歴史を紐解く(廃藩置県)- 鳥取県編



今回は鳥取県の歴史を紐解いてみました。鳥取県と言えば、「鳥取砂丘」と「スタバは無いけど砂場はある。」の名言しか残念ながら思い浮かびません。どのような歴史があるのかを辿ってみたいと思います。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の鳥取県になるまでの変遷です。

結構すっきりしています。石高は32万石で、編入した支藩を併せると山口藩約37万石に匹敵します。しかし、近年の人口は、都道府県の中で最も少なく、全県で60万に及びません。その内、1/3程度の約20万人が鳥取市に住んでいます。地理的条件が悪いことも考えられますが、歴史的に問題がなかったかを探ってみたいと思います。

鳥取藩
鳥取藩(とっとりはん)は、因幡国・伯耆国(鳥取県)の2国を領有した大藩です。石高は32万5千石で、藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置かれました。
鳥取藩は、江戸時代を通して池田氏が治めました。
慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の後、播磨姫路藩の初代藩主「池田輝政」の弟で、「池田恒興」の三男「池田長吉」が6万石で入封し、鳥取藩が立藩しました。元和元年(1615年)、嗣子「池田長幸」の代に備中松山藩に転封となりました。
同年、播磨国姫路藩より「池田輝政」の子で、池田宗家「池田利隆」の嫡男「池田光政」が32万石を与えられて入封しました。光政は在封していた16年の間に鳥取城下町の基盤を整備しました。寛永9年(1632年)、備前国岡山藩主「池田忠雄(利隆の弟)」が死去し、その嫡男で光政の従兄弟にあたる「池田光仲」が家督を継ぐと、幼少であることを理由に鳥取藩へ移封され、代わって光政が岡山へ入りました。これ以後、池田氏の分家筋が因幡・伯耆国32万5,000石を治めることになります。この忠雄死去の前後に、「鍵屋の辻の決闘」に関わることで大きな注目を集めました。
鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に「渡辺数馬」と「荒木又右衛門」が、数馬の弟の仇である「河合又五郎」を伊賀国上野の「鍵屋の辻(三重県伊賀市小田町)」で討った事件です。
寛永7年(1630年)7月11日、岡山藩主「池田忠雄」が寵愛する小姓の「渡辺源太夫」に藩士「河合又五郎」が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまいました。又五郎は脱藩して江戸へ行方をくらまし、旗本の「安藤次右衛門正珍」にかくまわれました。激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求しますが、「安藤次右衛門」は、旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまいます。寛永9年(1632年)、忠雄は又五郎を討つよう遺言し、疱瘡のため急死します。幕府は、喧嘩両成敗で事件の幕引きをねらいましたが、源太夫の兄「渡辺数馬」は仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれました。剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役「荒木又右衛門」に助太刀を依頼します。又右衛門一行は、「鍵屋の辻」で待ち伏せし、又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み決闘が始まります。数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺し、決着しました。決闘地の領主である津藩藤堂家が又五郎一行の情報を提供し、兵を密かに配置、決闘が始まると周囲を封鎖し、又五郎の逃走を阻止するなど、数馬、又右衛門らを支援していたともいわれています。支援の理由は、この事件を外様大名と直参旗本との争いとみなしたためと見られています。
鳥取池田家は池田家の分家筋でありましたが、輝政と「徳川家康」の二女「督姫」の間に生まれた忠雄の家系であることから岡山の宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格を与えられました。また、通常大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で家来に預けなくてはなりませんでしたが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが許されました。これは鳥取池田氏の他には御連枝や越前松平家の一門といった徳川家一門の親藩と、やはり他の外様大名より家格の高い加賀藩前田氏のみに許された特権でした。
2国を領し因幡国内に藩庁が置かれたため、伯耆国内では米子に城が置かれ、城代家老として、荒尾氏が委任統治(自分手政治)を行いました。この他に倉吉・八橋・松崎・浦富といった藩内の重要な町にも陣屋がおかれ、家老職にある家が代々統治を行っていました。なお、これらの町は他の在郷村とは違い、城下の鳥取と同じ扱いを受け、町年寄などの役職が置かれていました。また、因幡国内には支藩として鹿奴藩と若桜藩を置きました。
「天保の大飢饉」は、鳥取藩でも猛威を振るいました。その被害は「申年がしん」と称されています。
幕末、12代藩主「池田慶徳」は15代将軍「徳川慶喜」の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとりました。藩内でも尊王派と親幕派の対立が激しく、文久3年(1863年)には、京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生しました。翌年の「禁門の変」で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになりますが、明治元年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」「戊辰戦争」では官軍方につき、志願農兵隊「山国隊」などを率いて転戦しました。明治政府に登用された鳥取藩士には、「河田左久馬」「北垣晋太郎」「原六郎」「松田道之」などがいます。

鳥取城跡

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)にある山城です。国の史跡に指定され、久松山城とも呼ばれています。
中世城郭として成立し、戦国時代には「織田信長」の家臣であった「羽柴秀吉」と毛利軍との戦いの舞台(中国攻め・鳥取城の兵糧攻め)となっています。江戸時代には鳥取藩池田氏の統治下に入り、近世城郭に整備されました。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残すのみとなっています。

