殺害されてしまいました。その後、子の「水野勝成」が後を継ぎ、東軍に与して武功を挙げたことから関ヶ原後も所領を安堵され、「大坂夏の陣」では、大和口の幕府軍を指揮する功をあげ、元和元年(1615年)7月21日に大和国郡山へ移封されます。
元和2年(1616年)4月3日、勝成の弟「水野忠清」が上野小幡藩より2万石で入封します。しかし、忠清は寛永9年(1632年)8月11日に三河吉田藩へ移封され、入れ替わりで「松平忠房」が3万石で入封しますが、慶安2年(1649年)2月28日に丹波福知山藩へ移封されます。
その後、伊勢桑名藩主「松平定勝」の六男「松平定政」が、伊勢長島藩より2万石で入封しますが、慶安4年(1651年)の「徳川家光」没後に定政は剃髪し、所領を江戸幕府に返上するという書状を幕府の宿老「井伊直孝」に提出しました。このため同年7月18日に幕府は、定政が発狂したとして改易に処し、伊予松山藩主「松平定行」に身柄を預けました。
刈谷藩は天領となりましたが、同年9月19日に「稲垣重綱」が、越後三条藩より2万3,000石で入封して再立藩します。
第2代藩主「稲垣重昭」時代の承応3年(1654年)3月3日、従弟の「稲垣昭友」に3,000石を分与したため、2万石となります。そして、第3代藩主「稲垣重富」時代の元禄15年(1702年)9月7日に上総大多喜藩へ移封されます。
入れ替わりで「阿部正春」が1万6,000石で入封しますが、第2代藩主「阿部正鎮」時代の宝永7年(1710年)5月23日に上総佐貫藩へ移封されます。その後、越後村上藩より「本多忠良」が5万石で入封しますが、これも正徳2年(1712年)7月12日に下総古河藩へ移封となります。
日向延岡藩より「三浦明敬」が2万3,000石で入封しますが、第3代藩主「三浦義理」時代の延享4年(1747年)2月11日に三河西尾藩へ移封となり、短期間での藩主家交替が相次ぎ、支配が定着しませんでした。
義理と入れ替わりで「土井利信」が、2万3,000石で入封し、ようやく土井氏による支配が定着しました。刈谷藩における土井氏は、実子が無く藩主には他家から養子を迎えることが多かったにも関わらず、9代に渡って刈谷を支配しています。
寛政2年(1790年)、第3代藩主「土井利制」の時代には、調達金をめぐり領村42ヶ村による「寛政一揆」が発生し、幕府より村替え(2万3,000石のうち、1万3,000石を陸奥福島藩と領地替え)の処罰を受けます。
明治2年(1869年)の版籍奉還で、最後の藩主「土井利教」は、刈谷藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で、刈谷藩は消滅し刈谷県を経て額田県に合併されました。

刈谷城本丸跡(再建十朋亭)

刈谷城(かりやじょう)は、三河国碧海郡刈谷(愛知県刈谷市)にあった平城です。正しくは「刈屋城」ですが、刈谷市が昭和25年(1950年)4月以降に市制施行してから、「刈谷」という表記がされるようになりました。別名、亀城とも言います。
現在、城跡のうち本丸および帯曲輪の一部が亀城公園となっています。建物や石垣の遺構を留めませんが、本丸を囲む土塁が残存する他、帯曲輪東側の堀は拡幅されて池となっており、かつての城郭の名残を留めています。また、北西隅櫓の跡に建てられた建物の裏側に、ごくわずかながら当初の石垣が残されていますが、ほとんどの石は新しいものです。妙福寺 (碧南市)に辰巳櫓が移築現存しています。
十朋亭は、大正5年(1916年)に財団法人刈谷士族会の集いの場として、刈谷城本丸隅櫓跡に建築されましたが、その後、「大野介蔵」氏の隠居家として使われるようになり、昭和11年(1936年)に刈谷町が買い受けました。昭和47年(1973年)には、故「石田退三」氏のご厚意により改築され、現在に至っています。
桜の名所として知られる亀城公園内にあり、和風庭園ともよく調和し、四季を通じて市民の憩いの場として、各種会合・レクリエーション・休憩所等に幅広く活用されています。

