歴史を紐解く(廃藩置県)- 山口県編



今回は山口県の歴史を紐解いてみました。いよいよ本州に上陸です。山口県と言えば、数多くの総理大臣や政治家を輩出し、幕末に功労のあった偉人もたくさんいます。また、私の自宅からほぼ全域が日帰りで行ける範囲です。廃藩置県を調べる上でも重要な県なので、少し長い文章になると思います。少しずつ時間をかけて読んでいただければ幸いです。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の山口県になるまでの変遷です。

山口県と言えば長州藩を思い浮かべますが、年表では山口藩となっています。長州藩は、萩藩とも呼ばれ、長い間「萩城」に藩庁を置いていましたが、幕末には藩庁を山口城(山口政事堂)に移したため、年表上は山口藩となっています。そのため周防山口藩とも呼ばれています。長州藩の方が分かりやすいと思うので、以後、長州藩で表記します。

長州藩
長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名「毛利氏」を藩主とする藩です。家格は「国主大広間詰」となっています。大広間詰については、高知県編の高知藩で解説していますので、そちらをご参照ください。
藩庁は、前述のとおり長らく萩城に置かれていましたが、幕末には山口城(山口政事堂)に移りました。
幕末には討幕運動の中心となり、続く明治維新では長州藩の中から政治家を多数輩出し、「長州閥」を形成して日本の政治を支配しました。
藩主の毛利氏は「大江広元」の4男を祖とする一族で、戦国時代「安芸国」に土着していた分家から「毛利元就」が出ると一代にして国人領主から戦国大名に脱皮し、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十国と北部九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長しました。1997年のNHK大河ドラマ「毛利元就」では、この度、8代目「中村芝翫」を襲名することとなった「中村橋之助」が演じています。
元就の孫の「毛利輝元」は「豊臣秀吉」に仕え、安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐の120万5000石を安堵されています。以前の検地では、石見銀山50万石相当を厳密に入れていなかったことを考慮すると、実際の石高は200万石超とされています。本拠を「吉田郡山城」から地の利の良い広島に移します。秀吉の晩年には五大老に推され、「関ヶ原の戦い」では、西軍「石田三成」方の名目上の総大将として担ぎ出され、「大坂城」西の丸に入ります。しかし、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の「吉川広家」は、輝元は家康に敵意がないことを確認し、家康の側近から毛利家の所領は安泰との約束を取り付けました。ところが戦後、家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分としました。輝元には隠居、嫡男の秀就には周防・長門2国を与える沙汰を下しました。実質上の初代藩主は、輝元ですが形式上は秀就です。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の「毛利秀元」と重臣の「福原広俊」「益田元祥」らが藩政を取り仕切っていました。
このとき「吉川広家」は家康の信頼を得、逆に「毛利輝元」は信頼に値しない存在となっていったようです。私は、おそらく家康は毛利氏を恐れていたのではないかと考えています。
周防・長門2国は慶長5年(1600年)の検地によれば29万8480石2斗3合で、これが慶長10年(1605年)の御前帳に記されました。慶長12年(1607年)に領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年(1610年)に検地を終えました。少しでも石高をあげるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(岩国市錦町・本郷町)では、一揆も起きています。この検地の結果では、53万9268石余を打ち出しています。慶長18年(1613年)に江戸幕府に提出する次の御前帳が、今後の毛利家の公称高となるため慎重に幕閣と協議しました。ところが、思いもよらぬ50万石を超える高い石高に驚いた幕閣(取次役「本多正信」)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこともあり、特に東軍に功績のあった隣国の広島藩主「福島正則」49万8000石とのつりあい、毛利家にとっても高い石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認しました。ここでも毛利氏の扱いは、差別されていますね。
この表高は幕末まで変わることはありませんでしたが、その後の新田開発等により実高(裏高)は、寛永2年(1625年)には65万8299石3斗3升1合、貞享4年(1687年)には81万8487石余となりました。宝暦13年(1763年)には、新たに4万1608石を打ち出し、幕末期には、100万石を超えていたと考えられています。また、新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府から命じられました。萩は、防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ日本海に面し、隣藩の津和野城の出丸の遺構が横たわるひなびた土地でした。ここでも差別的扱いを受けますが、私は返って良かったのではないかと考えています。実際の石高よりも過小評価されているわけですから幕府に対する普請も軽くなります。その分余力を蓄えることが出来たはずですね。
長州藩士は毛利家が防長二州(周防・長門)に転じた際に、一緒に山口に移った毛利家の家臣をルーツに持っています。このため、長州藩の始祖は「毛利元就」とする見方があります。元々彼らは広島県「安芸・備後」を本拠とし、非常に結束が固かったようです。輝元はかつての膨大な人数を養う自信がなかったため、「ついて来なくてもいい」と幾度も言いましたが、聞き入れてもらえなかったようです。ここに私は、「毛利元就」が統率力に優れた人物であったことを感じています。
戦国期までは、山陽山陰十ヵ国にまたがる領地を持ち、表日本の瀬戸内海岸きっての覇府というべき広島から裏日本の萩へと向かう家臣たちのプライドは著しく傷ついたようです。萩へ向かう街道は、家財道具を運ぶ人のむれで混雑し、絶望と徳川家への怨嗟の声で満ちたようです。家臣のうち、上級者は家禄を減らされて萩へ移りましたが、下級者は知行(武士に支給された土地・俸禄)も扶持(武士に米で与えた給与)も貰えない有様で、農民になり山野を開墾しました。
