歴史を紐解く(廃藩置県)- 福井県編


久しぶりのシリーズ復活です。今回から中部地方に移ります。北陸も中部地方に含めています。北陸から現在の中部地方に飛ぶこともありますので、ご了承ください。
今回は、福井県の歴史を紐解いてみます。福井県で思い浮かぶことと言えば、東尋坊・三方五湖くらいしか私は思い浮かびません。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の福井県になるまでの変遷です。



表を見てお気付きのとおり、第二次統合では「敦賀県」となっています。いつから「福井県」になったのか、軽く整理しておきましょう。

明治6.1.4(1873年)福井県と敦賀県を統合、敦賀県となる。
明治9.8.11(1876年)敦賀郡を除く旧越前国を石川県に併合する。
敦賀郡と旧若狭国を滋賀県に併合する。
明治14.2.7(1881年)石川県・滋賀県から旧敦賀県を再置、福井県となる。

併合や再置の経緯は、分かりませんが歴史を紐解けば何かが見えてくるかもしれませんね。まずは、丸岡藩から見ていきます。

 

丸岡藩


丸岡藩(まるおかはん)は、越前国(福井県)坂井郡などを領した藩です。藩庁は、丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞)に置かれました。
戦国時代の丸岡は、「織田信長」配下の勇将「柴田勝家」の養子「柴田勝豊」が治めていました。勝豊が「賤ヶ岳の戦い」後に病死すると、「青山宗勝」、次いで「青山忠元」父子が入封しました。青山氏は、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で西軍に与したため、戦後に改易され、代わって、越前福井藩「結城秀康」の重臣「今村盛次」が、2万5000石で入封しました。しかし、慶長16年(1611年)の福井藩重臣による内紛に巻き込まれ、流罪となりました。その後、慶長18年(1613年)5月、「徳川家康」のもとで仕え、「鬼作左」の異名をとったことで有名な「本多重次」の子「本多成重」が、4万石を与えられて入封した。成重は、秀康の後を継いだ「松平忠直」を「本多富正」と共に補佐しました。「大坂の陣」でも活躍し、武功を挙げています。
寛永元年(1624年)、忠直が豊後国に流罪とされると、成重は4万6300石に加増され、福井藩から独立した大名として取り立てられました。成重とその子「本多重能」、そして孫の「本多重昭」の3代は、検地・城下町の整備・新江用水の新設など、藩政の確立に尽力しましたが、重昭の子「本多重益」は、酒色に溺れては無能の上、家臣の「本多織部」と「太田又八」との間で内紛が起こり、遂に元禄8年(1695年)に幕命により改易されてしまいました。
代わって、戦国時代のキリシタン大名で有名な「有馬晴信」の曾孫「有馬清純」が、越後糸魚川藩から5万石で入封します。第2代藩主「有馬一準」の時代である正徳元年(1711年)に外様大名から譜代大名へ格上げされました。第5代藩主「有馬誉純」は若年寄に、第8代藩主「有馬道純」は老中という幕府の要職に就任しました。
特に誉純の代は、安永元年(1772年)から約50年間という長期にわたって藩主を務め、藩政改革により藩政を安定させた上、藩校「平章館」の設立や藩史・地誌の編纂に力を注ぐなど、文化面でも大いに貢献しました。明治2年(1869年)6月、道純は版籍奉還により丸岡藩知事となり、明治4年(1871年)9月の廃藩置県により東京に移住して丸岡藩は廃藩となりました。

丸岡城

丸岡城(まるおかじょう)は、福井県坂井市丸岡町霞にあった平山城です。別名、霞ヶ城と呼ばれています。「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説によるものです。
福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれ、近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていました。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は、重要文化財に指定されています。
移築現存する建物として、小松市の興善寺およびあわら市の蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の民家に、不明門と伝わる城門があります。
その他に石垣や土塀が現存し、五角形の内堀は、現在埋め立てられていますが、復元する計画が浮上しています。

