歴史を紐解く(廃藩置県)- 岡山県編


今回は岡山県の歴史を紐解いてみました。岡山県と言えば、日本三名園の一つ、岡山後楽園や倉敷の美観地区は小京都と呼ばれ、風情ある佇まいを残しています。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の岡山県になるまでの変遷です。

これは手ごたえがありそうですね。小藩が数多く存在しています。何故このような小藩が存在したのか、どのように統合されていったのか興味が沸いてきます。また、天領「倉敷」も興味深いです。まずは、大藩である岡山藩から歴史を辿ってみましょう。

岡山藩
岡山藩(おかやまはん)は、備前一国及び備中の一部を領有した大藩です。藩庁は、岡山城(岡山県岡山市北区)に置かれました。ほとんどの期間を外様の池田氏が治めていました。一国以上を領有した国持大名で、支藩に鴨方藩と生坂藩があります。
岡山城を築城したのは「宇喜多秀家」です。宇喜多氏は、岡山城を居城にして戦国大名として成長し、豊臣家五大老を務めました。しかし、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」において、西軍方の主力となった秀家は改易となり、西軍から寝返り、勝敗の要となった「小早川秀秋」が入封し、備前・美作の51万石を所領としました。ただ、慶長7年10月18日(1602年12月1日)、秀秋は無嗣子で没したため小早川家は廃絶となりました。
慶長8年(1603年)、姫路藩主「池田輝政」の次男「池田忠継」が28万石で岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まります。慶長18年(1613年)には、約10万石の加増を受け38万石となりました。元和元年(1615年)「池田忠継」が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主「池田忠雄」が31万5,000石で入封しました。寛永9年(1632年)鳥取県編でも紹介しておりますとおり、忠雄の没後、嫡子「池田光仲」は幼少のため、山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、鳥取に国替えとなりました。
代わって従兄弟の「池田光政」が鳥取より31万5,000石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなりました。 このように池田氏が優遇された背景には、「徳川家康」の娘「督姫」が「池田輝政」に嫁ぎ、忠継・忠雄がその子であったことが大きいとされています。つまり家康にとって、忠継・忠雄はかわいい孫だったのです。
光政は水戸藩主「徳川光圀」、会津藩主「保科正之」と並び江戸初期の三名君として称されています。光政は陽明学者「熊沢蕃山」を登用し、寛文9年(1669年)、全国に先駆けて藩校「岡山学校」を開校しました。寛文10年(1670年)には、日本最古の庶民の学校として「閑谷学校(備前市、講堂は現在国宝)」も開きました。また、土木面では「津田永忠」を登用し、干拓などの新田開発や「百間川(旭川放水路)」の開鑿などの治水を行いました。
光政の子で第2代藩主「池田綱政」は、元禄13年(1700年)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園「後楽園」を完成させています。
幕末に第9代藩主となった「池田茂政」は、水戸藩主「徳川斉昭」の九男で、鳥取藩「池田慶徳」や最後の将軍「徳川慶喜」の弟でした。このためか勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとり続けました。しかし、戊辰戦争にいたって茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主の「池田政詮(岡山藩主となり章政と改める)」が岡山藩主となり、岡山藩は倒幕の旗幟を鮮明にしました。そうした中、「神戸事件」が起こり、その対応に苦慮しました。
神戸事件(こうべじけん)は、慶応4年1月11日(1868年2月4日)に神戸(神戸市)三宮神社前において、備前藩(岡山藩)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留予定地(神戸旧居留地)を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件で、備前事件とも呼ばれています。明治政府初の外交問題となり、一時、外国軍が神戸中心部を占拠する動きにまで発展しましたが、その際に問題を起こした隊の責任者であった「滝善三郎」が切腹する事で一応の解決を見ました。
明治4年(1871年)廃藩置県が行われ、岡山藩知事「池田章政」が免官となり、藩領は岡山県となりました。
鳥取藩も同様でしたが、外様でありながら池田家が如何に徳川幕府から優遇されてきたかが分かります。

岡山城跡

岡山城(おかやまじょう)は、岡山県岡山市北区にある国指定の史跡で、別名、烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)とも呼ばれています。
戦国時代に宇喜多氏が本拠としたことで、近世城郭の基礎が生まれ、その後、小早川氏・池田氏により整備・拡張されました。現在の天守は、1964年〜1966年(昭和39年〜昭和41)に鉄筋コンクリートにて再建されたものです。

後楽園

後楽園(こうらくえん)は、岡山県岡山市北区後楽園にある日本庭園(大名庭園)で、日本三名園のひとつです。江戸時代初期に岡山藩主「池田綱政」によって造営された元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されています。

閑谷学校

閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校です。岡山県備前市閑谷に所在し、「旧閑谷学校」として特別史跡に指定されています。また、講堂は国宝に指定されています。