江戸時代中期には、第7代藩主「毛利重就」が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行います。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行います。天保3年(1831年)には、大規模な長州藩天保一揆が発生し、その後の天保8年(1836年)には、後に「そうせい侯」と呼ばれた「毛利敬親」が藩主に就くと、「村田清風」を登用した「天保の改革」を行います。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得ました。
村田の失脚後は「坪井九右衛門(つぼいくえもん)」「椋梨藤太(むくなしとうた)」「周布政之助(すふまさのすけ)」などが改革を引き継ぎますが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された「周布政之助」が「安政の改革」を主導することになります。
幕末になると長州藩は、公武合体論や尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局をリードする存在になります。また、藩士「吉田松陰」(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)の私塾「松下村塾」で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍し、これが倒幕運動につながって行きます。
文久3年(1863年)には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂(山口城)」と称します。敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立しました。これを「山口移鎮(やまぐちいちん)」と言います。これにより、萩藩は「山口藩(周防山口藩)」と呼ばれることになりました。同年、会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放したクーデター「八月十八日の政変(堺町門の変とも呼ばれる。)」が起こり、毛利敬親・定広父子は京都を追われることになりました。
長州藩は攘夷も決行し、下関海峡を通る外国船を次々と砲撃しました。結果、長州藩は欧米諸国から敵と見なされ、文久三年(1863年)と元治元年(1864年)に、「英・仏・蘭・米」の列強四国との間に「下関戦争」が起こりました。長州藩はこの戦争に負け、賠償金を支払うことになりました。
元治元年(1864年)の「池田屋事件」「禁門の変」で、打撃を受けた長州藩に対し、幕府は「徳川慶勝」を総督とした第一次長州征伐軍を送りました。長州藩では、「椋梨藤太」ら幕府恭順派が実権を握り、「周布政之助」や家老「益田親施」らの主戦派は失脚して粛清されました。藩主「毛利敬親」父子は謹慎し、完成したばかりの山口城を一部破却して敬親・元徳父子は長州萩城へ退きました。
恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士「高杉晋作」は、「伊藤俊輔(博文)」らと共に、民兵組織である「力士隊」と「遊撃隊」を率いてクーデター(元治の内戦)を決行しました。初めは功山寺で僅か80人にて挙兵した決起隊に、民兵組織最強の奇兵隊が呼応するなど、各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒しました。この後、潜伏先より帰って来た「桂小五郎(木戸孝允)」を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦いました。高杉と「村田蔵六(大村益次郎)」の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利します。長州藩に敗北した幕府の威信は急速に弱まりました。
更に、慶応2年(1866年)には、主戦派の長州藩重臣である「福永喜助」宅において土佐藩の「坂本龍馬」を仲介として議論された末、京都薩摩藩邸(京都市上京区)で、薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である「薩長同盟」を結びました。また、旧5月に敬親が山口に戻った事で「山口藩」が再び成立します。幕府の第二次長州征伐で長州藩が勝利しなかったら明治維新は遅れていたかもしれませんね。しかし、時代の流れは止められず、遅れたとしても無かったとまでは思えませんね。
薩長による討幕運動の推進によって、15代将軍「徳川慶喜」が大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊しました。そして、王政復古が行われると、薩摩藩と共に長州藩は明治政府の中核となっていきます。戊辰戦争では、藩士の「大村益次郎」が上野戦争などで活躍しました。
しかし、明治2年(1869年)、山口藩の藩兵による反乱(脱隊騒動)が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたこともあります。
明治4年(1871年)旧6月、山口藩は支藩の徳山藩と合併し、同年8月29日(旧7月14日)の廃藩置県で山口藩は廃止され、山口県となりました。
尚、戊辰戦争の戦後処理と明治期における「山縣有朋」に代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った会津藩(会津若松市)と長州藩(萩市)の間には、今でも複雑な感情が残っているとも言われています。実際は、長州藩軍は進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また、占領統治を指揮する立場でもなかったようです。現代の観光都市化の流れの中で現れた戦後会津の観光史学により、事実が歪められているという議論も行われています。これは何度かテレビでも紹介されていますが、観光のために脚色されて作られたエピソードのようです。
幕末の長州藩が階級・身分を越えて結束が強かったのは、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識があり、それが共有されていたためとも言われています。「いつの日かこの恨み晴らさん」というところでしょうか。このような経緯もあり、長州藩では倒幕が国是であるとの噂がありました。
元を正せば「毛利元就」により結束していた藩士たちの子孫が、幕府から受けた差別的処遇に対する恨みを晴らしたとも言えそうですね。ここに歴史ロマンを感じます。
新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話があります。この伝説について、毛利家31代目の現当主である毛利元敬氏は、「あれは俗説と笑い、明治維新の頃まではあったのではないかという問いにも、あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった。」と答えています。
山口県には、「毛利博物館」や「毛利氏庭園」などの毛利家に関わる名所旧跡が数多くあります。

