歴史を紐解く(廃藩置県)- 島根県編



今回は島根県の歴史を紐解いてみました。島根県と言えば、縁結びの神様で知られる出雲大社があります。数々の神話が残り、大変神秘的な地域です。あまり深くそこに触れると切りがありませんので、今回はテーマの本筋である江戸時代から廃藩置県に至るまでの歴史を紐解いてみたいと思います。また、世界遺産の石見銀山や隠岐の島は、江戸時代には幕府領(天領)として繁栄しています。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の島根県になるまでの変遷です。

年表では廃藩置県前後の変遷が分かりにくいと思いますので、少し整理しておきます。

隠岐県の変遷
慶応4.3.20(1868年)隠岐騒動により天領から島民自治
慶応4.11.6(1868年)鳥取藩預地
明治2.2.25(1869年)隠岐県を新設

浜田藩の変遷
江戸時代の石見国(浜田藩・津和野藩・石見銀山周辺の幕府領)
慶応2年(1866年)浜田藩主が第二次長州征伐から美作国鶴田(岡山県)に逃亡
慶応3年(1867年)浜田藩領地は長州藩が占領、浜田藩主は逃亡先で鶴田藩を立藩

版籍奉還直後 明治2.7.1(1869年)
松江藩・母里藩・広瀬藩・津和野藩・隠岐県・長州藩占領地(浜田藩)
明治2.8.2(1869年)隠岐県と津和野藩領を除く石見国の天領を統合(大森県)

廃藩置県 明治4.7.14(1871年)
松江藩(松江県)・母里藩(母里県)・広瀬藩(広瀬県)
大森県と津和野藩を統合(浜田県)

第1次府県統合 明治4.11.14(1871年)
松江県・母里県・広瀬県を統合(島根県)
浜田県存続

第2次府県統合 明治9.4.18(1876年)
島根県と浜田県を統合(島根県)