鴨方藩
鴨方藩(かもがたはん)は岡山藩の支藩で、備中国浅口郡(岡山県浅口市)・小田郡・窪屋郡を領有し、藩庁は鴨方陣屋に置かれましたが、藩主はほとんど岡山城下に居住しており、政務は岡山宗藩が見ていました。寛文12年(1672年)に「池田光政」の次男「池田政言」が、光政が隠居する際に2万5千石を分知し、岡山新田藩(おかやましんでんはん)として立藩しました。明治元年(1868年)に鴨方藩と改称しました。

鴨方陣屋跡

戦国時代に細川氏の居城のあった鴨山城の南の麓に位置し、 浅口市文化財保護委員会の現地案内板には、「政庁は岡山城下にあり、代々の藩主は岡山に居留していた。」と記されています。 陣屋の石垣・井戸がわずかに当時の面影を残しています。池田家文書に残る陣屋絵図には、表御門・溜長屋・御座敷・吟味場・御囲米御蔵・牢番詰所等の建物が描かれ、「屋敷は東西約56.8m、南北約32.7mでした。明治2年(1869年)、鴨方村に藩庁を移し、鴨方藩と改称した。」という内容の文章が書かれています。岡山城下から陣屋までは街道が整備され、「鴨方往来」と呼ばれていました。陣屋跡の近くには旧高戸家を整備した「かもがた町家公園」があります。

鴨山城跡

鴨山城(かもやまじょう)は、岡山県浅口市北部の鴨山(標高168.2m)に存在する城跡です。遺構としては何段かの削平地と、石積、堀切が認められ、山頂付近の一の段には「鴨山城趾」の碑石、二の段には石組みの井戸が残っています。築城時期は不明ですが、正平6年(1351年)に「細川頼之」が、備中守護職に任じられて以降、細川氏によって築かれたとの伝承があります。応永14年(1407年)に「細川満国」が領有し、以後細川氏一門による備中国浅口郡の経営拠点となっていたと考えられています。

かもがた町家公園

町家2棟、倉3棟を忠実に修復した江戸時代の歴史的建築物と伝統植物園を合わせもつ公園で、圏内で最も古い築後300年以上を誇る町家(県重要文化財)が残っています。

生坂藩
生坂藩(いくさかはん)は岡山藩の支藩で、備中国窪屋郡生坂(倉敷市)周辺を領有していました。石高は1万5,000石で、この石高は岡山藩の内高に含まれています。寛文12年(1672年)、「池田光政」の三男「池田輝録」が立藩しました。藩主は岡山城下に居住しており、特に領内に陣屋は置かず、政務は岡山宗藩が見ていました。江戸期を通じての名称は岡山新田藩(おかやましんでんはん)で、明治3年(1870年)に生坂藩と改称しました。

ここで素朴に疑問に思うのは、同時に岡山新田藩(鴨方藩・生坂藩)が、二つ存在していたことになります。これを調べてみると江戸時代には、新田分知で分家を立てることを新田藩と呼んでおり、双方とも岡山藩の新田分知なので、岡山新田藩と呼称したようです。新田分知は、武家の分家形態の一つと捉えられ、入封後新規に開発した領地(新田)を分知する方式なので、本藩の石高に含まれることから特に問題がなかったようです。藩と呼んでいますが、幕府から見れば単に分家と捉えていたようです。しかし、明治になって、新田藩は本藩に吸収されたり、新たに陣屋を設けて独立したりしています。これは、維新後も独立家を保つためだったと私は考えています。

東雲院

東雲院は、倉敷市の北部山麓沿いに位置し、生坂の地に存在する高野山真言宗の寺院です。第8代藩主「池田政礼」は、明治元年になって生坂藩を公称し、明治3年に仮の藩庁として東雲院に移転しています。その後、廃藩置県により生坂県が成立し、藩知事となっています。ここにも維新後の優位性を保つために駆け込みで、独立の体を整えたことが垣間見えます。

庭瀬藩
庭瀬藩(にわせはん)は、備中国賀陽郡庭瀬村(岡山県岡山市北区庭瀬)にあった藩です。藩庁は、庭瀬陣屋に置かれました。庭瀬陣屋は、旧庭瀬城二の丸を使用して築かれました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、西軍主力となった「宇喜多秀家」の家臣であった「戸川達安」は、内紛により東軍方につきました。その功により、達安は2万9200石で立藩し、庭瀬城を居所としました。続く第2代から第4代の藩主は、それぞれの兄弟に領地を分与したため、第4代藩主「戸川安風」の代には2万石となりました。延宝7年(1679年)に無嗣断絶し、庭瀬は一時幕府領となりました。
4年後の天和3年(1683年)、下総国関宿藩より「久世重之」が5万石で入府し、再び庭瀬に陣屋を構えました。貞享3年(1686年)、重之は丹波国亀山藩に移封となりました。
7年後の元禄6年(1693年)に大和国興留藩より「松平信通」が3万石で入府しましたが、元禄10年(1697年)に信通は出羽国上山藩に移封となりました。
元禄12年(1699年)、上総国高滝藩より「板倉重高」が2万石で入府し、廃藩置県まで板倉氏が11代172年間在封しました。江戸後期の文政元年(1818年)、第7代藩主「板倉勝資」は藩校「誠意館」を開いています。なお、五・一五事件で凶弾に倒れた元内閣総理大臣「犬養毅」は、庭瀬藩領地の出身です。

