歴史を紐解く(廃藩置県)- 大阪府編



ついに大阪までやって来ました。大阪府の人口は約884万人で、日本国内で第三位の大都市です。2005年の国勢調査までは東京都に次ぐ第二位でしたが、2010年の国勢調査で、神奈川県に抜かれてしまいました。大阪発展の歴史は、ご存知のとおり「豊臣秀吉」の大坂城築城に始まります。なお、本文中では江戸時代までを「大坂」と表記し、明治時代以降を「大阪」と表記するように極力努めましたが、間違いがあるかもしれません。
漢字の表記は当初「大坂」が一般的でしたが、大坂の「坂」の字を分解すると「土に反る」と読めてしまい、縁起が悪いということから、江戸時代の頃から「大阪」とも書くようになり、明治時代には大阪の字が定着しています。ただし、諸説あるので一概に正しい理由とは言えません。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の大阪府になるまでの変遷です。

大半の領域が天領であり、周辺に小藩が付随しているような形です。年表を見てお気付きのとおり、第2次府県統合では、まだ現在の大阪府にはなっていません。また、大阪府以外の天領で、河内県・堺県・摂津県が、明治2年(1869年)の版籍奉還当時、存在していました。少し年表の補足をしておきます。

慶応4年(1868年)
1月22日 大坂鎮台設置
1月27日 大坂鎮台を大坂裁判所と改称
4月 大坂裁判所に町地を除く周辺部を管轄する司農局設置
5月2日 大阪府設置
大阪府発足当時の管轄地域
摂津国東成郡61村、摂津国西成郡132村、摂津国住吉郡37村、河内国交野郡1村
5月19日 奈良県設置
6月8日 大阪府司農局が南北に分割
6月22日 堺県設置

明治2年(1869年)
1月20日 北司農局を摂津県、南司農局を河内県に改称
5月10日 摂津県を豊崎県に改称
8月2日 豊崎県を兵庫県、河内県を堺県に編入合併
9月1日 旧豊崎県住吉郡・東成郡・西成郡を大阪府に編入
12月26日 狭山藩を堺県に編入合併

明治3年(1870年)
2月27日 堺県石川郡・錦部郡の一部を五條県に編入

明治4年(1871年)
7月14日 廃藩置県
11月20日 高槻県・麻田県・旧豊崎県島上郡・島下郡・豊島郡・能勢郡を大阪府に編入合併
11月22日 岸和田県・伯太県・吉見県・丹南県と五條県の一部を堺県に編入合併

明治9年(1876年)
4月18日 奈良県を堺県に編入合併

明治14年(1881年)
2月7日 堺県を大阪府に編入合併

明治20年(1887年)
11月4日 奈良県を再置

大変複雑ですね。長崎県編でも触れていますが、大坂裁判所は、京都の新政府が諸藩に属さない直轄地を治めるために設けた地方行政機関です。司法権を行使する現在の裁判所とは性格が異なります。
大阪府の歴史を紐解くには、この「大坂裁判所」と「豊臣秀吉」について知っておかなければなりません。また、江戸時代の大坂は、どの範囲を指しているのかを理解しないと途中で分からなくなります。現在の大阪府と明治初期の大阪府の領域範囲は全く異なります。

大坂三郷
江戸時代の「大坂町」は、北組・南組・天満組の3組から成っており、これを大坂三郷(おおさかさんごう)と総称していました。
現在の大阪府大阪市中央区の大半・西区の東部・北区の南部を中心に広がり、浪速区・大正区・此花区・福島区・都島区の各一部にも及んでいました。大坂城代・京橋口定番・玉造口定番・大坂町奉行・大坂代官などの役人の居住地や寺院・神社の土地などは、大坂三郷には含まれず、大坂三郷はあくまで町人の住んでいる地域を指しました。
概ね本町通を境に北組と南組に分かれ、大川以北が天満組となっています。ただし、南部の堀江は大半が天満組、難波新地や日本橋は北組といったように、新地開発で後に拡張された地域などは、この通りではなく錯綜していました。
三郷各組から長にあたる惣年寄が選出され、惣会所とその配下となる惣代などが置かれました。各町では町年寄が選出され、町会所とその配下となる町代などが置かれており、組は町と大坂町奉行との中間組織となっていました。
明治2年(1869年)に、東大組・南大組・西大組・北大組の4地域に再編され、のちに東区・南区・西区・北区となりました。

大坂裁判所
大政奉還で江戸幕府が明治新政府に政権返上し、当座の行政の空白を埋める必要から設けられたものが裁判所です。江戸幕府の奉行所と郡代支配所の機能を引き継ぎ、裁判所に総督と副総督を置きました。慶応4年(1868年)1月27日に大坂に設けたのを初め、個別に総督と副総督の任命を発令し、同年4月までに大坂・兵庫・長崎・大津・京都・横浜・箱館・新潟・佐渡・笠松・府中・三河の12裁判所を設けました。政府は、同年閏4月21日に政体書を発行し、「府藩県三治制」を敷くことを布告しました。これに従って、各裁判所は順次、府または県に変更されていきました。つまり裁判所は、府県設置までの行政を中継ぎで担っていたという事ですね。大坂裁判所の前身は大坂町奉行で、江戸時代末期の公卿「醍醐忠順」が総督になり、のちに官選初代大阪府知事となっています。

