歴史を紐解く(廃藩置県)- 滋賀県編



今回は、滋賀県の歴史を紐解いてみます。いよいよ近畿攻め最後の県です。滋賀県で思い浮かぶことと言えば、琵琶湖・彦根城・信楽焼くらいしか私は思い浮かびません。たぶん歴史を紐解けば聞いたことがあるものが沢山出てきそうですが、この程度の知識しかありません。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の滋賀県になるまでの変遷です。

三上藩は、大阪府編の吉見藩でも紹介しておりますとおり、明治3年(1870年)に近江三上藩知事であった「遠藤胤城」が、陣屋を三上から日根郡吉見村に移したことで立藩しています。今回は三上藩についても見ていきたいと思います。

宮川藩
近江宮川藩(おうみみやがわはん)は、近江国坂田郡宮川(滋賀県長浜市宮司町)に存在した藩です。藩庁は、宮川陣屋に置かれました。美作国(岡山県)の津山藩の支藩で、美作宮川藩と区別するために以降「近江宮川藩」と表記します。
第3代将軍「徳川家光」の時代に老中となった「堀田正盛」は、家光から重用されて下総国佐倉藩12万石の大名にまで栄進しました。正盛は、家光の死去に伴って殉死し、子の堀田正信が後を継ぎました。しかし、正信は万治3年(1660年)に老中「松平信綱」と対立したため、所領を没収され改易となりました。正信の嫡男「堀田正休」は、父の罪を許されて天和2年(1682年)3月に1万石の大名として復帰を許され、上野国吉井藩に封じられました。正休は、元禄11年(1698年)3月7日に吉井から近江国坂田郡宮川に移封となり、宮川藩が立藩しました。以降、明治時代まで9代堀田家が治めました。
第3代藩主「堀田正陳」は、若年寄となって寛延元年(1748年)10月15日に3000石の加増を受け、1万3000石を領することになりました。第5代藩主「堀田正穀」の時代には、所領のうち3600石が近江国蒲生郡から播磨国に替えられましたが、新たな領知は生産性が近江よりも高かったため、実質的な加増となりました。この実質加増は、文化4年(1807年)2月7日に元に戻されました。第6代藩主「堀田正民」は、絵画に造詣が深かった文化人です。幕末期に入ると、宮川藩は佐幕派として活動しましたが、やがて近江国内における諸藩が新政府側に与すると、やむなく新政府側に与しました。そして第9代藩主「堀田正養」の時代に明治時代を迎えました。
歴代藩主の多くが大番頭や奏者番、そして若年寄など幕府の要職を務めていますが、藩政における治績はほとんど見られない小藩でした。
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で、宮川藩は宮川県となり、明治4年11月22日(1872年1月2日)に彦根県・山上県・朝日山県と同時に統合され長浜県となりました。明治5年2月27日(1872年4月4日)には、犬上県と改称され、明治5年9月28日(1872年10月30日)に滋賀県に編入されました。

宮川陣屋跡

JR長浜駅から東へ長浜バイパスを越えたあたりにある日枝神社付近が宮川陣屋跡とされ、神社前の向かいに石碑が設置されています。
元禄11年(1698年)に「堀田正休」が、上野国から移封されてきて築城したと言われています。宮川陣屋の石碑の横に流れる小川は、堀の名残だとされていますが、目立った遺構はありません。