庭瀬陣屋跡(石垣と堀)

庭瀬城(にわせじょう)は、岡山県岡山市北区にある城跡で、別名芝場城(しばのじょう)とも呼ばれています。戦国時代に築城されましたが、江戸時代初頭に廃城となり、同地の二之丸に庭瀬藩庁を設け、庭瀬陣屋(にわせじんや)となりました。

足守藩
足守藩(あしもりはん)は、備中国賀陽郡及び上房郡の一部を領有した藩です。一時は領地の大半が陸奥国に移されました。藩庁は、足守陣屋(岡山県岡山市北区足守)に置かれました。
豊臣秀吉の正室「北政所」の兄で播磨国姫路城主「木下家定」が、慶長6年(1601年)に2万5千石で転封されたことにともない立藩し、足守陣屋を構えました。慶長13年(1608年)に家定が死ぬと幕府は遺領を子の勝俊と利房に分与するよう指示しましたが、勝俊がこれを独占したことから幕命違背を理由に慶長14年(1609年)に改易されました。
翌慶長15年(1610年)には、姻戚にあたる「浅野長政」の次男「浅野長晟」が2万4千石で入府しましたが、慶長18年(1613年)に兄の「浅野幸長」が死去すると浅野宗家と本藩の紀州藩37万6千石を相続したため、足守は一時的に幕府領となりました。
元和元年(1615年)には、「木下利房」が「大坂の陣」での功によりあらためて2万5千石で足守に入府します。これ以後、江戸時代を通じて木下家が12代・256年間在封し、所領は、備中国内の上房郡と賀陽郡より構成されていました。しかし、寛政11年(1799年)、第9代藩主「木下利徽」は、所領のうち約2万2千石が陸奥国伊達郡・信夫郡に移され、決して豊かではなかった藩の財政は窮地に立たされました。これ以後、旧領回復が歴代藩主の悲願となります。天保2年(1831年)、第11代藩主「木下利愛」の嘆願の甲斐あって、移転地の約半分が賀陽郡内に戻されました。備中国内の旧領をすべて回復したのは、維新後の明治3年(1870年)になってのことでした。なお、足守藩からは、幕末に適塾を開いた「緒方洪庵」が出ています。

足守陣屋跡

足守陣屋(あしもりじんや)は、岡山県岡山市北区足守(備中国加陽郡)に存在し、現在の足守小学校の北隣に公園として整備され、建物は現存していませんが、陣屋を取り囲む堀と石垣が残っています。

浅尾藩
浅尾藩(あさおはん)は、備中・河内・山城・摂津を領した藩です。藩庁は、浅尾陣屋(岡山県総社市)に置かれました。
藩祖「蒔田広定」は、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、西軍についた豊臣氏恩顧の大名です。戦後、雲出藩を改易されていましたが、その後に許されて、慶長8年(1603年)に備中国賀陽・窪屋、河内国大県、山城国久世、摂津国豊島・八部において1万石を与えられ、備中に浅尾陣屋を構え立藩しました。
寛永13年(1636年)に第2代当主「蒔田定正」は、弟「蒔田長広」に3,000石を分与し、自分の所領と合わせて8,310石の旗本となり、大名ではなくなりました。更に第3代当主「蒔田定行」からは7,700石となりました。
幕末の文久3年(1863年)に「蒔田広孝」は、江戸市中警備の功績で、1万石に高直しをされて、再度大名となりました。蒔田氏は、旗本時代は寄合でしたが、この時は定府大名となっていました。初代「蒔田広定」は外様大名ですが、広孝は旗本からの昇進であるため譜代大名に列席されました。
旗本時代の享保2年(1717年)より、蒔田氏は備中国分寺の再建に取りかかりました。中でも五重塔(重要文化財)の再建は、文政4年(1821年)より20余年の歳月をかけ弘化元年(1844年)頃に完成しました。
元治元年(1864年)の「禁門の変」において、広孝は京都見廻役として長州藩勢撃退に活躍しました。この時の恨みが原因か、慶応2年(1866年)4月12日、第二奇兵隊を脱走した「立石孫一郎」ら、長州浪士100余名により、浅尾陣屋は倉敷代官所とともに襲撃(倉敷浅尾騒動)され、灰燼に帰しました。その後、明治維新までこの陣屋は充分な修復はなされませんでした。

浅尾陣屋跡

浅尾陣屋(あさおじんや)は、岡山県総社市門田(備中国賀陽郡浅尾村)にあった陣屋で、現在、公園として整備され、石垣・土塁が残り、稲荷神社と石碑が立っています。崩れかけた土塀(総社市文化財)が延々と残り、復元した土塀があります。

備中国分寺

備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)は、岡山県総社市にある真言宗御室派の寺院です。山号は日照山で、本尊は薬師如来です。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたります。五重塔は、高さ34.32メートルで、南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定高さ50メートル)を焼失したのち、文政4年(1821年)に位置を変えて再建を開始し、弘化年間(1844年-1847年)に完成しました。江戸時代後期の様式を色濃く残す岡山県内唯一の五重塔です。当初は三重塔で計画されたのを五重塔に変更したとされ、3層まではケヤキ材、4・5層まではマツ材が主体です。この塔は国の重要文化財に指定されています。

