歴史を紐解く(廃藩置県)- 高知県編



今回は高知県の歴史を紐解いてみました。早いもので四国最後の県になります。高知県と言えば、やはり「坂本龍馬」ではないでしょうか。よくよく考えてみるとそれしか思い浮かびません。「よさこい踊り」や「はりまや橋」など、観光で思い浮かぶものは幾つかありますが、どのような歴史があるのか楽しみです。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の高知県になるまでの変遷です。

大変シンプルです。江戸時代の一時期には、「中村藩」と「土佐新田藩」が支藩として存在していたようです。徳島県編でも紹介していますが、明治9.8.21(1876年)から明治13.3.2(1880年)までの間、阿波国(徳島県)が高知県に編入されていた時期がありました。歴史を紐解けば、その事情や背景が見えてくるかもしれません。

高知藩
高知藩(こうちはん)は、明治初年の正称です。別名、土佐藩(とさはん)ですが、こちらの呼称の方が一般的ですので、以後「土佐藩」と表記します。廃藩置県以前に土佐国(高知県)一円を領有した藩です。藩庁は高知城(高知市)に置かれました。「大広間詰国持大名」で、外様の山内氏が支配していました。
「大広間詰国持大名」とは何ぞやという事になりますね。これは、江戸城内での大名の家格に当たります。江戸城内では、伺候席(しこうせき)と呼ばれる登城した大名や旗本が、将軍に拝謁する順番を待っていた控席(詰所)が決められていました。つまり、大名が将軍に合うために詰めていた場所ですね。幕府の重役(大老・老中・御留守居・所司代・大阪城代)が詰める溜詰、大廊下詰、大広間詰、帝鑑間詰、柳間詰、雁間詰、菊間広縁詰の七つがありました。厳密には最下位に菊間詰がありますが、詰所には含めません。それぞれに詰める大名は、出自や官位を元に幕府により定められていました。記載順の家格になりますので、大広間詰は順位で言えば三番目になります。外様四位以上の扱いを受けている国持ち十八家、連枝、準国持ち五家、柳川立花、二本松丹羽がここに該当します。山内家は結構上位の扱いを受けていた家格と言えます。
土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部氏が統治していましたが、「長宗我部盛親」は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」において西軍に与して改易となりました。この合戦において徳川氏に味方した遠江掛川城主「山内一豊」が、新たに土佐国9万8000石を与えられ、以降明治時代初頭まで山内氏が治めました。平成18年(2006年)に放送されたNHK大河ドラマ「功名が辻」で「山内一豊」の妻「千代」を女優の「仲間由紀恵」さんが、熱演したのは記憶に新しいところです。
当初、「一領具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれる土佐国の戦国大名「長宗我部氏」が、兵農分離前の武装農民や地侍を対象に編成した半農半兵の兵士および組織が、山内氏に馴染まずに反乱を繰り返したため、山内氏は藩内の要衝に重臣を配して反乱に備えました。中村の山内康豊(2万石)を始め、佐川に「深尾重良」(1万石)、宿毛に「山内可氏」(7000石)、窪川に「山内一吉」(5000石)、本山に「山内一照」(1300石)、安芸に「五藤為重」(1100石)を配しています。藩政の中枢を山内家家臣(上士)で独占した結果、下位に位置づけられた長宗我部氏旧臣(郷士)との二重構造が幕末まで続きました。
一豊は、長宗我部氏(浦戸藩)の旧城である浦戸城に入城しましたが、城下町を開くには狭かったため、現在の高知市中心部に高知城と城下町の建設を行いました。藩政が確立したのは、第2代藩主「山内忠義」の時代で、忠義は「野中兼山」を登用し、新田開発など殖産興業に努めましたが、兼山の強引な施策は政敵の恨みを買って失脚します。
藩財政は、江戸時代中期頃までは比較的安定的に推移しましたが、宝暦期(1751年 – 1764年)以降、一揆、農民の他領への逃散など藩政には動揺が見みられました。第9代藩主「山内豊雍」による質素倹約を基本とする藩政改革(天明の改革)が行われ、藩政はやや立ち直りました。更に第13代藩主「山内豊熈」は「おこぜ組」と呼ばれる「馬淵嘉平」を中心とする改革派を起用し、藩政改革に乗り出しましたが失敗しました。