松江藩
松江藩(まつえはん)は、出雲国と隠岐国を領有した藩です。藩庁は松江城(島根県松江市)に置かれました。藩主は、外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配しました。
豊臣政権時代の出雲は、中国地方西部を領していた毛利氏の支配下に置かれていました。毛利氏一族の「吉川広家」が、かつて尼子氏の居城だった「月山富田城(島根県安来市)」を政庁として出雲と隠岐を統治しました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の後、毛利氏は周防・長門2国に減封となり、「吉川広家」も岩国に移されました。遠江国浜松で12万石を領していた「堀尾忠氏」が、父「堀尾吉晴」とともに、出雲・隠岐2国24万石で入府します。吉晴は、「関ヶ原の戦い」の前年に「徳川家康」から5万石の隠居料を得て越前国府中にて隠居していましたが、忠氏とともに移され、出雲富田藩(いずもとだはん)が立藩しました。
忠氏は慶長9年(1604年)に27歳で早世し、後を継いだ忠晴はまだ5歳の幼児だったことから、祖父「堀尾吉晴」が後見人として事実上の藩主となります。吉晴は、「月山富田城」が山城で不便を感じていたため、慶長12年(1607年)から足かけ5年をかけて、「松江城」と城下町の建設を行いました。慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移り、松江藩が成立します。吉晴は、これを見届けると間もなく死去しました。忠晴は成人したものの男子に恵まれず、寛永10年(1633年)に33歳で死去すると堀尾家は無嗣改易となりました。堀尾氏が築いた松江は以後も政治経済の中心として栄え、今日に至っています。
忠晴が死亡し堀尾氏の無嗣改易が明確化した時、松江藩の後継として美作津山藩主「森忠政」に「出雲」「石見」「隠岐」の3ヶ国への加増転封の話が浮上しました。津山藩では、藩士を巡検させて検討しましたが、肥沃でない土地も多く含まれていたことから、忠政も当初乗り気ではありませんでした。しかし、老中「酒井忠勝」より御内証(様子伺い)が届けられ、結局受諾しました。その翌年、寛永11年(1634年)に忠政が京都で急死したため、将軍家との正式な会談が持たれる前でもあり、加増転封の話は立ち消えとなりました。
寛永11年(1634年)、堀尾氏に代わって若狭小浜藩より「京極忠高」が入府しました。
京極氏は、戦国時代に守護代の尼子氏に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになります。24万石の領地に加え、公儀御料の石見銀山、石見国邇摩郡・邑智郡の計4万石を預かることとなりました。しかし、わずか3年後の寛永14年(1637年)に忠高は死去しました。家の断絶を防ぐために末期養子として甥の「京極高和」を立てますが、認められず改易となりました。ところが、高和は同年、祖先の勲功を理由に播磨龍野藩6万石の大名に取り立てられ、隠岐は公儀御料となりました。
その後、寛永15年(1638年)に「結城秀康」の三男「松平直政」が、18万6,000石で信濃松本藩より転封となりました。それ以後、出雲一国は越前松平家の領地となり、隠岐1万4,000石の公儀御料も松平家の預かりとなりました。
藩の財政は年貢米による収入のみでは立ち行かず、入府当初より苦しみました。このため早くから専売制を敷き、木蝋・朝鮮人参・木綿そして鉄の生産を統制しました。特にこの地は古くからたたら製鉄やたたら吹きによって砂鉄から鉄を生産することが盛んでした。享保11年(1726年)、第5代藩主「松平宣維」は、田部(たなぶ)・桜井・絲原(いとはら)の大山林地主3家を中心に組合による独占制度での製鉄を行いました。
たたら製鉄については、「明治日本の産業革命遺産【エリア3 韮山】」に紹介記事を掲載しています。是非閲覧ください。
不昧(ふまい)と号した第7代藩主「松平治郷」は、特に有名な藩主です。第6代藩主「松平宗衍」の代より藩政改革に着手していた家老「朝日丹波」を引き続き起用し、財政再建を推進した結果、寛政年間(1789年 – 1801年)には8万両もの蓄財が出来るまでになりました。治郷は藩財政の好転を期に、かねてからの趣味であった茶道に傾倒して、不昧流を創設しました。名器の蒐集も行っていますが、その目録である「雲州蔵帳」、著書「古今名物類聚」、「瀬戸陶器濫觴」上中下巻は、茶道研究の重要な資料の一つとなっています。また、茶道との絡みで、松江は京都・奈良・金沢と並び和菓子の一大名所となりました。茶や和菓子のみに留まらず、今日でも治郷が好んだ庭園や工芸品などは「不昧公好み」と呼ばれ、松江・出雲地方では一つの銘柄となっているほどです。しかし、晩年に至っては膨大な散財から再び藩財政を傾けることになりました。つまり金持ち趣味に走って墓穴を掘ったと言うところでしょうか。
幕末の松江藩は、大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方のどっちにもつかず、政治姿勢が曖昧だったため新政府の不信を買いました。結局は新政府に恭順することとなり、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争では京都の守備につきました。同年、隠岐を治めていた松江藩の代官が島民の蜂起により放逐されるという隠岐騒動が起こりました。
江戸時代中期から頻繁に起こっていた隠岐での飢饉への対処不足、外国船の来航・上陸に対する無為無策ぶりなどに対する島民の不満が爆発したのです。代官放逐後、隠岐では自治政府が成立し、一旦は松江藩に奪い返されたものの、再び鳥取藩と新政府の介入により自治政府が開かれ、鳥取藩の預かりとなりました。そして、廃藩置県を待たずに隠岐県が誕生しています。

月山富田城跡

月山富田城(がっさんとだじょう)は、島根県安来市広瀬町富田に所在した城です。月山(標高197m)にあり、戦国時代に山陰の覇者「尼子氏」が本拠を構え、尼子氏6代170年間の盛衰の舞台となりました。城郭跡は、国の史跡に指定されています。

松江城

松江城(まつえじょう)は、島根県松江市殿町にある城です。別名「千鳥城」と呼ばれ、現存天守は国宝、城跡は国の史跡に指定されています。この他に「日本さくら名所100選」や「都市景観100選」にも選ばれています。