丸岡藩家老有馬天然屋敷跡庭園

福井県坂井郡丸岡町霞1-4に丸岡藩家老有馬天然の屋敷跡があります。偶然にも廃藩後、寺屋敷として残されたために昔のままの姿で保存され、当時の景観を今日に伝えています。
庭園は、京都の庭師「松右ェ門」を招き、近江八景をかたどって造ったと伝えられています。基地の東には、有馬天然の縦2メートル、横1メートル巾の自然岩の記念碑があります。

坂井市立平章小学校(平章館跡)

丸岡藩の藩校「平章館」は、文化元年(1804年)に設立し、文化2年(1805年)に藩士子弟の教育を本格的に開始します。明治2年(1869年)には、藩士以外の一般民の入学も許可しました。現在は、坂井市立平章小学校となっています。

 

福井藩


福井藩(ふくいはん)は、越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれ、越前国(福井県嶺北中心部)を領した藩です。藩庁は、福井城(福井市)に置かれました。
「福井(福居)」と改称される以前は、北の庄(北ノ荘)という地名であり、第3代忠昌以前の「結城(松平)秀康」と子の「松平忠直」時代を北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称することもあります。
越前国は戦国大名「朝倉氏」滅亡の後、「柴田勝家」「丹羽長秀」「堀秀政」の領有を経て、「豊臣秀吉」配下の小大名によって分割支配させられていました。慶長4年(1599年)に越前北ノ庄城主となっていた「青木一矩」は、「関ヶ原の戦い」において西軍方に付いたため、戦後、越前北ノ庄8万石を没収されています。
慶長6年(1601年)に「関ヶ原の戦い」の功により、「徳川家康」の次男の「結城秀康」が、越前一国67万石を与えられ、「柴田勝家」の築いた北ノ庄城を約6年かけて大改修し、居城としました。秀康は、結城姓を松平に復し、越前松平家を興します。
秀康の嫡男「松平忠直」は、「大坂の陣」で戦功を立てながらも将軍「徳川秀忠」に認められなかったことなどから、次第に幕府に反抗的態度を取るようになりました。そのため、元和9年(1623年)に忠直は、乱行を理由に廃されて豊後国大分に配流されました。
翌年の寛永元年(1624年)4月、越後高田藩で別家25万9千石を与えられていた忠直の弟で秀康の次男「松平忠昌」が、幕府に選ばれた百余名を主とする家臣と福井藩の藩領50万石を継承します。7月の忠昌入封の後、居城周辺の街「北ノ荘」は、福居(後に福井)と改められます。このとき越前国は、以下のとおり複数の藩に分割されることになります。

  • 福井藩:越前福井50万石が、「徳川秀康」の次男「松平忠昌」に与えられる。
  • 丸岡藩:越前丸岡4万6千石が、附家老「本多成重」に与えられ独立する。
  • 大野藩:越前大野5万石が、「徳川秀康」の三男「松平直政」に与えられる。
  • 勝山藩:越前勝山3万石が、「徳川秀康」の五男「結城直基」に与えられる。
  • 木本藩:越前大野郡内の木本2万5千石が、「徳川秀康」の六男「松平直良」に与えられる。