岡田藩
岡田藩(おかだはん)は、備中国下道郡岡田(岡山県倉敷市真備町岡田)にあった藩で、岡田陣屋に藩庁が置かれました。
江戸時代初期から廃藩置県まで伊東氏が10代にわたり藩主を務めました。石高は1万石余で、陣屋は幾度かの移転を経ており、元禄年間には西国街道川辺宿(倉敷市真備町川辺)に陣屋を置いたことから川辺藩(かわべはん)とも呼ばれています。
藩主家の備中伊東氏は、日向国飫肥藩主家の日向伊東氏と同族です。藩祖「伊東長実」は、豊臣秀吉・秀頼に仕えて「大坂の陣」までも豊臣氏の家臣でした。「関ヶ原の戦い」に際し、上方での「石田三成」挙兵の報をいち早く「徳川家康」に伝えたとされています。「大坂の陣」では、子の「伊東長昌」共々豊臣方として家康に敵対し、大坂城に籠城しますが、戦後許されています。元和元年(1615年)、備中国下道郡・美濃国池田郡・摂津国豊島郡・河内国高安郡の各郡内に1万343石を与えられ立藩しました。以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで伊東氏の所領となりました。
享保3年(1718年)、第5代藩主「伊東長救」の時代に領民による一揆が起こりました。後に新本義民騒動(しんぽんぎみんそうどう)と呼ばれるようになった一揆です。
藩領内の新庄村と本庄村(総社市新本)に跨る大平山と春山は領民の入会地でした。藩はこれを「お留山」と称する藩の公地とし、領民の立ち入りを禁じ、更に樹木伐採とそれを薪として陣屋まで運ばせる賦役を課しました。これに反対した領民は代表4人を江戸に送り藩主に直訴し、お留山と賦役は無事解消されました。しかし、直訴した4人は処刑され、その家族および騒動の加担者は、領内から追放されました。現在、新本には義民碑が建っています。言い分は最もだが、武士の面子も考慮する必要があった時代の状況が良く分かりますね。

岡田陣屋跡

岡田陣屋は元和元年(1615年)、「伊東長実」によって旧領である備中国下道郡岡田(岡山県倉敷市真備町岡田)に築かれました。御殿の一部と旧藩校の演武場は、昭和20年代まで校舎として使用されましたが、現在は岡田小学校の敷地となり、井戸と囲炉裏が残っています。

松山藩
備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)は、備中国(岡山県)の一部を領有した藩です。藩庁は備中松山城(高梁市)に置かれました。明治維新後に高梁藩(たかはしはん)と改名されています。なお、伊予松山藩と区別するために、以後、備中松山藩・備中松山城と表記します。
江戸幕府開府前の慶長5年(1600年)から、しばらくは天領となっており、備中代官として小堀氏(小堀正次・小堀政一)が統治していました。
元和3年(1617年)、因幡国鳥取藩6万石より「池田長幸」が6万5000石で入封し、立藩しました。寛永18年(1641年)、第2代藩主「池田長常」が無嗣子で死去したため廃絶となりました。
寛永19年(1642年)、成羽藩より「水谷勝隆」が5万石で入封します。備中松山藩の藩政・経済の基礎、備中松山城の城郭普請は水谷時代にほぼ完成したと考えられています。第3代藩主「水谷勝美」が無嗣子のため、末期養子「水谷勝晴」をとりましたが、元禄6年(1693年)に遺領を継ぐ前に死去します。勝美の弟「水谷勝時」をたてましたが、受け入れられず3000石の旗本に減封となります。この際、備中松山城の受け渡しには、「忠臣蔵」で有名な赤穂藩主「浅野長矩」が任ぜられています。また、長矩の名代として浅野家家老「大石良雄(内蔵助)」が、次の藩主安藤氏が来るまでの1年半、備中松山城を管理しています。城の明け渡しにあたって、大石は単身で備中松山城に入り、水谷家家老「鶴見内蔵助」と対談に及び、無血開城にこぎつけたといいます。大石と鶴見の名がたまたま同じ内蔵助であったことから「両内蔵助の対決」として評判になったとそうです。
水谷氏除封の後、幕府により備中松山藩の領地は徹底的に検地をされました。元禄8年(1695年)の検地後、上野国高崎藩より「安藤重博」が6万5千石で入封します。子の「安藤信友」は寺社奉行に任ぜられ、正徳元年(1711年)、美濃国加納藩に転封となりました。代わって同年、山城国淀藩より「石川総慶」が6万石にて入封し、延享元年(1744年)に伊勢国亀山藩に転封となりました。同時に伊勢国亀山藩より「板倉勝澄」が5万石で入封します。以後、明治まで板倉氏の所領となりました。
有名な藩主として幕末に第7代藩主「板倉勝静」が挙げられます。勝静は、「井伊直弼」が「桜田門外の変」で暗殺された翌々年の文久2年(1862年)に老中首座(筆頭)となりました。藩政では、「山田方谷」を起用し、藩政改革を成功させました。勝静が幕府の要職にあったことから、「鳥羽・伏見の戦い」から1週間後には、備中松山藩追討令が朝廷から出され、岡山藩の軍勢が藩主不在の備中松山城などを接収しました。京都にいた勝静は、「徳川慶喜」に従って江戸へ向かい、以後の戊辰戦争では、旧幕府方に身を置いて箱館まで転戦しました。
勝静は、明治2年(1869年)に「山田方谷」らの説得を受け、降伏して禁錮刑に処せられ、石高も2万石に減封されます。第5代藩主「板倉勝晙」の甥「板倉勝弼」が第8代藩主となり、藩名も伊予松山藩との混同を避けるため、高梁藩と改称されました。
勝弼が藩主になる前に「山田方谷」らが、後日のお家騒動回避のため、「勝静の嫡男「板倉勝全」が帰藩したあとは、藩主の地位を譲る。」という誓約文を勝弼に書かせていました。なお、勝全は勝静が官位を没収された後、当主となっていましたが、朝廷からは藩主として認められないままに父と行動を共にしていました。
勝静が新政府から赦免された後、この誓約書の話を聞くと「主君は簡単に改めるものではない、ましてや勝全は朝廷から咎めを受けた身である。」として、勝弼や重臣達の前で誓約書を破り捨て、重臣達に勝弼への忠誠を誓わせたと言われています。
勝静は新政府から赦免されており、勝弼が藩主となっていた期間も短く、父子共々朝敵であったとは言え、嫡男の勝全を藩主とする裁定も可能だったと思います。これは、勝静が武士道を重んじたのか、勝全が藩主の器ではないと判断したのかは定かでありません。
勝静は晩年、明治9年(1876年)に上野東照宮の祀官となりました。また、勝弼や「三島中洲」「川田甕江」の協力を得て、第八十六国立銀行(現在の中国銀行)を設立し、明治22年(1889年)4月6日に享年66で死去しています。なお、勝全のその後については分かっていません。