豊臣秀吉
大坂発展の歴史を抑えるには、欠かせない人物なので、出来るだけ手短に概略を抑えておきます。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、初め木下氏を名字とし、のちに羽柴氏に改めます。本姓は初め「平氏」を自称しましたが、近衛家の猶子となり「藤原氏」に改姓した後、「豊臣氏」に改めました。ご存知のとおり戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、「大名」「天下人」「関白」「太政大臣」「太閤」などと呼称されています。
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされ、当初、今川家に仕えましたが、出奔した後に「織田信長」に仕官し、次第に頭角を現しました。信長が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれると「中国大返し」により京へと戻り、「山崎の戦い」で光秀を破りました。その後、信長の孫「三法師」を擁して、織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得ました。
天正11年(1583年)から慶長3年(1598年)にかけて大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、豊臣姓を賜り日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たしました。
大坂城は、上町台地の北端に位置し、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害でした。また、この淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもありました。元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には「石山本願寺」がありましたが、天正8年(1580年)に「石山合戦」で焼失しました。「信長公記」によると、「織田信長」は、この立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定だったようです。「石山合戦」終結後は、「織田信長」の命令で「丹羽長秀」に預けられ、のちに「四国攻め」を準備していた「津田信澄」が布陣しました。「細川忠興軍功記」によると、石山本願寺には、大手門に横矢を掛ける位置に建つ櫓、「千貫矢倉(千貫櫓)」もあったとされています。信澄は本能寺の変の際に、「丹羽長秀」に討たれました。その後、清州会議で「池田恒興」に与えられますが、ただちに美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有されるようになりました。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となりました。
秀吉の天下統一後、太閤検地や刀狩令・惣無事令・石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進め、「明」の征服を決意して朝鮮に出兵した「文禄・慶長の役」の最中に、嗣子の秀頼を「徳川家康」ら五大老に託し、慶長3年(1598年)に病没しました。秀吉の死後に台頭した「徳川家康」が、「関ヶ原の戦い」で勝利し、豊臣家は凋落の一途をたどりました。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の「大坂の陣」で、豊臣家は江戸幕府に滅ぼされました。

大坂城

大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された平山城です。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在し、別称は錦城(きんじょう)、金城とも表記されます。大坂城跡として国の特別史跡に指定されています。

