歴史を紐解く(廃藩置県)- 石川県編


今回は、石川県の歴史を紐解いてみます。石川県で思い浮かぶことと言えば、やはり加賀100万石の城下町・兼六園・加賀山中温泉・加賀友禅・輪島の朝市・輪島塗り・和倉温泉と色々出てきます。それだけ歴史と伝統のある県という事で大変興味深いところです。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の石川県になるまでの変遷です。



この表を見て、「能登は加賀じゃないの」と素朴に疑問を持ちました。また、江戸時代には、2藩しか存在していません。能登はどのように統治されてきたのかにも興味がありますし、やはり、「前田利家公」の事を知らないと加賀の歴史は見えてこないのかもしれません。
明治4年(1871年)8月21日の第二次府県統合では、加賀と能登に加え、富山県全域と福井県の敦賀・若狭を除く全域が石川県に併合されています。かなり巨大な県だったと思われます。何故、江戸時代を通じて巨大な藩が存続し続けて来たのか興味深いところです。

 

加賀藩


加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領した藩です。藩祖「前田利家」の妻である「芳春院(まつ)」の死後、化粧領だった領地、近江弘川村(滋賀県高島市今津町)を飛び地に加えます。
加賀国石川郡(金沢市)の金沢城に藩庁が置かれました。金沢藩の呼称は、明治2年(1869年)の版籍奉還後に定められたものです。
藩主の前田氏は、外様大名でありながら徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩の地位が与えられ、松平姓と葵紋が下賜されました。第4代藩主「前田光高」以降の藩主は、代々将軍の偏諱を拝領しました。また、大名中最大の102万5千石を領し、極官も従三位参議と他の大名よりも高く、江戸城での伺候席も他の国持外様大名が大広間詰である中、徳川御三家や越前松平家などの御家門が詰める大廊下詰で、御三家に準ずる待遇でした。
一国一城令が布告された後に小松城の再築が許されて「一国二城」となり、将軍家にとっては陪臣である加賀八家にも武家官位が与えられるなど、他の外様大名とは別格扱いでした。
「加賀八家」は、別名「前田八家」とも言います。加賀藩の直臣は、人持組頭・人持組・平士・足軽に大別され、「加賀八家」は人持組頭の事を指します。いずれも1万石以上の禄高を持ち、藩の重臣として藩政に関わりました。人持組頭は、以下の八家です。

  • 本多氏(5万石)筆頭家老、維新後は男爵
  • 長氏(穴水城主3万3000石)維新後は男爵
  • 横山氏(富山城代3万石)国家老、維新後は男爵
  • 前田対馬守家(越中守山城代1万8000石)藩主一門、維新後は男爵
  • 奥村河内守家(末森城代1万7000石)維新後は男爵
  • 村井家(松根城代1万6500石余)維新後は男爵
  • 奥村内膳家(1万2000石)留守居役、維新後は男爵
  • 前田土佐守家(小松城代1万1000石)藩主一門、維新後は男爵

人持組は、時に家老などの重職に就くこともあり、高禄の者は1万石以上、少ない方では1000石程度の禄高で約70家が存在しました。
「織田信長」によって能登1国を与えられていた藩祖「前田利家」が、天正11年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」の後、豊臣秀吉に仕えて加賀2郡、さらに天正13年(1585年)には「佐々成政」と戦った功績により、嫡子「前田利長」に越中西三郡が与えられて、3国にまたがり100万石を領する前田家領の原形が形成されました。
慶長4年(1599年)に利家が死ぬと、加賀東部と越中の合計83万石を領する利長と、能登に21万石を領する弟「前田利政」に分割されました。翌、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」に際し利長が東軍、利政が西軍に分かれ、敗れた側の利政は所領を没収されました。かわりに利長が利政の旧領と加賀西部の西軍大名の旧領を授けられ、三ヶ国120万石に及ぶ所領を獲得しました。
第3代藩主「前田利常(利長の弟)」が隠居するとき、次男・三男を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(10万石)をそれぞれ分与し、加賀藩は102万5千石となりました。
支藩として他に上野七日市藩1万石があります。利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立しました。利常の孫「前田綱紀」は、学者の招聘につとめ学問を振興した名君として名高く、兼六園は綱紀の時代に造営されました。
大政奉還時は「徳川慶喜」を支持しましたが、幕府軍が「鳥羽・伏見の戦い」に敗北した後、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順しました。海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われています。
明治4年(1871年)の廃藩置県によって金沢県となり、まもなく新川県(富山県)・大聖寺県と合併して旧3国に広がる石川県を構成します。明治16年(1883年)に旧越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県の領域が確定しました。
旧藩主前田家は、明治17年(1884年)の華族令により侯爵となりました。

