歴史を紐解く(廃藩置県)- 三重県編



今回は三重県の歴史を紐解いてみます。三重県は中部地方に属するようなイメージもありますが、近畿地方として扱われる方が多いようです。国の省庁の所管区分では、三重県は中部・東海に含まれることが多くなっていますが、法律などに基づいて一律に定められている訳ではありません。近畿地方という呼称が使われるのは、明治時代以降になります。畿内と近国の一部がそこに入り、明治36年発行の国定教科書でも三重県は近畿地方として扱われました。こうした経緯から、教科書や辞書類では三重県が近畿地方として区分される場合が多いようです。それでは、お伊勢参りと行きましょうか。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の三重県になるまでの変遷です。

度会府は、慶応4年(1868年)に伊勢国内の幕府領・旗本領および伊勢神宮領などを管轄するために明治政府によって設置されました。管轄地域は、当初は現在の三重県全域に分布していましたが、第1次府県統合後は三重県南部のみとなりました。

度会府
度会府(わたらいふ)は、慶応4年7月6日(1868年8月23日)、明治新政府により度会郡小林村(伊勢市御薗町小林)の山田奉行所に設置されました。
同年11月に府庁が、度会郡山田一ノ木町(伊勢市一之木)の三方会合所に移転しました。
明治2年 7月17日(1869年8月24日)、「府」は東京・京都・大阪に限るとした太政官布告により度会県に改称されました。同年8月2日には、笠松県の伊勢国内管轄地域(旧・美濃郡代)と大津県の伊勢国内管轄地域(旧・信楽代官所)を編入せよとの太政官通達が出されます。同年9月12日に伊勢国内の大津県の管轄地域が引き渡され、明治3年2月3日(1870年3月4日)に伊勢国内の笠松県の管轄地域が引き渡されました。
同年3月13日には、名古屋藩取締地(旧・桑名藩領)を所管し、10月には伊勢国内の一宮藩領も所管となっています。
明治4年 (1871年)1月、徳川宗家の駿河府中藩への転封にともなう長島藩の領地替えにより、桑名郡の管轄地域の一部を同藩に移管します。同年11月22日(1872年1月2日)、第1次府県統合により伊勢国の一部(一志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・度会郡)・志摩国の全域・紀伊国牟婁郡の一部(概ね熊野川・北山川以東、後の北牟婁郡・南牟婁郡)の区域をもって、改めて度会県が発足し、県庁を度会郡山田岩淵町箕曲(伊勢市岩渕)に設置しました。
明治5年(1872年)3月から4月にかけて、度会県管轄区域内の久居県・津県・鳥羽県・和歌山県・新宮県・吹上県の管轄地域が各県に引き渡されます。
明治9年(1876年)4月18日、第2次府県統合により三重県に編入され、同日、度会県は廃止されました。

山田奉行所記念館

山田奉行所記念館は、弘化2年(1845年)に、ほぼ全焼した山田奉行所を弘化3年(1846年)に新築したときの図面「新造小林役所之図」などに基づき、書院、お白州などその公的部分の一部を復元したものです。主屋81.3坪、門長屋19.6坪で、その広さは、往時の小林役所建物面積のおよそ6分の1にあたります。
山田奉行(やまだぶぎょう)は、江戸期には「ようだぶぎょう」と読まれ、伊勢神宮の守護・造営修理と祭礼、遷宮、門前町の支配、伊勢・志摩における訴訟、鳥羽港の警備・船舶点検などを担当していました。伊勢奉行・伊勢町奉行・伊勢郡代・伊勢山田奉行・伊勢山田町奉行とも称されました。老中支配の遠国奉行の1つです。定員は1~2名、元禄9年(1696年)には2名となり、江戸と現地で交代勤務となります。役高は1000石で、役料1500俵を支給されました。テレビ時代劇「大岡越前」で有名な「大岡忠相」は、江戸南町奉行となる前の正徳2年(1712年)~享保元年(1716年)まで第18代山田奉行を務めています。

度会府庁跡

明治元年に山田奉行が廃止され、新たに度会府庁(わたらいふちょう)が置かれました。度会府はその後合併などにより、度会県、三重県となっていきました。庁舎の跡地は、近鉄宇治山田駅前の伊勢市観光文化会館東南にあり、「度会府庁跡」の碑が立てられています。

鳥羽藩
鳥羽藩(とばはん)は、志摩国答志郡(三重県鳥羽市鳥羽)に存在した藩です。藩庁は、鳥羽城に置かれました。
「織田信長」に仕え、当時最強と言われた毛利水軍をわずか数隻の鉄甲船で打ち破ったことで有名な織田水軍の将「九鬼嘉隆」を藩祖としています。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では、嘉隆は西軍に、子の「九鬼守隆」は東軍に与していました。これは、父子対立というよりは、どちらが勝利しても九鬼家が存続できるように嘉隆が図ったものと言われています。しかし、守隆は戦後、父の助命を「徳川家康」に嘆願して認められていましたが、それがかなう前に嘉隆は自害しました。
守隆は戦後に2万石を加増され、「大坂の陣」でも戦功により1000石を加増されて5万6000石の大名となりました。寛永9年(1632年)に守隆が死去すると家督争いが起こり、幕府の裁定により、家督は守隆の五男「九鬼久隆」が継ぎ、摂津国三田藩へ移封となりました。三男の「九鬼隆季」は、丹後国綾部藩に2万石で移封となり九鬼氏は分裂し、水軍力を失って行きました。
寛永10年(1633年)、常陸国内で2万石を領していた「内藤清長」の一族で分家筋にあたる「内藤忠重」が、3万5000石で入封します。その後、「内藤忠政」「内藤忠勝」と継がれましたが、忠勝は延宝8年(1680年)に芝増上寺において、第4代将軍「徳川家綱」の法会の席上で、私情から「永井尚長」を殺害したために切腹・改易となりました。
忠勝は、後に松の廊下刃傷事件を起こした播磨国赤穂藩主「浅野長矩」の叔父に当たります。やはり血は争えないというところでしょうか。
鳥羽藩はその後8ヶ月は幕府直轄地となりましたが、天和元年(1681年)、下総国古河藩から「土井利益」が7万石で入封します。しかし、元禄4年(1691年)、肥前国唐津藩へ移封となり、入れ替わりで「松平乗邑」が6万石で入封します。これも宝永7年(1710年)に伊勢亀山藩へ移封となり、入れ替わりで「板倉重治」が5万石で入封します。これも享保2年(1717年)、再び亀山へ移封となり、代わって山城国淀藩から「松平光慈」が7万石で入封します。これも享保10年(1725年)に信濃国松本藩へ移封となり、藩主家が安定しませんでした。
その後、「稲垣昭賢」が下野国烏山藩から3万石で入封し、ようやく藩主家が定着、8代にわたって鳥羽を支配しました。第7代藩主「稲垣長行」の代で、藩兵が「鳥羽・伏見の戦い」で戦闘に参加し、長行が江戸滞在中であったため新政府軍による討伐の可能性が浮上します。しかし、長行の謹慎と部隊長らの永禁錮、軍資金1万5千両などを引換に宥免されました。