大阪府(大坂裁判所管轄)
江戸幕府は、大坂に遠国奉行の1つ、大坂町奉行(おおさかまちぶぎょう)を設置しました。当初は大坂郡代(おさかぐんだい)と呼ばれ、老中支配下で「大坂三郷」「摂津国」「河内国」の支配を目的としていました。東西に奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制を取り、東西の奉行所はそれぞれ「西の御番所」「東の御番所」と呼ばれていました。東町奉行所は、現在の大阪市中央区大手前、西町奉行所は、現在の大阪市中央区本町橋にあったようです。
この西町奉行所が、明治になると大阪鎮台営所(軍司令部)として使用されましたが、すぐに初代大阪府庁となります。庁舎は奉行所の建物がそのまま使われました。なお、奉行所・ 鎮台営所・裁判所は、同義語と考えられています。
明治7年になると大阪府庁は、西区江の子島(現在の府立高等工業技術研究所)に移転しています。
古代から瀬戸内海を経る航路の終着点として住吉大社(大阪市住吉区)近くの住吉津が機能していました。
平安時代においては、淀川の河口に位置するこの地は京都と水運で結ばれ、この水運を介しての関係は、その後、明治時代に鉄道が敷設されるまで続くことになります。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、河内に悪党と呼ばれた在地豪族の「楠木正成」が出て活躍しました。
室町時代に入ると河内には畠山氏が、摂津・和泉には細川氏がそれぞれ守護に任ぜられました。両家とも幕府の三管領家に名を連ねる家柄であり、実際の政務は、配下の守護代が執り行うことが多かったようです。
戦国時代に入ると、畠山氏・細川氏共に家督を巡る争いから混乱を極めました。この時期、堺は会合衆と呼ばれる富裕な町衆を中心に自治都市を形成しており、それまでの兵庫湊に代わり日明貿易の中継港として隆盛し、茶の湯などの文化を育てています。
平野郷(大阪市平野区)もまた、「坂上田村麻呂」の子「坂上広野」の子孫といわれる末吉氏を筆頭とする平野七名家を軸に町衆による自治都市として栄え、摂津の石山には、法華信者との争いから、京都を去った浄土真宗の「蓮如」が石山本願寺を建立しました。一方、新たにこの地域で力を持ったのは細川氏の家臣で阿波国出身の三好氏であり、一時は将軍の後ろ盾となるほどの勢力を誇ったものの、「三好長慶」の死後は、家内の争いによって力を弱め、その後台頭してきた「織田信長」に屈服しました。勢力を拡大する信長に対して、浄土真宗の宗主であった「顕如」は、全国の信徒に蜂起を呼びかけ、自らも石山本願寺に篭って織田勢と対決しました。「石山合戦」は、10年にも及びましたが、1580年(天正8年)に本願寺を明け渡すことで終結を迎えました。
その後、「織田信長」から「豊臣秀吉」へと天下人は移り、秀吉は石山本願寺の跡地に大坂城の築城を開始しました。この城は、淀川と大和川の河口であることに由来する地形を利用しており、城下町までも堀で囲って城の一部とする惣構の作りをした巨大なものでした。その無類の堅固さは「大坂冬の陣」で証明され、結局この時、寄せ手は惣構内部に進入することが出来ませんでした。しかし、その後の「大坂夏の陣」までの間に堀は埋め立てられ、城も機能を失い豊臣氏は滅亡し、「徳川家康」が江戸幕府を開き江戸時代となります。
江戸時代に入ると、大坂は全国の経済・商業の一大中心地として繁栄し、「天下の台所」と称され、町奉行所が設置されました。元和5年(1619年)8月22日に「久貝正俊(東町奉行)」「嶋田直時(西町奉行)」が、それぞれ役高3000石をもって任ぜられたのが始まりとされています。
東西それぞれ1名ずつですが、元禄年間に堺町奉行を兼務する3人目の奉行が、短期間設置されました。
1000~3000石程度の旗本から選任されることになっていましたが、300石からの抜擢例も存在しています。奉行には役高1500石及び役料600石(現米支給)が与えられ、従五位下に叙任されるのが慣例でした。奉行所は、元々は東西ともに大坂城北西の出入口である京橋口の門外に設置されていましたが、享保9年(1724年)の大火で両奉行所ともに焼失した教訓から、東町奉行所は京橋口に再建され、西町奉行所は本町橋東詰の内本町橋詰町に移転されました。
時代が下るにつれて、糸割符仲間や蔵屋敷の監督などの大坂経済関連の業務、兵庫・西宮の幕府領における民政、摂津・河内・和泉・播磨の幕府領における年貢徴収及び公事取扱など、その職務権限は拡大されていきました。つまり、大坂三郷と周辺の幕府領は、大坂の支配下にあったという事ですね。
全国からの航路が集まる大坂には、諸藩の蔵屋敷が立ち並び、諸国からの物産の集積地でもあったため、それらを扱う大商人も登場しました。中でも年貢米の集積地であった堂島では、世界初の公設先物取引所である「堂島米会所」が開かれ、中之島とともに大坂経済の中心となりました。経済都市として熟成する環境の中で、様々な芸術も成長・発展を遂げました。上方文化の中心は次第に京から大坂へと移り、浮世絵草子の「井原西鶴」や劇作家の「近松門左衛門」といった文筆家、「上田秋成」「富永仲基」など、後世の歴史に名を残す多数の優秀な学者を輩出しました。また、同時代に興った植村文楽軒の芝居を起源とする文楽(大坂人形浄瑠璃芝居)は、2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されています。
天保8年(1837年)には、陽明学者で私塾洗心洞を構えていた「大塩平八郎」が、窮民救済のために「大塩平八郎の乱」を起こしました。幕末、「緒方洪庵」が開いていた適塾からは、「福澤諭吉」や「大村益次郎」、「大鳥圭介」など、後の明治を代表する才覚を生み出しました。

大坂東町奉行所址(大阪合同庁舎1号館)

大坂西町奉行所址(マイドームおおさか)

東西奉行所は、地下鉄谷町線「天満橋」駅下車、東へ約100mの大阪合同庁舎1号館あたりにありましたが、遺構は地下の中に眠っています。植え込みの中に「東町奉行所址」の石碑があります。当初、東西両町奉行所が並んで置かれましたが、享保9年(1724年)の大火により焼失し、東町奉行所は当地で再建、西町奉行所は、現在の本町橋二丁目の「マイドーム・おおさか」があるあたりに移転再建されました。

内田九州男氏による豊臣期大坂城と城下町の復元

現在の大阪

「内田九州男」氏の研究によれば、当初、大坂と四天王寺・堺を結ぶ南北に長い城下町を計画していたといわれています。その痕跡が明治21年(1888年)陸地測量部発行の「大阪実測図」に残されています。谷町筋と上町筋の間に2筋の道があり、その道を挟んで奥行き20間(約40m)の屋敷地が、短冊のように南北に並んでいます。北を「北平野町」といい、南は「南平野町」といいます。また、この町屋を東西から挟むように寺町が配置されています。秀吉は大坂城の築城と同時に町屋と寺町を計画的に配置していたようです。