山口城表門

山口城(やまぐちじょう)は、周防国の山口(山口県山口市滝町)にあった城跡で、大内氏が築城した高嶺城(こうのみねじょう)跡のある山口の一露山麓に、長州藩(毛利氏)の第13代「毛利敬親」の居城として築かれた城です。「山口屋形」「山口政庁」「山口政事堂」などの呼び名があります。

萩城跡天守台と指月山

萩城(はぎじょう)は、別名「指月城(しづきじょう)」とも呼ばれ、山口県萩市にあった城です。「関ヶ原の戦い」に西軍の総大将に就いたことにより「周防国・長門国」の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として、慶長9年(1604年)に築きました。完工は慶長13年(1608年)ですが、築城者である「毛利輝元」は、慶長9年12月に未完成のまま入城していました。城跡は国の史跡に指定されています。

松下村塾

松下村塾(しょうかそんじゅく)は、幕末に長州萩城下の松本村(山口県萩市)に存在した私塾です。「吉田松陰」が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られています。
卒業生である「伊藤博文」「山縣有朋」「品川弥二郎」「山田顕義」「野村靖」「松本鼎」「岡部富太郎」「正木退蔵」などが、幕末の動乱を経て成立した明治新政府の首脳となり、近代日本国家の基礎を築きました。

毛利博物館

毛利氏庭園

明治23年(1890年)に「毛利元徳」が定めた家憲により、「本拠は山口の土地健康にして且つ交通便利の地にすること」が規定されていたため、旧長州藩主「毛利元昭」が、防府市多々良の国許に建てた邸宅と庭園を本拠としています。完成直後に大正天皇が宿泊されたのを始め、その後も何度か天皇・皇后が宿泊しています。現在では、邸宅・庭園をあわせて国指定の名勝となっており、邸宅の一部を毛利博物館として国宝や重要文化財など2万点を所蔵・展示しています。多々良邸または、防府邸とも呼ばれていました。