鳥羽城跡

鳥羽城(とばじょう)は、志摩国答志郡鳥羽(三重県鳥羽市鳥羽)にあった平山城です。水軍の城で、大手門が海側へ突出して築かれたため、鳥羽の浮城の別称があります。また、城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため、二色城や錦城とも呼ばれています。三重県史跡に指定されています。
現在の鳥羽水族館の裏手にある低い丘が鳥羽城跡で、本丸跡は市立鳥羽小学校の運動場となっています。山麓北側の武家屋敷跡には、市役所・城山公園・旧鳥羽幼稚園などが造られ、遺構は本丸と旧家老屋敷の石垣が残っているだけです。

久居藩
久居藩(ひさいはん)は、伊勢国久居周辺(三重県津市・旧久居市)を支配した津藩の支藩です。城主格の大名でありながら、築城を許可されず、久居陣屋と城下町を建設するに留まりました。
寛文9年(1669年)、津藩の第2代藩主「藤堂高次」が隠居して、家督を子「藤堂高久」に譲ったとき、次男「藤堂高通」に5万石を分与して久居藩が立藩しました。
久居藩は高次が本家の嗣子が絶えた場合の無嗣子による改易に備えて設置した藩です。元禄10年(1697年)に高通の後を継いだ「藤堂高堅」は、3000石をさらに分与されて5万3000石を領する藩主となります。久居藩の内部状況は、常に津藩の本家の慣習を踏襲し、相談も行なうこととなっていました。しかし、5回にもわたって江戸藩邸が焼失し、さらに連年にわたって凶作が相次ぐなどの悪条件も重なって、第5代藩主「藤堂高豊」、第6代藩主「藤堂高雅」の頃から財政悪化が顕著となっていました。そのため、倹約令を出して俸禄の借り上げを行ないましたが、その後も「天明の大飢饉」「天保の大飢饉」、甲州の諸川の手伝い普請などから、遂に財政は破綻寸前となっていました。しかし、名君で有名な第12代藩主「藤堂高兌」の藩政改革により、藩財政は再建されました。
文化3年(1806年)8月26日、父である津藩主「藤堂高嶷」が死去したため、同年10月12日、久居藩主であった高兌が本家を継ぎ、久居藩主は高兌の弟「藤堂高邁」が継ぎました。高兌の死後、再び久居藩は財政が悪化し、第15代藩主「藤堂高聴」は、新田開発や雲出川の治水工事に取り組むことで藩政を改革、再建に成功しました。
幕末期は本家の津藩と共に天誅組討伐に参加し、明治2年(1869年)、第16代藩主「藤堂高邦」は、版籍奉還により知藩事となります。

久居陣屋跡

久居陣屋(ひさいじんや)は、江戸時代前期から明治時代初期にかけて存在した久居・藤堂氏歴代の陣屋です。
明治維新により武家政治が終焉を迎えると陣屋も取り壊され、現在は、公園や中学校の一部となったりしています。公園内に久居開府の碑があり、空堀が現存しています。

津藩
津藩(つはん)は、伊勢安濃郡安濃津(三重県津市)で、伊勢・伊賀2国と大和国の飛び地領などを治めた藩です。安濃津藩(あのつはん)とも呼ばれています。藩庁は、安濃津城(津城)に置かれました。
戦国時代の津は安濃津と呼ばれ、長野・工藤氏の支配下にありました。永禄11年(1568年)、「織田信長」の伊勢侵攻で長野・工藤氏は信長に降伏し、信長の弟「織田信包」を養子に迎えて当主としました。信長没後、信包は「豊臣秀吉」に仕え、文禄3年(1594年)に2万石を削減されて近江に移封されました。代わって、「富田知信」が5万石で入封しました。知信は、慶長4年(1599年)に死去し、後を子「富田信高」が継ぎました。信高は「徳川家康」に接近し、家康主導による会津征伐に参加し、「石田三成」ら西軍が挙兵すると本国に戻り、西軍の伊勢侵攻軍である「毛利秀元」や「長束正家」と戦い、敗れて高野山に逃れました。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の後、家康は信高を2万石加増の7万石で安濃津城主として復帰させました。慶長13年(1608年)8月24日、信高は伊予宇和島藩に移封されました。翌日の8月25日、伊予今治藩10万石から「藤堂高虎」が、22万石に加増された上で入封しました。内訳は伊予越智郡今治2万石、伊賀国内10万石、伊勢安濃郡、一志郡内10万石で計22万石です。
高虎は、江戸城の普請などにも功を挙げて家康から絶大な信任を受け、外様でありながら早くから別格譜代の厚遇を受けることとなります。慶長19年(1614年)からの「大坂の陣」でも家康側に与して戦功を挙げました。伊賀上野藩主「筒井定次」の改易もあって、伊勢津藩は伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で5万石を加増され計27万石となりました。更に元和3年(1617年)、新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増され、高虎の弟「藤堂正高」の下総国の所領3千石も津藩領に編入し、最終的に32万3,000石を領する大大名となりました。なお、元和5年(1619年)の「徳川頼宣」和歌山城移封に伴い、田丸5万石は紀州藩領となり、藤堂家には替地として大和国と山城国に5万石が与えられました。
藩政は、初代藩主「藤堂高虎」の時代に行なわれた城郭普請や家臣団編成、農業制度改革、城下町建設などで確立します。
第2代藩主「藤堂高次」は、寛文9年(1669年)9月29日に隠居する際、子の第3代藩主「藤堂高久」に命じて、次男「藤堂高通」に5万石を分与して、支藩である久居藩を立藩させました。このため、津藩は27万3,950石となりました。高久も元禄10年(1697年)10月5日に「藤堂高堅」に3,000石を分与して、27万950石となりました。高久は、藩財政再建のため、地方知行制の廃止と蔵納制の移行、田畑永代売買の禁止、新田開発、商業統制などを行なったが効果はありませんでした。
第4代藩主「藤堂高睦」の在職期には3度にわたる地震などの天災に見舞われた上、藤堂家の嫡流も彼をもって早くも終焉し、以後は久居藩から招かれて藩主となった者が多く、第5代藩主「藤堂高敏」、第6代藩主「藤堂高治」、第7代藩主「藤堂高朗(藤堂高豊)」らは、いずれも久居藩主を経て、津藩主となっています。なお、これら養子藩主時代は幕命による手伝い普請などによる出費や天災・凶作が相次いで藩財政は悪化しました。
第9代藩主「藤堂高嶷」も久居藩から津藩主となった養子藩主で、藩財政の再建を中心とした藩政改革を行ないましたが、あまりに急性すぎる改革は周囲の反発を受け、寛政年間に津藩最大の百姓一揆が発生して改革は挫折しました。
高嶷の長男「藤堂高崧」は、病気のために嫡子の地位を辞退し、息子「藤堂高巽」が嫡子となりましたが早世し、久居藩主だった高崧の弟「藤堂高兌」が第10代藩主となります。高兌は、すでに久居藩主時代からその敏腕を持って藩政の再建に成功していました。このため、津藩の藩政でも綱紀粛正・倹約・植林や養蚕の奨励、福祉政策、文武の奨励などを実行して藩政改革を成功させ、藤堂家中興の英主と讃えられました。
高兌の後を継いだ第11代藩主「藤堂高猷」の時代には、凶作や地震などの天災が相次ぎ、藩の借金は明治に至るまでに212万両にまで達したといわれています。慶応4年(1868年)1月の「鳥羽・伏見の戦い」では、当初は幕府側でしたが、山崎高浜砲台の津藩守備隊の機転で官軍側を支援し、対岸の幕軍砲台を砲撃するなど官軍の勝利に大きく貢献することになりました。しかし、幕府側の将兵からは突然の裏切り行為であり、「その行い、藩祖に似たり」とそしられました。その後、藤堂軍は「戊辰戦争」で東海道の先鋒となって、各地で旧幕府軍と戦いました。
高猷は、明治2年(1869年)の版籍奉還で、津藩知事に任じられますが、明治3年(1870年)に行なった藩政改革で、平民による部隊が編成され、これに不満を持った士族派の「長谷部一(藤堂監物)」らが反対して処刑されるという「庚午事変(監物騒動)」が起こるなどしています。また、伊賀4郡で「打ちこわし(平高騒動)」も起こるなど、失政が目立ちました。