備中松山城跡

備中松山城(まつやまじょう)は、岡山県高梁市内山下にあった山城です。別名、高梁城(たかはしじょう)とも呼び、城跡が国の史跡に指定されています。日本100名城にも選ばれています。四国の愛媛県松山市にあった松山城との混同を避けるために、一般的には「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」と呼んでいます。江戸時代に建造された天守や二重櫓などが国の重要文化財に指定されています。標高430メートルの臥牛山山頂にあり、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。

備中松山城御根小屋正門跡

岡山県指定史跡「備中松山城御根小屋跡(びっちゅうまつやまじょうおねごやあと)」は、備中松山藩主の居館であり、藩の政務を行う役所です。当藩では、城が標高430mにあるため、平時の政庁として御城山の麓に造られました。居館のあった敷地は、現在、県立高梁高校(旧制高梁中学校)が建てられています。

成羽藩
成羽藩(なりわはん)は、備中国成羽郷(岡山県高梁市成羽町)周辺を領有した藩です。江戸時代の大半は交代寄合(旗本)領でした。藩庁は成羽城に置かれ、後に成羽陣屋と呼ばれるようになりました。
元和3年(1617年)因幡若桜藩より「山崎家治」が3万石で成羽城に入り立藩しました。寛永15年(1638年)、家治は肥後富岡藩に1万石加増の上、転封となりました。
代わって寛永16年(1639年)、常陸下館藩より「水谷勝隆」が5万石で入府します。寛永19年(1642年)、勝隆は備中松山藩に移り、成羽藩は廃藩となりました。
万治元年(1658年)初代藩主「山崎家治」の次男で分家の「山崎豊治」が交代寄合として5000石で入府し、明治4年(1871年)の廃藩置県までこの地を治めました。幕末の慶応4年(1868年)、「山崎義厚(大名となり治正と改名)」の代に1万2746石に高直しがあり諸侯に列して立藩しました。
交代寄合(こうたいよりあい)は、江戸幕府における旗本の家格の一つで、旗本が江戸在府であり若年寄支配であるのに対し、交代寄合は領地に所在して老中支配であったため、大名と同等もしくはそれに準ずる待遇を受けました。江戸城内での伺候席は、ほとんどが「柳間詰め」でしたが、一部の家だけは「帝鑑間詰め」でした。また、大名と同様に参勤交代することを許されていましたが、諸大名と異なり参勤は強制・義務ではなく、自発的に行うものとされていました。このため数年に一度しか参勤しない家もあり、寄合御役金として100石に付き金2両を8月と2月に分納していました。伺候席については、高知県編の高知藩の項で説明しています。そちらを是非閲覧ください。

