歴史を紐解く(廃藩置県)- 和歌山県編



和歌山と言えば紀州徳川家から将軍を輩出し、江戸幕府とは関係の深いところです。私は南紀白浜から新宮・熊野を旅行したことがありますが、あまり知識はありません。みかんがとても美味しかったくらいの記憶しかありませんし、和歌山市にも行ったことがありません。
帰路に就いた翌朝に「阪神淡路大震災」が発生し、記憶がそちらの方で欠落してしまったようです。一日遅れていたら帰れなかったかもしれませんね。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の和歌山県になるまでの変遷です。

大変、楽そうですね。ほぼ和歌山藩で終わりです。それだけ不動の藩だったという事でしょう。年表からも幕府から護られてきたことが伺われます。

和歌山藩
和歌山藩(わかやまはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(和歌山県と三重県南部)を治めた藩です。紀伊藩(きいはん)や紀州藩(きしゅうはん)とも呼ばれています。
版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩ですが、紀州藩と呼ぶ方が一般的のようです。藩庁は、和歌山城(和歌山県和歌山市)に置かれました。
藩主は、徳川御三家の紀州徳川家です。石高は、55万5千石で、紀伊一国37万石のほか、伊勢南部3郡18万石、大和に約1千石の所領がありました。(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含んでいます。)
紀伊国は、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の後、甲斐国主であった「浅野幸長」に与えられ、浅野家の治める紀州藩が成立しました。元和5年(1619年)の「福島正則」改易に伴い浅野家が安芸国広島藩に移されると、それまで駿府藩主だった「徳川家康」の十男「徳川頼宣」が、浅野の旧領に南伊勢を加えた55万5千石で入封し、紀州徳川家の治める親藩として紀州藩が成立しました。
頼宣は浪人を多く召し抱え、慶安4年(1651年)の「慶安の変」では、その首謀者「由井正雪」との関係を幕府に疑われたこともありました。これは将軍家に対する対抗心からともいわれますが、詳細は不明です。頼宣の孫である第3代藩主「徳川綱教」は、第5代将軍「徳川綱吉」の長女「鶴姫」を娶ると、子のない綱吉の後継者に擬せられるようになりましたが早世してしまいました。その後、紆余曲折を経て、享保元年(1716年)に綱教の弟で第5代藩主「徳川吉宗」が、将軍家を相続して第8代将軍となると、200名を超える紀州藩士が吉宗に供奉して江戸に上り、幕臣に組み込まれました。トランプ次期大統領の政権移行チームに親族や側近が登用されたのと同じですね。
吉宗を出した後に支藩から宗家を相続した第6代藩主「徳川宗直」は、石高の57%を損失した「享保飢饉」による財政難を2万両の公金拝借で切り抜け、以後はこの財政赤字を公金で繕うやりくりが踏襲されました。和歌山藩は将軍家に近いことから財政的に幕府への依存を深め、これが一方で幕府財政を圧迫する要因となりました。現在と全く同じですね。何かにつけて公的資金を投入して財政赤字を生むやり方は、江戸時代に根付いたものなのかもしれません。
第11代藩主の「徳川斉順」は、天明年間の拝借金が棄損となり、幕府の大坂蔵詰米より新たに2万俵を借用し、拝借金残金は4万5千両に達していました。
第13代藩主の「徳川慶福」は、第11代将軍「徳川家斉」の孫で、安政5年(1858年)に子のない第13代将軍「徳川家定」の後、将軍家を相続して第14代将軍「徳川家茂」となりました。第8代将軍「徳川吉宗」以後の歴代の将軍はいずれも紀州藩およびその連枝である一橋徳川家に連なる者で占められることになりました。
明治期には廃藩置県により和歌山県になりますが、紀伊国の東部と伊勢国の紀州藩領は、三重県に編入されました。

歴代将軍を時系列に整理して、徳川将軍家と紀州徳川家との関わりを見ていきます。

徳川将軍家

初代将軍:徳川家康(将軍家)
長男「松平信康」は切腹を命じられ、三男「徳川秀忠」が第2代当主となる。

第2代将軍:徳川秀忠(将軍家)
長男「長丸」は早世し、次男「徳川家光」が第3代当主となる。

第3代将軍:徳川家光(将軍家)
長男「徳川家綱」が第4代当主となる。

第4代将軍:徳川家綱(将軍家)
実子なく、館林徳川家から「徳川家光」の四男「徳川綱吉」を養子に迎え、第5代当主となる。

第5代将軍:徳川綱吉(館林徳川家)
長男「徳松」は早世し、甲府徳川家から「徳川家光」の孫で、「徳川綱重」の長男「徳川家宣」が第6代当主となる。

第6代将軍:徳川家宣(甲府徳川家)
長男「夢月院」次男「家千代」三男「大五郎」が早世し、四男「徳川家継」が第7代当主となる。なお、長男は生まれてすぐ亡くなったため戒名しかありません。