津城

津城(つじょう)は、伊勢安濃郡安濃津(三重県津市)にあった平城です。別名、安濃津城(あのつじょう)とも呼ばれ、津藩の藩庁です。
江戸時代の津城は、中央に内堀で囲まれた本丸、それに付属して東丸・西丸があり、本丸・東丸・西丸を取り囲んで二の丸が配されていました。現在は、「お城公園・お城西公園」として整備されています。また、その他の城址には、津市役所や裁判所、津警察署などが建ち並んでいます。

長島藩
長島藩(ながしまはん)は、伊勢国桑名郡長島(三重県桑名市長島町)に存在した藩です。藩庁は、長島城に置かれました。
伊勢長島は、戦国時代の天正2年(1574年)、「織田信長」の攻撃を受けて、一向一揆衆2万人が大量虐殺されたことで有名です。その後、領主は「滝川一益」「織田信雄」「豊臣秀次」とめまぐるしく変わり、慶長3年(1598年)に「福島正則」の弟「福島高晴」が1万石で入封しました。慶長5年(1600年)に高晴は、大和宇陀松山藩へ移封され、翌年に徳川譜代の「菅沼定仍」が、上野阿保藩より2万石で入封することにより、長島藩が立藩しました。第2代藩主となった「菅沼定芳」は、城改修・城下町建設・新田開発などを行なって、藩政の基礎を固めましたが、元和7年(1621年)に近江膳所藩へ移封され、長島藩は一時、廃藩となりました。
慶安2年(1649年)、久松・松平家の「松平康尚」が、下野那須藩より1万石で入封することで再び立藩します。しかし、貞享2年(1685年)に康尚の跡を継いだ次男「松平忠充」が、乱心により元禄15年(1702年)に重臣を殺害したため改易されました。代わって、常陸下館藩から「増山正弥」が2万石で入封します。増山家は第4代将軍「徳川家綱」の生母「宝樹院」の縁者であったことから取り立てられた大名家です。第6代藩主「増山正寧」や第7代藩主「増山正修」は、いずれも若年寄を務めました。以後、増山氏が8代にわたって支配しました。
長島はデルタ地帯のために洪水による水害を受けやすく、田畑を等級化することによる災害対策が行なわれていました。

長島城(蓮生寺に移築された大手門)

長島城(ながしまじょう)は、伊勢国桑名郡長島(三重県桑名市長島町)にあった平城です。
現在の城跡は、長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われましたが、東側に石垣および堀が残っています。大手門が蓮生寺(長島町又木)に、奥書院が深行寺(長島町殿名)に、それぞれ移築現存しています。また、長島中部小学校内に桑名市指定天然記念物の「大松」があります。この大松は、本丸の西南隅にあったもので、樹齢三百数十年のクロマツです。