成羽城(成羽陣屋)跡

成羽陣屋(なりわじんや)の起源は、元和3年(1617年)に「山崎家治」が戦国期三村氏の城跡に陣屋を築いたことによります。その後、水谷氏は新たに陣屋を築き、明暦元年(1655年)に入りました。「山崎家治」の次男で交代寄合旗本の「山崎豊治」が、陣屋を拡張・修築しました。現在、陣屋の御殿跡は地域局敷地、その他は美術館や小学校敷地となり、石垣・堀・庭園の一部が現存しています。

新見藩
新見藩(にいみはん)は、江戸時代中期より備中国阿賀郡・哲多郡・小田郡・浅口郡・後月郡の5郡内を領有した藩です。知行高は1万8000石で、藩庁は新見陣屋(岡山県新見市)に置かれました。
元禄10年(1697年)、宗家の美作津山藩森家廃藩に伴い、親族である「関長治」が美作宮川藩より移り立藩しました。関氏は9代174年にわたり在封しました。
初代藩主「関長治」は、水谷氏統治の備中松山藩領時代に鉄・米の集散地であった新見に陣屋を構え、町を整備しました。また、牛市を開き商業活性化を促しました。
しかし、元禄時代に検地された石高は実際の生産高(9000石)よりも高く評価されており、立藩当初より厳しい藩財政となっていました。
第3代藩主「関政富」は、この厳しい財政を克服するために財政改革に取り組み、ある程度の成果を収めました。教育にも注力し、藩校「思誠館」を開きました。また、庶民に対しても学問を奨励し学資の補助を行いました。以後も財政難は慢性的に続き、第5代藩主「関長誠」は、「丸川松陰」を「思誠館」に招聘しました。この当時に備中松山藩の改革者「山田方谷」もここに学んでいます。長誠は松陰を藩政参与とし、藩政の改革に当たらせました。松陰は、藩政の指南書「型典」を著し、以後これが藩政の手本となりました。
天保7年(1836年)には、年貢収入は遂に立藩当初の9000石から3000石にまで落ち込み、財政再建はもはや急務となっていました。このため、幕末の安政4年(1857年)には鉄・和紙を専売としました。

新見陣屋

新見陣屋(にいみじんや)は、元禄10年(1697年)に「関長治」によって築かれ、新見山城と通称されました。現在、陣屋跡は新見北高校の敷地となっています。

倉敷県
倉敷県(くらしきけん)は、1868年(慶応4年)に美作国、備中国、備後国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置されました。管轄地域は何度か変遷しており、現在の岡山県・広島県・香川県に広く分布しています。
現在の倉敷市は、江戸時代には天領でした。倉敷代官所が管轄する幕府領(倉敷支配所)および備中国内の旗本領・寺社領だった地域が、明治維新後に倉敷県となっています。県域は現在の岡山県倉敷市の大部分および笠岡市・新見市・高梁市・岡山市の一部・倉敷支配所の備後国の飛地だった現在の広島県府中市上下町などが相当します。さらには讃岐国の多度津藩も含められました。
倉敷一帯の島々は、「宇喜多秀家」から始まった干拓が江戸時代以降も続き、やがてそれらの島々が陸続きになり現在の平野が形成されました。なかでも小豆島に匹敵する大きさの吉備児島は児島半島となりました。江戸時代に入り、幕藩体制下ではかなり複雑な統治がされており、場所によって様々な領地が入り乱れています。天領である倉敷代官所領の他、備中松山藩・岡山藩(鴨方藩・生坂藩等の支藩を含む)・浅尾藩・丹波亀山藩・岡田藩他の大名領に加え、知行処(旗本領)や寺社領などがありました。
天領になった倉敷旧市街は、高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ、内陸の港町になり、慶長19年(1614年)に備中松山城の城番で備中代官であった「小堀政一」が陣屋を構えた後、代官所(支配所)が置かれました。その後、倉敷が商人の町として発展したのは港の機能より年貢米の集積地としてでした。倉敷代官所は、商人たちの自治を認め、優遇したことで人口も増加し、領地は名目上5万石でしたが、実質は10万石以上の領地を支配しました。因みに、倉敷代官所は現在の倉敷アイビースクエアのある場所に置かれ、美観地区の蔵屋敷はこれによって富を得た商人の蔵です。
児島地区は岡山藩の支藩である天城池田家支配の下、古くからの産業である塩田に加え、周辺の新田で栽培された綿花を使った機織りが盛んになり、藩はそれらに専売制を取り入れ財政の柱にすえます。やがて機織りによって作られた製品が地場産業となり、真田紐や足袋等といった名産品を生み出し「繊維の町・児島」の素地を形成していきます。また、下津井は北前船の寄港地、田の口と下村(下の町)は、瑜伽大権現と四国金刀比羅宮を結ぶ港として繁栄しました。
玉島地区の甕ノ泊は、備中松山藩主の水谷勝隆・勝宗親子と岡山藩による干拓で、瀬戸内海側に面していた乙島や柏島と陸続きになりました。その後、水谷氏により高瀬通しと呼ばれる水路が作られ、下流の玉島新田と阿賀崎新田は、高梁川上流から高瀬舟によって運ばれてくる物資を北前船に載せる積出港として発展しました。やがて“玉島湊”として全国に知られるようになりますが、元禄6年(1693年)、水谷氏断絶後は幕府に領地の多くが接収され、備中松山藩領として残った羽黒神社周辺を除き倉敷代官所、岡山藩、丹波亀山藩等によって細分統治されました。

