歴史を紐解く(廃藩置県)- 広島県編



今回は広島県の歴史を紐解いてみました。広島県と言えば、「安芸の宮島」や「原爆ドーム」などが思い浮かびます。平安時代や近代史での結びつきしか思い浮かびません。江戸時代がすっぽり抜け落ちてしまっています。江戸時代から廃藩置県に至るまでの広島はどのようになっていたのか歴史を辿ってみたいと思います。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の広島県になるまでの変遷です。

意外にすっきりしています。ここからも江戸時代は安泰であったことが想像できますが、本当にそうだったのでしょうか。

広島藩
広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の大部分にあたります。藩庁は、広島城(広島県広島市)に置かれました。芸州藩または、安芸藩と呼ばれることもあります。
山口県編でも触れていますが、安土桃山時代の中国地方は、毛利氏がその大半を治めていました。天正19年(1591年)には、広島城が築城され毛利氏の居城となり、広島は政治・経済の中心地となっていました。しかし、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、西軍の総大将として参戦した「毛利輝元」は、西軍の敗戦により防長2国に減封されました。
代わって、安芸・備後2ヶ国の49万8000石の国主大名として、尾張国清洲より「福島正則」が入封しました。
正則は、慶長6年(1601年)から検地を実施し、毛利氏時代に不徹底に終わった兵農分離・石高制の移行を行ないました。しかし、安芸は土豪の勢力が根強かったことから、一部に妥協して郷士制も残しています。また、城下町の建設や国内産業の発展なども正則の時代に行なわれ、広島藩の藩政が確立しました。
その後、正則は「大坂の陣」が終わった後の元和5年(1619年)6月、洪水で損壊した広島城を無断改修し、「武家諸法度」違反の咎により、大幅減封の上、信濃国川中島藩に転封となりました。実際には豊臣氏恩顧の有力大名であり、「大坂の陣」によって江戸幕府が豊臣氏を滅亡させたことに異を唱えた事によるものであったと考えられています。
郷士制については高知県編で触れていますので、そちらを是非閲覧ください。
代わって、紀州藩より豊臣政権下で五奉行を務めた「浅野長政」の次男「浅野長晟」が、安芸1国・備後8郡の42万6000石で入封しました。広島は大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ、藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いていました。また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ、相場を見極めて売りさばき巨利を得、「芸侯の商売上手」と江戸時代中期の学者「海保青陵(儒学・経済学)」より評されていました。
長晟は福島氏時代の政策を踏襲していましたが、その一方で土豪に対しては厳しい態度で臨み、統治機構の近代化を目指しました。
長晟の次男で第2代藩主の「浅野光晟」は、「徳川家康」の外孫であったため、幕府の許しを得て、光晟の庶兄「浅野長治」に5万石を分与し三次藩が立藩します。光晟は街道整備に尽力し、松平姓を名乗ることも許されていました。
光晟の長男で第3代藩主の「浅野綱晟」は、正室・継室にいずれも「九条道房」の娘を迎えています。道房の母は、「豊臣秀勝」の娘である「豊臣完子」であり、以降の浅野宗家は豊臣氏の血を女系で受け継ぐ事になります。
綱晟の長男で第4代藩主の「浅野綱長」時代の元禄14年(1701年)、分家の赤穂藩主「浅野長矩(浅野内匠頭)」が、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、刃傷事件を起こました。この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、「進藤俊重」「小山良速」などの赤穂藩重臣たちの親族藩士を次々と赤穂藩へ派遣し、開城圧力をかけました。その後の「大石良雄(大石内蔵助)」の盟約にも切り崩しをはかり、「進藤俊式」や「小山良師」ら、大石側近を説得して脱盟させています。しかし、討ち入りそのものの阻止には失敗しました。これが「仮名手本忠臣蔵」の題材となった事件です。