徳山藩
徳山藩(とくやまはん)は、萩藩(長州藩)の支藩で、当初は下松藩(くだまつはん)でした。藩庁も周防国下松(山口県下松市)に置かれましたが、後に同国徳山(山口県周南市)の徳山城(徳山陣屋)に移っています。徳山市が存在していましたが、平成15年(2003年)に周辺自治体と合併し、周南市となっています。
下松藩(徳山藩)は、「毛利輝元」の次男「毛利就隆」(萩藩初代藩主「毛利秀就」の弟)が、元和3年(1617年)に3万石を分与されたことから立藩しました。寛永2年(1625年)の藩内検地では、実質的な石高は4万石余りであったといわれています。実際に幕府より藩として正式に認められたのは、寛永11年(1634年)のことで、藩主の「毛利就隆」は、江戸に滞在することがほとんどで、実際に下松に入ったのは寛永15年(1638年)でした。
藩政は、長州藩とほとんど同じで、家臣団の多くは「関ヶ原の戦い」後に浪人した者や本家の藩士における三男などの取立てにより編成されました。
慶安3年(1650年)に就隆は、下松は交通に適していないという理由から藩庁を同国徳山に移しました。「徳山」は「野上」と呼ばれていましたが、就隆が徳山と改称しました。享保元年(1716年)、第3代藩主「毛利元次」の代に、万役山の松の木一本を巡る領民の争いから長州藩宗家との間で領界の争論となった「万役山事件(まんにゃくやまじけん)が起こり、幕府より本藩への非礼として改易されました。しかしその後、重臣の「奈古屋里人」らの奔走で、享保4年(1719年)に元次の子「毛利元尭」が、3万石で再興しています。
天保7年(1836年)、萩藩(長州藩)の斡旋により徳山藩主は城主格となり、これまで「御館(徳山陣屋)」と呼ばれていた藩庁が、「徳山城(御城・御殿)」と呼ばれるようになりました。第9代藩主「毛利元蕃」の時代に幕末を迎え、版籍奉還により明治2年(1869年)に徳山藩知事となりますが、明治4年(1871年)には、廃藩置県に先んじて藩知事を辞任し、その所領を本家の山口藩に返還しました。廃藩の時点での実質石高は6万9000石余りだったと言われています。
歴代藩主の墓は周南市の大成寺にあり、子孫は現在も同地に居住し、ゴルフ場経営などを手がけています。藩庁である徳山城跡地は、現在、周南市文化会館や周南市徳山動物園になっています。
因みに私の母方の祖父は下松の出身で、もしかしたら親戚がいるのかもしれませんが、母も良く知らないようなので、全く無縁となってしまいました。

徳山城跡(周南市文化会館)

徳山城 (とくやまじょう)は、別名「御舘」、後に「御城」と呼ばれ、実際の城の造りは陣屋です。空堀や水堀は設けられず、土塁で間に合わされており、簡素な構えでしたが、陣屋としては、「酒井氏の敦賀陣屋」と「保科氏の飯野陣屋」に並ぶ「日本三大陣屋」に数えられるほど壮大な規模でした。