越前敦賀郡は、一旦幕府領となり、後に小浜藩の京極氏に与えられます。
その後、福井藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らし行きます。
貞享3年(1686年)に第6代藩主「松平綱昌」は、発狂を理由に強制隠居処分とされ、前藩主の「松平昌親」が領地半減の上で、第7代藩主を再襲しました。昌親は初名を昌明と言い、第5代藩主時代は、昌親、隠居後は昌明に戻し、第7代藩主を再襲した時には、「松平吉品」を名乗っています。
吉品が就封の際、領地半減以外にも領地宛行状(大名に領知を安堵する朱印状)に記される領主の名称が、通常、越前家の名称が使われるところを城地名の「福井侍従」となり、大名行列の際の使用していた「忠昌が大坂の陣で使った片鎌槍」も禁じられました。また、この時に藩邸の格式も下がり、江戸城の詰間が将軍家の親族が詰める大廊下から、外様の国持大名と同じ大広間へ異動しました。しかし、これ以降も歴代藩主は、当代将軍の偏諱を拝領する「特別な家」であり続けました。
享保6年(1721年)には、支藩松岡藩(福井県吉田郡永平寺町)の再併合により30万石に復し、文政2年(1819年)にさらに2万石を加増されるなど、徐々に家格は回復しました。しかし、領地の激減や複数回の天災に見舞われたことなどにより、藩財政は大いに逼迫し、度重なる一揆に見舞われて内政は困難を極めました。
田安徳川家から養子に入った幕末の藩主「松平慶永(春嶽)」は、「橋本左内」らを登用し、熊本藩から「横井小楠」を招聘して藩政改革を行いました。「安政の大獄」により隠居を余儀なくされましたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として幕政に参与しています。
「戊辰戦争」では、薩長主導の明治新政府に加わり、江戸無血開城後は、上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦しました。
福井藩領は、明治4年(1871年)の廃藩置県により福井県となり、一時期、足羽県と改称しますが、一年足らずで敦賀県に併合され、その後、石川県に併合、旧越前および若狭が福井県として分立した際にその中心部となりました。
藩祖の「結城秀康」は、徳川家康の次男でありながら他の子孫よりも冷遇されています。秀康は双子で、双子での出生は当時、「畜生腹」と言われ忌み嫌われ、先に生まれた方を処分する慣習がありました。
冷遇の理由は、築山殿(家康の正室)を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされますが、真偽のほどは定かではありません。

福井城跡

福井城内の「福の井」

福井城(ふくいじょう)は、福井県福井市にあった平城です。本丸と二の丸の縄張りは「徳川家康」によるものとされています。天守台のそばには「福の井」という井戸が残っています。この井戸は、「結城秀康」が福井城を築く以前からこの地にあったそうで、「福井」という地名の由来となったという説があります。
現在は、福井県庁が建っていますが、城郭の一部が現存し、発掘や復元が進められています。平成26年から平成29年まで、山里口御門の復元工事が行われており、櫓門・廊下橋などが復元され、枡形が整備される予定です。

養浩館庭園(藩主別邸「お泉水」)

養浩館庭園は、福井城本丸の北約400メートルの場所に位置しています。旧福井藩主松平家の別邸で、江戸時代には「お泉水(せんすい)屋敷」と呼ばれていました。

 

勝山藩


勝山藩(かつやまはん)は、越前国勝山周辺を支配した藩です。藩庁は、勝山城に置かれました。美作勝山藩と区別するために以降「越前勝山藩」「越前勝山城」と表記します。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の後、越前一国68万石は、「徳川家康」の次男「結城秀康」に与えられました。秀康は、家臣の「林定正」に勝山9800石を与えましたが、定正は、慶長17年(1612年)に福井藩の第2代藩主「松平忠直」によって追放され、以後は代官が派遣されていました。ところが、元和9年(1623年)に忠直が幕命によって改易され、この後も福井藩は幕府の計らいで存続しました。
忠直は当初、将軍「徳川秀忠」に大いに気に入られておりましたが、「大坂の陣」での武功に何の報奨も無かったことに不満を持ち、その後の乱行が目立つようになったため、秀康の長男でありながらも改易されています。当時、「徳川家康」は存命で、家康の威光によるものではなかったかと推察しています。
福井藩の項で記しておりますとおり、このときに福井藩の支藩として、秀康の三男「松平直政」に大野藩5万石、五男「結城直基」に越前勝山藩3万石(一説には2万5000石)で成立しています。しかし、直基は寛永12年(1635年)に大野へ移封され、代わって、勝山には弟「松平直良」が入封しました。ところが、正保元年(1644年)に直良も大野藩へ移封となると勝山藩は廃藩となり、福井藩預かりを経て貞享3年(1686年)に幕府領となっています。
元禄4年(1691年)、美濃国高須藩より「小笠原貞信」が2万2000石で入封し、再び勝山藩が立藩します。貞信は、検地などを行なって藩政基盤を固めました。幕末期の勝山は、飢饉などの天災に見舞われ、10回にわたる百姓一揆や打ちこわしが発生するなど、藩政は多難を極めました。しかし、家老「林毛川」が、「煙草改会所」設置による専売制実施などによる藩政改革で乗り切っています。ただし、毛川の改革が領民に多大な負担をかけたことも事実です。藩主「小笠原長守」は、遂に領民の反対もあって毛川を解任し、謹慎させています。
明治元年(1868年)の「戊辰戦争」では、新政府軍に与して京都周辺の警備を担当しました。明治2年(1869年)の版籍奉還で長守は知藩事となり、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県によって勝山藩は勝山県となり、長守は免官され東京に移住しました。
ここでも秀康の子孫への冷遇が見て取れます。やはり秀康の存在自体が将軍家には肯定されていなかったのではないかと考えます。双子を忌み嫌う風習は、昭和の初期まで残っており、私も両親からそのような話を聞いたことがあります。