数年後、赤穂浪士の英雄化に伴い、態度を一変させ「大石良雄」の三男「大石大三郎」など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになりました。なお、「浅野綱長」時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や藩札の発行が行なわれています。
こうして江戸時代中期になると、財政は悪化に転じました。綱長の長男で第5代藩主の「浅野吉長」は、家老から実権を奪い返して親政を試み、有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化を目指して藩政改革を試みましたが、郡村支配の強化は反発を招いて享保3年(1718年)3月に大規模な一揆により失敗に終わりました。なお、享保5年(1720年)5月に三次藩が断絶したため、享保15年(1730年)3月に「浅野吉長」は、弟の「浅野長賢」に蔵米3万石を分与して、新田分知により広島新田藩を立藩し、本家の継嗣が断絶した際に備えました。また、享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、「白島稽古屋敷」の一部を割いて「講学所」(現在の修道中学校・修道高等学校)を創始しました。
吉長の長男で第6代藩主の「浅野宗恒」は、「宝暦の改革」と言われる藩政改革に着手して成功を収め、財政が好転します。
宗恒の長男で第7代藩主の「浅野重晟」は、緊縮財政政策を採用し、徹底した諸制度の簡素化や綱紀の粛正を図り成功しました。しかし、天明期に相次ぐ洪水や旱魃・冷害・虫害などによる凶作・飢餓に悩まされ、財政は結局悪化しました。しかも天明6年(1786年)には、「打ちこわし(不正を働いたとみなされた者の家屋などを破壊する行為)」も起こっています。その後、寛政11年(1799年)に重晟は隠居し、次男「浅野斉賢」が第8代藩主となります。重晟の正室は「徳川宗勝」の五女「邦姫」で、継室は「徳川宗勝」の九女「陽姫」です。斉賢は継室「陽姫」の子で、跡継ぎの事情は定かではありません。
斉賢の長男で第9代藩主の「浅野斉粛」は、第11代将軍「徳川家斉」の娘「末姫」との婚儀、饒津神社の造営、幕府の手伝い普請、凶作が相次ぎ、幕末になると藩財政は窮乏の一途をたどりました。このため斉粛は、殖産興業の実施・藩内産物の専売制の強化を行ないました。しかし、藩札の濫発による物価騰貴、専売制の反対一揆などが相次ぎ、さらに藩政改革の手法をめぐって家臣団での対立まで起こり、改革は事実上頓挫しました。
斉粛の長男で第10代藩主の「浅野慶熾」は、幼少期から聡明で、その力量は時の名君と呼ばれた「島津斉彬」や「山内豊信」「松平慶永」からも一目置かれる存在でしたが、23歳の若さで他界してしまいました。
広島新田藩主「浅野長容」の婿養子で「浅野重晟」の孫にあたる「浅野長訓」が第11代藩主となり、先代からの藩政改革を受け継ぎ、文久2年(1862年)、「辻将曹」を家老に抜擢し、「文久の改革」を行ないました。藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化、軍備を近代化し、成功をみました。長州征討で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧きました。しかし、長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退しています。
慶応2年(1866年)に第14代将軍「徳川家茂」が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には、長州藩・薩摩藩と同盟を結ぶに至りました。しかしその一方で、第15代将軍「徳川慶喜」に大政奉還を推進するなどしています。このため広島藩は、後の明治政府の中枢から排除されることにはなりましたが、官軍に加わって戊辰戦争を戦いました。
長訓は、将軍「徳川家茂」の偏諱を与えられて「浅野茂長」と改名しますが、明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて諱を長訓に戻し、翌明治2年(1869年)正月24日には、重晟の曾孫にあたる広島新田藩主の「浅野長勲」に宗藩の家督を譲って隠居します。
明治2年(1869年)6月に第12代藩主となった長勲は、版籍奉還により広島藩知事に任じられます。長勲は昭和12年(1937年)に96歳で死去するまで長寿を保ち、当時のメディアからは「最後の殿様」ともてはやされたといいます。