岩国藩
岩国藩(いわくにはん)は、周防国大島郡の一部(鳴門村・神代村)及び玖珂郡南部を領地とした藩です。藩庁は岩国陣屋(山口県岩国市)に置かれました。国領の支配拠点は当初「岩国城」でしたが、元和元年(1615年)の一国一城令で破却されて岩国陣屋となっています。慶応4年(1868年)まで岩国領は「藩」ではないと長州藩によって主張されていたため、正式な「藩庁」としては、岩国陣屋となります。
江戸時代を通じて長州藩毛利氏一門の吉川氏が領主だったため、吉川藩(きっかわはん)という通称もあります。
長州藩の支藩とみなされますが、長州藩では幕府に岩国領(いわくにりょう)を支藩とする届けを出しておらず、吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であることから大名ではないと主張していました。その一方で幕府からは、6万石の外様大名格として扱われるなど、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続きました。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)、新政府によってのことです。徳島県編で出てきた蜂須賀家家臣の稲田氏と同様に明治維新後の扱いに苦慮したようですね。
「毛利元就」の次男「吉川元春」を祖とし、元春の長男「吉川元長」と続いて、元長没後に元春の次男「吉川広家」が初代領主となります。石高は当初、表高3万石でしたが、寛永11年(1634年)、毛利家からの独立を画策して内高である6万石を公称し、幕府からもこれを認められました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、広家は東軍方に内通して毛利勢の動きを封じ、「関ヶ原の戦い」に参加させませんでした。当初、「黒田長政」を通じて「徳川家康」より所領安堵の密約を取りつけていましたが、戦後、家康は大坂における「毛利輝元」の行為を理由として毛利家を取り潰し、吉川家を取り立てようとしていました。これに対して広家は事態収拾のために奔走し、結果として毛利氏は、改易は免れたものの、長門国・周防国2カ国に大幅に減封されました。広家は豊臣時代には出雲国富田で14万石を領していましたが、「毛利宗家」が120万5000石から36万9411石余に減封されたのに伴い、「毛利輝元」より東の守りとして、岩国に3万石(長州藩の内高に含まれる)を与えられ、同年に岩国へ着任しました。その後、毛利宗家の歴代当主は吉川家当主を陪臣として扱い、将軍に直接目通りすることを許しませんでした。しかし江戸幕府からは外様大名格として扱われ、参勤交代の義務を負い、当初は居城の築城許可まで与えられていました。ただし伺候席は定められておらず、従五位下の叙位もなかったため、守名乗りもできないという、極めて変則的な状態が江戸時代を通じて続くことになりました。
この変則的な関係は、「関ヶ原の戦い」まで遡ると理解できなくもありません。毛利家は吉川家のおかげで減封となったものの存続しています。しかしながら徳川家と内通していた吉川家は、気に入らない存在でもあります。一方、徳川家にしてみればお気に入りの存在です。徳川幕府としては、吉川家を大名に取り立てても良い存在ですが、吉川家は毛利家の分家であり、本家である毛利家が認めない限り、当時の社会システムとしては大名に取り立てるわけには行かなかったのだろうと考えられます。
毛利家にしてみれば幕府に優遇される吉川家に則られる恐れがあると思い、早い段階で分家の立場を明確にする狙いがあったのではないかとも考えられます。
初代当主「吉川広家」によって、当家の基礎は固められました。寛永2年(1625年)に広家が没すると、第2代当主「吉川広正」は親政を行ない、寛永11年(1634年)には、本家の長州藩主「毛利秀就」と不仲になった長府藩主「毛利秀元」と共に本家から独立しようと画策しましたが失敗します。広正は製紙業を起こし、寛永17年(1640年)には、紙を専売化しています。第3代当主「吉川広嘉」は文化事業に尽力し、延宝元年(1673年)に有名な「錦帯橋」が完成しています。第4代当主「吉川広紀」も藩営による干拓事業の拡張を行い、岩国領は全盛期を迎えました。しかし、財政難で苦しむ本家長州藩の妬みを買い、本家と対立するようになります。第5代当主「吉川広逵」と第6代当主「吉川経永」時代には、家格問題が絡まって本家と対立し、さらに岩国内部でも家臣団の対立が起こっています。第7代当主「吉川経倫」の代になると、諸侯に列するための運動や凶作により財政が悪化します。製紙業の生産高も半減し、倹約が励行されるようになりました。寛政年間(1789–1801年)より財政再建に着手し、天保年間(1830–44年)には一通りの成功をみました。第8代当主「吉川経忠」は財政改革に失敗し、第10代当主「吉川経礼」は、干拓事業などを行なって、財政改革に成功を収めました。第11代当主「吉川経幹」の時代に幕末を迎えます。
幕末には、三士と呼ばれる「東沢瀉」「栗栖天山」「南部五竹」による尊王活動はありましたが、藩自体は佐幕的態度を示していました。
元治元年(1864年)から慶応元年(1865年)にかけての2度にわたる長州征討に際しては、第11代当主「吉川経幹」が、長州藩と幕府の間に立って周旋を行い、幕府方の派兵の延期を取り付けました。しかし、「高杉晋作」などの長州藩士は、これを宗家である長州藩への背信行為と見なし、「この戦争で功績のあった清末藩に岩国領を加増すればよい。」とまで言われていました。
第二次長州征討において、幕府軍は「芸州口」「周防大島口」「石州口」「小倉口」の4方面から長州藩を攻め込みましたが、岩国藩兵は「芸州口」で幕府軍と交戦し、これを撃破することに貢献しました。この第二次長州征討のことを長州藩側の立場から「四境戦争」と呼ぶことがあります。
経幹は慶応3年(1867年)に死去しますが、「毛利敬親」の命令でその死が隠されました。大政奉還後の慶応4年(1868年)、新政府によって岩国藩は独立した藩として正式に認められ、経幹は生存しているものとして、城主格兼正式な藩主として認めらます。
こうして経幹は、岩国藩初代藩主となり、明治元年(1869年)に長男「吉川経健」に家督を譲って隠居した形となりました。
江戸時代には、正式な藩として存在していなかったものの、実質的には藩を形成しており、倒幕にも貢献していることから新政府としても相当な配慮をしたと考えられます。