第7代将軍:徳川家継(将軍家)
実子なく、紀州徳川家から「徳川家康」の玄孫で、「徳川光貞」の四男「徳川吉宗」を養子に迎え、第8代当主となる。秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶える。

第8代将軍:徳川吉宗(紀州徳川家)
長男「徳川家重」が第9代当主となる。

第9代将軍:徳川家重(将軍家)
長男「徳川家治」が第10代当主となる。

第10代将軍:徳川家治(将軍家)
長男「徳川家基」は16歳で突然死、他に男子が居らず、一橋徳川家から「徳川吉宗」の玄孫で、「徳川治済」の長男「徳川家斉」を養子に迎え、第11代当主となる。家治は、「田沼意次」を老中に任命し幕政を任せていたため、後継工作説や田沼が家治に毒を盛ったのではないかという噂もある。

第11代将軍:徳川家斉(一橋徳川家)
長男「竹千代」が早世し、次男「徳川家慶」が第12代当主となる。

第12代将軍:徳川家慶(将軍家)
長男「竹千代」次男「嘉千代」三男「円常院」が早世し、四男「徳川家定」が第13代当主となる。家慶は14男13女を儲けましたが、成人まで生き残ったのは家定だけでした。その家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌っていました。

第13代将軍:徳川家定(将軍家)
実子なく、紀州徳川家から「徳川家定」の従弟で、「徳川斉順」の次男「徳川家茂」を養子に迎え、第14代当主となる。

第14代将軍:徳川家茂(紀州徳川家)
実子なく、第12代将軍「徳川家慶」の意向により、一橋徳川家を相続していた水戸徳川家「徳川斉昭」の七男「徳川慶喜」を養子に迎え、第15代当主となる。

第15代将軍:徳川慶喜(一橋徳川家)
水戸徳川家出身で一橋徳川家を相続していたが、徳川将軍家の養子となり江戸幕府最後の将軍となる。
江戸幕府第12代将軍「徳川家慶」の嫡男で第13代将軍「徳川家定)は、病弱で言動も定かではなく、家慶は水戸藩主「徳川斉昭」の七男で、一橋徳川家を継いでいた「徳川慶喜(一橋慶喜)」を養子とする事を考えた。しかし、老中「阿部正弘」の反対で思いとどまり、公式に確定されたものではないが、家定に不測の事態が起きた際に慶喜を後継とすることとした。
家慶の死去後、家定は更に病状を悪化させて時には廃人に近い状態となり、政務が満足に行えなかった。しかも子はなく、その後継者問題が急浮上した。
後継者問題をめぐり「徳川慶喜(一橋慶喜)」を推す一橋派(島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭)と、「徳川家茂(徳川慶福)」を推す南紀派(保守的な譜代大名や大奥)とで対立し、家定が重態となると、南紀派の譜代大名は彦根藩主「井伊直弼」を大老に据えて、家定の名で後継者を「徳川慶福」とすることが発表された。家定の意向で自分の対抗馬である慶喜を嫌って個人的に気にかけていた慶福を指名したとする説など様々な見方もあるが、家定が没すると、慶福は「家茂」と改名して第14代将軍となった。
「井伊直弼」は、一橋派を初めとする反対派を粛清した「安政の大獄」に乗り出すが、「桜田門外の変」で暗殺されます。その後、「文久の改革」で一橋派は復権し、家茂の死後、慶喜は第15代将軍に就任することになった。慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還により将軍家としての徳川家は終焉を迎えた。
徳川将軍家は、明治維新後の明治17年(1884年)には、公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となり、第13代将軍「徳川家定」と第14代将軍「徳川家茂」の従弟で、田安徳川家「徳川慶頼」の三男「徳川家達」が、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、第16代当主となる。

徳川公爵家

第16代当主:徳川家達(田安徳川家)
長男「徳川家正」が第17代当主となる。

第17代当主:徳川家正(公爵家)
長男「徳川家英」は、未婚のまま死去したため、家正の外孫で、会津松平家「松平一郎」の次男「徳川恒孝」を養子に迎え、第18代当主となる。昭和22年(1947年)、日本国憲法の施行により、華族制度は廃止され、単に徳川宗家と呼ばれるようになる。