摂津県
摂津県(せっつけん)は、明治2年(1869年)に摂津国の旧幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置され、県庁は、西成郡山口村(大阪市東淀川区東中島)の崇禅寺に設置されました。管轄地域は、現在の大阪府北部から兵庫県東部に分布しています。
大坂三郷を除く周辺部を管轄する司農局が大坂裁判所に設置され、その後、大坂裁判所司農局を経て大阪府司農局となります。更に、大阪府司農局は南北に分割され、大阪府の北部管轄地域に摂津県が発足しました。
西成郡・東成郡の一部を大阪府に編入後、北司農局を豊崎県に改称し、その他の地域を管轄します。その後、豊崎県を廃止し、同時に管轄地を兵庫県に編入します。兵庫県となったのち、西成郡・東成郡・住吉郡が大阪府に編入されます。こうして、現在の大阪市域に該当する地域が大阪府に編入されていきます。
第1次府県統合により、兵庫県のうち川辺郡を除く旧豊崎県の管轄区域を大阪府に編入します。つまり兵庫県に編入された地域も川辺郡を除いて、最終的には大阪府の管轄区域となったようです。兵庫県に残されたのは川辺郡(川西市・尼崎市・宝塚市・三田市)だけです。

崇禅寺

崇禅寺(そうぜんじ)は大阪市東淀川区にある曹洞宗の仏教寺院です。山号は「凌雲山」で、寺伝では天平年間、行基により創建されたとされています。この経緯から当初は法相宗寺院でした。
嘉吉元年(1441年)6月、「嘉吉の乱」により「赤松満祐」に殺害された「足利義教」の首は、本領に引き上げる途中の赤松氏軍勢によって、この寺に放置されました。この因縁により、以後義教の菩提寺の一つとなり、管領「細川持賢」により伽藍と所領を寄付され、曹洞宗に転宗しました。また、細川氏菩提寺の一つとなりました。
慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の前哨戦に置いて、「石田三成」の人質になることを拒否した「細川ガラシャ」は、自らを家臣に殺害させ、細川家大坂屋敷に火をつけ死去しました。その後、宣教師「オルガンチノ」が、焼失した細川屋敷より遺骨らしき物を掘り起こし、細川家菩提寺である崇禅寺に納めたとされています。この経緯から崇禅寺は、「細川ガラシャ」の菩提寺となり、先述の「足利義教」の首塚と並んで、「細川ガラシャ」の墓が残っています。
明治2年には一時、摂津県の県庁が置かれていたことから、境内は大阪府史跡、大阪市史跡に指定されています。

河内県
河内県(かわちけん)は、明治2年(1869年)に河内国の旧幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置され、県庁は、若江郡八尾町(八尾市本町)の真宗大谷派八尾別院大信寺の対面所に設置されました。管轄地域は現在の大阪府東部に分布しています。
摂津県で説明のとおり、大阪府司農局は南北に分割され、大阪府の南部管轄地域に河内県が発足しました。
河内国の幕府領・旗本領を管轄地域として河内県が発足しましたが、わずか半年で、河内国内の旗本領を分担して管轄していた堺県に編入廃止となりました。

八尾別院大信寺

八尾別院大信寺(やおべついんだいしんじ)は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の別院で、真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぎ、「八尾御坊」とも呼ばれています。
明治2年(1869年)1月に河内県が設置されたときに、大信寺内の対面所に仮役所(県庁)が設置され、「税所篤」が河内県長官として赴任しました。

堺県
堺県(さかいけん)は、慶応4年(1868年)に和泉国および河内国の一部の旧幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置され、県庁は、和泉国大鳥郡堺神明町寺町(堺市堺区神明町東三丁)の西本願寺堺別院に設置されました。当初の管轄地域は、主に現在の大阪府南西部(和泉国)ですが、のちに大阪府東部(河内国)、さらに奈良県全域(大和国)が編入されました。
大坂町奉行が管轄した堺の町地(天領)と旗本領だったその周辺は、江戸幕府の崩壊後に徳川氏から朝廷に接収されていましたが、慶応4年(1868年)に入ると堺事件(土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件、及びその事後処理)の発生などもあり、新しい行政組織の設立が急がれることとなりました。そこで、同年6月22日に設置されたのが堺県です。一説には当初、「境県」が正式名称だったとも言われています。
初代官選知事の「小河一敏」は、民に情け深い政治をすべきだとの強い儒教思想の持ち主で、独自の県治方針を抱いていました。大雨で氾濫する大和川の治水工事にあたり、官費では間に合わず、自分や幹部の年俸を拠出して積極的に進めました。また、県札を発行して経済流通の活性化を図り、全国の小学校開設に先立って郷学校を再興し、県学として近代教育のスタートを切るなど、中央の統制を越えて積極的な地方行政を押し進めようとしました。このため中央集権を推し進めようとする明治政府の方針と対立し、明治3年10月に早々と免官になってしまいます。
第2代の「税所篤」県令の時代にも、県師範学校・医学校・病院・女紅場(女学校)・堺版教科書の発行などの教育行政、堺灯台の建造・港湾改修・紡績所・レンガ工場の建設・堺博覧会などの商工業振興、浜寺公園・大浜公園の開設など、先進的に県政が進みました。
明治14年(1881年)の第2次府県統合に伴い大阪府へ合併され廃止されました。これは、廃藩置県後の県の整理の一環とも見られますが、全国的に見ればその作業は既に完了しており、逆に大きすぎる県の分割の方に問題が移りつつあった中での合併でした。
現実に堺県の合併以後、北海道の再編と第二次世界大戦後のアメリカ軍の軍政施行によって、一時廃止された沖縄県以外に都道府県が廃止された例はありません。大阪府は、府域が極めて狭い上、銀目廃止令(銀貨廃止)による両替商の相次ぐ倒産や大名貸の不良債権化による経済の地盤沈下に直面していました。これを「府」にふさわしい規模にするために堺県の併合が行われたと考えられています。
その後、今度は大阪府の府域が広すぎることが問題視され、明治20年(1887年)11月4日には、かつて堺県の一部となっていた奈良県が再度分離されることになります。