これだけでは他国とあまり変わらず、うまく行き過ぎていますよね。やはり藩祖「前田利家公」の事に触れないと見えてきませんね。

加賀藩祖「前田利家」

天文7年12月(1539年1月)、尾張国海東郡荒子村(名古屋市中川区荒子)において、土豪「荒子前田家」の当主「前田利春(利昌)」の四男として生まれ、幼名は犬千代と称します。
前田氏は当初、織田家筆頭家老「林秀貞」の与力でしたが、天文20年(1551年)頃に「織田信長」の小姓として仕えます。
若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者でした。天文21年(1552年)に織田大和守家の「織田信友」と「織田信長」との間に起こった「萱津の戦い」で初陣し、首級ひとつを挙げる功を立てます。その後、元服して「前田又左衞門利家」と名乗りました。
信長とは、性格が似通っていたようですね。
青年時代の利家は、血気盛んで「槍の又左衞門・槍の又左」などの異名をもって呼ばれていました。
弘治2年(1556年)、信長と、その弟「織田信勝」による織田家の家督争い(稲生の戦い)では、「宮井勘兵衛」なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという功績を上げます。
永禄元年(1558年)、尾張上四郡を支配していた守護代「織田信安(岩倉織田氏)」の息子「織田信賢」との争い(浮野の戦い)にも従軍し、功積を挙げました。また、永禄初年頃に新設された赤と黒の母衣衆(信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の「赤母衣衆筆頭」に抜擢され、多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受けます。同年、従妹である「まつ(芳春院)」を正室に迎え、翌永禄2年(1559年)、信長の寵愛を受けた同朋衆の「拾阿弥」と諍いを起こし、「拾阿弥」を斬殺したまま出奔しました。
当初、成敗は避けられない状況でしたが、「柴田勝家」や「森可成」らの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする事になりました。この間、熱田神宮社家松岡家の庇護を受けるなどで命をつないでいます。
その後、永禄3年(1560年)、出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で「桶狭間の戦い」に参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されませんでした。
翌永禄4年(1561年)、「森部の戦い」でも無断参戦します。ここで斎藤家重臣「日比野下野守」の家来で、「頸取足立」の異名を持つ「足立六兵衛」なる怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げました。この時、足立以外にも首級1つを挙げています。2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫が加増されて450貫文となり、ようやく帰参を許されました。
信長と似通った性格のため、実力を示せばその他の事は気にせず許してもらえると踏んでいたのかもしれませんね。
利家の浪人中に父「前田利春」は死去し、前田家の家督は長兄「前田利久」が継いでいましたが、永禄12年(1569年)に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられます。理由は利久に実子がなく、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだといいます。
以後の利家は、信長が推進する統一事業に従い、緒戦に参加します。元亀元年(1570年)4月には浅井氏・朝倉氏との「金ヶ崎の戦い」では、撤退する信長の警護を担当し、6月の「姉川の戦い」では、「浅井助七郎」なる者を討ち取る功績を上げます。同年9月には石山本願寺との間に起こった「春日井堤の戦い」で、春日井堤を退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒す功績を上げます。
天正元年(1573年)9月の「一乗谷城の戦い」、同2年(1574年)7月の「長島一向一揆」、同3年(1575年)5月の「長篠の戦い」などでは「佐々成政」「野々村正成」「福富秀勝」「塙直政」らと共に鉄砲奉行としての参戦が確認されています。
天正2年(1574年)には「柴田勝家」の与力となり、越前「一向一揆」の鎮圧に従事しました。翌年には越前「一向一揆」は平定されましたが、この際に「佐々成政」「不破光治」とともに府中10万石(三等分ではない)を与えられ、「府中三人衆」と呼ばれるようになります。
越前国平定後は、勝家与力として成政らと共に上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事しますが、信長の命により「有岡城の戦い(摂津有岡城攻め)」「三木合戦(播磨三木城攻め)」にも参加しており、信長の直参的役割は続いていたものと考えられています。
天正9年(1581年)、「織田信長」より能登一国を与えられ、七尾城主として23万石を領する大名となりました。旧加賀藩領(石川県・富山県)では、この時点で「加賀藩」が成立したと解釈され、利家は初代藩主とされています。しかし、近年では徳川氏へ従属した利長を「初代加賀藩主」とする解釈もなされています。尚、本稿では利家を初代として記載しています。
翌年、難攻不落ながら港湾部の町から離れた七尾城を廃城、港を臨む小山を縄張りして小丸山城を築城しました。
天正10年(1582年)6月の「本能寺の変」で、信長が家臣「明智光秀」により討たれた時、利家は「柴田勝家」に従い、「上杉景勝」軍の籠る越中魚津城を攻略中であり、「山崎の戦い」に加わることが出来ませんでした。
光秀死亡後、織田家の後継人事等を決定する「清洲会議」において、「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」と「柴田勝家」が対立すると、利家は勝家の与力であったことから勝家に与することになりますが、かねてから旧交があった秀吉との関係にも苦しみました。
同年11月には勝家の命を受け、「金森長近」「不破勝光」とともに山城宝積寺城(京都府大山崎町)において、利家は秀吉を相手に一時的な和議の交渉を行いました。この際に秀吉に逆に懐柔されたと言われています。
翌天正11年(1583年)4月の「賤ヶ岳の戦い」では、5,000程の軍勢を率いて柴田軍として布陣しましたが、合戦たけなわの時に突然撤退し、羽柴軍の勝利を決定づけました。
その後、府中城に使者として入った「堀秀政」の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となりました。戦後、本領を安堵されるとともに「佐久間盛政」の旧領(加賀国)のうち二郡を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城(金沢城)に移しました。
