歴史を紐解く(廃藩置県)- 京都府編



今回は京都府の歴史を紐解いてみます。日本の成人の中で京都に一度も行ったことが無い人は、ほとんどいないと思います。ご存知のとおり京都は794年の平安京遷都依頼江戸時代を通じて長く日本の首都でした。本来であればこのあたりから紐解く必要があるのですが、現在の地方自治がどのように成り立ってきたのかが、このシリーズの隠れたテーマとなっています。そこから現在の政治や経済を読み解こうとしているのです。奈良県と同様に、江戸時代から明治時代にかけての歴史に的を絞って紐解いていきます。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の京都府になるまでの変遷です。

但馬国・丹波国は、現在の兵庫県と入り組んでおり難しいかも知れませんね。慶応4年閏4月24日に明治新政府より設置された「京都府」から見ていきましょう。

京都府
現在の京都府域は、令制国でいう山城国・丹後国の全域および丹波国の東部と但馬国の一部を領域としています。
戦国時代、「織田信長」は「桶狭間の戦い」で「今川義元」を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大しました。永禄11年(1568年)、「足利義昭」を奉じて上洛すると、将軍や天皇の権威を利用して天下布武の号令を発し、京都を支配下に置くために京都所司代を設置しました。後に義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となりました。
信長は、「明智光秀」による「本能寺の変」で、自ら火を放ち自害して果てます。光秀は、「山崎の戦い」で「豊臣秀吉」に敗れ、秀吉が天下人となります。
関白となった「豊臣秀吉」は、政庁兼邸宅として天正15年(1587年)2月、京都に「聚楽第」を造営するなど、京都の大改造を行いました。秀吉は、文禄元年(1592年)に隠居後の住まいとするため、伏見指月(京都市伏見区桃山町)に伏見城(指月城)の築城を始めました。この伏見城で秀吉は、慶長3年(1598年)に病没しました。
豊臣家臣時代、関東・奥両国(陸奥国・出羽国)の監視を託され、天正18年(1590年)に江戸城に入城していた「徳川家康」は、秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位でトップになり、秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになりました。しかし、豊臣政権下において「武断派」と「文治派」の対立抗争が秀吉の死後ますます顕在化し、遺命破りが早速行われるなど豊臣家内部は分裂の様相を呈し始めました。ついには、「前田利家」と「徳川家康」が、伏見(徳川側)と大坂(前田側)に分裂して、武力衝突寸前にまでなりましたが、誓書を交換するなどして武力衝突は避けられました。
慶長4年(1599年)、家康の暗殺計画を発端に警護の名目で譜代の家臣と兵を引き連れて家康は大坂城に入城し、そのまま居座り五大老・五奉行の制度は完全に瓦解しました。この暗殺計画には、家康自らが故意に流布したとする説など諸説あります。
家康は、高台院(北政所)の退去後、大坂城西の丸を本拠とし、ここから矢継ぎ早に大名への加増や転封を実施し、天下人のように振舞うようになりました。
家康の台頭に対して、「石田三成」は「豊臣秀頼」を推戴して、「関ヶ原の戦い」に至りました。三成と「上杉景勝」の家臣「直江兼続」との密謀により家康を東西から挟み撃ちにしようとしたという説がありますが定かではありません。
何れにしても秀吉の後を継ぐことが出来る優れた武将は、家康しかいなかったという事だろうと思います。豊臣家を維持するためには、家康に託すしかなかったのだろうと思います。しかし、再び戦国の様相を呈し始め、家康は天下平定に動かざるを得なくなったと私は考えています。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で勝利した「徳川家康」は、京都の治安維持の任務にあたるため、慶長6年(1601年)に改めて京都所司代を設置しました。慶長8年(1603年)2月12日、家康は伏見城にて征夷大将軍に任じられ、同年、家康が京に滞在中の宿所とするため、二条城を築城しました。これは、室町幕府13代将軍「足利義輝」の居城「二条御所武衛陣の御構え」、「織田信長」によって作られた室町幕府15代将軍「足利義昭」の居城「二条御所」と同じ場所に造られています。また、織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」は、場所が違うとされていますが、諸説あって定かではありません。家康が築城した二条城と区別するため、それ以前のものを「旧二条城」或いは「二条古城」などと呼ばれることがあるようです。
家康は、慶長8年(1603年)3月12日に二条城に入城し、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」や将軍就任の「祝賀の儀」を行いました。これは、第3代将軍「徳川家光」まで踏襲されましたが、第4代将軍「徳川家綱」以降は行われなくなりました。
第2代将軍「徳川秀忠」の娘「和子」が、元和6年(1620年)6月18日に「後水尾天皇」へ入内(じゅだい)しました。入内とは、結婚と同義と捉えることもできますが、厳密には天皇に仕える身となったことを指すようです。
元和9年(1623年)、 伏見城は廃城となりましたが、「後水尾天皇」の行幸を迎えるため、寛永元年(1624年)に二条城の大改築が始まり、城域を西に拡張、拡張された西側に廃城となった伏見城の天守が移築されました。
伏見はこれ以降、淀川水運の重要な港町(伏見港)・宿場町(伏見宿)として発展していきます。
寛永2年(1625年)、二条城には将軍不在の間の管理と警衛のため、二条城代と二条在番が設置されました。寛永11年(1634年)7月、第2代将軍「徳川秀忠」死後、第3代将軍「徳川家光」が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消すことになり、首都は京都のままで政治の中心だけが江戸に移ることになります。
幕末期、幕府の権威低下に伴い、京都には諸国から尊王攘夷派の過激志士らが集い、過激派による天誅(要人暗殺)や商家への押し込み(強盗)などの騒乱が横行しました。
幕府は、所司代・奉行所のみでは防ぎきれないと判断し、京都市中(洛中)の治安維持及び御所・二条城の警備などを担う役割として、文久2年(1862年)に京都守護職を設置してから再び二条城は歴史の表舞台に登場しました。また、京都守護職「松平容保」の庇護のもと、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事した「新撰組」が発足しました。
文久3年(1863年)8月18日、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放した政変により、京都を追放されていた長州藩勢力が、元治元年(1864年)に京都守護職の会津藩主「松平容保」らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた「禁門の変」が起こります。畿内における大名勢力同士の交戦は、「大坂夏の陣」以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件となりました。
慶応3年(1867年)5月には、京都の越前藩邸で「島津久光」「山内容堂」「松平春嶽」「伊達宗城」の4人が集い、「四侯会議」が始まります。有力な大名経験者3名と実質上の藩の最高権力者1名からなる合議体制で、将軍「徳川慶喜」や摂政「二条斉敬」に対する諮詢機関として設置されました。薩摩藩の主導のもとに成立した会議であり、朝廷や幕府の正式な機関ではありませんでしたが、それに準ずるものとして扱われていました。
薩摩藩は、これを機に政治の主導権を第15代将軍「徳川慶喜」から雄藩連合側へ奪取しようと図りました。一方、新将軍「徳川慶喜」は、朝敵であった長州藩への処分や兵庫港開港などの内政・外交問題を抱えていました。
兵庫港は、安政5年(1858年)に締結された「日米修好通商条約」および「その他諸国との条約(安政五カ国条約)」により、文久3年(1863年)からの開港が予定されていましたが、異人嫌いで知られた「孝明天皇」が京都に近い兵庫の開港に断固反対していました。このため、幕府は「文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)」を派遣し、英国と「ロンドン覚書」を交換し、兵庫開港を5年間延長することになりました。
イギリスの新公使「ハリー・パークス」は、フランス・オランダ・アメリカ合衆国の同意のもと、「下関戦争」の賠償金「300万ドルの1/3減額」と引き換えに兵庫開港を2年間前倒しすることを画策しました。
幕府は、老中「阿部正外」「松前崇広」に四カ国の公使との交渉を行わせ、四カ国は、幕府に対して「兵庫開港について速やかに許否の回答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し、京都御所に参内して天皇と直接交渉すると主張しました。四カ国の強硬姿勢から要求を拒むことは困難と判断した阿部・松前の両老中は、2日後やむを得ず無勅許で開港を許すことを決めていました。しかし、翌日、大坂城に参着した「一橋慶喜」は、無勅許における条約調印の不可を主張します。阿部・松前は、「もし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊する。」とした自説を譲りませんでした。
朝廷は、阿部・松前の違勅を咎め、両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し、両老中は解任されてしまいます。このため、四カ国は先の要求を再度提出し、10日以内に回答がなければ拒否とみなすとの警告を発しました。
幕府は、「孝明天皇」が条約の批准に同意したと、四カ国に対して回答しました。しかし、「安政五カ国条約」の勅許は得たものの、兵庫開港については勅許を得ていませんでした。
第15代将軍に就任した「徳川(一橋)慶喜」は、2度にわたって兵庫開港の勅許を要請しましたが、何れも却下され慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経て、ようやく慶応3年5月24日(1867年6月26日)に勅許を得ることができました。
これにより「徳川慶喜」の将軍としての面子は保たれ、「四侯会議」は政局に敗れてごく短期間で挫折しました。その後、薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した「徳川慶喜」は、慶応3年(1867年)10月14日、二条城において政権返上を明治天皇に奏上し、翌日勅許されました。いわゆる「大政奉還」です。
大政奉還後の政治体制については、諸侯会議によって定められるはずでしたが、薩摩藩らは政変を起こし朝廷を制圧、慶喜を排除して新政府を樹立します。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、「王政復古の大号令」が発せられ、「徳川慶喜」の将軍職辞職を勅許、京都守護職・京都所司代の廃止、幕府の廃止、摂政・関白の廃止、新たに総裁・議定・参与の三職を置くことが決定されました。
「徳川慶喜」は、元々将軍職を固辞しており、政治には関わりたくなかったようですね。しかし、なった以上は何とか面子を保とうとしましたが、結局「逃げ腰」が災いしたのか、どうにもならなくなって、政権を天皇に返上したと言うのが実情のようです。
新たに京都市中取締役所が設置され、その後、京都裁判所と改称し、さらに京都府と改称しています。発足時の領域は山城国のうち藩領を除く地域(愛宕郡90村、葛野郡83村、乙訓郡52村、宇治郡43村、紀伊郡のうち33村、久世郡のうち19村、綴喜郡のうち43村、相楽郡のうち58村。ただし、相楽郡の小泉藩領1村を含む)および摂津国島上郡1村(寺社領)となりました。
慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に天皇が東京に入り、明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移されました。こうして、首都も政治の中心も東京に移りました。