第15代藩主「山内豊信(容堂)」の時代に幕末を迎えます。「吉田東洋」を起用し、改革を断行しました。東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い、「武市瑞山」を中心とした土佐勤王党によって暗殺されました。後に勤王党は実権を回復した容堂(豊信)の報復を受け、瑞山の切腹や党員が処刑されるなど弾圧解散されました。なお、東洋の門下より「後藤象二郎」や「板垣退助」、「岩崎弥太郎」などの明治時代を代表する人物を輩出し、郷士である「坂本龍馬」や「中岡慎太郎」などの優れた人材が輩出されました。坂本や後藤を通じて容堂から第15代将軍「徳川慶喜」へ献策された大政奉還により、江戸幕府の歴史が閉じられました。土佐藩は「薩長土肥」の一角をなし、時代転換に大きな役割を果たしました。
郷士(ごうし)とは何ぞやという事になりますね。郷士は、江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した人々を指します。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民の事で、平時は農業、戦時には軍事に従いました。郷侍(ごうざむらい)とも言います。
土佐藩における郷士制度は、基本的には在郷武士であり、土佐藩においては下士の上位に位置づけられていました。「関ヶ原の戦い」以前の旧領主である、長宗我部氏遺臣の「一領具足」の系譜を引く者が多く、慶長18年(1613年)香美郡山田村の開発で取り立てられた慶長郷士がこの制度の端緒となり、その後、新田等の開発を行う度に取り立てられてきました。これらは、長宗我部遺臣の不満を解消し、軍事要員として土佐藩の正式な体制に組み込むとともに、新田開発による増収を狙ったものでした。江戸幕府は、外様大名を中心に普請を請け負わせる大名統制策を取っており、地理的条件から土佐藩の江戸参勤に掛かる費用も莫大であったことから、土佐藩では早くから増収策に熱心でした。なお、郷士一人当たりの開発許可面積は概ね3町程でした。
江戸時代中期には、商品経済が農村部まで浸透し始め、困窮苦からか生活のために郷士の身分を譲渡するようになりました。当初は、武士身分の者への耕作地の売却譲渡が主でしたが、次第に、豪農・豪商が郷士株を買って、郷士となる者が現れています。
元禄期には、郷士も公役に就くことが出来るようになり、下級役人として活躍する者も出てきました。幕末には、郷士総数は800人を数えました。内370人が大組と呼ばれ、各々が家老に属しており、御預郷士と呼ばれました。残り430人が小組と呼ばれ6隊を構成し、駆付郷士として、非常時に規定の場所で海防に従事していました。なお、多くの郷士が農村や山間部に居住していましたが、上士(山内系の上級藩士)の居住地である郭中以外の上町・下町に居住する者もいたようです。これに「坂本龍馬」の家が該当します。
土佐藩の石高は、16世紀末の太閤検地の際に「長宗我部氏」が届け出た9万8000石に過ぎませんでした。「山内一豊」は、土佐入国後に再度算定し、慶長10年(1605年)に20万2600石余りと届け出ました。
元和元年(1615年)、阿波徳島藩が淡路国の加増によって表高が、17万石余から25万7000石になると、土佐藩は対抗したかのように25万7000余石を申告します。これは、石高を高く申告すると、幕府による大工事などで大幅に負担が増えるにもかかわらず、四国一の大名であろうとした見栄が原因です。ただし、幕府はこの申告を認めず、朱印状は従来のまま20万2600余石でした。その後、新田開発が進んだ結果、明治3年(1870年)の廃藩置県前には、本田地高とほぼ同規模の新田があり、本・新田は計49万4000余石に達していたとされています。

高知城

高知城(こうちじょう)は、土佐国土佐郡高知(高知県高知市)にあった城です。別名「鷹城(たかじょう)」とも言います。江戸時代に建造された天守や本丸御殿、追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されています。日本100名城にも選定されています。