彦根藩
彦根藩(ひこねはん)は、近江国の北部を領有した藩です。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれました。藩主家は代々「井伊氏」で、「安政の大獄」で有名な大老「井伊直弼」の家柄です。支藩として一時、彦根新田藩がありました。
慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の戦功により、上野高崎城主で12万石を領していた徳川四天王の1人「井伊直政」が18万石に加増され、石田三成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩し、入封当初は佐和山城に藩庁を置きました。
直政は、賊将「石田三成」の居城を嫌い、琵琶湖岸の磯山に新城建設を計画しましたが、建設に着手する前に戦傷が元で、慶長7年(1602年)に死去しました。嫡男「井伊直継(直勝)」が家督を相続し、現在の彦根山に彦根城の建設が開始され、慶長11年(1606年)に完成しました。
元和元年(1615年)、直継は病弱で「大坂の陣」に参陣出来なかったことを理由に、直勝と名を改め上野安中藩に3万石を分知され移封となり、参陣し活躍した弟「井伊直孝」が藩主となりました。
直継の移封は、「御付人」との対立や「御付人」同士の対立などで藩政は混乱し、家康は家臣を統制しきれない直継を当主としての器量がないと判断して、病弱を名目に藩主の差替を図ったと考えられています。
この時点で直継の第2代藩主としての履歴は抹消され、直孝を第2代としました。「新修彦根市史2巻 通史編近世」(2008年)66頁では、「井伊直継」を第2代藩主としていますが、直継は安中藩初代藩主であることから、これまで慣習的に彦根藩主には数えて来ませんでした。そのため、彦根城博物館では「当主」という表記を使い、直継を数えない代数を使っています。
井伊氏は元々遠江の没落した国人の家で、直政は「徳川家康」の信任を受けて新参ながら徳川氏の重臣の一人に列しました。その過程で滅亡した武田氏の旧臣を付けられたり、「御付人」と称される、家康の命で徳川氏の旗本から直政の寄騎を経て、井伊氏の家臣に編入された家臣を付けられたりと、家康の意向を反映する形で家臣団の充実が図られました。
反面、初期の藩人事は家康の許可を必要とし、「御付人」の中には同じ徳川氏の家臣である筈なのに、直政の家臣扱いをされることに不満を抱いて出奔する者もいました。家康から最初に直政に付けられた「井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)」の子孫は、いずれも彦根藩には残りませんでした。
井伊谷三人衆は、永禄11年(1568年)末に「徳川家康」が遠州攻めを行った際、「今川氏真」から徳川方へ離反した「近藤康用」「菅沼忠久」「鈴木重時」の3人のことです。
直孝の下で藩政の混乱は収拾され、井伊氏に残った「御付人」は、彦根藩の重臣層を形成することになります。
直孝は、幕閣の中枢としての活躍により元和元年(1615年)・元和3年(1617年)・寛永10年(1633年)の3度にわたり、それぞれ5万石が加増され、30万石の大封を得る大大名となりました。更に天領の城付米預かりとして5万俵(知行高換算5万石)を付与され35万石の格式を得るに至りました。
彦根藩井伊氏は幕閣の中枢を成し、雅楽頭「酒井氏」「本多氏」などの有力な譜代大名が転封を繰り返す中、一度の転封もなく石高も譜代大名中最高でした。また、直興・直幸・直亮・直弼と4代5度の大老職に就きました。直興が2度、直孝・直澄が大老になったかどうかは諸説あり定かではありませんが、譜代筆頭だったことに間違いありません。
歴代藩主の中で最も有名なのが、幕末に藩主となった「井伊直弼」です。嘉永3年(1850年)に兄「井伊直亮」の死去により藩主となりました。
第13代将軍「徳川家定」の将軍継嗣問題で南紀派に属し、「一橋慶喜」ら一橋派と対立して「徳川家茂」の第14代将軍就任に貢献します。安政5年(1858年)に大老に就き、勅許を得ず「日米修好通商条約」に調印しました。
安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件「安政の大獄」が起こります。形式上は第13代将軍「徳川家定」が、台命(将軍の命令)を発して、全ての処罰を行なったことになっていますが、実際には大老「井伊直弼が全ての命令を発しました。
弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼりました。
その結果、反発を招き万延元年(1860年)に「桜田門外の変」で、水戸藩浪士らに暗殺されました。同年、藩主に就いた次男の「井伊直憲」は、文久2年(1862年)に直弼の罪を問われ10万石を減封されました。しかし、元治元年(1864年)の「禁門の変」で功を上げ、旧領のうち3万石を回復します。また、「天誅組の変」「天狗党の乱」「長州征討」にも参戦し、幕府の軍事活動に協力しました。
長州との戦いでは、旧式の軍制や装備などが災いし大敗しました。幕府内では、この時点で旧一橋派が主導権を持っており、「桜田門外の変」以降、彦根藩は報われない扱いを受けていました。これを彼らの報復と意識し、慶応3年(1867年)の「大政奉還」以降、薩長新政府支持へ繋がったと考えられています。譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させました。
慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」では、家老「岡本半介」は旧幕府軍と共に大坂城に詰めましたが、藩兵の主力は東寺近くにある四塚や大津で薩長の後方支援にあたり、大垣への出兵に際しては先鋒となりました。「戊辰戦争」では、明治政府に加わって小山や本宮など各地を転戦し、「近藤勇」の捕縛にもあたりました。戦功により賞典禄2万石を朝廷から拝領しています。
明治4年(1871年)、廃藩置県により彦根県となった後、長浜県・犬上県を経て滋賀県に編入されました。
私の個人的見解ですが、井伊家は代々「世渡り上手」と言えるのではないでしょうか。常に権力の中枢に身を置くことを考えていたようです。

彦根城

彦根城(ひこねじょう)は、滋賀県彦根市金亀町にある平山城です。天守・附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域です。
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として築城されました。山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、「金亀城(こんきじょう)」とも呼ばれます。明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存しています。
安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されています。中でも馬屋は、重要文化財指定物件として全国的にも稀少です。一説では、「大隈重信」の上奏により明治11年(1878年)に建物が保存されることになったと伝えられています。
天守が国宝指定された五城の一つに数えられ、姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、平成4年(1992年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されましたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られています。
私は、親戚の案内で行ったことがありますが、高齢の母を連れていたので外観を見るだけでした。とても美しいお城で、今度は中に入ってみたいと思います。