母里藩
母里藩(もりはん)は、松江藩の支藩で、江戸時代中期までは神戸藩(かんべはん)と呼ばれていました。能義郡母里(島根県安来市伯太町西母里)の母里陣屋に藩庁が置かれました。
寛文6年(1666年)、松江藩初代藩主「松平直政」の三男「松平隆政」が1万石を分与され初代藩主として立藩しました。この隆政のときは蔵米支給の内分分知で、第2代藩主「松平直丘」時代の貞享元年(1684年)に所領が確定しました。隆政には子がなく、延宝3年(1673年)に死去しました。死の前に弟「松平直丘」を末期養子に願い出ましたが、その時は認められず、一時廃藩となりましたが、1ヶ月後に隆政の遺領1万石が直丘に与えられ、正式に第2代藩主として相続が認められました。
第3代藩主「松平直員」は暗愚で、藩政を混乱に陥れています。第4代藩主「松平直道」は嗣子がなかったため、家臣の「平山弾右衛門」が自身の子を藩主の落胤と称して藩の乗っ取りを企てました。しかし、本藩松江藩がこれを知り、弾右衛門は死罪となりました。
結局、直道の弟「松平直行」が第5代藩主となりました。この頃になると藩財政は窮乏し、石見銀山から拝借銀を重ねて自転車操業を繰り返していました。また、山間の地である母里藩では農業がうまくいかず、主となる産業や特産物もなかったため、財政再建の策もありませんでした。
藩主は参勤交代を行わない定府の大名で、対外的な執務は家老の小沼氏らが、また、国許は国家老の市川氏、狩野氏らが政務を執り行っていました。

天徳寺(母里藩松平家菩提寺)

母里藩館跡

現在は陣屋跡を示す石碑が伯太中学校の校舎とテニスコートの間に建っています。本来の屋敷跡は、中学校より山側に建っている建物のあたりにあったと言われ、敷地にあった井戸が片隅に残っているそうです。

広瀬藩
広瀬藩(ひろせはん)は、松江藩の支藩ですが、かつての出雲の中心地でした、現在の安来市広瀬地区の広瀬陣屋に藩庁が置かれました。
寛文6年(1666年)に松江藩初代藩主「松平直政」の次男「松平近栄」が3万石を分与され立藩しました。天和2年(1682年)に近栄は、越後騒動に荷担した罪から知行を半減されましたが、貞享2年(1686年)に5千石、元禄7年(1694年)に1万石を加増され、再び3万石となり、以後10代205年間在封しました。嘉永3年(1850年)に第8代藩主「松平直寛」は、幕府公役の勤を評され城主格となっています。

広瀬陣屋跡(土塁・石垣)

広瀬藩邸跡(石碑)

広瀬陣屋は、広瀬小学校の西側にある安来市地域包括支援センターの所に築かれていました。東側にある広瀬小学校のグラウンドよりやや高く、グラウンドに面して石垣と土塁が残り、「松平広瀬藩邸跡」の碑が建っています。小学校には家老の鈴木氏庭園も残されているそうです。

津和野藩
津和野藩(つわのはん)は、石見国津和野(島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩です。藩庁は津和野城に置かれました。
戦国時代、津和野は「大内氏」「毛利氏」に仕えていた豪族の「吉見氏」が支配していました。そのため「関ヶ原の戦い」までは毛利領でした。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では、「宇喜多秀家」の従兄弟「坂崎直盛(宇喜多詮家)」が、秀家と不仲であったことから東軍につき、戦功により3万石にて立藩します。直盛は城下町建設、検地、城郭の大改修を行なって、藩政の基礎を固めた名君でした。元和元年(1615年)、直盛は大坂の陣で千姫救出に活躍し、元和2年(1616年)に1万3468石の加増を受けました。しかし同年、千姫事件の余波により直盛は家臣から殺害され、坂崎氏は断絶しました。(自害したとも言われています。また、末裔に中村家などがあります。)
代わって元和3年(1617年)に因幡鹿野藩より「亀井政矩」が、4万3000石で入封します。以来、亀井氏が明治時代まで藩主をつとめました。初代藩主「亀井政矩」は幕府の信任が厚く、一時は姫路藩移封の話もありましたが、元和5年(1619年)に急死したため幻に終わりました。第2代藩主「亀井茲政」は幼少で後を継いだため、御家騒動が起こりましたが、重臣の「多胡真清」による主導のもとで内紛を治め、藩政の確立に尽力しました。
江戸への参勤交代には大坂まで海路を採ったため、元和6年(1620年)以後広島藩から土地を借りて安芸国廿日市の桜尾城西側に津和野藩御船屋敷(廿日市蔵屋敷)を設けました。幕府天文方の津和野藩士「堀田仁助」は御船屋敷で生まれ、東蝦夷地の測量を行って「伊能忠敬」の先駆となりました。
江戸中期には紙を専売とし、家老「多胡氏」を中心に新田開発を行うなど、藩の財政は潤いました。しかし、後期になると災害と凶作が続き、財政は悪化しました。そのような中、第8代藩主「亀井矩賢」は藩校「養老館」を創立しました。なお、養老館は現存しています。
最後の第11代藩主「亀井茲監」は藩政改革を実行し、有能な人材を登用しました。また、神道を信奉し、国学の発展に力を注ぎました。幕末には長州藩の隣藩でしたが、中立を維持しました。しかし、その距離の近さから藩士の中には長州藩と行動を共にするものもあり、結果的には新政府内に人材を送り込むことになりました。
明治になる直前の1867年(慶応3年)の新政府によるキリシタン弾圧令により長崎浦上のキリスト教信者158名は各地に流罪(浦上教徒事件)となりましたが、その流刑先の一つが津和野でした。流刑者は廿日市の御船屋敷から徒歩で津和野街道を90キロメートル程歩かされ、乙女峠の光琳寺で拷問を受けました。