桑名藩
桑名藩(くわなはん)は、伊勢国に存在した藩です。藩庁は、桑名城(三重県桑名市吉之丸)に置かれました。
桑名は中世より「十楽の津」と呼ばれ、商人の港町と交易の中心地として発展しました。永正12年(1515年)頃の連歌師「宗長」の手記では「港の広さが5、6町。寺々家々の数が数千軒、停泊する数千艘の船の明かりが川に映って、星のきらめくように見える」とあります。
伊勢国はやがて「織田信長」の支配下に入り、桑名には信長の家臣「滝川一益」が入封しますが、一益は長島城を修築して居城としたため、桑名城は家臣が守備していました。一益は、信長の死後「羽柴秀吉」と対立し、「賤ヶ岳の戦い」で没落しました。その後、伊勢国は信長の次男「織田信雄」の支配下に入り、天正18年(1590年)の「小田原征伐」の後、秀吉の駿河転封の命令を拒絶して改易され、伊勢国は豊臣家臣が分散して入封することになりました。桑名には、天正19年(1591年)に秀吉の家臣「一柳直盛」が入封し、規模は小さいが築城も行われています。文禄4年(1595年)からは、かつての西美濃三人衆として信長の下で勇名を轟かせた「氏家直元」の次男「氏家行広」が2万2,000石で入封しました。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、行広は西軍に与して桑名城を守備しましたが、西軍が敗れて壊滅したため、戦後に「徳川家康」によって改易されました。
慶長6年(1601年)1月1日、上総大多喜藩より「徳川家康」譜代の重臣「本多忠勝」が、10万石で入封したことにより、桑名藩が立藩します。忠勝は、徳川四天王の1人としてその武名を天下に轟かせた猛者であり、後代に「武田信玄」や「織田信長」らから賞賛されたという伝承が成立した武将です。忠勝は、「関ヶ原の戦い」では本戦に参加して武功を挙げるなど、武勇ばかりが際立って目立ちますが、藩政では「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行って、今日まで続く桑名市街の基礎となっています。さらに東海道宿場の整備も行われ、実質的に桑名藩政を確立した名君でもありました。
慶長14年(1609年)、忠勝は隠居して嫡男「本多忠政」が、第2代藩主となります。「大坂の陣」では、徳川方の先鋒として参戦し、大坂方の「薄田兼相」や「毛利勝永」らと激戦を繰り広げました。また、「大坂の陣」の後、家康の孫娘で「豊臣秀頼」の正室であった「千姫」と嫡男「本多忠刻」が婚姻したこともあり、元和3年(1617年)7月14日に忠政は、先の武功により西国の押さえとして播磨姫路藩15万石に加増移封され、忠刻は「千姫」の脂粉料として姫路新田藩10万石を、忠刻の実弟「本多政朝」が、同じく5万石をそれぞれ与えられて播磨に移封となりました。代わって、家康の異父弟である「松平定勝」が、山城伏見藩5万石から6万石加増の11万石で入封しました。元和6年(1620年)には、伊勢長島領7,000石を与えられて11万7,000石となります。定勝は、寛永元年(1624年)3月14日に死去し、第2代藩主は次男「松平定行」が継ぎました。この際に7,000石を弟「松平定房」に分与したため、再び11万石となりました。定行は、水道の設置、上水道(町屋御用水)工事、城下における湿地の開拓による三崎新田の開発などに尽力しましたが、寛永12年(1635年)7月28日に15万石に加増された上で、伊予松山藩に移封されました。このため、美濃大垣藩6万石より定行の弟「松平定綱」が、11万3,000石に加増されて入封します。定綱も新田開発や水利の整備、家臣団編成などに尽力し、名君としての誉れが高く、実際の桑名藩祖は定綱であるともいわれ、実際に鎮国公・鎮国大明神として祭られています。しかし、桑名は洪水が相次ぐ場所で、慶安3年(1650年)の大洪水では、6万4,000石もの被害をもたらす大惨事となりました。
慶安4年(1651年)12月に定綱は没し、第4代藩主には次男「松平定良」が、承応元年(1652年)2月に就任しますが、病弱のため明暦3年(1657年)7月に死去しました。このため伊予松山藩より養子として「松平定重」が、第5代藩主として入封します。この定重は、53年にわたって桑名を支配するという長期政権でしたが、この時代には天災が相次ぎ、天和元年(1681年)、天和3年(1683年)、貞享3年(1686年)、元禄3年(1690年)、元禄8年(1695年)、元禄14年(1701年)、宝永4年(1707年)と立て続けに水害が発生し、火災においても寛文5年(1665年)、元禄14年(1701年)、元禄15年(1702年)、宝永4年(1707年)と発生しました。このため家臣の減給やリストラが頻繁に行われましたが、定重は8石3人扶持の小者だった「野村増右衛門」を郡代に抜擢し、野村は倹約令や新田開発など藩政の再建に敏腕を振るいました。これは大成功でしたが、譜代の家臣団の嫉視を買い、宝永7年(1710年)5月29日、野村騒動により野村は死罪に処されました。そしてこの騒動が幕府にも知られるところとなり、閏8月15日に定重は越後高田藩に懲罰的な移封を命じられました。
次に奥平・松平家の当主「松平忠雅」が、備後福山藩から10万石で入封しました。この奥平・松平家は、「徳川家康」の重臣「奥平信昌」と家康の長女「亀姫」との間に生まれた四男「松平忠明」の系統です。奥平・松平家は、元禄4年(1691年)に忠雅の祖父「松平忠弘」が、陸奥白河藩主だった時に白河騒動と称される御家騒動を起こし、5万石削減と家老の処罰、出羽山形藩への左遷移封など処罰を受けていましたが、忠弘の跡を継いだ忠雅は中興の名君として学問の振興や寺社の改築などを行いました。延享3年(1746年)に忠雅は死去し、四男「松平忠刻」が、第2代藩主を継ぎました。この忠刻の時代に宝暦治水が行われ、薩摩藩では「平田靭負」以下病死者32人、自殺者52人を出して幕府と桑名藩に対する怨念が残りました。忠刻は明和8年(1771年)に隠居し、次男「松平忠啓」が、第3代藩主となります。この時代には、天明2年(1782年)に4度の洪水が起こって被害が大きく、それに連鎖して、年貢減免を求める百姓一揆も起こる始末で、藩財政も悪化しました。
天明6年(1786年)に忠啓が死去すると、家督は婿養子で紀州徳川家出身の「松平忠功」が第4代藩主となり、寛政期に学問の奨励を中心とした改革を行いますが、病弱のため寛政5年(1793年)に隠居しました。忠功の実弟「松平忠和」が後を継ぎ、第5代藩主となります。忠和は、学問の振興を行い、藩校「進修館」を創設しました。享和2年(1802年)に忠和は死去し、家督は越後与板藩から迎えた婿養子「松平忠翼(ただすけ)」が、第6代藩主となります。忠翼は、文政4年(1821年)に死去し、長男「松平忠堯」が、第7代藩主となります。そして文政6年(1823年)3月24日、忠堯は武蔵忍藩に移封を命じられますが、これに反対する「文政桑名農民一揆」が起こります。これは、藩が農民から講金を預かって藩財政の助成に当てており、突然の移封命令で返済できぬままに忍に移ろうとしたためです。藩は、豪商の「山田彦右衛門」に肩代わりしてもらって、共に忍藩に移りました。しかし、移封準備の最中に一揆が起こったので、武士も農民も動揺し、農民一揆で庄屋は20も襲われ、一揆の鎮定には周囲の藩から援軍を得て鎮定し、一揆の首謀者は処刑されました。この引越しのでは、漬物樽や墓石まで持って引っ越す家族までおり、忍に12日〜13日かけてようやく到着しても武士やその家族が住むための家の数が足りず、やむなく共同生活を強いられて、人々は桑名時代の愚痴をこぼしたそうです。これは奥平・松平家が白河騒動で、5万石を削減されていたのに家臣の数を減らしていなかったことから、忍藩主・阿部家家臣391人に対して、奥平・松平家家臣は、その3倍でした。藩では、大慌てで住居の増設を行いましたが、桑名時代の借財から引越し費用、引越し後の費用で、合計10万両以上の借財を抱えることになりました。