山上藩
山上藩(やまかみはん)は、近江国(滋賀県東近江市山上町)に存在した藩です。藩庁は、山上陣屋に置かれました。
山上は、近江国と伊勢国を結ぶ要衝地帯で、豊臣時代には「杉原家次」や「浅野長政」「織田信高」らが領していました。徳川氏の時代に入ると、元和5年(1619年)10月21日に譜代の家臣である上野高崎藩主「安藤重信」の領地となりました。元禄8年(1695年)5月1日、「安藤重博」が老中に栄進したため備中松山藩に移封され、山上は幕府直轄領となりました。
元禄11年(1698年)3月7日、若年寄であった「稲垣重定」が常陸国から移封され、山上藩が立藩しました。所領石高は1万3000石で、重定の時代に奉行制度などの藩政が確立しましたが、第3代藩主「稲垣定享」の時代には、江戸の大火で上屋敷下屋敷ともに焼失し、出費が相次いだため、定享は質素倹約や新田開発を主とした藩政改革を断行しました。しかし、効果が見込めず、また、定享自身が若死にしたため失敗に終わりました。
その後は、「天明の大飢饉」による寒冷で、凶作・飢饉が相次ぎ、藩財政は窮乏して行きました。また、歴代藩主の多くが若年寄や大坂加番・大番頭・奏者番などの要職を歴任したことも、藩財政の出費を著しいものとする遠因となりました。
幕末期、第8代藩主の「稲垣太清」は、大番頭や大坂定番・海軍奉行などの要職を歴任し、佐幕派の立場を貫きましたが、明治維新頃から太清が病に倒れ、長男「稲垣太祥」が代理として藩政を執り始めた頃から新政府側に与するようになりました。そして、明治2年(1869年)の版籍奉還で、太清は隠居して太祥が藩知事となりました。その後、山上藩では民政局・裁判所・藩校「文武館」などが創設されるなどの改革が行なわれましたが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で山上藩は廃藩となって山上県となります。同年11月、山上県は大津県に吸収され、翌年には滋賀県に編入されました。

山上陣屋跡

立藩当初は陣屋を置かず、寛政6年(1794年)になって山上陣屋(やまかみじんや)が築かれました。陣屋跡は市街地となり道路が貫通し、説明板が立つほかに遺構はありません。

朝日山藩
朝日山藩(あさひやまはん)は、近江国浅井郡朝日山(滋賀県長浜市)に、明治3年7月17日(1870年8月13日)から明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県までのほぼ1年間存在した藩です。藩庁は、朝日山陣屋に置かれました。
前身は山形藩で、奥羽越列藩同盟に与して新政府軍に敗れ、降伏した山形藩知事「水野忠弘」が同じ5万石をもって朝日山藩に移封されました。廃藩置県の後、朝日山県となり、長浜県・犬上県を経て滋賀県に編入されました。
犬上県は、明治5年(1872年)の一時期に長浜県が改称されたもので、すぐに滋賀県に編入されています。

朝日小学校

朝日山陣屋は、現在の長浜市立朝日小学校敷地に築かれていました。山本山城の南麓にあたり、背後の朝日山神社から山本山城への登城道があるそうです。
戦国の世には、山本山城の平時の居館が在った場所を利用して陣屋が築かれたようですが、定かではありません。遺構は何も残っていないようです。

西大路藩
西大路藩(にしおおじはん)は、近江国蒲生郡仁正寺(滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩です。幕末に改称され、それ以前は、仁正寺藩(にしょうじはん)と言いました、藩庁は、仁正寺陣屋に置かれました。以降、仁正寺藩と表記します。
元和6年(1620年)に「市橋長政」が、近江国蒲生・野洲両郡と河内国内に合わせて2万石を与えられたことから仁正寺藩が立藩しました。長政は、元和8年(1622年)1月、幕命により「市橋長吉(三四郎)」に2000石を分与したため、所領は1万8000石となりました。長政は、「徳川家光」のもとで奉行として功を挙げています。
慶安元年(1648年)に長政が死去すると、長男「市橋政信」が後を継ぎます。このとき、弟の「市橋政直」に1000石を分与したため、1万7000石となりました。政信は、「徳川家綱」「徳川綱吉」のもとで功を挙げています。その後の藩主は、第5代藩主「市橋直挙」が、第8代将軍「徳川吉宗」に認められた教養人であるということくらいで、特筆すべき事柄はありません。
幕末、最後の藩主であった「市橋長和」は、幕末の動乱の中で国防のために火薬の製造、武芸奨励などに尽力しました。文久2年(1862年)4月28日には、仁正寺を西大路と改名したため、以後は西大路藩と称されるようになりました。
長和は当初、佐幕派でしたが、次第に新政府側に傾いて行き、明治天皇が東京へ行幸するときには、天皇の奉送や京都守衛などで功績を挙げています。明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となり、2年後の廃藩置県で西大路藩は廃藩となりました。その後、西大路県・大津県を経て滋賀県に編入されました。