天正12年(1584年)、秀吉と「徳川家康」「織田信雄」が衝突した「小牧・長久手の戦い」では、「佐々成政」が家康らに呼応して加賀・能登国に侵攻しましが、末森城で成政を撃破(末森城の戦い)しました。
同年4月9日の「長久手の戦い」では、秀吉方は敗北を喫したましが、その後も両軍の対陣が続いて、戦線は膠着状態となりました。この間、「丹羽長秀」と共に北陸方面の守備を委ねられていた利家は北陸を動きませんでした。
「末森城の戦い」に勝った利家は、続いて加賀越中国境の荒山・勝山砦を攻略、越中国へも攻め込みました。同年9月19日、利家は秀吉より一連の戦いの勝利を賀されています。
成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は「上杉景勝」と連絡をとって越中国境に進出させ、兵を派遣して越中国を攻撃しました。
天正12年(1584年)8月、利家が先導役を果たし秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと「佐々成政」は降伏し、利家の嫡子「前田利長」が越中国4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増されました。同年4月に越前国の国主である「丹羽長秀」が没し、丹羽家は国替えとなります。それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上り詰めました。
秀吉から諸大名の窓口としての機能を求められ、とりわけ「蒲生騒動(蒲生家のお家騒動)」の件では、「徳川家康」に代わって奔走し、秀吉から処分の取り消しを引き出しました。
九州征伐では、8,000の兵で畿内を守備し、息子の利長が九州まで従軍しました。同年7月に秀吉は関白に任官し、9月に秀吉が豊臣姓を賜ると天正14年(1586年)には、利家に羽柴氏(名字)を名乗らせ、筑前守・左近衛権少将に任官させています。更に天正16年(1588年)には、秀吉から豊臣姓(本姓)をも下賜されました。
天正18年(1590年)1月21日には参議に任じられ、秀吉が主催した北野大茶湯や後陽成天皇の聚楽第行幸にも陪席しています。その後は、奥州の「伊達政宗」などに対して上洛を求める交渉役となっています。
北条氏制圧のための「小田原征伐」では、北国勢の総指揮として「上杉景勝」「真田昌幸」と共に上野国に入り、北条氏の北端要所である松井田城を攻略し、他の諸城も次々と攻略しました。続いて武蔵国に入り、鉢形城・八王子城を攻略し、同年7月5日、北条氏は降伏します。小田原落城後、秀吉は奥羽へ軍を進め、秀吉自身は8月に帰陣の途につきましたが、利家らは残って奥羽の鎮圧に努めました。
国内を統一した後の秀吉は、朝鮮出兵を始めます。
天正19年(1591年)8月、秀吉より出兵の命が出され、名護屋城の築城が始められました。翌文禄元年(1592年)3月16日に利家は諸将に先んじて京を出陣、名護屋に向かいました。当初、秀吉は自ら渡海する意思を持っていましたが、利家は家康と共にその非なるを説き思い止まらせました。同年7月22日、秀吉は母「大政所」危篤の報を得て、急ぎ帰坂します。
葬儀を終えて、再び名護屋へ向け大坂を発ったのが同年10月1日で、約3ヶ月間名護屋を留守にしていた事になりますが、その問、秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行っていたのは、家康と利家であり、のちの五大老の原型がみてとれます。
文禄2年(1593年)1月、渡海の命を受けて準備し、陣立てまで定まりましたが、間もなく明との講和の動きが進み、結局は渡海に及びませんでした。同年5月15日、明使が名護屋に着くと、家康・利家の邸宅がその宿舎とされました。同年8月には、「豊臣秀頼」誕生の報に、秀吉は大坂に戻ります。利家も続いて東上し、11月に金沢に帰城しました。このときに「まつ」の侍女である千代の方との間に生まれた子供が「猿千代」で、のちの第三代加賀藩主「前田利常」です。
文禄3年(1594年)1月5日、利家は、「上杉景勝」「毛利輝元」と同日に従三位に叙位され、4月7日には2人よりも先に権中納言に任ぜられたことで、これまで景勝・輝元の後塵を拝していた官位の序列の面において逆転することになります。
これは、秀吉が利家を家康に対抗させ、豊臣一族を補佐させる存在にすべく、儀礼的な面でも序列の引き上げを図ったものと考えられています。つまり利家と家康をライバルに仕立て上げたという事でしょう。
慶長3年(1598年)になると秀吉と共に利家も健康の衰えを見せ始めるようになります。3月15日に醍醐の花見に妻の「まつ」と陪席すると、4月20日に嫡子・利長に家督を譲り隠居、湯治のため草津に赴きました。この時、隠居料として加賀石川郡・河北郡、越中氷見郡、能登鹿島郡にて計1万5千石を与えられています。しかし、実質的には隠居は許されず、草津より戻った利家は、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉より大老の一人に命じられます。秀吉にとって、どうしても必要な人材だったようですね。
しかも家康と並ぶ大老の上首の地位でした。同年8月18日、秀吉は利家らに嫡子である「豊臣秀頼」の将来を繰り返し頼み没します。
慶長4年元旦(1599年)、諸大名は伏見に出頭し、新主「豊臣秀頼」に年賀の礼を行いました。利家は病中ながらも傳役として無理を推して出席、秀頼を抱いて着席しました。そして秀吉の遺言通り、家康が伏見城に利家が秀頼に扈従し大坂城に入ります。以後、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となります。
しかし、間もなく家康は亡き秀吉の法度を破り、「伊達政宗」「蜂須賀家政」「福島正則」と無断で婚姻政策を進めました。利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなりました。利家には、「上杉景勝」「毛利輝元」「宇喜多秀家」の三大老や五奉行の「石田三成」、武断派の「細川忠興」「浅野幸長」「加藤清正」「加藤嘉明」らが味方しました。
同年2月2日に利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換し、さらに利家が家康のもとを訪問して家康も利家と対立することは不利と悟り向島へ退去すること等で和解しました。この直後、利家の病状が悪化し、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問しました。この時、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたというエピソードが残っています。その後、利家は大坂の自邸で病死します。
利家の死後、家康により加賀征伐が検討されますが、利長は母の「芳春院(まつ)」が人質になる条件を受け入れ、加賀征伐は撤回されました。