勝山城跡の碑

成器堂の講堂

成器堂の演武場

越前勝山城(えちぜんかつやまじょう)は、戦国時代に「柴田勝家」の一族「柴田勝安」によって、現在の福井県勝山市に築かれた平城です。
現在の勝山市役所付近が城跡中心部で、市役所と公民館があるあたりが本丸跡、市役所前の道路付近に堀が設けられていました。天守台や石垣が昭和40年まで残っていましたが、市民会館建設に伴い撤去され、現在は市民会館敷地に城址の碑が建っています。
城跡近辺に、姫路城に似た日本一の高さの模擬天守を持つ勝山城博物館が建てられていますが、歴史上の勝山城とは位置・形式ともに関係はありません。
現存する建物としては、成器堂の講堂、演武場、表門、土蔵があります。成器堂の建物は、明治12年(1879年)に払い下げられ、講堂が神明神社社務所、演武場が布市の道場、表門、土蔵が今井家表門・土蔵として移築現存しています。

 

大野藩


大野藩(おおのはん)は、越前国大野(福井県大野市)を領した藩です。藩庁は、大野城に置かれました。
大野城(おおのじょう)は、天正3年(1575年)、「織田信長」の家臣「金森長近」によって築城されました。長近が飛騨高山に移封された後、大野には「青木秀以」、次いで「長谷川秀一」、信長の次男「織田信雄」と入封しましたが、信雄は、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で西軍に与したため戦後に改易されました。
その後、越前国は「結城秀康」の支配下となり、秀康は大野に重臣の「土屋正明」、次いで「小栗正高」と入封させました。
寛永元年(1624年)、秀康の三男「松平直政」が大野に入封することで、大野藩5万石が立藩しました。寛永12年(1635年)8月に直政が信濃松本藩へ移封されると、代わって、越前勝山藩から秀康の五男「松平直基」が入封しました。しかし、正保元年(1644年)に直基も出羽山形藩へ移封され、代わって、越前勝山藩より秀康の六男「松平直良」が入封しました。延宝6年(1678年)に直良が死去すると、子の「松平直明」が家督を継ぎましたが、天和2年(1682年)に播磨明石藩へ移封されました。
代わって、幕府初期の大老「土井利勝」の四男「土井利房」が下野国から入封します。利房は、天和3年(1683年)閏5月25日に死去しましたが、その後の藩主によって藩政の基礎は固められました。ところが、天保年間に入ると飢饉が藩内を襲い、藩財政は大いに逼迫しました。このような中で第7代藩主「土井利忠」は、財政再建を主とした藩政改革に取り組みました。そして生産性の向上・教育制度の普及・有能な人材の登用・藩借金の整理などを行なった結果、改革後8年にして利忠は借金を処理することに成功しました。その後も利忠は、藩営病院の設立・西洋軍制の導入・種痘の実施・有能な人材の藩校就学の徹底と遊学の奨励など、積極的な改革を行なって多くの成功を収めた幕末期の名君でした。
江戸後期の大野藩は、特に西洋の先進技術の研究・摂取に熱心でした。石高4万石の小大名でありながら、藩を挙げて蘭学の原書や辞書を翻訳しており、当時の藩士や武家の子弟たちは自らも写本に励みながら、最先端の西洋学問を学びました。現在、これらの洋書および翻訳の和書は、福井県立大野高等学校に所蔵されています。
文久2年(1862年)に利忠が病で隠退した後は、三男「土井利恒」が藩主となります。利恒は、明治2年(1869年)の版籍奉還で大野藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で大野藩は廃藩となって大野県となります。