仁正寺陣屋跡

日野城(中野城)跡

仁正寺陣屋(にしょうじじんや)は、近江国蒲生郡(滋賀県蒲生郡日野町)にあった仁正寺藩の藩庁です。元和6年(1620年)に「市橋長政」が、越後国三条より2万石で入封し、日野城の一部に陣屋を構えました。
日野城は、大永3年(1523年)に蒲生氏が築城しました。近江鉄道日野駅の東約4.5kmにある蒲生氏の居城跡で、中野城とも言います。
築城以前の蒲生氏の城は、音羽丘陵上にありましたが、「蒲生定秀」により戦国時代に日野城が築かれました。築城にあたっては、既存の日野市街を城下町とし、城のある西大路付近を武家屋敷地帯、日野市街を町屋敷地帯としたと言われています。
天正12年(1584年)に「蒲生氏郷」は、伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後、「田中吉政」、「長束正家」と城代が入り、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」以降、廃城となりました。現在は、中野城の北側に「藩主市橋氏邸趾」の石碑が建ち、石垣が残されています。

三上藩
三上藩(みかみはん)は、滋賀県野洲市三上に存在した藩です。藩庁は、三上陣屋に置かれました。
藩主家の遠藤氏は、美濃郡上藩2万4000石を領していましたが、元禄2年(1689年)に第4代藩主「遠藤常春」が謎の死を遂げ、家臣団を二分する家督騒動に発展します。跡目を相続した「遠藤常久」も元禄6年(1693年)に7歳で家臣によって毒殺され、郡上藩遠藤家は無嗣改易となりました。しかし、藩祖「遠藤慶隆」の功績が特に考慮され、時の将軍「徳川綱吉」は、側室「お伝の方」の妹と旗本「白須正休」の間にできた長男を美濃大垣新田藩1万石の藩主「戸田氏成」の養子にします。氏成は、遠藤家の遠縁にあたり、改めて遠藤家に入れて「遠藤胤親」と名乗らせ、常陸・下野で都合1万石を与えました。
こうして、旧郡上藩遠藤家とはまったく無縁ながらも胤親が大名に取り立てられたことで、遠藤家は家名存続を果たしました。この胤親が、元禄11年(1698年)に近江四郡に移封となり三上藩が立藩しました。
若年寄となった第5代藩主「遠藤胤統」は、嘉永5年12月(1853年2月)、江戸城西の丸造営の功績を賞され、2000石の加増を受けて幕末の万延元年(1860年)には、城主格に格上げされています。胤統は、文久3年(1863年)に隠居し、後を孫の「遠藤胤城」が継ぎました。胤城は、講武所奉行に任じられ、「長州征伐」などに活躍し、「徳川慶喜」の代には、奏者番に任じられて将軍側近となり、佐幕派としての立場を貫きました。
慶応4年(1868年)1月に新政府から朝敵と見なされ、領地を召し上げられましたが、同年5月には罪を許されて領地を戻されます。
翌年6月には三上藩知事に任じられが、明治3年(1870年)4月に藩庁を和泉国吉見に移したため、以後は吉見藩と呼ばれることになりました。

三上陣屋跡

三上陣屋(みかみじんや)は、近江国野洲郡(滋賀県野洲市三上)にあった三上藩の藩庁です。陣屋は現存していませんが、滋賀県湖南市岩根の常永寺山門に陣屋表門が移築現存しています。また、民家に陣屋裏門が移築現存し、将軍上洛御殿の一つである、永原御殿が草津市の芦浦観音寺書院に移築されており、重要文化財に指定されています。

水口藩
水口藩(みなくちはん)、近江国水口周辺(滋賀県甲賀市)を領した藩です。藩庁は、水口城に置かれました。
天和3年(1682年)、「賤ヶ岳の七本槍」の1人として知られる「加藤嘉明」の孫で、外様大名の石見吉永藩主「加藤明友」が、祖父と自身の功により2万石で近江国水口城主となり立藩しました。水口城は、造園の名手「小堀政一(遠州)」の手によるものと言われています。
子の第2代藩主「加藤明英」は、譜代の格式を与えられ、元禄3年(1690年)に寺社奉行から若年寄に昇進し、5,000石の加増を受けて元禄8年(1695年)、下野壬生藩に移封となりました。代わって、能登下村より譜代の「鳥居忠英」が、2万石で入封します。忠英は、正徳元年(1711年)、寺社奉行から若年寄に昇進し、正徳2年(1712年)に下野壬生藩に移封となりました。同年、入れ替わりに下野壬生藩より「加藤明英」の嗣子「加藤嘉矩」が、2万5,000石で入封しました。以後、明治維新まで加藤氏が領することになりました。
明治4年(1871年)の廃藩置県により廃藩となり、水口県・大津県を経て滋賀県に編入されました。