個人的な見解ですが、秀吉・利家・家康はお互いの実力を心のどこかで認め合っていたと考えています。だからこそ何時寝首を掻かれるか分からないとの意識もあったと思いますし、出来るだけ争いは避けたいとの思いが有ったのではないでしょうか。それは、再び戦乱の世に戻してはならないと言う共通の目標があったからに違いありません。結局、一番長生きした家康が天下を取りましたが、逆だったら利家が天下を取っていたかもしれません。
加賀100万石を代々維持してきた功績は、利家にあると考えていましたが、それは間違いでした。正室「芳春院(まつ)」は、秀吉の正室「高台院(ねね)」や母「大政所(なか)」とは懇意の間柄であり、前田家の危機には常に奔走しています。また、その後の加賀藩主も徳川将軍家との関係を巧みに構築しています。
地理的条件も加賀が独自の文化を育んだ要因だろうと思います。アルプスや飛騨山脈で江戸や京とは隔てられ、更に北の庄には家康の次男「結城秀康」を配することで動きが封じられていたのだろうと推測できます。秀康の福井藩は冷遇されていたとは言え、親藩なので加賀藩も迂闊には行動出来なかったと思います。もしかしたら家康が秀康と利長をライバルに仕立てたのかもしれませんね。
それにしても江戸時代を通じて、100万石の城下町を維持し、独自の文化を発展させてきた加賀藩は恐るべき実力ですね。
利家の子孫は、うつけ者が多いそうです。言葉は悪いですが、馬鹿なふりをして爪を隠していたのかもしれませんね。