広島城

広島城(ひろしまじょう)は、広島県広島市中区基町にある日本の城跡です。別称は「鯉城(りじょう)」と呼ばれており、国の史跡に指定されています。その他、「在間城(ざいまじょう)」、「当麻城(たいまじょう)」の別称があります。
日本100名城の一つで、最も広かった時代の曲輪のうち、内堀に囲まれた本丸と二の丸と三の丸の一部が現存し、広さは約12万㎡です。大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なもので、名古屋城、岡山城と共に日本三大平城とも言われています。
広島城があった一体は、昔「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は、「鯉」であったと言われていることから、この名がついたようです。一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いからとも言われています。
広島カープが何故「鯉」なのか納得できました。

三次藩
三次藩(みよしはん)は広島藩の支藩で、江戸時代中期まで備後北部を領有した藩です。藩庁として三次に三次城が置かれました。
初代広島藩主「浅野長晟」の庶子で長男の「浅野長治」が、寛永9年(1632年)に三次郡・恵蘇郡を与えられ立藩しました。享保4年(1719年)4月、第4代藩主「浅野長経」は13歳で没し、一旦は広島藩領となりましたが、同年11月、長経の弟「浅野長寔」に相続が認められました。しかし、長寔も翌、享保5年(1720年)10歳で没したため廃藩となりました。なお、廃藩置県当時に存在していないので、年表には載せていません。

尾関山城跡(本丸部分の石見台)

尾関山城(おぜきやまじょう)は、三次市三次町にあった標高202mの山城で、別称、丸積山城・三次城とも呼ばれています。大正初期、昔の城郭残塁の段を生かして広場、遊歩道を造営し、さくら・もみじなどを植えて公園として整備され、現在に至っています。
市街地の北隅、清流江の川畔にあるこの公園は、春はさくら・つつじ、初夏の青葉によく、秋のもみじ、月見、冬の雪景にすぐれた自然公園です。
築城当時は「三吉氏」の家臣であった「上里(アガリ)氏」の居城でした。後に「福島正則」の家老であった「尾関氏」が2万石を賜り居城としました。元は、小丸積山といって、天正年間(1573~1591年)に「三吉氏」の重臣「上里越後守」の居城としたところですが、慶長6年(1601年)に「福島正則」の重臣、「尾関石見守正勝」が、二万石を領してここに入城してから尾関山というようになりました。寛永9年(1632年)に三次藩主として、「浅野因幡守長治」が入封すると、ここに下屋敷が置かれ、頂上に天文台(発蒙閣)を設けました。なお、公園南麓にキリシタン灯籠があり、伝道苦難の跡がしのばれます。

広島新田藩
広島新田藩(ひろしましんでんはん)は広島藩の支藩で、享保15年(1730年)より広島藩の蔵米3万石を与えられ、広島藩第4代藩主「浅野綱長」の三男「浅野長賢」により立藩しました。藩主は参勤交代を行わない江戸定府の大名でした。元治元年(1864年)には、吉田(安芸高田市)に吉田陣屋を構えました。明治2年(1869年)、広島藩に併合され廃藩となりました。現存する建物としては、通称「三菱窟」が「法円寺」に移築現存し、広島市甲田町の個人宅に「西御門」が移築現存し、「教徳寺」には「陣屋門」が移築現存しています。

三菱窟

「三菱窟(さんりょうくつ)」の名は、法円寺に移築後につけられたもので、元は、浅野家本館の一部でした。陣屋は、現在の吉田高校・吉田小学校・吉田保育園の郡山城跡南麓に構えられましたが、5年後には明治維新を迎え、建物は破壊または売却されました。
「三菱窟」は、陣屋の馬見櫓(やぐら)と伝えられ、浄土真宗の学問僧として著名な法円寺住職「霊山諦念師」が払い下げを受け、学問所として用いていたそうです。屋根は茅(かや)葺きであったのを銅板葺きに改められていますが、「三菱窟」の名のように部屋の形はもちろん畳から炉などすべてが菱形(ひしがた)であり、今は茶室として使用されています。このような形になった理由としては、敷地の形に合わせた、あるいは旗印をかたどったともいわれています。何れにしても江戸時代最後の大名陣屋の遺構であり、特異な意匠の茶室として価値のある建物です。