徳川宗家

第18代当主:徳川恒孝(会津松平家)
長男「徳川家廣」が第19代当主という事になるが、現行憲法では家督制度は存在しないため、適切な表現とは言えない。家廣は、陸奥国会津藩の第9代藩主「松平容保」の玄孫で、水戸徳川家の子孫にあたる。

徳川将軍家の略系図

第7代将軍「徳川家継」で、「徳川秀忠」の男系男子が途絶え、その後はテレビ時代劇「暴れん坊将軍」で有名な紀州徳川家「徳川吉宗」が第8代将軍となり、吉宗の男系男子により第14代将軍「徳川家茂」まで続きます。江戸幕府末期には、家臣達の権力闘争に巻き込まれる形で水戸徳川家の男系男子である「徳川慶喜」が最後の将軍となっています。
今で言う派閥抗争みたいなものですね。現在の徳川宗家第19代当主にあたる「徳川家廣」は、先祖を遡ると「徳川恒孝・松平一郎・松平容保・松平義建・松平義和・徳川治保・徳川宗翰・徳川宗堯・松平頼豊・松平頼侯・松平頼重・徳川頼房(水戸徳川家の祖)・徳川家康」となっています。今は水戸徳川家の時代なのかもしれませんね。香川県編でも触れておりますとおり、「徳川頼房」の長男「松平頼重」は、讃岐高松藩の初代藩主となり、三男「徳川光圀(水戸黄門)」は、常陸水戸藩の第2代藩主となっています。「徳川家廣」は、水戸徳川家の祖「徳川頼房」の長男「松平頼重」の血統という事になります。

和歌山城

和歌山城(わかやまじょう)は、和歌山県和歌山市一番丁にある平山城です。城跡は国の史跡に指定されています。和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀としています。
本丸と二の丸が和歌山城公園として整備され、石垣・堀をはじめ、公園内には岡口門・土塀・追廻門が現存し、岡口門・土塀は国の重要文化財に指定されています。二の丸にある大楠は和歌山県指定天然記念物で、大小天守群とそれに続く櫓・門・大手門・一之橋が復元されています。

田辺藩
紀伊田辺藩(きいたなべはん)は、紀州徳川家の附家老「安藤氏」が治めた藩で、歴代紀州藩主を補佐し、紀伊国に所領を与えられていました。「徳川家康」存命の頃は大名扱いでしたが、家康の死後、紀州徳川家の家臣として扱われ、徳川将軍家との関係は陪臣となり、江戸幕府のもとでは独立の藩として認められていませんでした。なお、丹後田辺藩と区別するために紀伊田辺藩と表記します。
藩庁は、紀伊田辺城(和歌山県田辺市)という事になりますが、前述のとおり藩として認められていなかったため当然、藩庁も存在しないことになります。
浅野氏が紀伊国を支配していた頃は、一族の「浅野知近」が領していました。
元和5年(1619年)7月、「徳川家康」の十男「徳川頼宣」が紀州藩主に封じられたとき、その附家老として遠江国掛川城主「安藤直次」が附けられました。直次は紀伊田辺(和歌山県田辺市)に3万8,000石の所領と紀伊田辺城を与えられました。
歴代藩主の安藤氏は、紀州藩の執政として紀州藩政に参与することが多かったため、和歌山城下に住む者が多く、紀伊田辺城の城代を直次の従弟である「安藤直隆」の子孫が務めていました。しかし、歴代藩主が田辺入りすることも頻繁でした。藩内では、安永6年(1777年)6月には米騒動、天明6年(1786年)12月には米価昂騰が原因で騒動が起こりました。また、幕末期には海防が重視され、藩内に大砲28門、砲台築造などが行なわれました。その一方で「田辺与力騒動」なども起こりました。
安藤家といえば、直次の弟「安藤重信」をはじめ、多くの人物が幕閣となり、幕府の中枢を担っていました。領土も磐城平藩を領するなどしましたが、三河安藤宗家は、この紀州徳川家を支えた安藤家であり、他の安藤家は分家です。
慶応4年(1868年)、明治政府の計らいによって独立の藩と認められて立藩しました。江戸時代に藩として認められていなかったので、明治初年に立藩したという訳です。

紀伊田辺城(水門・石垣)

紀伊田辺城(きいたなべじょう)は、和歌山県田辺市にかつて存在した平城です。別名、錦水城(きんすいじょう)・湊村城・湊城などとも呼ばれます。現在の田辺市街の西南端に位置し、会津川の河口左岸と海に隣接していました。1869年(明治2年)の田辺城図や「田辺要史」によれば、本丸には平屋造の表御殿・奥御殿・対面所など数十棟があったようです。二の丸には家老や用人・留役・奉行などの詰所などがありました。南側の二の丸との間に土蔵があり、城門は東向きの長さ八間の楼門で、裏門が二の丸側に、水門は会津川側にありました。明治4年(1871年)の廃藩置県と同時に城は払い下げられ、城郭は破却されました。城跡には多くの民家が建てられ、錦水町という地名になっています。そのため、現在は一部の石垣と水門が残るだけです。