大野城(復興天守)

真乗寺山門(不明門)

光明寺山門(鳩門)

大野城(おおのじょう)は福井県大野市にあった平山城です。明治までは大野藩の藩庁が置かれました。天守は昭和に建てられたものです。
山頂の石垣および堀が現存し、山麓部にも内堀および外堀の一部が残っています。建造物としては、「不明門」が市内中丁真乗寺山門として、櫓門であった「鳩門の門」部分が光明寺山門として、それぞれ移築現存しています。また、第8代藩主「土井利忠」の隠居所が、柳廼社社務所として移築現存しています。

 

鯖江藩


鯖江藩(さばえはん)は、越前国(敦賀市から福井県北部)に存在した藩です。藩庁は、鯖江陣屋に置かれました。
享保5年(1720年)9月、越後村上藩主「間部詮言」が鯖江5万石に移封されたことから立藩しました。詮言の兄「間部詮房」は、第6代将軍「徳川家宣」の信任を得て、権勢を振るった側用人として有名ですが、家宣の子「徳川家継」が死去して、「徳川吉宗」の代になると失脚し、詮房は享保5年(1720年)に失意のうちに死去しました。
幕閣たちはかつての詮房の専横を恨んでいたらしく、その跡を継いだ詮言に対しても懲罰的な移封を命じたのが鯖江移封の理由です。当時の鯖江は無城の地で、隣は御家門筆頭の松平福井藩があり、近くは徳川の天領であったことから、監視の目が行き届く位置に置いたものと思われます。このため、鯖江入りした詮言は、まず城下町や藩邸の設営から手をつけなければならず、享保7年(1722年)末には、ようやく城下町の形成が整ってきました。しかし、設営の莫大な費用のために藩財政は火の車となりました。
このため、幕末に大坂城代や京都所司代、老中を歴任した藩主「間部詮勝」は、領民に対する徴税強化や専売制による改革で財政再建を図りましたが、あまりに領民に対して厳しい収奪を図ったために失敗しました。
詮勝は日米修好通商条約締結における処理や公武合体運動に功績を挙げましたが、その反面、「井伊直弼」と共に尊王攘夷派や一橋派を徹底して弾圧したため、直弼の死後に一橋派であった「一橋慶喜」と「松平慶永」が政治の表舞台に復帰すると、直弼の与党であったという理由から文久2年(1862年)に隠居謹慎を命じられた上、1万石を減封されて4万石とされました。慶応3年(1868年)の江戸薩摩藩邸の焼討事件に庄内藩、上山藩、岩槻藩と共に参戦しました。

鯖江藩陣屋跡

万慶寺裏門

受福堂御門

鯖江陣屋(さばえじんや)は、福井県鯖江市屋形町(越前国今立郡)にあった鯖江藩の藩庁です。陣屋跡は市街地となり、公園に説明板がある他遺構はありませんが、御用屋敷門(赤門)が万慶寺裏門として移築されている他、松阜(まつがおか)神社境内に受福堂御門(市指定文化財)が移築現存しています。

 