伏見城模擬大天守

伏見城(ふしみじょう)は、京都市伏見区桃山町周辺にあった平山城です。別名、桃山城・指月城・木幡山城とも呼ばれています。
御陵の為立入りが出来ない部分が多いようです。立入りが許される範囲では、弾正丸の土塁・水堀(治部池・紅雪堀)・北堀公園の堀跡・土橋があります。立入禁止区域には、御舟入り近くに石垣、石垣が残る土橋、一部石垣が残る天守台、空堀が残っているようです。
江戸時代初期に破却され、その後明治時代に宮内省の御料地とされており、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となっています。

二条城二の丸御殿

二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にあります。江戸時代に造営された平城です。近代において二条城は、京都府の府庁や皇室の離宮として使用されました。城内全体が国の史跡に指定され、二の丸御殿(6棟)が国宝、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に指定されています。また、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されており、平成6年(1994年)にはユネスコ世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されています。
本文中に記載のとおり、「徳川家康」の将軍宣下に伴う賀儀と、「徳川慶喜」の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもあります。

京都御所正門

京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設です。14世紀から明治2年(1869年)まで、歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所です。御所は、内裏(だいり)・禁裏(きんり)・大内(おおうち)などの異称があります。現在は、宮内庁京都事務所が管理しています。
平安京内裏は天徳4年9月23日(960年10月16日)の火災で全焼したあと、幾度も火災に見舞われ、里内裏が現れてくると天皇は専らそちらに常住するようになり、内裏の意義は低下して行きます。平安宮の内裏は、鎌倉時代に焼亡したのち再建されることはなく、南北朝以後は内裏の東に位置する里内裏であった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が御所となり、その内域に紫宸殿、清涼殿などが復元され、これが現在の京都御所です。

京都所司代上屋敷跡

京都所司代(きょうとしょしだい)上屋敷跡は、京都市中京区猪熊通丸太町下るにあります。
室町幕府の侍所が始まりで、徳川幕府に受け継がれました。徳川時代の所司代は、「関ヶ原の戦い」直後に設けられ、皇室・公家の監視・京都諸役人の統率・京都町方の取締り・近畿八カ国の訴訟処理・四国33カ国の大名の動静監視など強い権限を持つものでした。
幕府の老中に次ぐ最重要役職で、初代「奥平氏」のあと、二代・三代は「板倉勝重・、重宗」父子が任じられ、特に「板倉重宗」は、名所司代の誉れ高く、京都市政の根本法規を制定しました。文久2年(1862年)、京都守護職が設けられると所司代はその管轄下に属し、王政復古によって廃止されました。跡地には、明治3年(1870年)、我が国最初の中学校「京都府立京都第一中学校」が建てられました。その後、「京都市立待賢小学校」として使われていましたが、平成10年(1998年)、統廃合により姿を消しました。待賢小学校の校舎は閉校後、地元の区民運動会の時以外にはあまり使用されていませんでしたが、現在、フランス政府認可校「関西フランス学院(幼稚園~高等部)」と「京都市発達障害者支援センターかがやき」が使用しているようです。