西本願寺堺別院

神明町東三丁の街並み

西本願寺堺別院(にしほんがんじさかいべついん)は、「北の御坊さん」として親しまれ、「足利義氏」の4男「本原院道祐」が、本願寺3世「覚如」に帰依して建立したのが始まりとされています。文明8年(1476年)、5世「樫木屋道顕」が、本願寺8世「蓬如」を招き、その住居として「信証院」を建てました。寛文3年(1663年)には、13世「乗珍」が、寺地を西本願寺に寄進して別院となりました。
現在の本堂は、文政8年(1825年)に再建されたもので、堺市に現存する最大の木造建築とされています。廃藩置県に伴って明治4年から10年間(1871年~1881年)は、本堂と境内の土地が堺県庁として貸与され、堺別院は宿院町に移転していました。そのため、別院は「堺県庁跡」として大阪府指定史跡になっています。境内には、堺出身の歌人「与謝野晶子」の歌碑のほか、高さ20m、幹の周り3.65mもある銀杏の巨木が寺の歴史を語るかのように根をおろしています。

高槻藩
高槻藩(たかつきはん)は、摂津国に存在した藩で、藩庁は、高槻城(大阪府高槻市)に置かれました。
戦国時代の高槻は、「織田信長」や「豊臣秀吉」に仕えた「高山右近」が治めていました。キリシタン大名としても有名な右近は、秀吉の宣教師追放令で大名の地位を追われ、その後、「新庄直頼」が3万石で高槻に入りましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで改易され、その身柄は「蒲生秀行」に預けられました。
元和元年(1615年)に「内藤信正」が、近江国長浜藩より4万石で入り、高槻藩が立藩しました。信正は高槻城を改修、本丸・二の丸を建設し、元和3年(1617年)には、山城国伏見城代となります。代わって、下総国守谷藩より「土岐定義」が2万石で入りますが、定義は、元和5年(1619年)に死去します。子の頼行は幼少のため、減封により旗本に降格となり、下総国守谷藩に再び移封となりました。代わって、三河国形原藩より「松平家信」が2万石で入りますが、寛永12年(1635年)、下総国佐倉藩へ移封となります。代わって、播磨国龍野藩より「岡部宣勝」が5万1000石で入りましたが、寛永17年(1640年)和泉国岸和田藩へ移封となります。代わって、下総国佐倉藩より家信の次男「松平康信」が3万6000石で入りますが、慶安2年(1649年)に丹波国篠山藩へ移封となり、藩主家がわずか14年の短期間で相次いで変わりました。
その後、山城国長岡藩より「永井直清」が、3万6000石で入り、ようやく藩主家が定着し、永井氏13代の支配を経て明治維新を迎えました。

高槻城跡の石碑

高槻城(たかつきじょう)は、明治7年(1874年)まで、大阪府高槻市にあった平城で、別名、入江城(いりえじょう)とも呼ばれています。
明治7年(1874年)に廃城となり、東海道線が敷設される際、石垣や木材などがその資材にあてられました。現在、城域の一部が城跡公園として整備され、復元石垣、高山右近像が建てられています。

麻田藩
麻田藩(あさだはん)は、摂津国豊島郡・川辺郡などを領有した藩です。藩庁は、豊島郡麻田村(大阪府豊中市蛍池)に麻田陣屋が置かれました。
初代藩主「青木一重」の父「青木重直」は美濃国出身で当初は、美濃の守護大名「土岐頼芸」に仕えていました。一重は当初、今川氏に仕え、今川氏没落後は「徳川家康」に仕えました。「三方ヶ原の戦い」では、実弟の「青木重経」が討たれ、天正元年(1573年)に徳川氏の元を出奔し、「織田信長」の家臣である「丹羽長秀」に仕えていた父「青木重直」を頼り、長秀の家臣となります。長秀の死後、重直とともに「羽柴秀吉」の家臣となりました。
慶長19年(1614年)、「大坂冬の陣」で一重は、豊臣方の和議の使者として駿府に下向しましたが、その帰途京都で拘禁され徳川方の捕虜となった後、旧主家康の軍門に下り、摂津国豊島郡・菟原郡および備中国と伊予国に所領を与えられて麻田藩を立藩しました。
元和元年(1615年)に摂津国豊島郡・川辺郡の一部、1万2千石を領して「青木一重」が初代藩主となりますが、元和3年(1617年)までに、弟の旗本「青木可直」に2千石を分知したため1万石となりました。
元和5年(1619年)、一重は可直の子「青木重兼」を養嗣子にして跡を継がせました。同じく一重の養子で廃嫡された「青木正重」は、寛永年間に重兼を補佐しています。
寛永3年(1626年)には、菟原郡および伊予国の所領は摂津国豊島郡・川辺郡に移されました。
重兼には娘しかおらず、松平氏・徳川氏の最古参の譜代筆頭である酒井氏と越前国朝倉氏の血をひく重正を養嗣子とします。寛文12年(1672年)、重正は大番頭や側衆を務め、「徳川綱吉」から厚い信任を受けました。元禄6年(1693年)8月15日に69歳で亡くなる際も綱吉から侍医の「森雲仙」らを派遣されています。
以後、麻田藩は江戸時代を通じて青木氏が治めましたが、寛文年間には黄檗宗仏日寺の伽藍建築を行った為、藩財政は窮乏しました。酒や油などの必需品の領内生産の奨励、藩札の発行等の策を講じましたが効果がなく、のちに藩札の管理は領民に委ねられました。