吉田陣屋(陣屋門)

吉田陣屋の門が五龍城近くの教徳寺に移築され、山門として使用されていましたが、現在は山門の役割を終え、寺の駐車場に移されています。

福山藩
福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国南部(広島県東部)、備中国南西部周辺を領有した藩です。藩庁は福山城(広島県福山市)に置かれました。石高(表高)は10万石で、阿部家第7代藩主「阿部正弘」から11万石となりました。
福山藩は幕府が「毛利氏」などの中国筋の有力外様大名に対する「西国の鎮衛」として、「水野勝成」に備後地方を与えたことに端を発する藩で、明治維新まで歴代有力な譜代大名が配されました。
関ヶ原の戦い以降、後に福山藩となる備後国は安芸国と共に「福島正則」によって領有(49万8千石)されていました。しかし、正則は有名な広島城無断修築の咎で元和5年(1619年)に改易となり、領地は分割され、安芸及び備後北部・西部は「浅野長晟」(42万石)に与えられます。備後南部には「徳川家康」の従兄弟で「大坂の陣」では「後藤基次」を破るなど卓越した戦歴を持つ「水野勝成」が、大和国郡山藩(6万石)から4万石の加増を受けて10万石で入封することになりました。当初の領地構成は備後国の深津郡・安那郡・沼隈郡・神石郡・品治郡・葦田郡・備中国の小田郡・後月郡のそれぞれ大半でした。現在の行政区分では、福山市全域と尾道市の東部、府中市全域、三次市や庄原市の南部、笠岡市や井原市の西部、神石高原町の大半です。
勝成は入封と同時に福山城と城下町の建設に着手し、福山城は4年近い歳月を費やして元和8年(1622年)に完成しました。また、勝成は新田開発や灌漑事業、産業育成を行うなど領内の経営に努め、藩政の基礎を築きました。寛永3年(1626年)には、勝成の従四位下昇進により福山藩領は、相模国愛甲郡厚木村(神奈川県厚木市)に飛び地1000石の加増を受け計10万1000石となりました。
寛永15年(1638年)の「島原の乱」において、勝成及び子の勝俊、孫の勝貞率いる福山藩兵約6000人は、幕府上使を除き九州の大名以外で唯一幕府軍に参戦しました。翌16年(1639年)に勝成は隠居しましたが、その後も隠居料(2万石)のほとんどを新田開発や用水路の整備に費やしたといいます。
慶安4年(1651年)の勝成の死後、勝俊、勝貞、勝種と続きますが、勝成の政策は基本的に踏襲され、福山藩は着々と発展を遂げていきます。藩成立当初に農民全体の7割以上であった小作民もほぼ0となり、この間に石高は約3万石増加しました。しかし、元禄10年(1697年)勝種の急死により生後間もなくで跡を継いだ第5代藩主「水野勝岑」が、元禄11年(1698年)に僅か2歳で死去し、水野家は改易となりました。これに対し一部の藩士や領民は水野家の存続を求めて、福山城に籠城する動きを見せますが、家臣の説得により間もなく静まったといいます。名門の故で勝成の孫「水野勝長」が、能登国西谷藩1万石に取り立てられ、水野氏の家名は存続されました。