淀藩
淀藩(よどはん)は、山城国(京都府京都市伏見区淀本町)に存在した藩です。藩庁は、淀城に置かれました。
元和9年(1623年)、「松平定綱」が遠江掛川藩より3万5,000石で入封したことにより、淀藩が立藩しました。これは、先年に廃藩となった伏見藩に代わって、新たに京都を防備するために立藩されたものです。定綱は、淀城の築城に尽力しました。因みに、かつて豊臣秀頼の生母であった淀殿の居城で知られる淀城(淀古城)とは、場所が異なると言われています。
定綱は、寛永10年(1633年)3月に美濃大垣藩に移封され、代わって、下総古河藩より「永井尚政」が10万石で入封しました。尚政は、家臣団の編成や城下町の開発、洪水対策に備えての木津川工事などに尽力し、藩政の基盤を固めました。
淀藩の基盤は、永井氏によって確立され、城下町の拡大や水上交通の整備、地子免許などを行なっています。明暦4年(1658年)2月28日に隠居して、家督を子の「永井尚征」に譲ります。このとき、尚征は所領を弟たちに分与したため、所領は7万3,600石となりました。
尚征は、寛文9年(1669年)2月25日に丹後宮津藩に移封され、代わって、伊勢亀山藩より「石川憲之」が6万石で入封しました。検地政策や元禄国絵図作成などで功を挙げ、幕政にも参与しています。憲之は、宝永3年(1706年)2月25日に隠居し、その後を継いだ「石川義孝」は、宝永7年(1710年)9月2日に死去し、その後を継いだ「石川総慶」は、宝永8年(1711年)2月15日に備中松山藩に移封されました。
代わって、美濃加納藩より「松平光煕」が6万石で入封し、享保2年(1717年)9月4日に死去し、その後を継いだ「戸田光慈」は、享保2年(1717年)11月1日、志摩鳥羽藩へ移封されました。
代わって、伊勢亀山藩より「松平乗邑」が6万石で入封します。大坂城代代行の立場から、「徳川吉宗」に見出されて、老中にまで異例の栄進を遂げています。しかし、享保8年(1723年)5月1日には下総佐倉藩へ移封されました。入れ替わりで「稲葉正知」が10万2,000石で入封し、ようやく藩主家が定着しました。
稲葉氏は、10万2,000石という大領ではありましたが、その所領は山城のほかに摂津・河内・近江・下総・越後などに分散しているという不安定さで、山城にあった所領は2万石にも満たなかったと言われています。このため、藩政においても財政基盤の脆弱さから人夫の徴発さえままならず、財政は苦しい状況でした。
第7代藩主「稲葉正諶」は、天明4年(1784年)に越後の所領を和泉や近江に移しましたが、これにより所領10万2,000石は7カ国に分散することとなり、全くの逆効果を招きました。また、稲葉氏の歴代藩主は短命な者が多く、享保年間には4人の藩主が相次いで死去しています。
稲葉氏の歴代藩主の中で最も有名なのは第12代藩主「稲葉正邦」です。正邦は、幕末期の動乱の中で老中を2度務め、「板倉勝静」や「小笠原長行」らと共に活躍した人物です。しかし、彼の江戸詰め中に「鳥羽・伏見の戦い」が起こり、旧幕府軍が朝廷によって朝敵とされたため、淀城の城代は敗走する旧幕府軍に城門を開きませんでした。これが、「鳥羽・伏見の戦い」における旧幕府軍の敗北の一因とされ、この時期を扱った一部の時代小説には、淀藩を罵倒軽蔑する記述も見られます。
正邦は、旧幕府瓦解時の老中であったため、新政府の命令で同年3月に謹慎処分となりましたが、閏4月には許されて京都警備を任されています。翌年の版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官され淀藩は廃藩となり、その所領は各近辺の府県に組み込まれることになりました。

淀城穴蔵式天守台跡

淀城(よどじょう)は、京都府京都市伏見区淀本町にあった平城です。別名、てん城・新淀城とも呼ばれています。宇治川・桂川の合流付近の川中島、現在の京都市伏見区の京阪電気鉄道淀駅の南西に位置しています。
淀は「与渡津(淀の港の意)」と呼ばれ、古代には諸国からの貢納物や西日本から都に運ばれる海産物、塩の陸揚げを集積する商業地でした。また、河内国・摂津国方面や大和国方面から山城国・京洛に入る要衝でした。
安土桃山時代に「豊臣秀吉」が、側室「茶々」の産所として築かせた淀城は、現在の位置より北へ約500メートルの位置にありました。こちらは、「鶴松」死後に「拾丸」誕生後、養子となっていた「豊臣秀次」が謀反の疑いを掛けられた際、城主であった「木村重茲」の連座とともに廃城とされました。
江戸時代に徳川氏による伏見城廃城により、その代わりとして江戸幕府が「松平定綱」に命じて新たに築かせました。現在、本丸の石垣と堀の一部が残っています。城郭に伴う再建造物はありませんが、本丸や石垣を利用した淀城跡公園が昭和43年(1968年)に開園しました。平成13年(2001年)1月、京阪電気鉄道の淀駅高架化事業に伴い、淀城公園は既設区域約1.7haから約1.7ha拡張され、合計約3.4haとなる再整備計画が策定されています。
本丸には、実物大の櫓建物や駐輪場のため埋め立てられていた内堀を復元、淀城のシンボルともなっていた水車も復元される計画ですが、現在の進捗状況は定かではありません。