敦賀藩


敦賀藩(つるがはん)は、越前国敦賀郡(福井県敦賀市)を領した藩です。別名を鞠山藩(まりやまはん)と言います。藩庁は、鞠山陣屋(敦賀郡最東)に置かれました。
鞠山陣屋は、千葉県の飯野陣屋、山口県の徳山陣屋と共に、日本三大陣屋の一つに数えられています。
戦国時代、越前は「織田信長」配下の勇将「柴田勝家」が治めていました。信長の死後、勝家は「羽柴秀吉」に敗れて自害し、越前敦賀5万石は信長から秀吉の家臣となっていた「蜂屋頼隆」に与えられました。頼隆は、天正17年(1589年)に病死し、嗣子がなく蜂屋氏は無嗣断絶となりました。
代わって、秀吉の近臣「大谷吉継」が敦賀に同じく5万石で入封します。吉継は、敦賀城の拡張工事などに尽力しましたが、奉行として朝鮮出兵の後方担当役を務めることが多かったため、あまり敦賀に関する治績は見られません。そして、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、吉継は西軍に与して奮戦しましたが、「小早川秀秋」の寝返りに遭って大谷軍は壊滅し、吉継自身も自害を余儀なくされ大谷氏は滅びました。
「関ヶ原の戦い」の後、「徳川家康」の次男「結城秀康」が、68万石で越前北庄に入封します。秀康はこのとき、敦賀城には城代として「清水孝正」を置きました。そして秀康の跡を継いだ「松平忠直」の時代、元和元年(1615年)の一国一城令で、敦賀城は破却され、敦賀領も事実上廃絶となりました。
敦賀藩は天和2年(1682年)、小浜藩の第2代藩主「酒井忠直」の次男「酒井忠稠」が、父の遺言に基づいて遺領のうち越前敦賀郡・近江高島郡の内において1万石を分与され、小浜藩の支藩として始まります。しかし、敦賀郡のほとんどは小浜藩領であり、敦賀藩とはいっても敦賀郡の一部を領しているにすぎませんでした。
貞享4年(1687年)春、赤崎の塩込を鞠山と改称して陣屋を設置しました。このため敦賀藩は、鞠山藩とも呼ばれています。
歴代藩主は江戸定府が常であり、領国の支配は本家の小浜藩が担っていました。そのため、陣屋を実際に利用していたのは、少数の役人のみであったと言われています。第4代藩主「酒井忠香」時代の宝暦9年(1759年)、敦賀藩は形式上本家小浜藩の支配から独立した藩となりました。しかし、敦賀藩では財政難が相次ぎました。
このため第7代藩主の「酒井忠眦」時代の安政6年(1859年)10月、再び本家小浜藩に所領を返還しようとする動きがありましたが、領民が猛反対したために中止せざるを得なくなりました。忠眦は、若年寄を務めた功績により文久元年(1861年)9月に1080石を加増され、翌年6月には城主格を与えられるに至りました。しかし、藩主による参勤交代の義務も生じ、さらに財政難に拍車がかかりました。
「戊辰戦争」においては、本家の小浜藩と共に新政府側に与して、「北陸道鎮撫使」の先鋒役を務めました。
明治2年6月24日(1869年8月1日)、版籍奉還が行われ、翌明治3年(1870年)3月、敦賀藩は藩名を正式に鞠山藩と改称し、同年9月にその所領は小浜藩に併合されました。翌明治4年(1871年)の廃藩置県で完全に廃藩、所領は小浜県となり、敦賀県・滋賀県を経て、明治14年(1881年)2月、福井県に編入されました。
名門若狭酒井家の支藩であっただけに、歴代藩主の多くが大番頭や奏者番・寺社奉行・若年寄・大坂城番などの幕府要職を務めるなど、小藩ながらその存在は大きく見られていました。

鞠山神社

鞠山陣屋(まりやまじんや)は、敦賀市鞠山にあった敦賀藩の藩庁です。陣屋跡には陣屋の面影すら無く、隣接している鞠山神社の案内板に由緒が記されているのみです。陣屋跡には、リコーの保養所があったそうですが、現在は取り壊され、更地になっているようです。

 