代わって、陸奥白河藩から「松平定永」が、白河藩の飛び地である越後国柏崎の所領と共に合計11万石で入封しました。この久松・松平家は、かつて桑名藩主であった定重の系統であり、定永の父は「寛政の改革」を行った老中首座・白河藩主「松平定信」です。この所領替えは隠居していた定信が、実際の桑名藩祖とされる「松平定綱」以来の先祖の地である桑名に戻りたいという願望があり、将軍「徳川家斉」も、かつて「尊号事件」で対立していた定信が、老中として「寛政の改革」を成功させた功労者の報恩として動いたとされています。これに対し、桑名藩主として113年間も就任し、民心も藩政も安定して墳墓もあり、さらに左遷されるような致命的な失政もなかった奥平・松平家の藩主「松平忠堯」は納得できず、何とかこの移封命令を撤回してもらおうと裏工作を行いますが、将軍「徳川家斉」の力が動いて、どうしようもありませんでした。しかも、それまで忍藩主であり忠堯同様に失政もなく、忍藩に9代155年もいた「阿部正権」が白河へ移るという三方替えでした。
江戸では、「住み慣れし忍(阿部正権)をたちのきあべこべに、お国替えとはほんに白川忍様はおし流されて白川へ、あとの始末はなんと下総(松平忠堯)白川に古ふんどし(松平定永)の役おとし、今度は桑名でしめる長尺」という落首がはやったそうです。
「松平定信」の威光と存在が当時は絶大なものであり、両家は逆らうこともできませんでした。この国替えの際、白河藩では家臣一同が大いに喜びあい、赤飯を炊いてお祝いをしたといわれています。理由は先祖代々の墳墓の地であり、故郷に帰還できるためと、寒冷の厳しい白河から温暖で物成もよい桑名であること、京都や大坂に近く東海道の要衝として繁栄していること、桑名には良港があり海の幸の恩恵があり、これは久松・松平家にとっては、お得替えといわれていました。ただし、白河藩主時代に久松・松平家は、1万4,000両、そしてこの移封に伴う諸経費が9万両かかって、借財は10万4,000両になり、藩財政はますます火の車になりました。なお、定信自身が望んだ移封ですが、定信本人は高齢のため桑名には来ることなく、文政12年(1829年)に72歳で江戸にて死去しました。
こうして藩主となった「松平定永」は、藩財政の再建にとりかかり、文政7年(1824年)からは10年の期限で藩士の知行を削減しました。しかし、文政12年(1829年)には、江戸八丁堀の上屋敷が類焼し、その後も幕府のお手伝い普請を命じられ、藩財政はさらに悪化しました。定永は、桑名の大商人や大坂商人からの借財と御用金でしのいでいます。なお、大坂で発生した「大塩平八郎の乱」に触発されて起こった「生田万の乱」では、桑名藩領として越後にあった魚沼・刈羽・三島・蒲原など4郡の飛び地を統括する柏崎陣屋が襲撃されており、生田ら6人全員が死亡、桑名藩も3名が死亡しています。
定永は天保9年(1838年)に死去し、長男「「松平定和」が第2代藩主となります。定和も財政の再建に努めましたが、在任3年足らずで天保12年(1841年)に死去しました。このため定和の長男「松平定猷」が第3代藩主となりますが、彼の時代には水害に見舞われました。幸いにして豊作が続いて藩の米蔵が満杯になり、5年間借財をすることもなくなっていました。しかし、手伝い普請、江戸屋敷の類焼、安政の大地震による被災と災害が相次ぎます。しかもこの定猷の時代に幕末の激動期に突入し、房総沿岸の警備や京都警備などを任命されて、藩財政はますます苦しくなり、その最中の安政6年(1859年)に急死しました。なお、桑名藩領は11万石でしたが、実高は桑名本領地、8万3,000石(桑名・員弁・朝明・三重)、越後柏崎が5万9,000石の14万石でした。また、「天保の改革」で、「水野忠邦」や「鳥居耀蔵」に排斥された南町奉行「矢部定謙」は桑名藩に預けられ、絶食して憤死しています。
「松平定猷」(猷と改名)の死後、家督は幕末の多事多難のため、嫡子の「万之助(松平定教)」では無理と見られて、美濃高須藩から「松平定敬」が「初姫」の婿養子として第4代藩主に就任しました。この定敬は、御三家筆頭の尾張藩主「徳川慶勝」や「徳川茂徳」、会津藩主「松平容保」や石見浜田藩主「松平武成」らの実弟にあたります。定敬は将軍「徳川家茂」と同じ弘化3年(1846年)生まれであったことから家茂と仲が良く、厚い信任を受けました。元治元年(1864年)には、京都所司代に任命されますが、この際に若年であるからと拒絶したものの、実兄の容保が京都守護職にあったために拒絶しきれず就任しました。定敬は、容保との兄弟コンビで兄を助け、京都の治安と西国の監視監督を勤めました。「池田屋事件」や「禁門の変」は、この兄弟の時代に起こっています。2回の「長州征討」や「天狗党の乱」でも京都の守備を勤めました。しかし、容保や定敬にとって後ろ盾となっていた「孝明天皇」が、慶応2年(1866年)12月25日に崩御すると、幕府の権力は一気に失墜しました。
第4代藩主「松平定敬」から第5代藩主「松平定教(万之助)」となるまでの間に幕末の動乱によるドラマがあったようです。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)の小御所会議では、将軍「徳川慶喜」・京都所司代「松平定敬」・京都守護職「松平容保」が出席を許されない欠席裁判が行われ、幕府は廃止となり、次いで王政復古の大号令が出されました。
慶喜の周囲では抗戦を主張する主戦派が権限を握り、さらに薩摩討伐を望む声が高まりました。会津・桑名の藩兵が主力の旧幕府軍は、「慶喜公上京の御先供」という名目で、事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始し、慶応4年(1868年)、倒幕派の薩摩・長州と「鳥羽・伏見の戦い」で激突しました。
桑名では軍制改革が行われ、近代洋式の軍隊となっており、兵力では旧幕府軍が有利でしたが、肝心の首脳部が旧態依然とした老職で占められていたため、「新居良次郎」の奮戦も空しく実力を発揮できず、桑名兵11名の死者を出し敗れました。
京都所司代「松平定敬」は、大坂城まで撤退して大坂城の守りに兵をつかせていました。開戦に積極的ではなく、既に大坂城に退去していた「徳川慶喜」が、単身で関東への敵前逃亡を図ると、命令でそれに同行することを余儀なくされました。
桑名本国では、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に薩摩討伐の命令が届けられ、出陣の準備を進めていましたが、敗戦により藩主「松平定敬」が江戸脱出との知らせを受けると、桑名は大混乱となりました。当時、留守を守っていた筆頭重臣で惣宰職(家老)の「酒井孫八郎」は、同年1月10日夕方に15歳以上の藩士及び隠居に対し総登城を命じ、今後の対応策を協議しました。対応策として出されたのは以下の3案でした。