亀岡藩
亀岡藩(かめおかはん)は、丹波国(京都府亀岡市)に存在した藩で、山陰道の入り口に当たるため、江戸幕府から特に重要視されていました。江戸時代には丹波亀山藩と呼ばれ、明治時代に亀山の地名を亀岡に改称したため、亀岡藩と呼ばれるようになりました。藩庁は、丹波亀山城に置かれました。以降、伊勢亀山藩と区別するため丹波亀山藩と表記します。
「明智光秀」は、「織田信長」より丹波攻略を命じられると、まず、亀山盆地に進出します。天正5年(1577年)に丹波亀山城を築いて入封したのが、亀岡の近世的な始まりといわれています。天正7年(1579年)に「波多野秀治」が討たれて、丹波が織田領になるとその功績により光秀は信長より、近江坂本城と丹波1国の領有を許されました。しかし、天正10年(1582年)6月、光秀は「本能寺の変」を起こし、信長は自害して自らも信長の家臣「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」に討たれ明智氏は滅亡しました。
その後の清洲会議で「羽柴秀吉」が織田氏の主導権を握ると、丹波亀山城は信長の四男で秀吉の養子となっていた「羽柴秀勝(於次)」が入城します。天正13年(1585年)に秀勝が早世すると、秀吉の甥に当たる「豊臣秀勝(小吉)」が代わって入封しました。天正18年(1590年)に「徳川家康」が関東に移封されたため、「豊臣秀勝」が甲斐に入封することになり、丹波亀山城は様々な武将が短期間で城主が変わりました。秀吉の甥で養子となった「羽柴秀秋(小早川秀秋)」もその1人です。
文禄4年(1595年)に豊臣政権下の京都所司代だった、「前田玄以」が丹波亀山城に入封します。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では、玄以はやむを得ず西軍に加わりましたが、家康に西軍の情報を内通していたため、戦後に家康より所領安堵を受け、ここに丹波亀山藩が成立しました。慶長7年(1602年)5月に玄以は死去し、後を子の「前田茂勝」が継ぎましたが、茂勝は丹波八上藩に移封され、丹波亀山藩は天領となります。
慶長14年(1609年)、徳川氏譜代の家臣である「岡部長盛」が下総山崎藩から移封され、丹波亀山藩が再立藩しました。長盛が丹波亀山藩に入ったのは、大坂藩の「豊臣秀頼」への対策の1つでした。この岡部時代に丹波亀山の城下町の原型が出来上がったとされています。慶長15年(1610年)には、西国大名を総動員して丹波亀山城の築城が行われています。
長盛は、慶長20年(1615年)の「大坂夏の陣」での功績により、元和7年(1621年)に丹波福知山藩5万石に加増移封されました。代わって、三河西尾藩より大給松平家の「松平成重」が2万2000石で丹波亀山藩主となります。
成重は、寛永10年(1633年)9月16日、40歳で死去し、家督は次男「松平忠昭」が継ぎましたが、寛永11年(1634年)に豊後亀川に移封されます。代わって、近江膳所藩より「菅沼定芳」が4万1000石で入封しますが、第2代藩主「菅沼定昭」が嗣子無くして慶安元年(1648年)に死去し、菅沼氏は改易となります。
代わって、藤井松平家の「松平忠晴」が3万8000石で入封しますが、第3代藩主「松平忠周」の時代に武蔵岩槻藩へ移封となります。
貞享2年(1685年)に備中庭瀬藩より5万石で「久世重之」が入封しますが、短期間で三河吉田藩へ移封となります。代わって、元禄10年(1697年)に美濃郡上藩より「井上正岑」が4万7000石で入封しますが、これも短期間で常陸下館藩へ移封されます。
元禄15年(1702年)9月7日、遠江浜松藩から「青山忠重」が5万石で入封しますが、第3代藩主「青山忠朝」の時代に丹波篠山藩へ移封となり、藩主家が定着しませんでした。
寛延2年(1749年)、青山氏と入れ替わりで形原松平家の「松平信岑」が丹波亀山藩主となると、以後、第8代藩主「松平信正」の時代に明治を迎えます。
第6代藩主「松平信豪」の時代、天保期の現亀岡市を含む桑田郡内の総石高は4万6000石でしたが、そのうち亀山藩領は1万8000石のみで、残りは丹波氷上郡、船井郡、備中浅口郡ほかに飛び地となっていました。このまとまりのない領国支配体制が丹波亀山藩の経済を苦しめたと言われています。
慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では、新政府の山陰鎮撫使に降伏し、明治2年6月19日(1869年7月27日)、伊勢亀山藩との混合を避けるため、亀岡藩と改称します。明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県により亀岡県となり、同年11月に京都府に併合されました。

丹波亀山城の石垣

亀山城本丸南面(明治5年撮影)

亀山城(かめやまじょう)は、京都府亀岡市荒塚町周辺にあった平山城です。別名、亀岡城・亀宝城とも呼ばれています。大正時代に新宗教「大本」が購入し、天守台・石垣・堀・土塁などは改変され神殿を築きましが、昭和10年(1935年)には、「大本事件」の際に当時の日本政府によってほとんどが爆破・破却されました。しかし、終戦後、教団によって修復されています。
平成4年(1992年)12月8日、宗教的理由により旧神殿部分が立入禁止となり、新御殿門(長屋門)は亀岡市立千代川小学校に移築されています。
大本事件(おおもとじけん)は、新宗教「大本」の宗教活動に対して、日本の内務省が行った宗教弾圧のことです。

園部藩
園部藩(そのべはん)は、丹波国船井郡(京都府南丹市園部町小桜町)に存在した藩です。藩庁は、園部城に置かれました。園部藩は、元和5年(1619年)12月、但馬国出石藩主「小出吉親」が、2万9800石ほどで入封して立藩しました。明治まで小出氏が藩主家を務めています。
初代藩主「小出吉親」は、園部城築城や検地、城下町の建設や治水事業に励んで、藩政の基礎を固めました。吉親は、寛文7年(1667年)6月9日に隠居し、家督は子の「小出英知」が継ぎました。このとき、藩領は隠居料として吉親が5000石、英知が新墾田を併せて2万5000石を継ぐことになりました。翌年3月11日に吉親が死去すると、その隠居料であった5000石は、英知の弟「小出吉直」と「小出吉忠」が、それぞれ3000石と2000石に分割相続しました。
第4代藩主「小出英貞」は、奏者番・寺社奉行・若年寄を歴任し、次男の「小出英治」に1000石を分与しています。第5代藩主「小出英持」も英貞と同じくその三職を歴任し、第6代藩主「小出英常」は、奏者番になるなど、幕府の要職を歴任しています。しかし、第7代藩主「小出英筠」の頃から飢饉や旱魃、洪水などの天災によって藩財政の窮乏化が表面化し、天明7年(1787年)には凶作と米価高騰などから天明の一揆(百姓一揆)が発生します。これを皮切りにして、その後も火事などの災害が相次ぎ、藩内では打ち壊しや強訴が相次いで発生しました。このため、藩では煙草の専売制や木材の市場移出制を中心とした藩政改革を実施して効果を挙げています。
幕末期には早くから御所の警備を行なうなどして官軍側に帰順しました。明治2年(1869年)の版籍奉還で最後の藩主「小出英尚」は藩知事となります。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で園部藩は廃藩となりましたが、そのまま英尚が園部県知事となりました。園部県は同年8月に廃止され、同年11月には京都府に編入されています。