金沢城石川門

金沢城三ノ丸

兼六園

金沢城(かなざわじょう)は、石川県金沢市丸の内にあった平山城です。城址は国の史跡に指定されています。明治以降、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年(1995年)まで置かれていました。
兼六園は、加賀藩第5代藩主「前田綱紀」が金沢城に付属してつくらせた大名庭園です。

 

大聖寺藩


大聖寺藩(だいしょうじはん)は、加賀国江沼郡及び能美郡の一部を領した加賀藩の支藩です。藩庁は、大聖寺陣屋に置かれました。
江戸時代当初は、加賀藩の城代が大聖寺城で江沼郡を支配していましたが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり、この役職は郡奉行に改められました。
加賀藩の項で説明のとおり、寛永16年(1639年)、第3代加賀藩主「前田利常」が隠居する際、次男「前田利次」に富山10万石、三男「前田利治」に大聖寺7万石を割いて、富山藩と大聖寺藩が立藩しました。大聖寺藩の版図(領土)は、江沼郡の大半133村(6万5700石余り)と越中国新川郡のうち9村(4300石余り)でしたが、万治3年(1660年)に領地交換で江沼郡全域と能美郡6村となりました。
第3代藩主「前田利直は、弟「前田利昌」に新田1万石を割いて、大聖寺新田藩を立藩させましたが、利昌が柳本藩主「織田秀親」を刺殺するという乱行に及んだため、切腹を命じられ、宝永6年(1709年)にお取り潰しとなり、領地は大聖寺藩に復しました。
第9代藩主「前田利之」は、文政4年(1821年)に7万石から10万石への高直しを行いました。3万石の内訳は、新田開発1万石、加賀藩から2万石相当の支援で捻出し、300諸侯中最大の陣屋主となりました。
第12代藩主「前田利義」は、安政2年(1855年)に没しましたが、その死の公表前に養子「前田利行」も没しました。しかし、利行の死を秘匿し、富山藩主「前田利聲」と七日市藩藩主「前田利豁」が名代として、利行の13代襲封のお墨付きを受け、利行の隠居願いを加賀藩主「前田斉泰」が幕府に願い出て、第14代藩主を「前田利鬯」が継ぎました。
利鬯は、明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官されました。
加賀藩の項でも触れておりますが、やはり前田家は代々巧みに存続を図ってきたようですね。一歩間違えば加賀藩共々お取り潰しです。