水野家の断絶により福山藩領は一時天領となり、幕府から代官3人が派遣されました。代官所は城下東端の三吉町に三吉陣屋が置かれ、福山城の城番は讃岐国丸亀藩主「京極高或(縫殿)」が務めました。同時に幕府は厚木村を除く領内全地域の検地(元禄検地)を命じ、岡山藩から検地団約2400人が送り込まれました。この結果、水野時代の増産や検地の厳格化、尺度の変更による面積の水増しなどにより福山藩の石高は約15万石と査定されました。この検地以前の石高は約13万2800石だったので実質的には平均で約10%の増税ということになります。
元禄13年(1700年)、出羽国山形藩の「松平忠雅」が10万石で入封することになりました。これは元禄検地で査定された旧福山藩領の15万石から5万石分(小田郡・後月郡・神石郡・甲奴郡・安那郡の一部)の領地を削ったもので、実質的には水野時代より7割弱の石高でしかなく、他国の表高10万石と比べて少なめでした。削減分の領地は引き続き天領とされ、神石郡・甲奴郡・安那郡には「上下陣屋(広島県府中市)」が、小田郡・後月郡には「笠岡陣屋(岡山県笠岡市)」が置かれました。忠雅は受領から9年後の宝永6年(1709年)に福山に入りますが、わずか1年後の宝永7年(1710年)に再び伊勢国桑名藩に転封となりました。
「松平忠雅」の転封から間もなく、下野国宇都宮藩(10万石)から「阿部正邦」が10万石で入封します。以後、阿部氏は廃藩置県まで10代161年間在封することになりまた。この間老中を4人、大坂城代を1人輩出しています。特に第7代藩主「阿部正弘」は、わずか25歳で老中首座に就任し、日米和親条約を締結するなど著名です。しかし、阿部氏は代々幕閣の中枢を目指したため、歴代藩主の殆どは江戸定府で領内に在住することは稀でした。また、このために阿部氏は他の大名に比べ多くの経費を必要とし、また先の検地により厳しい査定を受けての10万石であったため歴代を通じて財政状況は極めて悪く、度々の一揆を招くことにもなりました。中でも領内全域を巻き込んだ「天明の一揆」は、「安部野童子問」などの書物に描かれて全国的に名を知られました。なお、水野時代には、一揆の記録は一度もありません。また、重税や飢饉により没落する農民も多く、田畑所有の寡占化が進み、幕末までに多くの「豪農」が出現しました。
藩政において阿部氏は基本的に領国の経営に関心が薄いこともあり、財政の緊縮に重きが置かれ、水野氏のような大規模な開発は行われなくなります。
嘉永5年(1852年)には、「阿部正弘」が江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増され石高は計11万石となりました。このとき加えられた領地は、水野家廃絶時に天領とされた安那郡・神石郡・後月郡のそれぞれ一部です。阿部氏は教育の面においては天明6年(1786年)、第4代藩主「阿部正倫」が、藩校「弘道館」を開き、「阿部正弘」は嘉永6年(1853年)に福山と江戸に新たな藩校「誠之館」を開くなど目覚しいものがありました。このため幕末までに福山藩から「菅茶山」や「頼山陽」を始め、多くの人物が輩出されることになりました。