園部城巽櫓

園部城櫓門

園部城(そのべじょう)は、天守閣はなかったので、園部陣屋(そのべじんや)と呼ばれていました。京都府南丹市園部町小桜町周辺にあった陣屋(城郭)です。日本の城郭史で最後の建築物となっています。
小麦山(子向山)標高173.8mの東麓にある台地に築かれ、北側には園部川、西側に半田川を天然の堀として利用し、南側と東側に堀を巡らせ、もっとも外側の低地には延々2kmに渡り外堀を構えて守りを固めていました。
近世園部城は、徳川幕府に絵図を提出しながら進められていたようです。櫓を築造するようになっていましたが、二重の堀や狭間を設けた塀もあるという理由で、櫓の建設は見送られました。徳川幕府の制度上では陣屋という扱いですが、城と呼べる規模でした。
幕末期に武力衝突が相次いで起こり、園部は京から近く、万が一の時の要街地として警備を厳重にする必要があるため、徳川幕府へ改修の旨を進達しましたが、認められませんでした。しかし、引き続き交渉を行い、慶応3年(1867年)10月に内諾を得る事が出来ましたが、大政奉還が行われ、これも頓挫しました。
明治元年(1868年)1月に明治新政府に願い出たところ、ようやく「帝都御守衛」の為として認められました。同年1月28日頃から普請が始まり、明治2年(1869年)8月28日上棟式が挙行されました。櫓門が3ヵ所、巽櫓や小麦山の三層櫓などの櫓が5ヵ所、堀も造成して園部陣屋は園部城に生まれ変わりました。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県が断行され園部県となり、園部城にはそのまま園部県庁が置かれました。しかし、園部県はすぐに廃止され京都府園部支庁となり、明治5年(1872年)に、現在まで残る建物以外は、官有地や民間に払い下げ、政治機能としては役割を終えました。城の中心地は小学校となりましたが、現在は京都府立園部高等学校の敷地となり、隅櫓や櫓門など一部の建物が現存しています。

綾部藩
綾部藩(あやべはん)は、丹波国(京都府綾部市青野町、または同本宮町)に存在した藩です。藩庁は、綾部陣屋に置かれました。
綾部藩は、戦国時代に「織田信長」に仕えて名を馳せた水軍の将「九鬼嘉隆」の孫「九鬼隆季」を藩祖として、寛永10年(1633年)3月5日に2万石で立藩しました。
嘉隆の死後、九鬼氏は子の「九鬼守隆」が継いでいましたが、寛永9年(1632年)に死去すると、三男「九鬼隆季」と五男「九鬼久隆」との間で家督争いが起こりました。これは、守隆が生前に五男の久隆を溺愛して嫡男に選んだのが原因で、御家騒動の結果、久隆は摂津三田藩へ、隆季は綾部にそれぞれ移封され、隆季が綾部藩初代藩主となりました。
九鬼氏は、嘉隆以来の故郷である志摩鳥羽藩の地を失うことになり、隆季は、寛文元年(1661年)3月28日、弟「九鬼隆重」に500石を分与し、分家を創設しています。また、隆季は城下町の建設や検地などを行なって藩政の基礎を固めました。
しかし、第2代藩主「九鬼隆常」の代から大洪水や暴風雨による天災が起こり、3,729人もの死者を出すなど、早くも藩政の衰退が始まります。その後も再三にわたって大洪水や大旱魃・大飢饉などが発生し、藩は大被害を受け、第3代藩主「九鬼隆直」の時代には藩財政が破綻しました。藩札発行や倹約令制定、家臣団の給米減封などを中心とした財政改革を試みましたが、その後も大洪水などによる天災や百姓一揆までもが発生し、藩政はすっかり衰退してしまいました。なお、隆直の時代に藩校「進徳館」が設立されています。
このような中で第9代藩主「九鬼隆都」は、「佐藤信淵」や「奥山弘平」らを招聘して農業政策を中心とした藩政改革に取り組み、さらに「山鹿素水」を招いて軍事の改革も行ないました。隆都は、弘化4年(1847年)に木綿会所を創設して専売制を実施し、藩財政をいくらかは再建することに成功しました。幕末期の動乱に入ると、隆都は文久元年(1861年)6月10日に家督を子の「九鬼隆備」に譲って隠居します。
隆備は、はじめ佐幕派でしたが、「禁門の変」で御所の警備を務めた頃から次第に官軍側に与するようになり、慶応4年(1868年)1月には「西園寺公望」を通じて、いち早く新政府側に帰順しました。その後、隆備は版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により綾部藩は廃藩となります。その後、綾部県を経て、京都府に編入されることになりました。
因みに隆備も父に劣らず有能で、藩校「進徳館」を「篤信館」と改名し、その翌年には藩内6ヶ所に郷学校を設立して、庶民教育に尽力しました。これは後に、明治政府による近代化教育の先駆けとなっています。

綾部陣屋大手門跡

綾部陣屋(あやべじんや)は、「九鬼隆李」によって、現在の綾部高校東分校のある地に築かれましたが、慶安3年(1650年)に火災によって全焼し、翌4年に現在の綾部小学校や宗教法人大本教の本部がある辺りに移されました。
綾部幼稚園の西側に陣屋大手門の石垣の一部が残っており、大手門跡の案内板がありますが、他には何も残っていません。大手門の部材は、綾部小学校に保管されているそうです。

山家藩
山家藩(やまがはん)は、丹波国何鹿郡山家周辺を領有した藩です。藩庁は、山家陣屋(京都府綾部市広瀬町)に置かれました。藩祖「谷衛友」は、「織田信長」「豊臣秀吉」に仕え、丹波国山家にて1万6000石を領しました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の際、衛友は西軍に属して「小野木重勝」らと行動を共にし、東軍に与した「細川藤孝(細川幽斎)」の丹後田辺城(舞鶴城)を包囲します。しかし、西軍に属したのは本意でなかったため、歌道の師匠でもあった藤孝に内々に通じており、戦後は「徳川家康」から所領を安堵されています。山家藩は、皇室との縁があったためか明治時代まで谷氏13代の支配が続きました。
第2代藩主「谷衛政の代」に、弟の「谷衛冬(梅迫谷氏)」に1,500石、甥の「谷衛之(上杉谷氏)」に2,500石、同じく甥の「谷衛清(十倉谷氏)」に2,000石を徳川将軍家に直属する旗本家として分知したため、以後、藩の石高は1万石となりました。
山家は山地が多く、稲作に適していなかったため、林業や特産品である黒谷和紙が藩財政を支えました。
明治維新期の動乱においては、いち早く官軍方に恭順を示しました。明治4年(1871年)、廃藩置県により山家県を経て、京都府に編入されました。
谷家は、宇多源氏佐々木氏流れとする説がありますが、定かではありません。また、公家の園家を通して皇室との縁が深く、現皇室にも谷家の血が入っているとする資料もありますが、こちらも定かではありません。