津和野城跡

中荒城跡

津和野城(つわのじょう)は、島根県鹿足郡津和野町後田にあった城で、城跡は国の史跡に指定されています。津和野盆地の南西部に横たわる標高367メートルの霊亀山に築かれた山城で、築城時から室町時代後期(戦国時代)くらいまでは、三本松城(もしくは一本松城)と呼ばれていました。尾根伝いに南にある出城の中荒城、当城と併せて史跡指定されています。

養老館(武術教場)

養老館(書庫)

養老館(ようろうかん)は、津和野藩の藩校で、安政年間に「菁々舎」と改名されました。建物は武術教場と書庫が現在も残されており、島根県の指定史跡となっています。武術教場は、津和野町の民俗資料館として利用されています。

津和野は、萩と並んで山陰の小京都と呼ばれており、大変風情のある所です。私も何度か行ったことがあります。自宅から日帰りできないこともないので、久しぶりに行ってみたくなりました。

浜田藩
浜田藩(はまだはん)は、石見国浜田(島根県浜田市)周辺を領有した藩です。藩庁は浜田城に置かれました。
石見国は、津和野藩で記載のとおり毛利家の所領でした。山口県編にも記載しておりますとおり毛利家は、「関ヶ原の戦い」に敗北し、周防国・長門国の2国に減封となります。その後、石見国は徳川氏の直轄領となりますが、津和野藩に「坂崎直盛」が入ると、坂崎家の管理下に置かれました。
元和5年(1619年)、伊勢松坂藩より「古田重治」が石見国の内5万4000石を与えられて浜田藩が立藩しました。浜田城は、吉川家なども陣屋を置いたとされる鴨山に、古田家が新たに築城しました。築城の際、鴨という名は城地にふさわしくないとして、亀山に地名が改められ、城の別称は「亀山城」と呼ばれました。慶安元年(1648年)、第2代藩主「古田重恒」は、重臣を斬殺するというお家騒動(古田騒動)を起こし、また嗣子が無かったこともあって改易となりました。その後、しばらくの間「浅野長治」と「亀井茲政」が浜田藩を管理しました。
慶安2年(1649年)、播磨山崎藩より「松平康映」が5万石で入封し、5代にわたって在封しましたが、第5代藩主「松平康福」は、宝暦9年(1759年)に下総古河藩へ転封されます。交替する形で下総古河藩より、徳川四天王の「本多忠勝」の本多家宗家8代目である「本多忠敞」が5万石で入封しました。これは、美濃郡上藩で起きた百姓一揆(郡上騒動)が原因で、美濃郡上藩主の「金森頼錦」が改易されると、その縁戚である「本多忠央」が連座して改易され、本家もそれに連座する形で左遷されたものです。その後、第3代藩主「本多忠粛」は、明和6年(1769年)に三河岡崎藩へ転封されます。
代わって、宝暦12年(1762年)に下総古河藩から三河岡崎藩に移封されていた「松平康福」が、再度5万5400石で入封します。康福は老中としての精勤を賞され、1万石の加増を受けました。
天保7年(1836年)、第3代藩主「松平康任」の時代に竹島を仲介所とする李氏朝鮮(清)との密貿易が、「間宮林蔵」の密偵により発覚し、康任は老中を罷免され蟄居されるという「竹島事件」が起こります。このため、康任は失脚して強制隠居処分に処され、第4代藩主「松平康爵」は、天保7年(1836年)に陸奥棚倉藩へ懲罰的な転封となりました。
上野国館林藩より第6代将軍「徳川家宣」の弟「松平清武」を祖とする越智松平家の「松平斉厚」が、6万1000石で入封しました。第15代将軍「徳川慶喜」の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った第4代藩主「松平武聰」は、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐のとき浜田口を担当し、長州藩側の「大村益次郎」が指揮する軍にことごとく撃破されました。浜田の街に長州軍が入ったときには、武聰は戦わずして浜田城を放棄し、松江城に逃れました。その後、武聰は美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えました。この際に、浜田の街は焼き払われ、浜田城も同時に灰燼に帰しました。その後、浜田は長州藩が占領し続けました。明治2年(1869年)、版籍奉還により隣接して同じく長州藩の占領下にあった旧幕府領「石見銀山領」とともに大森県となりました。
この藩も転勤に悩まされたようです。少し整理をしておきます。