干拓前の岡山平野

干拓後の岡山平野

岡山平野(おかやまへいや)は、岡山県南部にかけて広がり、瀬戸内海に面した平野です。地質学的には高梁川・旭川・吉井川などの河川によって形成された沖積平野と新田開発による干拓地です。中世から近代にかけて、大規模な干拓事業による新田開発が行われ、海に浮かんでいた島々は平野の中の小高い山へと姿を変えました。また、現在の児島半島は「児島」と呼ばれる島でしたが、16世紀から17世紀頃に前述の干拓により陸繋島となり、児島湾が形成されました。

倉敷代官所跡

倉敷支配所(くらしきしはいしょ)は、江戸時代の日本における領地の一つで、天領のうち備中国窪屋郡倉敷村(岡山県倉敷市中心部)に置かれた倉敷代官所(くらしきだいかんしょ)です。鶴形山の南側、向山の北側に位置し、現在の倉敷アイビースクエアが立地する一帯に存在していました。

倉敷美観地区

倉敷美観地区(くらしきびかんちく)は、岡山県倉敷市にある町並保存地区・観光地区です。江戸時代初期の寛永19年(1642年)、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国南部の物資の集散地として発展した歴史を持っています。倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残しています。1969年に倉敷市の条例に基づき美観地区に定められ、昭和54年(1979年)に、県内2件目の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。

津山藩
津山藩(つやまはん)は、美作国の大半を領有した藩です。藩庁は、津山城(岡山県津山市)に置かれました。
慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の後、美作国は備前岡山藩主「小早川秀秋」が領していました。慶長7年(1602年)、無嗣子で秀秋が死去したため廃絶となります。
慶長8年(1603年)、信濃川中島藩より「森可成」の子「森忠政」が美作一国18万6500石で入府し、津山藩が立藩しました。この地は従来、鶴山と呼ばれていましたが、忠政により津山と改められました。翌慶長9年(1604年)より美作の藩庁として、津山城の築城に着手し、元和2年(1616年)に完成しました。この間に津山の城下町も整備され、藩政の基礎が築かれました。
元禄10年(1697年)、第4代藩主「森長成」が死去し、末期養子として第2代藩主「森長継」の十二男で、叔父の、家老「関衆之」の養子に出されていた「関衆利」が迎えられました。同年、衆利は継承挨拶のため江戸に出府途中に伊勢で狂心したため、幕府は美作津山藩を召し上げました。しかし、隠居の「森長継」が健在であり、その子も多かったため 、長継に再襲を許して家名存続を認め、備中国西江原藩2万石に転封となりました。
津山藩3代藩主「森長武」の弟「森長俊」が、勝北郡北部1万5千石を分知され、延宝4年(1676年)に津山藩支藩「津山新田藩」を立藩していましたが、長継の転封に伴い、播磨三日月藩(1万5千石)に転封、1代で廃藩となりました。なお、貞享3年(1686年)にも長武が、甥「森長成」に津山藩主を譲った際、長成が長武に蔵米2万俵を与える形で、津山藩支藩「津山新田藩」を立藩しましたが、元禄9年(1696年)に長武の養嗣子となった「森長基」が病と称し、江戸への参勤の命に反したため、相続を認められず廃藩となっています。
寛永11年(1634年)、津山藩第2代藩主「森長継」の弟「関長政」が、1万8700石を分知され、津山藩支藩「宮川藩」を立藩していましたが、長継の転封に伴い、備中国新見藩1万8000石に転封、廃藩となりました。なお、立藩の年は諸説存在します。
元禄11年(1698年)、「結城秀康」を祖とする越前松平家宗家の「松平宣富」が、10万石で入府し、以後廃藩置県まで松平氏が治めることになりました。享保6年(1721年)に家督を継いだ嗣子「松平浅五郎」が、享保11年(1726年)に16歳で早世しました。しかし、御家門であるため改易は免れ、「松平宣富」の弟で白河新田藩主「松平知清」の三男「松平長熙」を迎え、家督を相続させました。ただし、この際に知行は半減の5万石となり、藩の格式も低下しました。その後、第8代藩主に第11代将軍「徳川家斉」の十四男「松平斉民」を養子に迎えることにより、石高を10万石に復帰させることに成功しました。
松平氏の藩政時代は政情が不安定でした。入府の年には「元禄一揆(高倉騒動)」があり、享保11年には「山中一揆(さんちゅういっき)」、幕末には「改政一揆」と「百姓一揆」が頻発しました。津山藩で幕末から明治にかけて藩医だった宇田川家・箕作家からは優れた洋学者を輩出し、日本の近代科学発展に寄与しました。津山藩士の「津田真道」は、「皇紀紀元」を確立しました。皇紀紀元とは、日本の最初の天皇とされる「神武天皇」の即位の年をその元年とするもので、西暦の紀元と区別するために単に「皇紀」と記すこともあります。
内閣総理大臣となった「平沼騏一郎」は、津山藩の出身だったそうです。