岩国城

錦帯橋

岩国城(いわくにじょう)は、別名「横山城」と呼ばれ、山口県岩国市横山に存在した山城です。江戸時代初期には岩国領の居城となり、山城である「横山城(岩国城)」は、本丸を中心として南西に二ノ丸、北東に北ノ丸、ほかに水の手などの曲輪が配置され、麓には、「御土居」と呼ばれる土塁が築かれました。本丸には4重6階の天守などを上げていましたが、廃城後、天守は破却され、土居が陣屋として存続しました。現在、御土居跡は吉香公園(きっこうこうえん)として整備され、横山山頂には再建天守があります。城下と城を隔てる錦川には「錦帯橋」が架けられ、特徴的な景観を作り出しています。城下町は、この錦帯橋の道筋を基準に整然と整備されました。

府中藩
府中藩(府中藩)は萩藩(長州藩)の支藩で、長門府中藩(ながとふちゅうはん)や長府藩(ちょうふはん)とも呼ばれ、長府藩(ちょうふはん)と称することの方が一般的です。
「須原屋武鑑」の居城・在所表記では、当初は「長門長府」で、宝暦年間より「長門府中」に改称されています。藩庁は櫛崎城(長府城、長府陣屋)に置かれました。
「豊臣秀吉」は、天正20年(1592年)、朝鮮出兵に向かうために毛利氏の本拠であった広島城に入りました。そこで「穂井田元清」の長男「毛利秀元」は、「毛利輝元」の養嗣子となることを秀吉から「輝元に男子が生まれた場合には分家すること」という条件の下で承認されました。「穂井田元清」は「毛利元就」の4男です。その後、輝元に嫡男「毛利秀就」が誕生し、慶長3年(1598年)、豊臣政権は秀就を毛利氏の後継者として承認し、事実上廃嫡される秀元には、輝元から所領を分知され、大名となることが決定されました。翌年、この方針に則って秀元に長門国一国と安芸国佐伯郡及び周防国吉敷郡の計17万石をもって、大名としての身分が認められることになり、このときが立藩されています。これは、「毛利元就」の三男で叔父の「小早川隆景」が、毛利家臣でありながら大名として認められた前例があります。
「関ヶ原の戦い」の後に「毛利輝元」が、防長2カ国36万石に減封となった際に、輝元が東の守りとして岩国に「吉川広家」を置き、西の守りとして改めて長門国豊浦郡(山口県下関市)に「毛利秀元」が領地を与えられ、その後、第3代長府藩主「毛利綱元」の時に叔父の「毛利元知」に1万石を分知し、支藩の「清末藩」を立藩させています。
歴代藩主の中では、第3代藩主「毛利綱元」の子「毛利吉元」と、第8代藩主「毛利匡敬(重就)」が、宗藩の長州藩主を継いでいます。
こうしてみると後継者を絶やさない手法は、徳川家の手法と同じであり、天下を担うだけの実力が毛利氏にはあると徳川幕府は考え、恐れたのではないでしょうか。
幕末には宗藩である長州藩が、下関を直轄領としようとしたために対立しましたが、後に和解し他の長州支藩とともに戊辰戦争を戦います。しかし、維新後に叙爵された際には、維新の功績に伴わず子爵に留まりました。このことに関しては、明治天皇の叔父にあたる「中山忠光」が長府藩に亡命していたときに暗殺されたことで、明治天皇が長府毛利家の伯爵への叙爵を渋ったと言われています。