1、新政府軍への恭順・開城する「恭順論」
2、開城して全藩士が江戸の定敬に合流して今後を決定する「開城東下論」
3、新政府軍に抗戦して籠城を辞さない「守戦論」

意見がまとまらず、やむなく酒井は藩祖の神前において、クジを引いてそれに従うことになりました。その結果、「開城東下論」に決しました。
先の見えない「開城東下論」そのものに対する不満に加え、徳川家への忠義や新政府への不信から守戦を唱える者、戦いを無謀と考えて恭順を唱える者は納得しませんでした。
こんな大事なことをクジで決められても納得できるはずがありませんよね。
特に江戸時代以前から桑名一帯に住んできた小領主層の末裔とされている下士の中には、「恭順論」へ転向のために実力行使を計画する動きがありました。同年1月11日にそんな下士の1人である「矢田半左衛門」は、同志を集めて「先代、松平猷(定猷)」の実子、松平定教(万之助)」を第5代藩主に擁立して、恭順すべきである」とする決議をまとめ、翌日、酒井ら重臣たちに決議を突きつけました。これを知った他の恭順派も次々と同様の要請を行い、守戦派もこれに対抗する意見を出しました。そのような時に桑名藩が朝敵に指定された報が入ると、議論は恭順論に一気に傾きました。(神前籤引き騒動)
実際問題、定敬が京都所司代として重職にあったため、藩の財政は火の車であり、軍兵も「鳥羽・伏見の戦い」で敗れ、桑名にいたのは老幼兵500名に過ぎず、抗戦は不可能に近い状態でした。恭順に傾かざるを得ない事情だったようです。
藩主「松平定敬」留守の間に藩主を交代させようとする裏切行為ですから、酒井らは猷の正室で真田氏の娘「珠光院」の支持を取り付けました。しかし、「あくまで降ることを潔しとしない」30名ほどが、脱藩して定敬のもとに走りました。
酒井は、直ちに尾張藩の周旋で恭順を新政府に認めて貰おうと画策しますが、尾張藩領内不穏(佐幕派の弾圧)の情報に伊勢亀山藩へ周旋先を変更し、折しも知己であった薩摩藩の「海江田信義」が、東海道軍の参謀として同藩を訪問すると知り、直接、海江田と交渉を行いました。その結果、定教と重臣、「鳥羽・伏見の戦い」参戦者で桑名に帰還した者を連れて、四日市の東海道鎮撫総督「橋本実梁」の下に出頭することになりました。同年1月23日に定教以下が出頭すると、城明け渡しと全藩士が城外の寺院で謹慎することが命じられ、その保証のために定教が光明寺に幽閉されることになりました。酒井は、藩存続のためにこれを受け入れ、桑名城は同年1月28日に無血開城となりました。
一方、江戸の定敬は兄の容保と共に抗戦を主張しましたが、「徳川慶喜」が恭順派に回った上に自らの責任を定敬と容保らになすりつけて同年2月10日には、遂に2人を登城禁止にする有様でした。
こうしてみると江戸幕府が滅びたのは、将軍職が世襲で実力を伴っていなかったからなのかもしれませんね。
慶喜にまで見捨てられた定敬は、飛び地である越後柏崎に入って兄の容保と共に抗戦の意を固めました。なお、これに先立つ同年1月29日には、桑名から定教擁立と桑名城開城決定の報告を受けて、決定に従う旨を本国に伝えているため、当初は藩の恭順決定に従う心算だったのかもしれません。抗戦論に転じたのは柏崎移動後とみる見解もあります。
慶応4年/明治元年 – 明治2年(1868年 – 1869年)、新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟による内戦(戊辰戦争)へと突入します。
越後柏崎への逃亡の際に定敬は、会津藩及び越後長岡藩の「河井継之助」らと攻守同盟を結んだとされています。桑名藩は会津藩など旧幕府軍と共同して、「立見鑑三郎」など一部の藩士が関東各地を転戦し、「宇都宮戦争」では敗れたものの奮戦しました。
桑名の方は、定敬の親戚である尾張藩の管理下に置かれ、「酒井孫八郎」以下重臣から足軽に至るまで、桑名藩士771名が城下の8か所の寺院に収容され、謹慎することになりました。これらの寺院は近接しており、バラバラに幽閉されて連絡が取れなくなる事を恐れた酒井ら藩首脳が先手を打って、新政府側に提案した策とされています。酒井ら重臣は、新政府によって幽閉状態にある定教を新たな藩主として宥免を得て、藩を存続させる事を目指していました。
謹慎中の藩士達を密かに桑名藩の宥免工作のため京都に派遣し、宥免の説得材料として(前)藩主である定敬の帰国を促すため江戸や柏崎にも派遣していました。当時、藩士達は謹慎処分中であり、状況によっては新政府に重罰に処せられる可能性があっただけに命がけの役目でした。また、同藩出身の箏曲師「椙村保寿」ら桑名の領民の中にも酒井ら重臣と連絡を取り合って工作に当たる者がいました。
桑名藩の宥免工作が実を結び、慶応4年閏4月3日、新政府は謹慎中の藩士の監視に当たる尾張藩・安濃津藩の嘆願に応える形で藩重臣および「鳥羽・伏見の戦い」の従軍者以外の藩士については、自宅謹慎に切り替える事となりました。桑名藩宥免に向けた第一歩となったものの、同時に定敬が降伏しない限り、宥免をする事は出来ない事を改めて示されていました。
同年閏4月29日、定教が幽閉先の四日市から桑名に戻る事が許され、酒井ら重臣が謹慎していた本統寺で引き続き謹慎することになりましたが、これによって藩庁の機能が復活することになりました。本統寺の藩庁は、同年10月に定教の桑名城居住が認められるまで続きました。
その後、「鳥羽・伏見の戦い」後に大坂で謹慎していた藩士や江戸・柏崎で定敬と行動を伴にせず桑名への帰還を望む者の帰国問題も浮上します。これに対しては、「鳥羽・伏見の戦い」に参加していた藩士のみを寺院に謹慎させ、他の者は自宅などで謹慎させるなどの措置が取られています。開城後の桑名本国の藩士達が、恭順の姿勢を見せている事や監視要員を出している尾張藩・安濃津藩の経済的負担を考慮したものでした。
柏崎の方では、家老の「吉村権左衛門」が恭順派として、強い権勢を誇っていました。この吉村は藩祖の「松平定綱」が5,000石で招いた「吉村又左衛門」の子孫です。
「吉村権左衛門」は、定敬から主戦派の「山脇十左衛門」を遠ざけ、柏崎の全藩士を連れて桑名に戻り恭順しようと計画していました。これを知った定敬は、山脇と結託して吉村を暗殺してしまいます。皮肉にも桑名本国では、桑名藩宥免に向けた新政府による寛典の第一弾が行われた日でした。
こうして柏崎の桑名兵は、主戦派が実権を握り、山脇や立見が中心人物となって、雷神隊など4隊が結成されました。この桑名軍は旧幕府軍最強としてその名を轟かせ、旧態依然とした家老らを排除して能力優先の革新的な軍隊となりました。この軍隊は高田藩から進撃してきた「山県有朋」率いる新政府軍を「鯨波戦争」で撃破し、その後も各地で新政府軍を破りました。しかし、友軍の長岡藩・会津藩などが敗れて、重要な拠点である鯨波と柏崎を放棄せざるを得なくなります。新たに妙法寺を拠点とした桑名軍は、立見の活躍で5月には、兵の損失皆無で新政府軍を赤田北方で破っています。「長岡戦争」でも朝日山合戦で、立見は大いに活躍し、松下村塾出身の東山道軍仮参謀「時山直八」を討ち取り、新政府軍に大打撃を与えました。しかし、彼らの活躍は桑名本国の藩士達の謹慎を伸ばす結果になり、「主戦論が占める定敬周辺」と「恭順論で固まった本国」との間に溝を深めることになりました。
その後、立見と共に優秀な指揮官だった河井が戦死し、さらに新発田藩の裏切りで新政府軍が海路から新潟に上陸するに及んで戦線は瓦解しました。定敬は兄の容保を頼って会津に落ち延びました。
「会津戦争」でも桑名軍は、会津軍と共同して激戦を繰り広げ、立見は自ら抜刀して、薩摩軍と戦うほどに奮戦しました。しかし、寒河江で最後の決戦をした立見ら桑名軍は、庄内藩の軍勢と共に降伏しました。
会津からさらに逃亡を続ける定敬は、名を「一色三千太郎」と改めて、「榎本武揚」と共に箱館に渡りました。この際に定敬に随従した17人が「土方歳三」の新撰組に入隊しています。
桑名の「酒井孫八郎」は、藩の存続のために定敬の身柄を新政府に差し出す必要があると判断し、自ら五稜郭に乗り込んで定敬を連れ出す決意をしました。同年11月4日に桑名を出発して東京に入り、そこから尾張藩と新政府の了承を得て、同年12月24日に蝦夷地に入り、明治2年(1869年)1月1日、定敬と面会するとともに、「榎本武揚」「土方歳三」「板倉勝静」らに定敬の引渡を要求しました。しかし、同年4月になって新政府軍が五稜郭に迫ると、酒井は定敬を強引に連れ出して船に乗せます。
酒井は先に東京に入って、定敬を出頭させる準備を始めましたが、定敬は上海にまで密航逃亡しました。しかし、路銀が尽きて外国への逃亡を諦め、新政府に遂に降伏しました。
「酒井孫八郎日記」よると、明治元年10月9日に「松平定教」を城主として、桑名城に居住することが認められ、同年11月19日には、「鳥羽・伏見の戦い」での従軍藩士に対する謹慎も自宅謹慎に切り替えられたと記されています。
この時点では、藩の取り潰しを免れたわけではなく、これ以上の宥免には至っていません。
新政府の会議で参与である「木戸孝允」は、桑名藩の国元がいくら恭順していても、定敬主従が抵抗している限り、他藩や新政府軍の兵士の心情を考慮すれば、条理上宥免は不可能であると述べています。
定教や酒井以下藩士の恭順に対する寛典が、定教の桑名入城や「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍と交戦した藩士の自宅謹慎(助命の確定)への切り替えによって、これ以上与えるものがなくなっていたのも事実です。「恭順者に対しては寛典で報いる」という条理も行き詰まってしまったのです。
桑名藩のさらなる宥免には定敬の投降が必要であり、「酒井孫八郎」が箱館から定敬を連れ戻そうとする工作には、城地を預かることが負担となっていた尾張藩士も加担したとされています。それだけに、明治2年4月の定敬の投降は、桑名藩の人々のみならず、新政府としても桑名藩宥免の口実が出来たことで安堵させられました。
「椙村保寿」が、親交の篤い「大久保利通」に直接桑名藩宥免を嘆願したのもこの時期のことです。
同年8月15日に桑名藩に対する処分は決定され、「松平定教」の恭順をもって取り潰しは免れ、所領を11万石から6万石に減らした上で与えるものとされました。同年8月23日に尾張藩などの兵は桑名から撤退し、同年9月20日には定教を正式に藩知事に任じて従五位に叙することになりました。
定敬は新政府に降伏すると東京で取調べを受け、明治4年3月14日に桑名に移されて、明治5年(1872年)1月6日まで謹慎を続けました。
これだけ新政府に抵抗した人物が、切腹にならなかったのが不思議です。明治3年(1870年)に「庚午事変」の首謀者数名が切腹したのが、日本の法制史上最後の切腹事例となり、明治6年(1873年)に切腹は廃止されています。ちょうど廃止の方向で検討されていた時期なのかもしれません。
明治4年(1871年)の廃藩置県で桑名藩は廃藩となり、桑名藩士はその2年後に禄高交付が廃止されて収入が絶たれると、下級役人や教員・軍人に求職しました。しかし、桑名は朝敵となったことから差別を受けて、肩身の狭い思いをしていました。明治10年(1877年)の西南戦争では、怨みを晴らすために400名もが出征しています。明治時代には地の利を生かして、富国強兵の軍需産業の活発化に便乗し、重工業が大いに発展しました。