元治元年(1864年)、福山藩は幕府に長州征討への参加を命じられ、藩主「阿部正方」は、藩兵約6000人を率いて広島に進軍しますが、幕府と長州藩との間に和睦が成立して引き返した。また、慶応元年(1866年)末には、第二次長州征伐に参加のため山陰を目指して出陣しましたが、途中、正方は体調を崩し、指揮を家老「内藤角右衛門」に委ねます。ちなみに、この出兵の準備中に福山城内に保管していた火薬が大爆発して櫓3棟が失われています。そして、翌年6月17日福山藩は石見国益田において、「大村益次郎」率いる長州軍と戦闘を繰り広げ敗走します。これは福山藩にとって「島原の乱」以来、実に230年ぶりの戦闘でした。その後、幕府側の諸藩は敗走を重ね、逐次撤退を開始したため福山藩も7月23日に福山へと帰還しました。これらの戦によって、そうでなくとも厳しい藩財政は、破綻同然にまで追い込まれます。しかし一方で、財政建て直しの切り札として慶応元年(1865年)から福山沖で藩史上最大の大新涯(約320ha)の造成が開始されます。
この事業は前述の第二次長州征伐参加の準備で中断されますが、慶応3年(1867年)に完工します。しかし、地質の改良が進み、実際に収穫が得られるのは明治になってからでした。藩財政は後述する明治維新の緒戦等で更に悪化し、廃藩置県までに破綻状態に陥ることになります。
大政奉還の後、慶応4年1月9日(新暦1868年2月2日)、福山城が「杉孫七郎」率いる長州軍によって築城以来、初めての攻撃を受けることになりました。まず、今津(松永町)に進駐した長州軍は部隊を三手に分け、北・西・南からそれぞれに福山を目指しました。これに対し福山藩は恭順の意を示しますが、城下に迫った長州軍は北本庄の円照寺を占拠し、大砲による砲撃を手始めに本格的な攻城を開始しようとします。しかし、藩主「阿部正方」が直前に病死したため、藩主不在となっていた福山藩の実質的な首脳「関藤藤陰」らの奔走により、長州軍は福山藩の恭順を認め備後から撤兵しました。こうして福山は戦火から免れることになりましたが、この後、皮肉にもかつて幕府から西国への抑えを期待されていたはずの福山藩が、西国外様大名を中心とした新政府軍の尖兵として「榎本武揚」率いる旧幕府軍と戦うことになります。
明治元年(1868年)になると新政府から伊予国松山、播磨国西宮、大阪府天保山と矢継早に出兵を命じられます。こうした中、正方の死去を隠蔽し、安芸国広島藩から藩主「浅野長勲」の弟「阿部正桓」が、正方の養子として第10代藩主に迎えられました。正桓は藩主就任直後に蝦夷箱館への出兵を命じられ、藩兵約500人が新政府軍に加わり箱館戦争で戦いました。しかし、福山藩兵は「七重村の戦い」で、榎本軍に撃退され青森まで敗走します。その後再び戦列に加わり、箱館総攻撃では千代ヶ岡砲台を攻略しました。この戦による福山藩兵の損害は死者25人、負傷者28人でした。明治2年(1869年)正桓は、版籍奉還により福山知藩事に就任し、明治4年(1871年)旧福山藩領は廃藩置県により福山県となりました。ここに備後福山藩は消滅しますが、それでも元幕府譜代のそしりは免れることはできず、深津県・小田県・岡山県と短期間に強引な県名・県域の変更が繰り返され、最終的には明治9年(1876年)に備後地域の旧福山藩領が、広島県へと移管されることになりました。