櫛崎城(関見台公園)の復元天守台

櫛崎城(くしざきじょう)は、山口県下関市長府宮崎町(長門国豊浦郡)にあった城です。串崎城とも表記され、他に雄山城(かつやまじょう)、長府城、長府陣屋とも称します。櫛崎城は、関門海峡を望む要衝として、周防灘に突き出した半島の高台に築かれました。現在は、「関見台公園」として整備されていますが、当時の城域は、公園よりさらに北側の「豊功神社」に至るまでだったと考えられています。当時の城郭図巻によると松崎口・浜之坂口・三軒屋口に櫓があり、櫛崎城跡の石碑が建てられている付近が、松崎口(大手門二重櫓)の跡とみられています。なお、串崎の名は、鎌倉時代の元寇で討ちとった敵兵の首をこの海岸に埋めたことから「首崎」と呼ばれたことが転化したものだと言われています。また、周辺の丘陵部に「お城山」や「詰の丸」などの地名が残っており、「お城山」が本丸で、現在の「関見台」となったとされているようです。

清末藩
清末藩(きよすえはん)は、長門国に存在した藩です。藩庁は清末陣屋(山口県下関市清末)に置かれました。長府藩のさらに支藩であり、長府藩は長州藩の支藩ですから、孫藩にあたり、長府新田藩(ちょうふしんでんはん)とも称されます。江戸武鑑では、当初「長門新田」と表記されていましたが、「毛利政苗」による再興以降は「清末」と表記されるようになりました。
藩主は毛利氏で、始祖は長府藩初代藩主「毛利秀元(毛利元就の孫)」の三男「毛利元知」です。長府藩と知行地が交雑していますが、石高はおよそ1万石でした。
承応2年(1653年)、「毛利元知」が甥に当たる長府藩主「毛利綱元」から1万石の分知を受けて立藩しました。これは、慶安3年(1650年)に没した秀元の遺言によるものです。孫藩という異例の立藩については、長府藩祖である「毛利秀元」の女婿で老中「稲葉正則」への強力な働きかけで実現したものとも言われています。
享保3年(1718年)、第2代藩主「毛利元平」が断絶していた長府藩を再興するため転出し、「毛利匡広」と改名して長府藩第6代藩主となります。このため清末藩は一旦断絶しましたが、享保14年(1729年)、「毛利匡広」の死に際し、七男「毛利政苗」に1万石が分知され、清末藩が再興されました。
第4代藩主「毛利匡邦」は、藩校「育英館」を創設するなど藩政改革に努めましたが、財政の窮乏化を招き、内部対立も進みました。匡邦の嫡子が早世したことから、縁戚に当たる第5代藩主「毛利政明」を養子に迎えましたが、これ以降の藩主も他家からの養子が入ることが続いたため、家中騒動が多かったようです。
毛利氏は、長州藩やその支藩の吉川氏の岩国藩を除き、家紋(代紋)はいずれも「一文字三星」を使用していますが、伊達氏の「竹に雀」や徳川一門の「三葉葵」と同様に、それぞれが少しずつ違うものとなっています。
第8代藩主「毛利元純」の時代に幕末を迎え、長州征討では「石州口」の指揮官となりました。

清末藩邸跡

承応2年(1653年)から幕末まで陣屋と藩主の館があり、8代の藩政の中心でしたが、明治4年(1871年)の廃藩置県にともない、明治6年(1873年)に建物も土地も競売処分されました。民間に買い取られましたが、その後、学校用地として下関市に払い下げられ、昭和22年(1947年)に、現在の東部中学校が建てられました。

如何でしたでしょうか。毛利氏は、天下を取っていてもおかしくない実力者でした。「毛利元就」の時代から組織を形成する能力と管理する能力に長けていたと考えています。恐ろしくもありますが、役にも立つ能力です。だからこそ徳川幕府としても「生かさず殺さず」を続けてきたのではないでしょうか。毛利家の家臣たちは、時代を経て明治新政府において、近代国家を形成する礎となったことは、戦国時代風に言えば天下を取ったに等しいことだと思います。もし、戦国時代に毛利氏が天下を取っていたら歴史が大きく変わっていたかもしれませんね。そう考えるとワクワクしてきます。

 

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