麻田陣屋跡

麻田陣屋の移築門

麻田陣屋(あさだじんや)は、摂津国豊島郡(大阪府豊中市蛍池中町)にあった麻田藩の藩庁です。跡地は市史跡に指定されていますが、公民館が建っていて、一画に石碑が建てられているだけです。また、陣屋長屋門は、市内刀根山元町に移築現存しており市有形文化財に指定されています。

伯太藩
伯太藩(はかたはん)は、和泉国大鳥郡・和泉郡などを領有した藩です。藩庁は、和泉郡伯太村(大阪府和泉市伯太町)に伯太陣屋が置かれました。藩主は譜代大名の渡辺氏で、藩領は和泉国の他に河内国と近江国に点在しました。
武蔵国野本藩初代藩主「渡辺吉綱」が、第4代将軍「徳川家綱」の側用人を務めたのち、寛文元年(1661年)に大坂定番となり、河内・和泉両国に1万石を加増されて大名に列したのが始まりです。第2代藩主「渡辺方綱」には嗣子がなく、渡辺宗家より「渡辺基綱」を養子に迎えました。元禄11年(1698年)、武蔵国の所領を近江国へ移された基綱は、当初、和泉国大鳥郡大庭寺村に陣屋を構え、大庭寺藩(おばでらはん)を立藩しましたが、享保12年(1727年)、和泉郡伯太村に陣屋を移し、伯太藩と改称しました。表高は、野本藩・大庭寺藩時代と同じく1万3千5百石で、以後9代にわたり在封しました。

伯太藩御殿跡

伯太陣屋裏門(小谷城郷土館)

伯太陣屋(はかたじんや)は、和泉国和泉郡伯太村(大阪府和泉市伯太町)にあった陣屋です。和泉市伯太町3丁目から4丁目にかけての信太山丘陵の西側斜面を利用して設置されており、丸笠山古墳の周濠をはじめとする大小のため池が御殿および家臣団の居住区を取り囲んでいました。中心となる御殿は4丁目に所在し、信太山駅から伯太神社を経由して丸笠山に至る道路と熊野街道(小栗街道)の交点に大手口を設けていました。陣屋は明治以降に破却され、現在では痕跡もほとんど認められませんが、陣屋裏門が小谷城郷土館(堺市南区豊田)に移築現存しています。