古田家(1619年 – 1648年)
外様大名 5万4千石
初代 :古田重治(伊勢松坂藩より入封)
第2代:古田重恒(お家騒動と無嗣子のため改易)

松井松平家(1649年 – 1759年)
譜代大名 5万石
初代 :松平康映(播磨山崎藩より入封)
第2代:松平康宦
第3代:松平康員
第4代:松平康豊
第5代:松平康福(下総古河藩に転封)宝暦12年(1762年)三河岡崎藩に転封

本多家(1759年 – 1769年)
譜代大名 5万石(10万石格)
初代 :本多忠敞(下総古河藩より左遷入封)
第2代:本多忠盈
第3代:本多忠粛(三河岡崎藩に転封)

松井松平家(1769年 – 1836年)
譜代大名 5万5千石→6万5千石
初代 :松平康福(三河岡崎藩より再入封)
第2代:松平康定
第3代:松平康任(竹島事件により失脚強制隠居)
第4代:松平康爵(陸奥棚倉藩に懲罰的転封)

越智松平家(1836年 – 1866年)
親藩 6万1千石
初代 :松平斉厚(上野国館林藩より入封)
第2代:松平武揚
第3代:松平武成
第4代:松平武聰(第二次長州征伐により松江城を経て鶴田領に逃亡)

浜田城跡

浜田城(はまだじょう)は、石見国浜田(島根県浜田市殿町)に存在した城です。江戸時代には、浜田藩の藩庁が置かれていました。浜田市中心部にある浜田川に囲まれた標高68メートルの独立式丘陵に築城されました。この丘陵は別名、亀山と呼ばれています。本丸の下に狭い二の丸・三の丸・出丸が配されています。北部を松原湾、東部を浅井川、南部・西部を浜田川によって天然の掘割としていました。

この時代から竹島で密貿易が行われていたとは知りませんでした。竹島には領有権問題が存在し、歴史的にも国際条約的にも日本と韓国どちらの主張も間違ってはおらず、お互いに仲良くしましょうとしか言いようがありませんね。

大森県
大森県(おおもりけん)は、後述の隠岐県と石見銀山周辺の幕府直轄領(天領)を統合して版籍奉還直後の明治2.8.2に設置されました。領域は、概ね旧大森町に該当し、島根県大田市の一つの地区です。
江戸時代の「大森代官所」の陣屋町であり、石見銀山の鉱山町であったことで知られています。これまでご愛読いただいた方々には、ご存知のとおり幕府直轄領(天領)には代官所が設けられ、行政を担っていました。大森が天領となった理由は、言うまでもなく銀山があったためです。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」に勝利した「徳川家康」は、石見銀山の接収のために「大久保長安」と「彦坂元正」を下向させ、石見の「江の川」以東を中心とする石見銀山、邇摩郡大森を中心に「安濃郡」「邑智郡」「那賀郡」の4郡146か村と「美濃郡」「鹿足郡」で、6か村の飛地を幕府直轄領(天領)としました。翌1601年(慶長6年)初代銀山奉行として「大久保長安」を任命しました。初代奉行については、「石見銀山旧記」や「石見銀山紀聞」などでは、「大久保長安」とされていますが、「石見国名跡考」では、「彦坂元正」であるとされています。石見銀山奉行衆からの両人宛への書状では、「大久保長安」の宛名が先となっているようです。
銀山開発の費用・資材・燃料などを賄うため、周辺の郷村には直轄領である石見銀山領約5万石が設置されました。「大久保長安」は当初、山吹城の下屋敷のあった吉迫の陣屋で支配を行いましたが、後任の「竹村丹後守」により大森に奉行所が移されました。
江戸時代前期には、日本の膨大な銀需要を支えました。しかし、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期には深く掘らなければ銀を産出できなくなり、地下水にも悩まされ採算がとれなくなっていました。
1866年(慶応2年)の第二次長州戦争において、幕府は石見国に「紀州藩」「備後福山藩」「浜田藩」「松江藩」の藩兵を出動させましたが、長州軍の進発を食い止めることができず、浜田藩主「松平武聡」は浜田城を脱出し、その後落城しました。これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官「鍋田三郎右衛門成憲」は、銀山付の役人を引き連れて備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えました。以後、旧石見銀山領は長州藩によって支配されることとなり、「鍋田成憲」が逃亡したのちに発生した一揆は長州藩などによって鎮められました。そして、1869年(明治2年)に大森県が設置されたことによって長州藩による支配は終わりました。