鳥取藩江戸屋敷表門

東京国立博物館の屋外展示で、開館日ならいつでも見ることが出来ます。
旧丸の内大名小路(丸の内3丁目)にあった鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門です。明治時代、当時の東宮御所正門として移されたのち、高松宮邸に引き継がれ、さらに昭和29年(1954年)当館に移築されました。創建の時期は明らかでありませんが、形式・手法から見て江戸末期と考えられます。屋根は入母屋造左右に向唐破風(からはふ)屋根の番所を備え、大名屋敷表門では東京大学の赤門と並び称されるものです。

鹿奴藩
鹿奴藩(しかのはん)は、鳥取藩の支藩で、鹿野藩・鳥取東館新田藩ともいいます。ただし、同地には池田氏が転封される以前の領主である亀井氏による「鹿野藩」も存在していました。
貞享2年(1685年)に鳥取藩主「池田光仲」が、鳥取藩の新田2万5000石を次男「池田仲澄」に与えて新田分知による分家としたのが始まりです。藩庁は江戸時代を通して鳥取に置かれましたが、明治元年(1868年)12月10日になってから鹿奴陣屋(鳥取市鹿野)を藩庁としたため、鹿奴藩と呼ばれるようになりました。
「池田仲澄」時代の晩年である元禄15年(1702年)閏8月7日、5000石を加増されて3万石となりますが、これは本家の鳥取藩から蔵米を支給される形でした。藩政の機構は無きに等しく、本家から派遣された役人が実際の藩行政を行なっていました。鹿奴藩は本家が断絶した際に備えるために設置された形式上の藩であったと言って良いようです。実際、鳥取藩の第3代藩主「池田吉泰」と第10代藩主「池田慶行」は鹿奴藩主家(東分知家)からの養子藩主です。
藩政で見るべきところはほとんどありませんが、第9代藩主「池田仲建」が元治元年(1864年)6月27日、鳥取藩主「池田慶徳」と京都出兵をめぐって対立し、諫死していることくらいです。
明治2年(1869年)にみずから廃藩し、鳥取藩に吸収されました。

鹿野城跡

鹿野城の築城年は不詳ですが、古くは因幡国守護職山名氏に従った志加奴氏(鹿野氏)の居城だったとされます。標高148mの山に築かれた中世の山城で、山頂付近に設けられた本丸から階段状に二の丸、三の丸、四の丸、西の丸が配され、本丸には天守閣(7間四方の石垣、三層、入母屋、本瓦葺)、二の丸に出し櫓、西の丸には「亀井茲矩」の隠居所(南北7.5間、東西8間)、中腹の郭には鎮守社である妙見社(城山神社)、麓の郭には朝鮮櫓、オランダ櫓、麓には事実上の本丸があり東物見、西物見と呼ばれる施設がありました。現在でも麓の居館部分には石垣や水堀、土塁などが明瞭に残され、鳥取城・若桜鬼ヶ城と共に因幡三名城に数えられ、鳥取市指定史跡となっています。

鹿野町の街並み

鹿奴(鹿野)藩のあった鹿野町は、鳥取県の中央部東寄り、鳥取市の西側に位置しています。
この地は山陰道の交通の要衝に位置し、因幡・伯耆支配をめざす諸軍勢により、たびたび争奪の中心とされました。近世においては、鹿野往来(伯耆中道)が通り、近世初頭から宿駅としても栄え、制札場や牢舎も置かれ、宝暦8年(1758年)には目安箱、文久3年(1863年)には番所も設置され、牛市も開催され在郷町として賑わいを見せていました。現在もかつての城下町地域には、殿町・鍛冶町・大工町・紺屋町・御茶苑・堀端・鉄砲町・的場などの小字名が残っており、中世末期から江戸初期の鹿野城下の様子を思い浮かべることができます。

若桜藩
若桜藩(わかさはん)は、鳥取藩の支藩で、鳥取西館新田藩とも言います。鳥取藩第2代藩主「池田綱清」が元禄13年(1700年)5月25日に弟「池田清定」(「池田光仲」の四男)に新田1万5000石を分知したのが始まりで、藩庁は鹿奴藩と同じく鳥取に置かれました。なお、江戸屋敷が鉄砲洲にあったことから、鉄砲洲家ともいわれています。第2代藩主「池田定賢」は、享保5年(1720年)に5000石の加増を受けて2万石の大名となり、さらに幕府から松平姓を許され、柳間詰となりました。ただし、鹿野藩と同じく鳥取藩から蔵米で支給を受けていたため、実際に領地はありませんでした。そのため鳥取藩からの独立性は薄く、若桜には鳥取藩から派遣された御付人による政務が行なわれていました。
歴代藩主の中では、第5代藩主「池田定常(松平冠山)」が藩政改革を行い、また文学者としても有名で、「柳間の三学者」「文学三侯」と称されました。
明治元年(1868年)12月10日、第10代藩主「池田徳定」は若桜(八頭郡若桜町)に若桜陣屋を置いたため、若桜藩と呼ばれるようになりました。明治3年(1870年)、鳥取藩に帰属しました。