岸和田藩
岸和田藩(きしわだはん)は、和泉国南郡岸和田周辺を領有した藩です。藩庁は、岸和田城(大阪府岸和田市)に置かれました。
天正13年(1585年)、「豊臣秀吉」子飼いの武将「小出秀政」が、岸和田城主に封ぜられたことに始まります。入封当初、秀政は4千石を与えられていたにすぎませんでしたが、文禄3年(1594年)に1万石、翌文禄4年(1595年)には3万石を領するに至りました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」において、秀政と長男「小出吉政」は西軍方につき、敗軍の将となりました。しかし、次男「小出秀家」が、東軍についていたため改易を免れました。
慶長18年(1613年)、吉政の長男「小出吉英」は、5万石に加増され、元和5年(1619年)、但馬国出石藩に転封となりました。代わって、丹波国篠山藩より松井松平家の「松平康重」が5万石で入封し、以後の岸和田は譜代大名の藩地となりました。
岸和田は肥沃で耕作法の進歩により実収が表高より多く、幕府に願い出て表高は6万石に高直しされました。また、城下町の整備も行いました。
寛永10年(1633年)、康重の次男「松平康映」は、兄「松平康政」が早世したため、家督を継ぎ、その際に甥の康明に5千石、弟の康命と康紀に3千石・2千石をそれぞれ分知しました。しかし、康映は藩主となったその年に播磨国山崎藩に移封となりました。
代わって、康映の妻の父「岡部宣勝」が、摂津国高槻藩より6万石で入封し、以後は明治維新まで岡部氏の所領となりました。宣勝の入封当初、松平氏の代に高直しとなったことに不満を持っていた南郡・日根郡の領民が「寛永の強訴」を行いました。これに対し、領民と対話して3千石を領民に分配し、一揆を未然に防ぎました。また、岸和田城の改修、寺社の建立や復興を行い、名君と賞賛されています。
第2代藩主「岡部行隆」は、寛文元年(1661年)に襲封と同時に弟の高成に5千石、豊明に2千石を分知し、以後の表高は5万3千石となりました。
第3代藩主「岡部長泰」は、元禄16年(1703年)に京都の伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願する稲荷祭を行いました。これが全国的に有名な「岸和田だんじり祭」の起源と言われています。
第4代藩主「岡部長敬」は、享保7年(1722年)に「享保備定」と呼ばれる藩の軍制整備を行い、格式・知行高に基づく陣法を制定しました。以後、これが岸和田藩の軍制基準となりました。
サトウキビ栽培・製糖業・木綿の栽培・綿布生産などを特産とし、比較的余裕のあった藩財政は、延宝3年(1675年)の飢饉や宝永4年(1707年)の地震等により18世紀半ばになると窮乏するに至りました。その後、歴代藩主は財政再建のため、様々な藩政改革を行いましたが、目立った効果もなく幕末に至りました。
天保8年(1837年)には、「大塩平八郎の乱」が起こり、岸和田藩は大坂城の守備に当たりました。第11代藩主「岡部長発」は、嘉永5年(1852年)に藩校「講習館」を開きました。第12代藩主「岡部長寛」は、慶応2年(1866年)に藩校を増築し「修武館」と改称しました。また、幕末の動乱の中で藩論は、勤王・佐幕両派に分かれましたが、慶応4年(1868年)に始まった「戊辰戦争」には新政府軍として参戦しました。
第13代藩主「岡部長職」は、廃藩置県後も明治政府の要職に就き、外務次官・東京府知事・第2次「桂太郎」内閣の司法大臣などを歴任しました。なお、明治11年(1878年)に長職の依頼で、「新島襄」がキリスト教布教に訪れています。

岸和田城跡

岸和田城(きしわだじょう)は、大阪府岸和田市岸城町にあった平城です。別名、千亀利城(ちきりじょう)とも呼ばれています。庭園は国の名勝、城跡は大阪府の史跡に指定されています。
文政10年(1827年)に天守を焼失し、以降再建されないまま、明治4年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却されましたが、昭和29年(1954年)に3層3階の模擬天守が再建されました。本来は5 層天守であったことが絵図などで確認されています。
岸和田城は、猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、本丸と二の丸を合せた形が、機の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)に似ていることから蟄亀利城(後に千亀利城)と呼ばれるようになりました。城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて、縁結びの神社として知られています。桜の季節は花見の名所となっています。

吉見藩
吉見藩(よしみはん)は、和泉国日根郡吉見村(大阪府泉南郡田尻町吉見)に存在した藩です。藩庁は、吉見陣屋に置かれました。江戸時代に存在した藩ではありませんがここで記述します。前身は三上藩(滋賀県野洲市)であり、滋賀県編で詳しく見ていきたいと思います。
明治3年(1870年)、近江三上藩知事であった「遠藤胤城」が、陣屋を三上から日根郡吉見村に移したことで立藩しました。所領は1万4,500石ほどであったと言われています。しかし、翌年の廃藩置県により廃藩となって、吉見県・堺県を経て大阪府に編入されました。

吉見陣屋跡

田尻歴史館

吉見陣屋(よしみじんや)は、春日神社境内を敷地として築かれました。田尻小学校・田尻中学校・田尻歴史館・春日神社を含む一角が陣屋跡です。大手門は、現在の田尻町立小学校の校門のあたりで、陣屋は、田尻町吉見にある春日神社境内にあったと伝えられています。

丹南藩
丹南藩(たんなんはん)は、河内国丹南郡などに1万石を領有した藩です。藩庁は、丹南郡丹南村(大阪府松原市丹南)に丹南陣屋が置かれました。
藩祖の「高木正次」は、相模国・武蔵国・上総国・下総国及び近江国に9千石を領する旗本でした。元和9年(1623年)に大坂定番に就任し、1千石の加増を受け、河内国丹南郡22村に1万石を領する大名となりました。
第2代藩主「高木正成」の時に安房国・上総国に3千石が加増されましたが、第3代藩主「高木正弘」の時に弟2人に1千5百石ずつ分与して1万石に戻りました。
第6代藩主「高木正陳」の時に参勤交代を行わない定府となりました。元禄12年(1699年)には、所領の一部を下野国足利郡に移されました。
第8代藩主「高木正弼」の時代の宝暦8年(1758年)には、丹南郡の領地の一部を丹北郡・志紀郡に移されました。明和6年(1769年)には、農民が拝借金や配給米を求めた騒動が起き、庄屋22名が江戸屋敷に召還されました。この騒動は「郷中騒動」と呼ばれています。正弼は、騒動処置の不手際を幕府に咎められ江戸城出仕を停止されました。
第12代藩主「高木正坦」は、慶応2年(1866年)、幕府領であった安宿部郡国分村(大阪府柏原市国分)で起きた一揆に対し、幕府より鎮圧の命を受け出兵し、江戸時代中期より困窮していた藩財政は、なお一層窮乏を極めました。廃藩時の借金は3万9000両と小藩としては非常に多額でした。明治元年(1868年)には、藩校「丹南学校」を開きました。