小浜藩


小浜藩(おばまはん)は、若狭国一国および越前敦賀郡を領した藩です。藩庁は、小浜城に置かれました。
戦国時代後期から安土桃山時代、若狭は「丹羽長重」、次いで「浅野長政」が領していました。そして、「関ヶ原の戦い」前には「木下勝俊」が入封していました。「木下勝俊」は若狭の内、遠敷郡・三方郡で6万5000石を領しました。大飯郡2万石(高浜藩)は勝俊の弟「木下利房」が領していました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、勝俊は前哨戦としての「伏見城の戦い」の直前に戦地を離脱し、西軍に与したため改易されてしまいました。その後、勝俊は歌人「木下長嘯子」として名を残しました。また、利房は「大坂の役」で徳川方に付いたため大名として復活を果たし、備中足守で大名となりました。
「関ヶ原の戦い」の戦功により、小浜には近江大津6万石を領し、大津城主であった「京極高次」が若狭一国を与えられ、若狭小浜8万5,000石で入封することになります。
高次は「関ヶ原の戦い」で東軍として名乗りを挙げ、小勢をもって大津城に籠城し、西軍の「立花宗茂」「毛利元康」らの大軍勢と激しい攻防戦を繰り広げました。しかし、大砲を天守に打ち込まれるなど西軍の激しい猛攻の前に大津城は開城を余儀なくされました。武装解除を命じた後に高次自らは高野山金剛峯寺に入りました。
ところが高次の善戦により、宗茂ら1万5,000人の西軍別働隊は9月15日の関ヶ原本戦に大遅参してしまう結果となり西軍が敗退します。
「徳川家康」は、高次の功績だとして高く評価し、高次に若狭一国を与えて国持大名としました。高次は、「若狭守」を名乗り若狭に入封し、小浜藩を立藩しました。
高次は翌年、近江高島郡内において7,000石を加増され、合計9万2,000石を領する大名となりました。慶長14年(1609年)の高次死後、その家督は子の「京極忠高」が継ぎます。「大坂の陣」の功などにより、さらに越前敦賀郡一郡全域を加増され、若狭から越前敦賀郡までの一円を支配する近世小浜藩の藩領が確定しました。
忠高は義母の「常高院」と共に「大坂の陣」などの和議交渉で活躍した人物です。寛永11年(1634年)に出雲隠岐松江藩23万5,000石へ移封されました。
その後、小浜藩には武蔵川越藩10万石の藩主だった「酒井忠勝」が、若狭・越前敦賀郡および近江・安房国の合計11万3,500石に加増され、小浜藩に入封します。寛永13年(1636年)には下野国内において、さらに1万石を加増され合計12万3,500石を領し、近畿では彦根井伊家に次ぐ譜代有数の大身大名となります。
忠勝は、「土井利勝」らと並ぶ江戸幕府初期の有名な老中・大老を兼任した人物で、将軍「徳川家光」より若狭一国の国持大名とされました。譜代大名で国持の格式となったのは、忠勝ただ一人です。家光の忠勝に対する感謝の大きさが窺がわれます。しかし、国持待遇は忠勝一代で終わりました。
忠勝の後、その家督は4男「酒井忠直」が継ぎ、嫡男の「酒井忠朝」は廃嫡されました。忠直は寛文8年(1668年)、兄の子である「酒井忠国」に1万石を分与して、安房勝山藩が成立します。天和2年(1682年)には、忠直の次男に越前敦賀郡と近江高島郡の内で1万石を分与して越前敦賀藩(後期敦賀藩、鞠山藩)が成立します。また、同時に五男「酒井忠根」にも3,000石が分与され、独立した旗本となったため、小浜藩の所領は縮小し、10万3,500石となりました。
初代藩主「酒井忠勝」は町奉行や代官を設置し、さらに税制の確立にも尽力して藩の支配体制を固めました。しかし、享保20年(1735年)に小浜一帯を大洪水が襲って、藩内に大被害をもたらしました。しかもそれに連鎖するように飢饉も相次いで、領民は大いに苦しみました。
小浜藩の領民は協力して藩主に窮状を訴えましたが、聞き入られなかったため明和7年(1770年)に百姓一揆が起こりました。藩は何とか財政難打開を図りましたが、天保7年(1836年)には、藩に冷害による飢饉が襲い、遂に財政は火の車となりました。
第12代藩主並びに第14代藩主となった「酒井忠義」は、幕末期の京都所司代としては有名な人物です。忠義は、「井伊直弼」に協力して「安政の大獄」を京都で積極的に推し進め、「和宮親子内親王」降嫁や公武合体、「武田耕雲斎」率いる「天狗党の乱」鎮圧などで活躍しました。
慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」で第13代藩主「酒井忠氏」は、幕府側に与して新政府軍と戦いましたが、敗れて降伏しました。その後、小浜藩は新政府より「北陸道鎮撫使」の先鋒を命じられ、奥羽まで転戦しました。
明治2年(1869年)の版籍奉還で第14代藩主「酒井忠禄(忠義)」は、小浜藩知事となりますが、明治3年(1870年)9月には鞠山藩と合併し、鞠山藩知事「酒井忠経」が小浜藩知事となります。
明治4年(1871年)7月の廃藩置県で小浜県となり、同年11月には敦賀県、明治9年(1876年)に滋賀県に編入され、明治14年(1881年)には福井県に編入されました。なお、解体新書で有名な医師「杉田玄白」は、小浜藩の藩医でした。杉田の名前を冠した杉田玄白記念公立小浜病院が小浜城跡近くに設立されています。
第12代藩主の「酒井忠義(忠禄)」は、在職中の失政を問われて所司代を罷免、婿の忠氏に家督を譲り隠居謹慎に追い込まれました。しかし、明治元年(1868年)に忠氏が「鳥羽・伏見の戦い」に参戦し、山陰道鎮撫軍に降伏すると、忠禄が名代として上京・謝罪し、藩兵を新政府軍に派遣します。佐幕的行動をとったとして謹慎処分を受けた忠氏は、隠居の身となり、第14代藩主「酒井忠禄」として返り咲いています。