水口城資料館(復興された乾矢倉)

水口城(みなくちじょう)は、滋賀県甲賀市水口町水口にあった平城です。野洲川の中流域のなだらかな水口丘陵にあり、北方に東海道、南方に水口神社、南部は野洲川の後背部で田園地帯となっています。甲南部、杣谷を経て伊賀へとぬける間道「伊賀街道」が通り、城跡は、県指定史跡になっています。
廃城後は、城の建材の一部を残し、大半が公売に付されました。石垣は、出丸部分と乾矢倉部分を残し、ほとんどが近江鉄道の線路敷設に使用されたようです。本丸御殿は、一部を残して撤去されました。旧本丸は学校敷地となり、現水口高校の運動場として利用されています。
その後、水堀埋め立てなどの意見も出されましたが、昭和47年(1972年)に将軍家宿館遺跡としての価値が評価され、滋賀県の史跡に指定されたのを契機に保存整備への関心が高まりました。そして、石垣の遺構が残る出丸跡(大手外枡形虎口部分)を整備修復し、廃城後に民家へ移築されていた本丸乾矢倉を二階造りとして再移築され、水口城資料館として平成3年(1991年)11月に開館しました。
二の丸遺構は開発により失われましたが、本丸から「大手虎口出丸」にかけて、堀および石垣が残っています。また、本丸北東部に乾矢倉の櫓台石垣が現存しています。移築建築遺構は、大岡寺に水口城のものと伝わる茶室があります。

膳所藩
膳所藩(ぜぜはん)は、近江国大津周辺(滋賀県大津市)に存在した藩です。藩庁は、膳所城に置かれました。
「関ヶ原の戦い」の後、慶長6年(1601年)に「徳川家康」は、武蔵国高麗郡鯨井5,000石の領主「戸田一西」に3万石を与えて入封させ、天下普請として膳所城を築き、膳所藩が立藩しました。
一西は、藩政安定化のため漁民を保護して、しじみの豊漁を奨励しました。このため膳所は、しじみの宝庫となり一西(左門)の名をとって「左門しじみ」と称されました。
慶長7年(1602年)に一西が死去すると、子の「戸田氏鉄」が後を継ぎましたが、元和2年(1616年)に「大坂の陣」における武功を賞されて摂津国尼崎藩に移封されました。
代わって、譜代の名家「本多康俊」が3万石で入封しました。康俊の後を継いだ「本多俊次」の代、元和7年(1621年)に5,000石加増の上で三河国西尾藩に移封され、代わって、伊勢国長島藩より「菅沼定芳」が3万1,000石で入封しました。しかし、寛永11年(1634年)に1万石加増の上で丹波亀山藩へ移封されました。
代わって、大久保忠隣の次男「石川忠総」が下総国佐倉藩より7万石で入封しました。忠総の後を継いだ孫の「石川憲之」のとき、叔父の「石川総長」に1万石、同じく叔父の「石川貞当」に7,000石を分与しています。なお、憲之は「小堀政一(遠州)」の弟子であった経緯から焼物に対する造詣が深く、「膳所焼」が創始されたのは憲之の時代からのことでした。憲之は、慶安4年(1651年)4月4日、伊勢亀山藩に移封されました。代わって、以前に膳所を領していた「本多俊次」が7万石で膳所に再び入封し、藩主家が安定することになりました。そして、俊次から第3代藩主「本多康慶」の頃にかけて、瀬田川の治水工事、新田開発、窮民に対する福祉政策や火事対策、京都警備などの諸改革が行なわれて藩政は安定化しました。
しかし、江戸時代中期頃から藩財政が窮乏化したため、第9代藩主「本多康匡」は、「中根善右衛門」を登用して、財政改革を主とした藩政改革を断行しましたが、この改革が領民に御用銀を賦課するというものだったため、天明元年(1781年)に改革に反対する百姓一揆や打ちこわし、強訴が起こり、同年末にも打ちこわしが発生しました。おまけに藩主の康匡が年末に死去したため、改革は完全な失敗に終わりました。
そして、第10代藩主「本多康完」の時代には、家老の悪政による「御為筋一件」が起き、幕府による介入を招いています。
膳所藩では、江戸時代中期頃から財政が窮乏化して衰退していましたが、それを助長するように二人の奸臣が現われました。家老の「本多内匠」と「鈴木時敬」は、藩主が短命かつ若年であることをいいことに領民に対して悪政を敷いて専横を極めました。
第9代藩主「本多康匡」は、二人を排除して実権を取り戻し、前述の「中根善右衛門」を登用して改革を行ないました。しかし、領民に負担をかける財政改革だったため、領民が百姓一揆を起こして失敗したうえ、その一揆が起こった同年末には康匡が死去して若年の康完が後を継ぎました。すると失脚していた「本多内匠」と「鈴木時敬」は、復職を果たして、再び専横を極めました。しかも藩財政が窮乏化している中で、奢侈(贅沢)を奨励したから領民は勿論、家臣団の内部でも内匠と時敬の排除を求める声が高まりました。
幕府にもこの騒動が聞こえるようになると、幕府の裁定により内匠と時敬の対立者で、倹約を主とした藩政改革を唱えていた「本多修理」を家老として、藩政改革を行なうように命じ、二人の奸臣をはじめとする一派は処刑・永牢・追放の処分が下されました。こうして、騒動はようやく鎮まり、その後は修理のもとで藩政改革が行なわれ、文化5年(1808年)には藩校「遵義堂」が創設されました。
幕末期、最後の藩主である「本多康穣」の代に藩内では、尊王派と佐幕派が藩の主導権をめぐって争いました。このため、将軍「徳川家茂」の膳所宿泊が中止になるほどでしたが、藩内部でやがて佐幕派が力を盛り返し、尊王派11名を処刑しました。また、筆頭家老「戸田資慶」の叔父で尊王派の先鋒「川瀬太宰」も幕吏新撰組に捕えられ殺されます。その後、「川瀬太宰」が藩主にも説いた尊王論が盛り返し、明治元年(1868年)の「戊辰戦争」では、新政府側に与して桑名藩攻めに出兵しました。
翌年の版籍奉還により、康穣は藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で膳所藩は廃藩となって膳所県・大津県を経て、滋賀県に編入されました。因みに佐幕派に殺された尊王派11名は、11烈士として安昌寺に祀られています。
膳所藩は、全国に先駆けて幕末に「廃城願い」を出していました。膳所城は湖に突き出た水城で維持費が嵩むうえ、近代戦に不向きなため一説には天守閣から石垣に至るまでを1200両で売りに出されたとも言われています。廃城に至り「伊藤久斉」という藩士は、ショックのあまり発狂して物乞いになりましたが、町民の尊敬を受けており、亡くなった際には町民による町民葬が行われたそうです。