津山城跡

津山城(つやまじょう)は、岡山県津山市山下に存在する梯郭式平山城です。日本三大平山城のひとつで、別名・鶴山城(かくざんじょう)とも呼ばれ、城跡は国の史跡に指定されています。津山盆地の中央部に位置し、城の東部を流れる吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線に取り入れています。城の南部を流れる吉井川とその支流で西部に位置する藺田川(いだがわ)を外郭とし、その内側に城下町の主要部を形成しています。

明治初頭の津山城

往時は外郭を含めて、広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ77棟の櫓が建ち並び、明治初頭にその様子を撮影した写真が残されています。また、近隣の津山郷土博物館には、文献や古写真に基づいて製作された津山城の復元模型があり、往時の姿を窺うことができます。明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され、現在は遺構の石垣や建物の礎石が残り、2002年から2006年までに再建された二重櫓と土塀があります。
現在は、鶴山公園(かくざんこうえん)として桜の名所となっており、日本さくら名所100選にも選ばれています。

鶴田藩
鶴田藩(たづたはん)は、幕末から明治初頭まで存在した藩です。藩庁は、鶴田陣屋(岡山県津山市)に置かれました。
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐で松江城に逃れた「松平武聰」は、浜田藩の飛び地であった美作国久米北条郡鶴田(岡山県岡山市北区建部町)まで落ち延び、幕府より蔵米2万石を支給されました。逃亡の経緯については、島根県編の浜田藩の項を参照してください。
翌慶応3年(1867年)、美作国内に鶴田8千石に加え、新たに所領2万石を与えられ2万8千石で立藩しました。慶応4年(1868年)5月、明治政府より加増があり、最終的に6万1千石の石高となりました。
「松平武聰」は城を投げ出して逃亡を図ったわけですが、僅か2年の間に6万石余の藩を立藩しています。かなりの優遇ですね。武聰の父は、常陸水戸藩の第9代藩主「徳川斉昭」で、第15代将軍「徳川慶喜」とは、異母兄弟になります。優遇されるはずですね。

鶴田陣屋跡

鶴田陣屋(たづたじんや)は、浜田藩主「松平武聡」が浜田城落城により飛地領であるこの地に移り、仮の居所に住んだことに始まります。明治2年(1869年)に新たな御殿の建設に着手し、明治4年(1871年)には完成しますが、間もなく廃藩となりました。居館(西御殿)跡は耕地などとなり、石垣と入口の階段が現存し碑が立てられています。

勝山藩
勝山藩(かつやまはん)は、美作国真島郡勝山(岡山県真庭市勝山)に拠点を置いた藩です。藩庁は、勝山城に置かれました。高田藩(たかたはん)、美作高田藩(みまさかたかたはん)とも称されます。
江戸時代中期の明和元年(1764年)に譜代大名の「三浦明次」が、三河国西尾藩より転封となり、真島郡内の96村と大庭郡内の1村を与えられ2万3千石で立藩しました。真島郡高田村の高田城を藩庁としたため、当初は高田藩などとも称されますが、しばらくして高田城を勝山城に改称し、これを受けて勝山藩と称されるようになりました。なお、越前勝山藩と区別するために美作勝山藩と表記することもあります。
第2代藩主「三浦矩次」は、真島郡新庄村(真庭郡新庄村)にある鉄鉱山経営を奨励し、財源確保に努めました。幕末には鉄鉱山は藩営となっています。明治2年(1869年)には、真島藩(ましまはん)と改称しています。
元内閣総理大臣「鳩山一郎」の家系は勝山藩士だったそうです。

美作勝山城跡

勝山城(かつやまじょう)は、美作国真島郡勝山(岡山県真庭市勝山)にあった連郭式山城です。別名・高田城とも呼びます。
明和元年(1764年)に藩主となった「三浦明次」は、幕府より4千両の城修築費援助を受け、高田城の西山麓を中心に御殿などの整備が行ない、勝山城と名付けられました。修築された勝山城は、二ノ丸に二重櫓が上がり、三ノ丸には御殿がありました。以後、明治維新まで三浦氏の居城となっています。
現在も山頂から中腹にかけて曲輪や堀切が残り、城山グラウンド(旧・二の丸)の西隅には、かつて二重櫓が立てられていた櫓台の石垣が残っています。平成16年(2004年)には、前年に終了した三の丸遺跡の調査に基づく同地の整備が完成しています。

 

如何でしたでしょうか。岡山は元々平野部が狭く、山間部に小藩が数多く存在し、唯一の平野部を岡山藩が、比較的広い津山盆地に津山藩が存在しています。現在の岡山市は大きく発展していますが、江戸時代以前からの干拓によって、現在の発展があると言っても過言ではありません。また、津山には一度行ったことがあります。その時は、鳥取から大山を超えて津山に入りました。突然広い盆地が広がり大きなお城に驚いた記憶があります。表現は悪いですが、「こんな山奥に」とびっくりしました。

 

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