福山城

福山城(ふくやまじょう)は、広島県福山市丸之内1丁目にあった城で、城跡は国の史跡に指定されています。久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれています。日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構であり、2006年2月13日、日本100名城に選定されました。
福山駅のすぐ近くにあり、新幹線の車内からも天守閣が見えます。新幹線に乗るといつも楽しみにしています。通過列車の時は、見落とさないように心の準備が必要です。

誠之館記念館(旧玄関)

誠之館(せいしかん)は、安政2年(1855年)に開校した備後福山藩の藩校です。明治5年(1872年)に廃校になりました。福山藩の藩校としては、天明6年(1786年)に福山藩第4代藩主「阿部正倫」が創立した「弘道館」が存在しましたが、不振であったことなどから安政元年(1854年)に第7代藩主「阿部正弘」がこれを廃止しました。正弘は、新たな藩校を福山城下南端に設立し、「誠之館」と命名しました。明治維新後、誠之館は明治5年(1872年)に新政府の命で廃校となり、施設は小田県師範学校などに利用されました。
小田県師範学校は、広島県福山師範学校、広島県福山中学校、尋常中学福山誠之館を経て、現在は広島県立福山誠之館高等学校となっています。

 

私は、戦国武将の「福島正則」が大変気になっています。戦国時代の映画やドラマでも度々耳にする名前ですが、詳しくは知りません。そこで、「福島正則」の事をより詳しく調べてみたいと思います。
永禄4年(1561年)、桶屋を営んだ「福島正信(正光)」の長男として、尾張国海東郡(愛知県あま市)で生まれます。「星野成政」の子で、「福島正信」の養子になったと言う説もあります。
「豊臣秀吉」の母(大政所)正則の母は姉妹であり、正則にとっては叔母に当たります。その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾ります。
当初の禄高は200石でしたが、天正10年(1582年)の「山崎の戦い」では、勝龍寺城を攻撃するなどして軍功をあげ、300石を加増されて500石となりました。天正11年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」のときは、一番槍・一番首として敵将「拝郷家嘉」を討ち取るという大功を立てて賞され、「賤ヶ岳の七本槍」の中でも突出して5,000石を与えられました。他の6人は3,000石だったので格別の扱いです。
天正12年(1584年)、「小牧・長久手の戦い」では、父・正信とともに、後備えとして兵300を率いて従軍したそうです。 正則は本陣から美濃に撤退する際に敵と戦い、褒美として「胴肩衣(襦袢)」を賜りました。
その後、「根来寺攻め」や「四国征伐」にも従い、天正15年(1587年)の九州平定後、9月5日に伊予国今治11万石の大名に封ぜられました。「小田原征伐」では、「織田信雄」の軍として、「蜂須賀家政」「細川忠興」「蒲生氏郷」などとともに韮山城を攻撃、包囲しました。
文禄元年(1592年)からの「文禄の役」では、五番隊の主将として「戸田勝隆」「長宗我部元親」「蜂須賀家政」「生駒親正」「来島通総」などを率いて京畿道の攻略にあたりました。年末には京畿道竹山の守備につきました。
この後、正則はいったん日本に帰国し、文禄3年(1594年)1月に再び朝鮮に渡りました。 講和交渉の進展により南部布陣が決まったため、正則は巨済島の「松真浦城」や「場門浦城」の守備、補給などの兵站活動を担当しました。10月、朝鮮水軍を率いる「李舜臣」が場門浦を攻撃(場門浦海戦)した時には、正則自ら軍船に乗って指揮を執り、敵船を焼き討ちするなどの反撃でこれを撃退しました。
文禄4年(1595年)7月、秀吉によって豊臣秀次が切腹させられるという大事件が起こりました。この際、正則は日本におり、秀次に切腹の命令を伝えています。同年、尾張国清洲に24万石の所領を与えられました。
続く「慶長の役」には参加しなかった正則でしたが、秀吉は慶長4年(1599年)に朝鮮半島に大軍勢を派遣して、大規模な軍事行動を計画しており、その軍勢の大将として「石田三成」と「増田長盛」とともに正則も抜擢されていました。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、この計画は実施されることなく日本軍は大陸から撤兵しました。
正則は「石田三成」らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の「前田利家」の死後、朋友の「加藤清正」らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしています。この時は、「徳川家康」に慰留され襲撃を翻意しましたが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となります。
また、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女「満天姫」との婚姻を実現させました。これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものでした。