石見銀山跡

平成19年(2007年)に世界遺産に登録された「石見銀山(いわみぎんざん)」は、島根県大田市にあり、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山です。最盛期には日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されますが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされています。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は、佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれていました。明治期以降は枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱されましたが、昭和18年(1943年)の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となりました。

隠岐県
隠岐県(おきけん)は、明治初年時点で全域が幕府領(松江藩預地)であった隠岐国(隠岐諸島)が、隠岐騒動による島民自治、その後鳥取藩預地を経て、明治2年に設置されました。しかし、同年には石見銀山周辺の幕府直轄領(天領)と統合し、大森県となっています。
隠岐は、島根半島の北東44~80キロメートル隔たった群島の総称で、二島に大別されます。半島に近い知夫里(ちふり)島・中之島・西島を島前(とうぜん)、東北方の大島を島後(とうご)と言います。
室町時代の守護は「京極氏」で、隠岐守護代となったのは京極氏一門の「隠岐氏」です。東郷の「宮田城」、後に下西の「甲ノ尾城」を本拠地としました。これに対して在地勢力は「隠岐氏」に対立する「毛利氏」の支援を得て、両者間に戦いも起こりましたが、「尼子氏」の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の「吉川元春」の支配となりました。
慶長5年(1600年)、「堀尾吉晴」が出雲・隠岐の国主となりますが、寛永11年(1634年)から室町時代の隠岐・出雲の守護家の子孫である「京極忠高」に替わります。寛永15年(1638年)には「松平直政」が出雲に入り、以後の隠岐は幕府の天領(松江藩預地)となりました。幕府から統治を委託された松江藩は西郷に陣屋を置き、郡代に総括させ、島前と島後にそれぞれ代官を派遣して行政に当たらせました。隠岐の総石高は1万8000石とされましたが、実高は1万2000石ほどでした。
島後の西郷港は18世紀から北前船の風待ち、補給港として賑わうようになりました。これは隠岐島後が能登から下関あるいは博多に直行する沖乗りのコースに当たったためです。西郷港には船宿を兼ねた問屋が置かれ、自ら回船業を営む者もありました。この頃、西ノ島の焼火神社が海上安全の神様として北前船の信仰を集めました。北前船は安来の鉄や米を日本海一帯に供給する機能があったため、その後も隠岐~美保関~安来間の航路が存在し、航路廃止になった現在でも安来市には北前船の流れを汲む隠岐汽船の支社が存在しています。1836年(天保7年)に建てられた代々庄屋職である佐々木家の住宅が、現隠岐の島町東郷に建てられました。
慶応4年(1868年)3月19日(9月に明治と改元)に、尊攘派の志士に率いられた島民たちが松江藩の郡代を島から退去させ、80日間の自治を行いました。この期を中心にした松江藩と隠岐島民との抗争を隠岐騒動(雲藩騒動)と言います。
隠岐を預かった松江藩は、寛永15年(1638年)、松平出羽守直政(家康の孫)が、信濃松本より入封して第10代「松平定安」まで続いた親藩です。
幕末には黒船の日本近海への出没が頻々となり、松江藩でも文久2年(1862年)に外国船を二隻購入し、海防に備えました。翌年には、隠岐警備のため、従来の陣屋(郡代屋敷)のほかに島後西郷に御番屋と調練場を設け、島民による農兵組織を設置します。黒船の入港もしくは沖合に停泊した場合、農兵は所定の場所に集合する手筈を整えていました。また、先の文久元年には、鳥取藩に対し松江藩を援護して隠岐の防御を講ずべしとの朝命が下っていました。
元治元年(1864年)に黒船が1隻、突如西郷湊に入ってきました。代官「枝元喜左衛門」は、なすすべもなく逡巡しているところへ鳥取藩の儒官が到来し、共に艦内に入りましたが、引き揚げる際に刀を置き忘れるなどの狼狽ぶりを示しています。
黒船は6時間ばかりで西郷湊を去りましたが、その時の代官の無能ぶりとその後の鳥取・松江両藩による無策に対し、島民は呆れ果て情けない思いと憤りを覚えました。
この当時は、物価高騰と重税にあえぐ農民たちにとって農兵どころではなく、所々で一揆が頻発し、かたや在島の松江藩士たちは防備の大任を忘れて仕事をせず、家にも帰らず、酒色や遊興に耽って、漸次隠岐を引き揚げていた有様でした。