新宮藩
紀伊新宮藩(きいしんぐうはん)は、紀州徳川家の附家老「水野家」が治めた藩で、歴代紀州藩主を補佐し、紀伊国に所領を与えられていました。身分はあくまで紀州徳川家の家臣であり、大名として扱われなかったため、江戸幕府のもとでは独立の藩として認められていませんでした。藩として正式に立藩されたのは明治元年(1868年)のことです。なお、播磨新宮藩と区別するために紀伊新宮藩と表記します。
藩庁は、紀伊新宮城(和歌山県新宮市)という事になりますが、前述のとおり藩として認められていなかったため当然、藩庁も存在しないことになります。
新宮は戦国時代、豊臣氏の家臣「堀内氏善」が領していましたが、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で西軍に与したために没落します。
その後、紀伊国に封じられた「浅野幸長」のもとでは、「浅野忠長」が領していましたが、浅野氏が安芸広島藩へ移封されると、安藤氏と共に、「徳川頼宣」の附家老として「水野重央」が、紀伊国新宮に3万5000石の所領と紀伊新宮城が与えられました。
水野家は代々家老として藩政に重きを成しました。第9代藩主「水野忠央」は、後に紀州藩主から第14代将軍となった「徳川家茂(慶福)」を補佐し、幕末の大老で有名な「井伊直弼」と協力して、家茂を第14代将軍にしようと奔走しました。
安政2年(1855年)、本藩である紀州藩に対して強大な影響力を持った忠央は、紀州藩の領地である木本地方27ヶ村(三重県熊野市木本町)と、新宮藩の領地である有田地方5ヶ村(和歌山県有田市)を領地替えしようとしますが、木本地方の村民の強固な反対(熊野村替騒動)に遭い、安政4年(1857年)、村民の説得のために江戸詰勘定組頭「吉田庄太夫」が派遣されます。しかし、村民の気持ちを理解した「吉田庄太夫」が江戸藩邸にて抗議の自決をする事態となり、最終的には撤回されました。「吉田庄太夫」を偲んで木本神社に祀られました。

紀伊新宮城(西側登城路・冠木門)

紀伊新宮城(本丸の石垣)

紀伊新宮城(本丸の大手虎口)

紀伊新宮城(本丸の搦手虎口)

紀伊新宮城(出丸)

紀伊新宮城(松ノ丸の虎口)

紀伊新宮城(きいしんぐうじょう)は、和歌山県新宮市にあった平山城です。別名、丹鶴城(たんかくじょう)・沖見城(おきみじょう)とも呼ばれます。城跡は「新宮城跡附水野家墓所」として国の史跡に指定されています。
現在は、本丸のほか主な城域が公有地化されて「丹鶴城公園」となっており、「和歌山県朝日夕陽百選」にも選定されています。地下には紀勢本線のトンネルが通されており、東側の一部は「天理教南海大教会」の敷地の一部になっています。新宮市では天守の再建も視野に入れた整備計画が進行中です。

木本神社

木本神社(きのもとじんじゃ)は、三重県熊野市木本町の神社で、安政2年(1855年)、徳川御三家の紀州藩直轄から新宮城主「水野氏」に知行替えが交付された際、熊野村替騒動が起こり、当時の藩士「吉田庄太夫」の尽力により知行替えは中止され、境内には庄太夫を称え吉田大明神の石祠が祀られています。

 

如何でしたでしょうか。江戸幕府にとって紀州は将軍を生んだ大事なところだったわけですね。ほぼ、和歌山藩単独で支配していたのと同じです。安藤氏の紀伊田辺藩や水野氏の紀伊新宮藩は、大名に匹敵するほどの家柄ではあったものの紀州徳川家の家臣だったため、江戸時代は藩として認められませんでした。しかし、明治政府の計らいで藩として認められています。兵庫県編でも触れていますが、明治以降、藩主と旗本および一部の交替寄合は大名として扱われ、華族(大名華族)となり、士族・卒族・平民よりも上の身分になりました。つまり藩主になっていれば華族の身分が与えられた訳です。
徳川御三家のうち紀州徳川家が「徳川吉宗」以降、幕府から護られてきた理由が分かりましたね。歴代の将軍については、東京都編で扱うべきなのかもしれませんが、そのルーツは紀州徳川家なので、ここで紹介いたしました。

 

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