山家陣屋跡模擬櫓門

陣屋は、西に上林川を見下ろす台地の上に築かれ、西・北側は落差の大きい傾斜地となっています。現在の陣屋跡は、山家城址公園になっており模擬城門が築かれ、谷家の定紋が掲げられています。陣屋背後の甲ヶ峰には、駐車場から伊也神社を経て登城道が続いています。山頂には中世山家城の曲輪・堀切などが残っています。
公園の西側には空堀が残っており、付近には谷氏の祖先を奉った谷霊神社、式内の伊也神社があります。

福知山藩
福知山藩(ふくちやまはん)は、丹波国天田郡(京都府福知山市内記)に存在した藩です。藩庁は、福知山城に置かれました。
戦国時代の天正7年(1579年)、「織田信長」の家臣であった「明智光秀」に丹波一国が与えられ、光秀は一族の「明智秀満」にこの地を任せました。光秀の治世の下で地子銭免除や城下町建設、近世的な福知山城の築城などが行われています。
天正10年(1582年)に光秀が信長に対して謀反を起こしたとき、秀満はその挙兵に賛成しました。
「本能寺の変」で信長を討った後、安土城を占領しましたが、光秀が「山崎の戦い」で「羽柴秀吉」に敗れると、秀満は安土城を放棄して有名な「湖水渡り」を行い、近江坂本城にいる光秀の妻子を刺し殺して自分も自殺しました。その後、丹波は秀吉の支配下となり、福知山には「杉原家次」「小野木重次(公郷)」らが入封します。
重次は、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」において西軍に味方し、「田辺城の戦い」の総大将となりますが、本戦で西軍が壊滅すると東軍の「細川忠興」の追討を受けて自害しました。
「関ヶ原の戦い」で東軍に与した「有馬豊氏」は、本戦で後ろ揃えを務めたことで、遠江横須賀3万石から福知山6万石に加増移封されて福知山藩が立藩しました。慶長7年(1602年)に豊氏の父「有馬則頼」が死去すると、豊氏は父が摂津三田に知行していた2万石も併せて相続することとなり、福知山で都合8万石の大名となりました。豊氏は、福知山城や城下町の整備を行ない、検地を行なって藩政を確立しました。
その後、「大坂の陣」においても徳川方として武功を挙げたため、元和6年(1620年)閏12月に20万石に加増の上で筑後久留米藩に移封されました。
その後は、伏見奉行の「小堀政一」がしばらくは統治を行ないます。元和7年(1621年)8月、丹波亀山藩から「岡部長盛」が5万石で入封しますが、寛永元年(1624年)9月に美濃大垣藩に移封されます。代わって、摂津中島藩から「稲葉紀通」が4万5700石で入封します。
「稲葉紀通」は暗愚な人物で、家中や領民に対して悪政を敷くという暴君でした。慶安元年(1648年)には、丹後宮津藩主「京極高広」との間に諍いを起こし、それが原因で紀通が謀反を企んでいるという風聞が流れました。わずか4万5700石、動員兵力1500人に満たないものでしたが、この風聞を幕府は信じて近隣の諸藩に出兵を命じたため、慶安元年(1648年)8月、紀通は福知山城にて鉄砲自殺し、稲葉氏は改易となりました。
その後、半年ほどは公儀御料として幕府が直轄しましたが、慶安2年(1649年)2月28日に三河刈谷藩から「松平忠房」が4万5900石で入封します。忠房は、藩内に検地を実施し、明治時代の地租改正までに至る福知山藩の土地制度の基礎となったため、松平検地と呼ばれました。なお、寛文6年(1666年)には、宮津城の受け取り役を務めています。
これも寛文9年(1669年)6月8日には肥前島原藩に7万石で加増移封となり、代わって、常陸土浦藩から「朽木稙昌」が3万2000石で入封し、以後は朽木氏13代の支配で藩政が安定しました。
初代藩主「朽木稙昌」の父・稙綱は、「徳川家光」のもとで御小姓番頭・奏者番を務めたことから、「朽木元綱」の末子ながら兄たちより厚遇され、譜代大名として取り立てられました。そうした経緯から、朽木氏の歴代の福知山藩主の多くは奏者番・御小姓番頭・寺社奉行を務めています。藩財政は、稙昌の頃から既に苦しく、元禄4年(1691年)には、5年にわたる半知を行なっています。第5代藩主「朽木玄綱」の時代には、「享保の大飢饉」が原因で「享保の強訴」と呼ばれる騒動が起こり、藩内は混乱しました。なお、玄綱は、「明智光秀」御霊法会を許可しています。
第7代藩主「朽木舖綱」と第8代藩主「朽木昌綱」は文人として知られ、舖綱は、「擬独語」を著し、藩校創設の基礎を築き上げました。
昌綱は、「大槻玄沢」ら蘭学者やオランダ商館長「カピタン」と交遊を持って蘭学を研究し、「蘭学階梯」の序文や「泰西輿地図説」「古今泉貨鑑」などを著しています。
第9代藩主「朽木倫綱」も領民の教化を図って「岩間の水」を著しています。
福知山藩では、財政再建の必要性から、藩政改革が何度も行なわれ、その都度失敗しています。特に前述の「享保の強訴」と幕末の万治元年(1860年)の強訴は大規模なものでした。
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で福知山県となり、同年10月2日に豊岡県となりますが、明治9年(1876年)8月21日には、京都府に編入されることになりました。

福知山城大天守

福知山市佐藤太清記念美術館

福知山城(ふくちやまじょう)は、京都府福知山市字内記内記一丁目周辺にある平山城です。別名、横山城・臥龍城・八幡城・掻上城とも呼ばれています。
現在のような縄張り(設計)は、「明智光秀」によるものです。丹波国を平定した光秀が築城し、女婿の「明智秀満」を城主としました。
現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が、昭和61年(1986年)に復元され、福知山市郷土資料館の施設となっています。公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館があります。市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から「臥龍城」とも呼ばれていまます。
東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側には土師川と合流する標高40mの展望の良い台地に築かれています。東・北・西は、断崖で要害の地でもありました。国道9号走行中やJR福知山線の列車内から見ることが出来ます。夜間はライトアップもされ、多数の桜が城周辺に植林されています。