農兵の組織化に失敗した松江藩は、慶応2年(1866年)島の身元確かな財産家の子弟から30人を選び、これに扶持を与え「新農兵」を再組織し、鉄砲操縦の技術を習得させ海防策としました。実はこの施策、海防の強化を名目に、米価高騰の折から旧農兵を農事に励ませ納税にいそしませるためのものでした。この藩の身勝手な仕打ちに、島民は忿懣やるかたない思いでした。特に島後では、後鳥羽上皇・後醍醐天皇が流刑されていたことから勤王の念が深く、国学・道学を究めるものが多かったようです。
幕末期、島民の勤王思想の根幹的存在は、島後出身の「中沼了三(なかぬまりょうぞう)」でした。彼はのちに明治天皇の侍講となるほどの人物で、すでに京にあって一門をなし、大いに勤王の志士たちと交わっていました。
京の中沼に師事していた「十津川郷士」が「文武館」を創設し、勤王軍となったことが隠岐に伝わると、中沼の弟子で島後の憂国の志士である「中西毅男(なかにしはたお)」は、島後の加茂村庄屋「井上甃介」と共に島民自らの手による尊王攘夷と文武館設立を松江藩に嘆願することを決めました。慶応3年5月、島後の同志73名の連署による嘆願書が新任の郡代「山郡宇右衛門(やまごおりうえもん)」に提出されましたが、3度に及ぶ嘆願はいずれも却下されました。翌慶応4年2月13日、業を煮やした同志11名が京へ直訴を企て、島から脱走します。しかし、石州浜田外ノ浦(島根県浜田市)で長州藩の取り調べを受け、すでに「徳川慶喜」追討令が下ったことを聞かされ、やむなく退却します。
帰島した彼らは、隠岐がすでに天朝御料となったのなら郡代を追放すべきだとの話になりました。また、山陰道鎮撫使総監「西園寺公望(さいおんじきんもち)」が、進退不明確な松江藩を取り調べるため下向した際に、総監から隠岐国公聞役(庄屋)方へと表記された書状を郡代が開封したことが露見し、郡代追放の気運に拍車がかかります。
天朝の直支配を望む「請願運動主張派」と「郡代追放強硬派」に意見は分かれたものの、やがて郡代追放で意見が一致します。島前の庄屋たちにも賛同を求めますが、島後の過激行為を嫌い、島前の庄屋たちの多くは松江に逃亡しました。
再度の集会が持たれた時には、同志の数は100名近くにもなろうとしていました。郡代追放ではあきたらず、郡代の首を斬るべしと唱え、逆らう者も許さずと抜刀しかねない一幕もあったそうです。
郡代放逐の決行は、3月19日と決まり、その前夜、郡代配下の点検役が島後各村を巡回し、同志の挙動を偵察中という知らせがもたらされます。点検役は捕えられ、籾蔵に繋ぎ置かれました。夜明けを待って出発するとき、同志島民の数は3000余人に膨れ上がっていました。西郷の調練場に陣を敷き、総指揮役「忌部正弘」、応接役「横地官三郎」、書記役「井上甃介」で臨みます。
郡代に対し書状で退去を迫りますが、「農兵のごときに後ろを見せてなるものか」とばかり大身の鑓の鞘をはらって玄関に突進せんとする郡代の袂をとらえ、郡代に加勢すべく松江藩より派遣された「鈴村祐平」という相談役は、ひとまず引き揚げ再挙を図るべしと諭しました。さすがの郡代も、林立する竹槍の数と島民の喧噪を知るや己れの愚を悟ったようです。
結局、郡代一行は同志の指示通り屈伏状を差し出し、藩御用船観音丸に乗り移り、島を離れていきました。
ついに、藩の支配を脱し、公務を行なう総会所を陣屋に設けて、島民自治が始まります。文事・軍事方、撃剣・武具方、兵糧方など、見事な組織が完成し、郡代舎宅あとには立教館を設けました。かくして自治組織づくりには成功したものの、肝心の朝廷からのお墨付きを得ていませんでした。そこで、陳情第一弾として、4月1日、「中西毅男」他2名が上京することとなります。頼るは「中沼了三」であり、「西園寺公望」の参謀、「柴捨蔵(しばすてぞう)」でした。京に着いたところが、隠岐は松江藩のお預かりに定まったとの噂があり、すべては審議中で未だ結論は出ていないとの情報もありました。納得のいかぬまま約2カ月が過ぎていました。実際は、太政官から松江藩宛に、旧幕時代から預かって隠岐は、当分の間藩が取り締まりをすべきだという書状が渡っていたようです。しかも、取り締まりは厳重にし、農兵共が役所へ不法の所業あれば、厳に取り締まることと併記されていたようです。
その後、松江藩士が続々と西郷に入って陣屋を包囲し、再三、島民に退去を迫りました。島民は太政官の書状を示されようと、藩の指揮は絶対に受けないと明言し、総会所の守りを一層固めました。しかし、藩兵の発砲をきっかけに、藩兵は総会所に乱入しました。藩兵の銃器を前に、島民の刀剣竹槍は敵ではありません。たちまちにして陣屋は奪回されました。島民の死傷者は22名、捕縛入牢者19名を数えました。こうして、80日間の自治は泡沫のごとく消え去りました。事件後、鳥取・長州・薩摩三藩の介入により、松江藩は兵を撤退させ、監察使の取り調べは同志たちの有利に進み、やがて6月、総会所が同志たち自らの手で組織した役割構成とほとんど変わらず復活しました。
明治政府としては、親藩でもある松江藩にも配慮せざるを得なかったのではないかと考えられます。何せ農民から領地を奪われたわけですから、当時としては許されるべきことではありませんよね。しかし、隠岐騒動が無ければ隠岐県が設置されたかどうか疑問です。隠岐県を経ることなく大森県となっていたかもしれません。