膳所城跡

膳所城跡公園

膳所城天守閣跡

膳所城跡石垣

膳所城(ぜぜじょう)は、滋賀県大津市本丸町にあった平城です。
大津市街の東部に位置し、相模川河口付近にあった膳所崎と呼ばれる琵琶湖に突き出た土地に築かれた水城であり、日本三大湖城の一つに数えられ、大津城・坂本城・瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つです。
陸続きの部分に三の丸を配し、二の丸・北の丸・本丸が琵琶湖に突出する梯郭式の縄張り(設計)でした。本丸には4重4階の天守が上げられ、水面に映える姿は里謡に「瀬田の唐橋からねぎぼし、水に浮かぶは膳所の城」と謡われていました。
明治3年(1870年)、新政府の早期実現を望む藩士達により、廃城の太政官布告が出された翌日より天守以下の建物の解体・移築が行われました。
現在は、完全に陸続きとなった本丸跡は「膳所城跡公園」として整備され、石垣がわずかに残っているほか、門が模擬再建されています。城門は膳所神社(本丸大手門)、篠津神社(北大手門)、鞭崎神社(南大手門)に現存しており、それぞれ国の重要文化財に指定されています。なお、高麗門は大阪府泉大津市松之浜町2丁目の「細見記念財団」が所有する地に移築されています。市内の芭蕉会館に本丸隅櫓が移築され現存していますが、大幅に改造されており原形を留めていません。
平成18年(2006年)には、民家に移築されていた「瀬田口総門番所」が取り壊されました。また、二の丸跡は膳所浄水場となっています。