福島正則束帯肖像

関ヶ原の戦いの福島正則陣跡

慶長5年(1600年)の会津征伐には6,000人を率いて従軍し、その途中、上方で三成が挙兵した報を受けての小山評定では、家康の意を受けた「黒田長政」にあらかじめ懐柔されていた正則が、三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定します。清洲から美濃方面に進軍し、西軍の「織田秀信」が守る「岐阜城攻め」では「池田輝政」と先鋒を争い、「黒田長政」らと共同で城を陥落させます。
関ヶ原の戦いでは、「宇喜多秀家」勢1万7,000と戦闘を行いました。 宇喜多勢の前衛8,000を率いた「明石全登」に、福島勢は一時退却を余儀なくされましたが、なんとか宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功します。
やがて「小早川秀秋」の背信を機に、西軍の戦線は次々に崩壊しました。宇喜多勢は、開戦時から戦っていたため疲労が頂点に達し、東軍による集中攻撃に持ち堪えられなくなり、壊滅しました。正則は西軍総大将「毛利輝元」からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得ました。
慶長6年(1601年)3月に芸備に入封した正則は、早くも領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行いました。家臣への知行割を事実上の給米制とし、検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするなどの善政を敷きました。また、領内の寺社の保護にも熱心であり、慶長7年(1602年)には、厳島神社の平家納経を修復させました。
慶長8年(1603年)、安芸最西端の地に巨大な亀居城の築城を始めます。この城は毛利領最東端の岩国城に対する城で、さらに山陽道の交通を遮断する能力も備えていました。慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れませんでした。慶長13年(1608年)に秀頼が病を患うと、正則は見舞に大坂城へ駆けつけています。慶長16年(1611年)3月に家康が秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した「淀殿」を「加藤清正」や「浅野幸長」とともに説得し、秀頼の上洛を実現させました。なお、正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えていました。
この会見直後に「加藤清正」や「浅野長政・幸長」父子、「池田輝政」といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出ます。しかしそれも許されず、「大坂の陣」では秀頼に加勢を求められても正則は拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まりました。また、一族の「福島正守」「福島正鎮」は豊臣軍に加わりました。幕府には従軍も許されず、冬の陣、夏の陣ともに江戸留守居役を命じられましたが、嫡男の「福島忠勝」が兵を率いて幕府軍に加わりました。しかし戦後、正則の弟の「福島高晴」は豊臣家に内通したとして、幕府より改易を命じられました。
家康死後まもなくの元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが「武家諸法度」違反に問われます。正則はその2ヶ月前から届けを出していましたが、先年にも一国一城令発布後にもかかわらず新規に築城を行ったとして、毛利家から報告を受けた幕府より該当城の破却を命じられた後のことでもあり、幕府からは正式な許可が出ていませんでした。福島側の言い分では、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけといいます。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、求められた「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置きました。これにより「破却が不十分である」と咎められます。また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたこと、それに対して「万事親次第」と弁明を拒否するなどしたため、怒った将軍「徳川秀忠」の命により、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減封・転封されます。移封後、正則は嫡男「福島忠勝」に家督を譲り隠居しました。
元和6年(1620年)に忠勝が早世したため、正則は2万5,000石を幕府に返上し、寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で死去しました。高井野での生活はわずか5年間でしたが領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残しました。
幕府の検死役の「堀田正吉」が到着する前に、家臣「津田四郎兵衛」が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収されました。福島家は取り潰されましたが、幕府は正則の子「福島正利」に旧領から3,112石を与えて旗本としました。「福島正利」が嗣子なく没した後は一旦断絶しましたが、「福島忠勝」の孫「福島正勝」が家を再興し、代々御書院番などを務めました。
こうしてみると「福島正則」は、大変優秀な人物ですね。豊臣家を裏切りつつも血縁でもある豊臣家の再興も頭の中にあったような気がします。「徳川家康」は、正則が優秀な人物であることから、家康の恐れた毛利氏を封じ込めるために正則に広島を与えたのだろうと思います。家康の死後、「徳川秀忠」は、豊臣家の血を引き、優秀な武将でもある「福島正則」の力を弱めたいと考えても不思議ではありません。それに乗じて、広島を追い出された毛利氏からの密告もあって断絶してしまいました。しかし、最終的に福島家が再興出来たのは、せめてもの救いです。

如何でしたでしょうか。広島カープが何故「鯉」なのか。こんなところから分かるとは思いませんでした。また、何回も登場する「福島正則」のことが理解できたのも良かったと思います。強い武将という事だけでなく、政治家としても名君だったようですね。豊臣家を裏切らなければならなかったときは、本当につらかったと思います。優秀な武将なので、少しでも豊臣家が存続できる道を選んだのではないかと私は考えます。

 

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