舞鶴藩
舞鶴藩(まいづるはん)は、丹後国(京都府舞鶴市)にあった藩です。江戸時代には、丹後田辺藩(たなべはん)と呼ばれ、明治維新後に改称しています。以降、紀伊田辺藩と区別するために丹後田辺藩と表記します。藩庁は、丹後田辺城(舞鶴城)に置かれました。
丹後国は元々一色氏が守護を務める国でしたが、天正7年(1579年)、「細川藤孝」は「明智光秀」とともに反信長連合の一角だった一色氏らを滅ぼし、丹後国・丹波国を制圧する功績を挙げました。藤孝は、恩賞として丹後一国を与えられ丹後田辺城(舞鶴城)を築き、舞鶴を拠点に丹後一国を治めました。その後、天正10年(1582年)6月2日に親戚関係にあった「明智光秀」が「本能寺の変」を起こし、藤孝自身も加担するよう誘われますが、反光秀の立場を貫き、「羽柴秀吉」から丹後の本領を安堵されています。しかし、藤孝は親戚であった光秀の裏切りの責任を取る形で嫡男の「細川忠興」に家督を譲って隠居しました。その際、隠居城として宮津城を築き、舞鶴から移りました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の際には再び丹後田辺城(舞鶴城)に戻り、留守中の息子の代理を務めました。戦後、細川氏は豊前国中津藩へ転封され、代わって、信濃飯田より「京極高知」が丹後田辺城(舞鶴城)に入城しました。
京極家は、近江源氏佐々木氏の末裔であり、有名な「佐々木道誉(京極高氏)」の子孫です。「京極高知」は、嫡男の「京極高広」を宮津藩に、三男の「京極高三」を丹後田辺藩に、甥で婿養子の「京極高通」を峰山藩に入れ、丹後を3藩に分割統治させました。
「京極高三」を祖として、元和8年(1622年)、丹後田辺藩が立藩しました。藩域は、丹後加佐郡全域で、現舞鶴市および宮津市由良、福知山市大江に相当します。
寛永13年(1636年)、「京極高直」が後を継ぎ、寛文3年(1663年)には、「京極高盛」が後を継いでいます。このとき弟の「京極高門」に2千石を分知しています。
寛文8年(1668年)には、但馬国豊岡藩に転封となり、代わって、摂津国より3万5000石で「牧野親成」「牧野富成」兄弟が入封します。
以後、牧野家が藩主家を務め、明治維新を迎えました。明治2年(1869年)の版籍奉還に際して舞鶴藩と改称され、明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって舞鶴県となりましたが、富岡県を経て京都府に編入されました。
田辺牧野家の祖は、「牧野讃岐守康成」で、初名を正勝、通称を半右衛門といいます。その父は、牛久保牧野氏寄騎(よりき)の「牧野山城守定成(八大夫)」とされています。三河国時代は、宝飯郡平井(愛知県豊川市平井町)に知行地がありました。永禄8年(1564年)徳川氏に属し、翌年8月同地(92貫文の地)を安堵されています。なお、定成の実名や定成以前の牧野山城守の系譜は定かではありません。牧野氏の系譜関係を完全・確実に伝える史料は知られていません。
康成の三男の「牧野信成」は、慶長4年(1599年)に父の後を継ぎ、慶長11年(1606年)より大番頭・小姓組番頭・書院番頭などを歴任しました。

舞鶴城二層櫓

丹後田辺城(たんごたなべじょう)は、京都府舞鶴市にある平城です。別名は、舞鶴城(ぶがくじょう)とも呼ばれます。鎌倉幕府・室町幕府の八田守護所(丹後守護所)の後身とも伝えられています。現在の田辺城跡は公園になっており、昭和15年(1940年)に復興された二層櫓の彰古館と平成9年(1997年)に本来の外堀上に復興された城門には、田辺城資料館、天守台石塁などがあります。 また、濠はすべて埋め立てられていて存在しません。

宮津藩
宮津藩(みやづはん)は、丹後国にあった藩です。「京極高知」の代は、丹後一国を領したため丹後藩とも呼ばれました。藩庁は、宮津城(京都府宮津市)に置かれました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」後、「細川忠興」が豊前小倉藩へ移封されると、丹後国には信濃飯田藩より「京極高知」が丹後田辺城(舞鶴城)に入りました。幕府に届出た正式な居城は宮津城で、丹後一国を領した後、拠点を宮津城に移します。
後に嫡男の「京極高広」を宮津藩に、三男の「京極高三」を丹後田辺藩(舞鶴藩)に、甥で婿養子の「京極高通」を峰山藩に入れ、丹後に3藩を並立させました。従って、実質的には「京極高広」より宮津藩が立藩したといえます。
宮津藩を本藩として、丹後田辺藩(舞鶴藩)・峰山藩は支藩となります。
高広の子「京極高国」は、寛文6年(1666年)、幕府に悪政・一族不和等の不行跡を咎められ改易となりましたが、宮津京極家自体は高家(儀式や典礼を司る役職)旗本として存続しました。
その後、幕府直轄となり、寛文9年(1669年)に「永井尚征」が山城淀藩より入封しました。第2代藩主「永井尚長」は、奏者番を務めましたが、延宝8年(1680年)に第4代将軍「徳川家綱」の葬儀が増上寺で行われた際、乱心した志摩鳥羽藩主「内藤忠勝」に殺害されました。尚長には嗣子がなく、永井家は改易となりました。しかし、後に弟の「永井直円」に大和櫛羅藩1万石が与えられて再興しています。
天和元年(1681年)、「阿部正邦」が武蔵岩槻藩より入封しますが、元禄10年(1697年)には下野宇都宮藩に移封となっています。入れ替わりに同地より「奥平昌成」が入封し、享保2年(1717年)には豊前中津藩に移封されます。代わって、信濃飯山藩より「青山幸秀」が入封しました。第2代藩主「青山幸道」は、宝暦8年(1758年)、美濃郡上藩に移封となるなど、藩主家が安定しませんでした。
代わって、遠江浜松藩より「松平資昌」が7万石で入封し、ようやく藩主家は定着しました。資昌は、本庄松平家第4代目で、以降7代に渡って宮津藩を治めました。
本庄松平家初代「本庄宗資」は、第5代将軍「徳川綱吉」の生母「桂昌院」の異母弟ということで大名に取り立てられ、宗資の子「松平資俊」より松平姓を許されました。本庄松平家は7代続き、うち2人が老中、1人が寺社奉行と幕閣の中枢に進出しています。
慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」では、幕府方として戦いましたが敗戦し、それ以降、明治新政府に恭順しました。明治4年(1871年)の廃藩置県により宮津県となり、豊岡県を経て、京都府に編入されました。