大溝藩
大溝藩(おおみぞはん)は、近江国高島郡(滋賀県高島市勝野)に存在した藩です。藩庁は、大溝陣屋に置かれました。
戦国時代、大溝は「織田信長」の家臣「磯野員昌」や「津田信澄」が治めていました。元和5年(1619年)8月27日、伊勢上野藩から移封された「分部光信」が2万石で入封することにより立藩しました。
光信は、陣屋や武家屋敷の建設に尽力し、幕府においても大坂城本丸普請や比叡山延暦寺の造営奉行として活躍しました。寛永20年(1643年)に光信が死去し、子の「分部嘉治」が後を継ぎましたが、明暦4年(1658年)7月9日、妻の叔父に当たる「池田長重」と些細なことから口論となって長重を斬殺してしまい、自分も長重によって負わされた刀傷が原因で翌日に死去してしまいました。家督は子の「分部嘉高」が継ぎましたが、嘉高は寛文7年(1667年)6月12日に20歳で嗣子無くして若死にします。このため、分部氏の系統はわずか3代で断絶しました。
第4代藩主として、備中松山藩から「分部信政」を養嗣子として迎えました。信政は、嘉高の母の縁戚に当たり、「池田長信」の三男で、皮肉にも長重の甥に当たります。
この頃から藩内では、たびたび大洪水が起こって収入が激減し、藩財政は次第に悪化していきました。寛文9年(1669年)には1万石、延宝4年(1676年)には1万3,000石が大洪水によって徴収できず、参勤交代の免除を幕府に願い出ているほどです。また、歴代藩主の多くが大坂城加番などの役職を歴任し、罪人の預かりを務めていたことなども財政を圧迫する原因となっていました。
藩財政は、江戸時代中期頃になると火の車となり、第8代藩主「分部光賓」は、「三宅玄章」と共に財政5ヵ年計画という改革を断行しましたが、あまり効果はありませんでした。
第10代藩主「分部光寧」のときには、探検家として有名な「近藤重蔵」を預かっています。文政9年(1826年)に長男の「近藤富蔵」が、屋敷の敷地争いから町民7名を殺害して八丈島に流罪となり、父の重蔵も連座して大溝藩預かりの身となっています。
第11代藩主「分部光貞」のときに幕末期の動乱を迎えましたが、光貞は中風に倒れてしまったため、幕末における注目すべき行動は見られませんでした。光貞は版籍奉還の翌年に死去し、子の「分部光謙」が後を継ぎますが、光謙は、明治4年(1871年)7月の廃藩置県直前に藩知事を辞任し、大溝藩は廃藩となりました。その後、大津県を経て滋賀県に編入されました。
因みに光謙は、昭和19年(1944年)11月29日に死去し、江戸時代の藩主の中で最後まで生存した人物でした。但し、光謙の時代には既に版籍奉還が行われており、江戸時代が終わっています。
慶応3年(1867年)に上総請西藩の第3代藩主となり、「戊辰戦争」で幕府側について改易となった「林忠崇」は、昭和16年(1941年)に死去しています。また、安政5年(1858年)に安芸広島新田藩の第6代藩主で、明治2年(1869年)に安芸広島藩の第12代藩主となった「浅野長勲」は、昭和12年(1937年)に死去しています。この何れかを江戸時代最後の藩主とするのが通説です。

大溝陣屋長屋門

大溝陣屋(おおみぞじんや)は、近江国高島郡(滋賀県高島市勝野)にあった大溝藩の藩庁です。
天正7年(1579年)に「津田信澄」が、高島郡を領し「明智光秀」の縄張り(設計)で大溝城が築かれました。しかし、元和の一国一城令により三の丸を残して破壊してしまいました。元和5年(1619年)に「分部光信」が、伊勢国上野より2万石で入封し、この三の丸に陣屋を構えました。
扉は失われているものの「総門」と呼ばれる長屋門が現存し、武家屋敷地への出入り口の正門であったと考えられています。宝暦5年(1755年)の大改修を経て、近年まで民家として使われていましたが、現在は、高島市が買い上げ、高島市の有形文化財に指定されています。

大津県
大津県(おおつけん)は、慶応4年(1868年)に近江国内の幕府領・旗本領などを管轄するために明治政府によって設置されました。現在の滋賀県の直接の前身に当たります。当初の管轄地域は、現在の滋賀県全域に分布し、後に滋賀県南部が編入されています。
江戸時代の近江国の領地区分は、まとまった大藩は彦根藩のみであり、その他は小藩、交代寄合「最上家」の大森陣屋、交代寄合「朽木家」の朽木陣屋、さらに他国の諸藩領や天領なども入り交じり、複雑な様相を呈していました。
中世以後に近江国大津(滋賀県大津市)は、大津奉行(おおつぶぎょう)を設置して管轄していました。時期によっては、大津代官(おおつだいかん)と呼ぶこともあります。また、両者併置の時期もあります。
宇多源氏「佐々木氏」の流れを汲み、鎌倉時代から戦国時代にかけて、近江南部を中心に勢力を持った守護大名「六角氏(ろっかくし)」の「六角氏綱」か「六角定頼」が、天文2年(1534年)に「駒井清宗」を大津奉行に任じたのが最古とされていますが、定かではありません。以後、清宗は大津氏を名乗って子孫が代々奉行を継承しました。
六角氏滅亡後、「織田信長」が「足利義昭」の許可を得て、大津に代官を派遣して支配下に置きました。
慶長5年(1600年)に「徳川家康」は、「末吉勘兵衛」を大津奉行に、翌年には「大久保長安」を大津代官に任命して奉行と代官を分離しました。元和元年(1615年)に大津奉行を遠国奉行として、大津代官をその指揮下に置きましたが、享保7年(1722年)にともに廃止されて京都町奉行に統合されました。
大津代官所は、明和9年(1772年)に復活し、以後は石原氏が幕末までほぼ世襲しました。
慶応4年(1868年)に明治新政府は、滋賀郡大津町(大津市浜大津一丁目)の大津代官所を廃止して、大津裁判所を設置しました。
このシリーズをご愛読いただいている方ならご存知の事と思いますが、現在の司法裁判所ではなく行政を司る役所の事を裁判所と言います。同年閏4月25日には、大津県に改組され、大津代官「石原清一郎」邸に県庁を設置しました。
県庁はその後、東今颪町の本福寺、上百石町、市民会議所、寺内顕証寺(近松別院)、別所村の園城寺境内の円満院内室へと移転しました。
その後、野洲郡・陸奥仙台藩領(蒲生郡)・陸奥会津藩領・賀陽宮領(神崎郡)・滋賀院領(滋賀郡)および近江国内の旗本領の一部を収公して行きました。
明治2年(1869年)には、伊勢国内の笠松県・大津県(旧信楽代官所)の管轄区域を度会県に編入せよとの太政官達が出され、伊勢国内の管轄区域が度会県に引き渡されます。
明治3年(1870年)には、近江国内の河内狭山藩領・上総飯野藩領および旗本領を収公し、山形藩が近江国に移封され朝日山藩が立藩すると、一部地域が大津県に移管されます。
明治4年(1871年)には、彦根藩預・大溝藩領・讃岐丸亀藩領および近江国内の公家領・門跡領・寺社領を収公しました。
廃藩置県後の第1次府県統合に伴い、近江国南部の5郡を管轄する県となり、区域内に藩庁が所在した西大路県・水口県・膳所県が廃止となりました。
明治5年(1872年)には、滋賀県に改称され、県庁を寺内顕証寺に設置しました。なお、大津県県令の「松田道之」が引き続き滋賀県県令を務めました。