国府尾城跡

国府尾(こうの)城は、隠岐氏の居城で、鎌倉時代初めに佐々木氏が平家討伐の功によって隠岐国の守護となり、以来、土着した佐々木氏の係累が隠岐氏を称したとされています。
戦国期の天文元年(1532年)に、「隠岐宗清」は国府尾城を築いて、本拠を宮田(くんだ)城から移し、尼子氏の援軍を得て、「都万氏」を滅ぼし、隠岐を統一しました。
隠岐氏は、永禄9年(1566年)に尼子氏の月山富田城が落城する前に、毛利氏に属し、毛利氏の支配下に入りました。江戸時代には松江藩の支配となり、国府尾城は廃城となりました。

隠岐の佐々木家住宅

天保7年(1836年)に建てられた杉皮葺き石置き屋根の木造住宅で、3か所に設けられた戸口など隠岐独特の特徴があり、国指定重要文化財です。屋敷内には農具、飲食用具、灯火用具など重要な民俗資料が多数展示されています。

如何でしたでしょうか。本文でも記載しておりますとおり津和野には何度か足を運んだことがあります。とても素敵な町並みです。また、石見銀山や出雲大社にも行ったことがあります。石見銀山に行ったのは、20年ほど前になります。世界遺産に登録される前だったので、とても寂れた印象しかありません。現在テレビなどで紹介される映像を見ていると、とても私が見たところとは思えませんね。その位世界遺産に登録されて変わったという事のようです。出雲大社には数々の神話があり、それだけで一本ブログ記事になりそうです。

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