小浜城跡(天守台)

順造門

小浜城(おばまじょう)は、福井県小浜市にあった平城(海城)です。別名、雲浜城(うんぴんじょう)とも呼ばれています。江戸時代初期に京極氏によって海と河川を取り込んで築かれた海城です。
酒井氏の時代には、二条城の様式を取り入れるなど大幅に城の縄張を変更し、本丸天守を造営し、その8年後に小浜城は竣工しました。以降、若狭酒井氏の居城として明治を迎えました。明治時代に大阪鎮台の第一分営が置かれましたが、失火によって大部分の建物を焼失し、残存していた天守も撤去されています。北川の河川拡張などにより現在は、本丸以外は河川や住宅街となり、城の遺構としては本丸部分の外周石垣を残すのみです。建築遺構としては、藩校の「順造館」正門が福井県立若狭高等学校の正門「順造門」として移築現存しています。また、市内多田寺に書院玄関が移築されています。

 

本保県


本保県(ほんぼけん)は、慶応4年(1868年)に越前国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県です。管轄地域は現在の福井県嶺北および敦賀市に分布しています。県庁は、本保陣屋に置かれました。
越前国は、福井藩とその支藩や幕府領・旗本領・国外の大名の領地もあり、多数の領主によって分割統治される状態が明治まで続いていました。幕府領・旗本領は、頻繁に管轄が変更され、複雑な統治形態でしたが、幕末には本保代官所・福井藩預地・飛騨郡代に集約されました。幕末の本保代官所は、飛騨郡代の管轄下にありました。明治4年(1871年)の廃藩置県後の第1次府県統合により廃止されました。

本保陣屋(復元冠木門)

本保陣屋(ほんぼじんや)は、愛宕山の東麓に設けられていました。陣屋跡には、堀跡以外の遺構は何も残っていません。現在は、陣屋風の小公園が設けられ、入口に復元冠木門があります。


如何でしたでしょうか。北の庄が地名だったとは知りませんでした。戦国時代の歴史ドラマでは、よく聞く言葉ですよね。とても勉強になりました。また、「柴田勝家」が有名ですが、「結城秀康」も福井県の礎を築いた人物として欠かせない存在ですね。「徳川家康」の次男でありながら秀吉の養子に出され、北の庄でも大変苦労をされたようです。
福井県は、2014年度の調べで国民の幸福度総合評価No.1に輝いています。秀康が自らの財産を長男だけでなく兄弟全員に分与して、それを代々受け継いでいくような風土が、この幸福度評価に繋がっているような気がします。将軍家から冷遇されながらもどこかで存続していくと言う訳です。歴史を知ることは大変重要ですね。


 

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