桑名城の石垣

桑名城の天守台

四日市港の潮吹き堤防

桑名城(くわなじょう)は、三重県桑名市にあった平城です。江戸時代は伊勢桑名藩の藩庁が置かれました。桑名城の城門は、了順寺(桑名市大福)の山門に移築したものとされ、現存しています。三の丸御殿は、浄泉坊(三重郡朝日町小向)に移築され、現存しています。その他の遺構としては、一部の堀や海沿いには石垣が残り、三重県の史跡に指定されています。また、築港家の「稲葉三右衛門」による四日市港(四日市市)の建設工事の際に、明治政府の桑名藩に対する懲罰処分として桑名城石垣の一部を転用して、外洋との防波堤が建造されました。この堤防は、通称「潮吹き堤防」と呼ばれ、堤防上に空いた穴より波の威力を半減するという珍しい構造から国の重要文化財に指定されています。

桑名別院本統寺

本統寺(ほんとうじ)浄土真宗大谷派のお寺です。慶応4年4月から10月まで桑名藩の藩庁として機能していました。創建は、慶長元年(1596年)で、教如上人によって開かれたのが始まりとされています。江戸時代は、豪商「山田彦左衛門」の庇護により寺運が隆盛し、広大な境内には数多くの豪勢な堂宇が建てられ、第14代将軍「徳川家茂」や「明治天皇」など高い身分の宿所としても利用されました。桑名城が廃城になると櫓の1つが移され「聚星閣」と称していましたが、太平洋戦争の戦災で焼失しました。境内には、貞享元年(1684年)に本統寺の住職「琢恵」を訪ねた「松尾芭蕉」が詠んだ「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす」の句碑(冬牡丹句碑)が建立され、桑名市指定文化財に指定されています。

菰野藩
菰野藩(こものはん)は、伊勢国三重郡(三重県三重郡菰野町菰野)に存在した藩です。
藩祖は、「土方雄久」の長男「土方雄氏」です。雄氏は、「織田信雄」、豊臣氏に仕え、伊勢菰野に1万石を領していましたが、慶長4年(1599年)に「徳川家康」と「本多正信」の主従が画策した「幻の家康暗殺事件」の嫌疑をかけられて所領を没収され、常陸国太田に追放となりました。しかし、「関ヶ原の戦い」直前にその罪を許され、雄氏は伊勢・近江国内に1万2000石の所領を与えられて菰野に陣屋を構え、菰野藩が立藩しました。第2代藩主「土方雄高」は、陣屋と城下町を建設し、商工業者を招いて新たに東町・河原町を新設します。また、藩の体制を整備して藩政の基礎を固めました。
しかし、以後の藩主が財政において放漫だった結果、菰野藩の財政は逼迫します。このような状況を見た第7代藩主「土方雄年」は、保守的な家臣団を処罰して緩んだ綱紀の引き締めを図りましたが、大坂や駿府の加番勤務、藩内における凶作などの天災から、藩財政は悪化の一途をたどりました。第9代藩主「土方義苗」は、「臨時準備積立法」を制定して、年間225俵の米を一割二分の利で13年間も積み立てました。さらに質素倹約や経費節減、灌漑工事などを積極的に行なって、財政再建を見事に成し遂げ、文化的には藩校「麗沢館」を創設するなどした菰野藩中興の名君でした。第10代藩主「土方雄興」のとき、「佐々木惣吉」が、稲の品質改良に務め、種関取米の栽培に見事成功しました。また、「紅屋善左衛門」が、菰野茶の売出しをはじめ、嘉永年間には「大谷九左衛門」が、第11代藩主「土方雄嘉」の許可を得て、茶園を建設しました。年貢の取立てが比較的緩やかだったため、明治維新まで一揆がなかった珍しい藩です。

菰野陣屋

菰野陣屋移築門

菰野陣屋(こものじんや)は、慶長6年(1601年)に「土方雄氏」が、菰野領1万2千石を与えられて築いたのが始まりとされています。第2代藩主「土方雄高」が、本格的に陣屋を整備し、周辺に家臣を住まわせ、四日市街道を引き込む事で陣屋町として形造られました。第3代藩主「土方雄豊」が、武家町を陣屋に取り込むように外側に柵や門を設けて、一応の完成を見ました。陣屋内部には、藩主の居館・藩庁・武器庫・兵糧蔵などがあり、明治元年(1868年)には、第12代藩主「土方雄永」が「益子姫」を迎えた際に2重隅櫓を設けています。明治4年の廃藩置県により多くの建物は破却、払い下げとなり、敷地は菰野小学校(元菰野小学校)となりました。現在、一部の土塁・石積・掘などが残り、陣屋門が金蔵寺の山門として移築されています。