大津城跡

大津城石垣

大津城(おおつじょう)は、天正14年(1586年)頃、「豊臣秀吉」の命で坂本城を廃して築城されました。慶長6年(1601年)の膳所城築城後は、大津代官所・幕府蔵となりました。
大津港付近を中心に築かれた水城で、慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の直前、徳川方の城主「京極高次」が籠城して、毛利軍を一時足止めしたことで知られています。
浜大津の港にあったとされる大津城は、現在、城跡を示す石碑だけですが、石垣の一部が残っているようです。

近松別院

正式な寺院名は顕証寺ですが、一般には近松別院・近松御坊と呼ばれています。
比叡山による堅田攻めの気配を察知した蓮如は、文明元年(1469年)に堅田から避難し、園城寺・五別所の一つ近松寺(高観音)の寺領を分与してもらい、坊舎を建立し、親鸞上人の御像を安置したことに始まると伝えられています。
このあたりは寺内(じない)と呼ばれ、江戸時代、近松寺を中心に、南・北・東の各町や末寺が取囲むという形の「寺内寺」という形態をとっており、大津代官支配の大津百町とは別に、独自の政治が行われていました。
昭和20年(1945年)に陸軍の命により取り壊され、現在の建物は昭和56年(1981)に建立されました。

三井寺山内円満院

宸殿

旧滋賀県庁舎

大津県設置後、前述のとおり県庁は転々とし、明治2年(1869年)、三井寺山内円満院に移庁されました。廃藩置県を経て、明治5年(1872年)に大津県が滋賀県と改称され、約20年近く円満院が県庁舎として使用されました。明治21年(1888年)6月に旧庁舎が、現県庁所在地(当時の東浦)に新築されました。構造は煉瓦造り2階建て十字形をした建物で、中央の上層を正庁(現在でいう講堂)とし、向かって左側を警察部、右側を県会議事堂として50年余り使用されました。当時としては洋風のモダンな建物で、集中式の暖房装置も備わっていました。
圓満院は、全国17ヶ寺しかない皇族その他の出身者によって相承される特定の寺院を指す門跡寺院で、元来経済的にも豊かで格式の備わった寺観を造営しています。また、仏像や仏殿の創造にも資力を投入して、宗教美術史的な点から見ても門跡寺院の文化価値はきわめて高いものと言われています。
重要文化財である宸殿は、桃山文化をよく伝えている内裏建築で、御所建築の遺構としてきわめて重要なものです。京都御所より正保4年(1647年)に移築された書院造りの建築物で、桧皮葺の唐破風玄関を除き柿葺です。

 

如何でしたでしょうか。滋賀県は、幕末から明治にかけての遺構はあまり残されていないようです。作成中に比叡山延暦寺が滋賀県だったことに気付きました。中学校の修学旅行で行ったのですが、京都府とばかり思っていました。
大津と京都の間は、快速列車で僅か10分足らずです。勘違いするのも無理はありませんね。近年、京都のベッドタウンとして人口が増えているそうです。
県庁は大津に置かれましたが、南西に偏在しているため、近江国最大の城下町であった彦根も候補に上がったそうです。
大津には、飛鳥時代に天智天皇が遷都した近江宮(大津京)が、壬申の乱で敗れるまでの5年余り存在しており、朝廷を中心とした明治新政府としては、そちらを重視したからかもしれませんね。個人的には彦根にして欲しかったですね。

 

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