若桜鬼ヶ城跡

若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう)は、鳥取県八頭郡若桜町若桜に存在した城です。城跡は国の史跡に指定され、鳥取城・鹿野城とともに因幡三名城のひとつに数えられる名城です。標高452メートルの鶴尾山山頂部から尾根部分に曲輪群を設けています。主に木下・山崎氏時代の主要部と国人・矢部氏時代の古城部に分けられ、中世城郭と石垣で作られた近世城郭の両方の遺構が残っています。また、主要部の石垣には元和3年(1617年)の破城の形跡が見られ各所で崩れた石垣が確認されています。

若桜町の町並み

若桜は鳥取から姫路に抜ける国道29号線、かつての播州往来、別名若桜街道沿いの宿場町です。カリヤのある町として知られています。カリヤとは家屋から突き出た庇(ひさし)のことで、雪国特有の風景です。カリヤ通りと言われるメインストリートに出ると、さっそくカリヤのある民家があります。切り妻造り、平入り、中二階、黒壁で防火扉が付いていて、ナマコ壁、赤い桟瓦の石州瓦、出格子、煙だしが付いていました。
「因幡のなかの播磨」と呼ばれ、元禄14年(1701年)以降は、若桜宿と呼ばれています。町の背後に鬼山(鶴尾山)がそびえ、元和3年(1617年)まで鬼ケ城(若桜城)と呼ばれる城郭があり、若桜はこの城の城下町でした。廃城になってからは、若桜街道と氷ノ山越えを経て、但馬に至る伊勢道(大江町の元伊勢外宮と元伊勢内宮)の宿場町として、また、近隣の物資の集散地、いわゆる在郷町として栄えました。

 

鳥取藩は32万石の大藩でありながら、現在の鳥取県は全国で一番人口の少ない県です。その理由は、地理的条件と気候条件に恵まれていない点が大半であろうと思います。人口の集中する瀬戸内沿いの広島・岡山・姫路・神戸・大阪とは中国山地に遮られ、気候的にも県内全域が日本海側気候で、豪雪地帯となっています。このようなことから外部から閉鎖された地域となっており、地域内ですべてを賄ってきたのではないかと考えられます。また、藩主家の池田家は、徳川幕府から松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格を与えられており、江戸時代を通じて安泰であったことで、藩士や領民の意識が環境に満足していたのではないでしょうか。この意識が廃藩後、少なくとも昭和初期くらいまでは継続して行ったと考えています。また、鳥取藩江戸屋敷表門が、廃藩後も東宮御所正門として使用されていたことを考えると、近年まで安泰が継続していたと考えられます。
廃藩後も池田家は存続し、明治17年(1884年)7月7日に、当主「池田輝知」が侯爵となり、華族に列せられました。明治23年(1890年)に亡くなり、従弟の「池田仲博」が、婿養子となり、14代目として跡を継ぎました。15代目当主は、長男の「池田徳真」(1904-1993年)で、英国留学をきっかけに、クリスチャンとなっています。池田徳真氏は、著書を数冊刊行しており、姉の幹子は、「徳川宗敬」夫人となっています。
2010年現在の当主は16代目で、先代息女の「池田百合子」です。健在で養子もいますが、家督を継ぐ者ではなく、旧鳥取藩主としては、当代限りで池田家の終了を決意しているそうです。12代目「池田慶徳」の東京移住を理由として、大正14年(1925年)、「池田仲博」のときに設けられた東京多磨霊園の鳥取藩主池田家の墓は、これらの経緯により平成15年(2003年)に鳥取市の大雲院に移築改葬され、「史跡鳥取藩主池田家墓所保存会」が設けられました。また、鳥取藩主池田家の分家「東館(ひがしやかた)池田家の墓(東京都)が、大雲院(鳥取市立川町)にある本家の墓所に移設され、同院で2010年5月15日、慰霊法要が営まれました。2007年2月に92歳で亡くなった東館池田家の13代当主「池田仲親」が、生前、本家の墓所に合祀することを希望し、3月に実現しました。関係者は「ご先祖様が同じ墓に入ることになって良かった」と話しているそうです。
島根県も県内全域が日本海側気候ですが、日本海側気候の地域としては最西南端にあるため比較的温和な気候で、沿岸部に豪雪地帯はありません。ここが鳥取県と決定的に違うところです。

 

如何でしたでしょうか。現在では高速道路で他県とのアクセスが良くなってはいますが、ごく最近の話です。それ以前は他県との往来は少なかったのではないでしょうか。
先の参議院選挙では、合区が話題になりました。これは有権者の少なさが主な原因ですが、かつて鳥取県は、島根県に統合されていた時代があったことを考えると、本当はその方が良かったのかもしれません。これは徳島県も同様で、かつて高知県に統合されていた時代があったのです。不思議ですね。明治初期の構想が現代につながっています。
このブログを始めたきっかけは、「古きを訪ねて新しきを知る。」という事で、歴史を紐解けば現代が分かるような気がしたからです。まさに今回は典型的な例となりました。

 

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