亀山藩
伊勢亀山藩(いせかめやまはん)は、伊勢国に存在した藩です。藩庁は、伊勢亀山城(三重県亀山市)に置かれました。丹波亀山藩と区別するために伊勢亀山藩と表記します。
伊勢亀山は戦国時代、「織田信長」「豊臣秀吉」に仕えた「関盛信」が領有していました。盛信の子「関一政」は、美濃多良に移封となります。代わって、豊臣氏の家臣「岡本良勝」が、2万2000石で入封します。良勝は、亀山城を築き、城下を発展させて検地を行ない、藩政を確立しています。しかし、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で西軍に与して改易されました。
代わって、東軍に与した「関一政」が関ヶ原における功績で、旧領復帰を許されて3万石で入封します。一政は、亀山宿の整備や城郭の修築などに尽力しました。しかし、慶長15年(1610年)7月19日、伯耆黒坂藩へ移封され、7月27日に三河国作手藩より「松平忠明」が5万石で入封します。慶長20年(1615年)5月、「大坂夏の陣」で豊臣氏が滅ぼされると、直後の6月10日に忠明は、摂津大坂藩に移封され、亀山藩は廃藩となります。その領地は、四日市代官の「水谷光勝」や津藩領として支配されることになりました。
元和5年(1619年)9月29日、三河挙母藩より「三宅康信」が1万石で入封し、元和6年(1620年)8月に2000石の加増を受けて1万2000石で再立藩し、藩主となります。しかし、第2代藩主「三宅康盛」時代の寛永13年(1636年)5月18日、旧領、三河挙母藩へ戻されました。約1ヵ月後の6月23日、三河西尾藩より「本多俊次」が、5万石で入封します。俊次は、寛永14年(1637年)に領内のほぼ全域で検地を行ない、翌年の寛永15年(1638年)には、「代官・大庄屋制度」を確立し、亀山城の修築を行なっています。しかし、慶安4年(1651年)4月4日に近江膳所藩へ移封となります。入れ替わりで「石川憲之」が5万石で入封しますが、寛文9年(1669年)2月25日に山城淀藩へ移封となります。
代わって、下総関宿より「板倉重常」が、5万石で入封しますが、第3代藩主「板倉重治」時代の宝永7年(1710年)1月26日に志摩鳥羽藩へ移封されます。入れ替わりで「松平乗邑」が、6万石で入封しますが、享保2年(1717年)11月1日に山城淀藩へ移封となります。再び「板倉重治」が戻され、第2代藩主「板倉勝澄」時代に板倉氏は「石川総慶」と交代する形で、延享元年(1744年)3月1日、備中松山藩へ移封となります。
このように伊勢亀山藩は、藩主家の交替が激しい土地であり、藩主の長期間における支配が定着しませんでしたが、「石川総慶」が6万石で入封して、ようやく藩主家の支配が定着しました。因みに、この石川氏は「徳川家康」に仕えたことで有名な「石川数正」の系統ではなく、数正の叔父「石川家成」の系統です。ただし、「大久保忠隣」の次男「石川忠総」が養子として、家成の家督を継いでいますので、血統としては大久保氏になります。
第4代藩主「石川総純」は、米の専売や荒地における検地を行なって、藩財政再建を目指しましたが、これに反対する百姓一揆が明和5年(1768年)に起こり、改革は失敗しました。第5代藩主「石川総博」は、寛政2年(1790年)に藩校「明倫堂」(のち明倫館に改称)を創設しました。第10代藩主「石川総禄」は、洋式軍備の導入や茶の栽培奨励などを行なっています。第11代藩主「石川成之」の時代に幕末を迎え、明治2年(1869年)の版籍奉還で、藩知事に任じられています。

伊勢亀山城

遍照寺本堂

伊勢亀山城(いせかめやまじょう)は、伊勢国鈴鹿郡亀山(三重県亀山市本丸町)にあった平山城です。別名、粉蝶城(こちょうじょう、ふんちょうじょう)とも呼ばれています。
明治6年(1873年)の廃城令によって、殆どの構造物が取り壊され、現在は、天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁など一部が残るに過ぎません。ただ、多聞櫓は原位置のまま残る中核的城郭建築として三重県下では唯一の遺存例であり、現存する多聞櫓として全国的にも数少ない存在であるため、本丸南東の天守台と多聞櫓本体を併せて、「旧亀山城多聞櫓」の名称で、三重県の史跡に指定されています。また、二の丸御殿玄関は、西町の遍照寺本堂に移築されています。

神戸藩
神戸藩(かんべはん)は、伊勢国河曲郡周辺を領有した藩です。藩庁は、神戸城(三重県鈴鹿市神戸)に置かれました。
神戸城2万石の城主だった「滝川雄利」は、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」に於いて西軍に与したため改易となりました。代わって、慶長6年(1601年)に尾張国黒田城(愛知県一宮市木曽川町)3万5000石の城主だった「一柳直盛」が5万石で入封し、神戸藩が立藩しました。
寛永13年(1636年)に直盛は更に加増を受け、6万8000石で伊予国西条藩に転封となりました。これに伴い幕府領となり、神戸城の主要な建築物は破却されました。
慶安4年(1651年)、近江国膳所藩主「石川忠総」の次男「石川総長」が、忠総の遺領のうち神戸周辺の1万石を分与されたため、神戸藩が再立藩しました。総長は、万治3年(1660年)に大坂定番となり、河内国内に1万石の加増を受け、併せて2万石となりました。第3代藩主「石川総茂」は、弟「大久保忠明」に3000石を分知したため、1万7000石となり、享保17年(1732年)には、常陸国下館藩に転封となりました。
代わって、河内国西代藩より「本多忠統」が、1万石で入封しました。延享2年(1745年)には、5000石を加増され、以後1万5000石が神戸藩の知行高となりました。忠統が若年寄に就任したことにより築城を許され、寛延元年(1748年)には、神戸城が再興されました。忠統は、文人大名としても有名で、「荻生徂徠」の門人であり、茶人としては「宗範」を名乗っていました。また、忠統は、城内に「三教堂」、江戸藩邸に「成草館」という藩校をそれぞれ興しました。
第5代藩主「本多忠升」は、享和3年(1803年)に倹約令を出し、自身も節食するほど徹底したものでした。また、藩校を改革し、従前の古学を朱子学に変更するとともに、文化10年(1813年)には、城内の藩校を「教倫堂(こうりんどう)」、江戸の藩校を「進徳堂」と改名しています。
第6代藩主「本多忠寛」の時代の嘉永7年(1854年)に起きた安政東海地震では、神戸城と城下町に大きな損害を被り、47人の死者を出しました。
忠寛は、安政4年(1857年)4月26日に家督を養子の「本多忠貫」に譲って隠居します。第7代藩主「本多忠貫」の時代に幕末を迎え、知藩事に任じられます。

神戸城跡

蓮花寺の鐘楼(二の丸太鼓櫓)

神戸城(かんべじょう)は、三重県鈴鹿市神戸本多町にあった平城です。別名、本多城(ほんだじょう)とも呼ばれています。
城跡は公園として整備され、本丸の石垣および堀の一部が残り、三重県の史跡に指定されています。現存する建物として、市内東玉垣町の蓮花寺の鐘楼として移築された、二の丸太鼓櫓および四日市市西日野町の顕正寺に移築された大手門があります。また、城下の龍光寺には、神戸城主の「本多忠統」が建てた書院(坐忘亭、県指定有形文化財)があります。

 

如何でしたでしょうか。三重県と言えば伊勢神宮や風光明媚な伊勢志摩しか思い浮かぶものがありませんでした。明治維新に桑名藩が、これほど大きく関わっていたとは全く知りませんでした。これまで桑名に行ってみようと思ったことは一度もありませんでしたが、名古屋から30分足らずで行けるようなので、旅行計画を作る際には検討してみたいと思います。やはり歴史を知るという事は大事ですね。これまで眼中になかった土地にも行ってみたくなりますからね。

 

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