丹南陣屋跡

丹南陣屋(たんなんじんや)は、河内国丹南郡丹南村(大阪府松原市丹南)にありました。陣屋の御殿の客殿の一部が、来迎寺の奥座敷として、明治維新後に移築現存されていましたが、現在は取り壊されています。陣屋の隣にある高木氏の菩提寺である来迎寺山門前に陣屋の碑と説明版があります。現在は、工場敷地や民家となっていて、陣屋の遺構を見る事は出来ません。

狭山藩
狭山藩(さやまはん)は、河内国に存在した藩です。藩主家は外様大名の後北条氏(北條氏)です。藩庁は、現在の大阪府大阪狭山市狭山に狭山陣屋を置き、丹南郡池尻村に上屋敷、半田村に下屋敷を構えました。
戦国時代初期、伊勢氏流北条家(後北条氏)の「北条早雲」は、関東地方で勢威を振るっていました。
第3代当主「北条氏康」の次男で第4代当主「北条氏政」と三男「北条氏照」は、天正18年(1590年)の「豊臣秀吉」による小田原征伐後の処罰により切腹となりました。氏政の次男で第5代当主「北条氏直」は、高野山での蟄居を命じられました。これは、氏直が「徳川家康」の娘婿であったことや氏康の五男「北条氏規」が和平に尽力したことなどにより特別に許されたものです。
天正19年(1591年)、氏直は嗣子無くして30歳の若さで死去しました。このため、北条氏の嫡流は断絶しましたが、氏規がその跡を継いで後北条氏の当主となります。その後、罪を許されて氏規の子「北条氏盛」は、下野国内で4,000石、氏規も河内狭山で7,000石を領することになります。慶長5年(1600年)、氏規が没すると氏盛はその家督と遺領を継いで1万1,000石の大名となり「北条氏盛」を初代藩主として狭山藩が立藩します。
当初、氏規の大坂屋敷があった久宝寺町(大阪市中央区)で、政務を執り行っていましたが、元和2年(1616年)、第2代藩主「北条氏信」は、狭山の地に陣屋を営みました。
第3代藩主「北条氏宗」は、日常の飲酒により病を得て江戸城登城がままならない状態が続いたため、寛文10年(1670年)、藩主の座を退きました。しかし、後継ぎの「北条氏治」には、老中「稲葉正則」の反対により家督相続が認められない状態が続きました。北条一門の運動による前老中「酒井忠清」の取り成しで、氏治は新たに藩を立てるという名目で1万石が与えられ第4代藩主となり狭山藩が存続することになりました。
第7代藩主「北条氏彦」の代の宝暦10年(1760年)に下級武士による藩政改革の要求運動「狭山騒動」が起こりました。しかし、運動にもかかわらず改革は遅々として進みませんでした。
第11代藩主「北条氏燕」は、嘉永元年(1848年)に藩校「簡修館」を再興し、他藩の子弟にも広く門戸を開放しました。また、安政5年(1858年)、財源確保のため山間の農民が作る氷豆腐を専売品としました。
天保8年(1837年)の「大塩平八郎の乱」、安政元年(1849年)の「プチャーチンの大坂湾進入」、文久3年(1863年)の「天誅組の鎮圧」などに出兵し、軍事費が嵩みました。慶応4年(1868年)からの「戊辰戦争」では、新政府軍に加わりました。しかし、江戸中期からの財政赤字と度重なる出兵により藩の財政は破綻しており、明治2年(1869年)、第12代藩主「北条氏恭」は、他藩に先駆けて版籍奉還を行ないました。氏恭は藩知事に任ぜられるも辞任を乞い、同年12月に認められました。軍事費と藩債に潰された狭山藩は、明治4年(1871年)の廃藩置県を待たずして崩壊し、堺県に併合となりました。

狭山藩陣屋跡碑

狭山陣屋(さやまじんや)は、河内国丹南郡池尻村および半田村(大阪府大阪狭山市狭山)にあった陣屋です。陣屋跡には何も残されていませんが、上屋敷跡付近の公園に石碑と説明案内板があり、下屋敷跡は旧狭山遊園地(さやま遊園)として利用されていました。また、浄土真宗本願寺派堺別院(大阪府堺市堺区神明町東2丁)に陣屋表門が移築現存しています。

 

如何でしたでしょうか。ページとしてのボリュームは兵庫県に比べて少ないのですが、天領が多いので調べるのに苦労しました。さすがに大阪ですね。
今回は特別付録として「幕末から明治にかけての大坂の変遷」を表にまとめてみました。PDFリンクなので、是非開いてみてください。ご自分の住んでいる場所が江戸時代のどの地域なのかが分かります。
江戸時代の大坂と呼ばれる地域は、概ね大阪と神戸の湾岸都市部及び河内の天領・旗本領です。和泉は大坂ではなかったと言う事ですね。明治時代初期には10年間、奈良県が大阪府となっていたとは知りませんでした。

 

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