宮津城大手門と二の丸の塀(年代不明)

宮津城の太鼓門

宮津城改修城壁

宮津城(みやづじょう)は、京都府宮津市にあった城跡です。城郭は完全に姿を消し、当時の面影は全く残していません。太鼓門だけは、宮津小学校裏門に移築されました。
平成16年(2004年)の台風23号による大手川の河川改修をきっかけに城壁復元に取り組み、平成22年(2010年)に完成しました。併せて、太鼓門も宮津小学校裏門から正門に移築されました。

峰山藩
峰山藩(みねやまはん)は、丹後国に存在した藩です。藩庁は、峰山陣屋に置かれました。
小藩とはいえ、戦国大名の「京極高知」が、「関ヶ原の戦い」の戦功で得た丹後一国の領土の一部を受け継いだ藩です。
初代藩主「京極高通」は、「朽木宣綱」の次男として生まれましたが、母方のおじである「京極高知」の婿養子となりました。宮津藩で触れておりますとおり、丹後国主であった高知は、自らの遺領を実子2人と高通に3分割して与え、高通には峰山地方の1万石を相続させました。これによって、元々「徳川秀忠」から拝領していた3000石と合わせて1万3000石の諸侯となり、元和2年(1616年)に丹後峰山に陣屋を構えて立藩しました。
宗家である宮津藩京極家はほどなく改易され、田辺藩京極家も但馬豊岡へ転封となったため、丹後には峰山藩京極家だけが残ることになりました。
江戸中期の享保年間、第5代藩主「京極高長」の時代、峰山に住んでいた「絹屋佐平治(森田治郎兵衛)」が西陣で学んだちりめんの技法を元に、試行錯誤の末に生み出した丹後ちりめんは、藩の主要な特産品として財政を潤しました。
第6代藩主「京極高久」は、若年寄となりました。小説「鬼平犯科帳」において、鬼平こと長谷川平蔵の良き理解者として登場しています。
幕末の藩主である第11代藩主「京極高富」は、「戊辰戦争」の際に若年寄であった責任を追及されましたが、養子で後に第12代藩主となる「京極高陳」が、いち早く朝廷に謝罪をした事から許されました。明治4年(1871年)の廃藩置県により峰山県となり、豊岡県を経て、京都府に編入されました。

峰山陣屋跡

峰山陣屋(みねやまじんや)は、中世吉原山城の東麓に築かれていました。現在は、畑などになっており、木製の標柱や説明板がある程度です。この陣屋跡から、吉原山城への登城口があります。

久美浜県
久美浜県(くみはまけん)は、慶応4年(1868年)に丹後国・丹波国・但馬国・播磨国・美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治新政府によって設置された県です。
管轄地域は、当初は、現在の京都府北部・兵庫県西部・岡山県東北部に分布していましたが、後に京都府北部だけとなりました。
丹後・丹波・但馬・播磨・美作5ヶ国の久美浜代官所・生野代官所の支配地および但馬・丹波の旗本領、926ヶ村23万石を管轄していました。
県庁は旧久美浜代官所(京都府京丹後市)に置かれました。旧代官所は手狭であったことから、明治3年(1870年)に新庁舎が完成していますが、実働期間が短かったことから、移築されて後身の豊岡県庁としても使用されました。
旧生野代官所支配地を中心に分離運動が高まり、明治2年(1869年)、但馬(北部の一部を除く)・播磨・美作3ヶ国を生野県として分離しました。また、但馬南部の一部を篠山藩へ移管しています。
明治4年(1871年)の第1次府県統合により丹波・丹後・但馬の11県が統合して豊岡県が設置されたため廃止されました。なお、久美浜県知事兼生野県知事の「小松彰」は、引き続き豊岡県権令を務めました。
明治9年(1876年)8月21日の第2次府県統合により豊岡県は分割され、但馬国と丹波国氷上郡・多紀郡は兵庫県に編入され、丹後国と丹波国天田郡は京都府に編入されました。

旧久美浜県庁舎玄関棟(参考館)

旧久美浜県庁舎は、慶応4年(1868年)に久美浜代官所敷地内に初代庁舎が置かれましたが、明治3年(1870年)に近接地に新築されます。この庁舎も明治4年(1871年)には、久美浜県が廃止された事により新設された豊岡県庁舎として移築されます。大正後年に玄関部分が再び久美浜に戻され、神谷神社の考古館(参考館)となっています。
旧県庁舎の配置と間取りを描いた図面によると、敷地の三方を溝川が流れ、正面に「大門」が開き、後方は城山を崩した崖になっており、そこに「御役所」、「御玄関」、「御台所」の三棟の建物が渡り廊下で接続されて雄大な構えを見せていたことが分かります。
明治初期における武家屋敷の流れをひく役所建築の遺構としても貴重であり、京都府指定文化財となっています。

 

如何でしたでしょうか。京都府は、大変奥が深く一つ一つを丁寧に紐解くとブログが何本も出来てしまいそうです。今回、私が注目したキーワードは、「天皇の勅許」です。これは、日本国憲法により若干変わったものの、ほぼ変わらず残っている日本の仕組みです。昨今、天皇陛下の「御公務負担軽減」や「生前退位」が話題となっています。幕府と天皇、政府と天皇の関係が見えてきます。
総理大臣や閣僚を任命するのは天皇陛下の仕事ですから、任命する権利を持っている以上、責任があります。もし任命した者が、国を破たんさせるような悪政を敷いたら天皇の責任にもなるわけです。これはかなりのプレッシャーですよね。
私は以前、歴代天皇を調べようとしたことがあります。これは途中で挫折しました。神話の世界だけでもかなりのボリュームで、リタイアしてからじゃないと無理でしたね。

 

バックナンバー

近 畿

歴史を紐解く(廃藩置県)- 奈良県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 三重県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 和歌山県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 大阪府編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 兵庫県編

中 国

歴史を紐解く(廃藩置県)- 岡山県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 鳥取県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 広島県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 島根県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 山口県編

四 国

歴史を紐解く(廃藩置県)- 高知県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 徳島県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 香川県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 愛媛県編

九 州

歴史を紐解く(廃藩置県)- 長崎県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 佐賀県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 沖縄県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 鹿児島県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 宮崎県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 大分県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 熊本県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 福岡県編



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です