長流亭

江沼神社

大聖寺陣屋(だいしょうじじんや)は、加賀国江沼郡(石川県加賀市大聖寺町)にあった陣屋です。陣屋跡は、錦城小学校や江沼神社境内となっています。江沼神社は、宝永元年(1704年)に大聖寺初代藩主「前田利治」を祀るために建立されました。
神社境内に庭園が現存するほか、大聖寺川畔に藩主の休息所であった茶室「長流亭」が現存しています。長流亭は、宝永6年(1709年)に第3代藩主「前田利直」の別邸として建てられました。「小堀遠州」が設計し、随所にさまざまな工夫が凝らされていることから国の重要文化財に指定されています。

 

七尾県


七尾県(ななおけん)は、明治4年(1871年)に能登国全域と越中国西部を管轄するために設置されました。現在の石川県能登半島、富山県西部にあたります。
能登国は、「前田利家」が国持大名として七尾入りしてから、加賀に領土を加増され金沢へ拠点を移すまでの間、前田領の政治経済の中心地でした。江戸時代を通じて、幕府領・旗本領・加賀藩領で分割統治されていました。
明治4年11月20日(1871年12月31日)の第1次府県統合に伴い、金沢県のうち能登国と越中国射水郡が分離され、七尾県が発足しました。県庁は、鹿島郡所口村小丸山(七尾市馬出町)の小丸山城に置かれました。
明治5年9月25日(1872年10月27日)に射水郡を新川県(富山県)に、残りを石川県に合併し、同日七尾県は廃止されました。

小丸山城跡

七尾城跡

小丸山城(こまるやまじょう)は、能登国能登郡(石川県七尾市)に存在した平山城です。
北側に七尾湾、東西を御祓川に囲まれた丘陵地帯に位置し、梯郭式の曲輪が配置されています。廃城に伴って建築物が撤去されており、僅かに残る石垣や土塁に当時の面影が偲ばれます。元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となり、大正9年(1920年)には、小丸山公園として整備されています。
「織田信長」の指示により越前国府中城10万石の領主から能登一国の国主となった利家は、天正9年(1581年)に七尾城(ななおじょう)に入城しました。しかし、七尾城は要害ではありましたが、中世の山城であったため港から離れていて、治世・経済上の利便性に難がありました。そこで利家は、七尾港に近い所口村の小丸山に平山城を築くことを決定し、天正10年(1582年)に築城し、七尾城から移り住みました。
小丸山城は、河川と海が堀の役割を果たす水城でもあり、能登水軍の本部の役割も成していました。利家は、さらに周囲に29の寺院(山の寺寺院群)を建立し、能登半島方面からの敵襲の守りを補いました。
「賤ヶ岳の戦い」の後、加賀国のうち二郡を秀吉から加増され、天正11年(1583年)には、能登の小丸山城から加賀の尾山城(金沢城)に本拠地を移しています。


如何でしたでしょうか。金沢に格式の高い名門家が多い理由が分かりました。
私は、金沢・能登を2泊3日で旅行したことがあります。東尋坊まで足を延ばし、かなり駆け足の旅でした。もう一度ゆっくりとした行程で行ってみたいと感じるところですね。金沢で2日、能登で2日は最低取りたいところですが、現状暇がありません。これも隠居後になるでしょうね。東京からは新幹線で近くなりましたが、西日本からもアクセスが良くなるように期待しています。


 

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