 

重原藩


重原藩(しげはらはん)は、明治改元後から廃藩置県までの間に存在した藩です。藩庁は、重原陣屋に置かれました。
重原は元々、刈谷藩の領土でしたが、寛政2年(1790年)に刈谷藩土井氏第3代藩主「土井利制」の時代に「寛政一揆」が発生し、この責任を取らされ1万3000石を陸奥福島藩と村替え(領地替え)の処罰を課せられました。
福島藩主「板倉勝尚」は、「戊辰戦争」で新政府に反抗したことから罪に問われ、明治元年(1868年)12月に3万石の所領の内、2000石を削減され、さらに強制的に隠居することを命じられました。
代わって、家督を継いだ「板倉勝達」は、寛政4年(1792年)から三河国内にあった福島藩飛び地に移封され、これに福島藩旧領と上総国内にあった所領を合わせて2万8000石の藩主として、重原藩を立藩します。また、旧天領地の三河県(府藩県三治制)の一部地域も重原藩に編入されています。明治2年(1869年)の版籍奉還で重原藩知事に任命された勝達は、行政機構の改革をはじめ、藩校「教導館」を「養正館」に改称して教育の普及に尽力しました。
なお、藩庁の建設も行なわれましたが、明治4年(1871年)7月、廃藩置県により重原藩は廃藩となって中止されました。その後、重原県・額田県を経て、愛知県に編入されました。

浄福寺にある石碑

重原陣屋(しげはらじんや)は愛知県刈谷市にあった陣屋です。現在のあいち中央農業協同組合重原支店・公民館のあたりに存在しました。ここから少し離れた所にある、浄福寺の横に重原陣屋跡の石碑と福島藩を示す「従是東福島領」の石碑が建てられており、刈谷市指定史跡となっています。門が刈谷市半城土町にある願行寺の山門として移築され、同市指定有形文化財となっています。十応寺にも重原陣屋の玄関が移築されています。

 

三河県


三河県(みかわけん)は、慶応4年(1868年)に三河国内の幕府領・旗本領を主に管轄するために明治政府によって設置されました。管轄地域は、現在の愛知県東部に広く分布しています。参河県と表記する資料もあります。
江戸時代以降、三河国は譜代大名・旗本領・寺社領・天領と分割支配され、複雑な統治が行われていました。慶応4年(1868年)、三河国内の幕府領・旗本領を総括する三河裁判所が吉田に設置され、後に赤坂陣屋に移転して三河県に組織変更されました。参河裁判所と表記する資料もあります。また、以前から当ブログを閲覧いただいている方にはご理解いただいていると存じますが、ここで言う裁判所は現在の司法裁判所とは異なり、行政を司る組織を指します。
明治2年(1869年)、一部地域は福島藩から移封された重原藩、徳川宗家が移封された静岡藩に編入され、残部が信濃国南部の幕府領・旗本領を管轄する伊那県に編入され廃止となりました。

赤坂陣屋跡

赤坂宿に現存する旅籠(大橋屋)

赤坂陣屋(あかさかじんや)は、三河の天領支配の中心であり、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところで、幕末に三河県役所と改められました。手狭になったため、明治2年(1869年)に移転され、廃藩置県後の明治5年(1872年)に廃止されました。
陣屋のあった地は、東海道赤坂宿として有名です。今でも古い旅館などがあり、昔の面影が残っています。音羽町の図書館の近くに陣屋の説明看板があり、この看板の背後奥が陣屋跡です。そこから東へ歩いて行くと、本陣入口や本陣址の碑が建っています。

 


如何でしたでしょうか。名古屋を中心に統制の取れた土地柄だと思っていたので、意外に複雑で驚きました。名古屋藩だけが別格で、それ以外の藩は他県と何ら変わらないようですね。名古屋以外は、東海道が通っている藩が、新幹線や高速道路の設置により明治以降、急速に発展したものと考えられます。旧東海道の歴史を辿れば面白い真実が出てくるかもしれませんね。


 

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