中村藩
中村藩(なかむらはん)は、土佐藩の支藩です。江戸時代初期から中期にかけて3代33年間存在しました。明暦2年(1656年)に土佐藩第2代藩主「山内忠義」の二男「山内忠直」が、幡多郡中村(四万十市)付近の3万石を与えられ立藩しています。元禄2年(1689年)に第3代中村藩主「山内豊明」は若年寄に累進しましたが、病気を理由に辞職します。しかし、時の将軍「徳川綱吉」の怒りを買い、蟄居と3000石の減知を言い渡されますが、豊明はこれを拒んだため廃藩となりました。
ただし、中村藩は土佐藩初代藩主「山内一豊」の弟「山内康豊」とその息子「山内政豊」の2代が慶長6年(1601年)から寛永6年(1629年)の間、2万石で治めていた時期があり、この時期も中村藩主時代と見られることもあります。

中村城跡

中村城(なかむらじょう)は、高知県四万十市(旧中村市)にあった城です。別名「為松城」とも言います。「応仁の乱」を避けた「一条教房」が、荘園(幡多荘)であった中村に下向し、そのまま戦国大名として土着します。元々この地にいた豪族の為松氏を家老として取り立て、その為松氏により築城されたのが始まりと考えられています。「一条兼定」の代には、素行が悪く、兼定は家臣により豊後へ追放されています。その後、一条家は「長宗我部元親」に攻められ滅亡します。「山内一豊」に土佐一国が与えられた時には、一豊の弟「山内康豊」が入りますが、一国一城令に伴い廃城となります。
中村城は、西に四万十川、東に後川が流れ、中村平野を一望できる丘陵に築城され、面積はおよそ10,586㎡あり、遺構は石垣が残っています。石垣は昭和40年(1965年)に発見されたもので、中村藩2万石第2代藩主「山内政豊」時代の慶長18年(1613年)に修復されたものと考えられています。現在は、「為松公園」になっており、二の丸跡には愛知県の犬山城をモデルに建築された模擬天守を「四万十市立郷土資料館」として利用しています。中村藩立藩時に居城したかどうかは定かではありません。

土佐新田藩
土佐新田藩(とさしんでんはん)は、高知新田藩とも言い、土佐藩の支藩です。江戸時代後期の安永9年(1780年)に中村藩の子孫で山内氏の一族の「山内豊産」が1万3000石を本藩より分与され立藩します。藩主は参勤交代を行わない定府大名でした。6代90年間続き、明治3年(1870年)の廃藩置県前に土佐藩に編入されました。定府大名であったため、代々江戸麻布古川町の上屋敷に居住したことから、麻布山内家と称されました。

土佐と言えば、やはり「坂本龍馬」ですよね。龍馬を語らずして高知の歴史を紐解いた事にはなりません。龍馬について触れておきます。
坂本龍馬(さかもとりょうま)は、天保6年11月15日〈新暦・1836年1月3日〉に生まれ、慶応3年11月15日(新暦・1867年12月10日)に、御存知のとおり京都で暗殺されています。
江戸時代末期の志士・土佐藩郷士です。龍馬は通称で、本名は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)のようです。他に「才谷梅太郎(さいたにうめたろう)」など、手紙には色々な変名が使われているようです。
土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中(後の海援隊)」を結成しました。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなどの重要な働きをしました。大政奉還成立の1ヶ月後に京都で起きた「近江屋事件」で暗殺され、明治24年(1891年)に正四位を追贈されています。
坂本龍馬を詳しく語ると一冊の本が出来てしまいますので、年歴を追いながら要点だけまとめてみます。

天保6年(1835年)、土佐藩郷士「坂本家」の二男として生まれる。

弘化3年(1846年)、小高坂の楠山塾で学び、同年に退塾します。

嘉永元年(1848年)、「日根野弁治」の道場へ入門し、小栗流和兵法を学びます。

嘉永6年(1853年)

4月、剣術修行のため、江戸「千葉定吉道場(小千葉道場)」に入門します。
6月頃~9月頃、臨時御用として、品川藩邸警衛にあたります。
12月、「佐久間象山」の私塾に入門します。

安政元年(1854年)、土佐に帰郷し、画家「河田小龍」から西洋事情を学びます。

安政3年(1856年)、再び江戸「小千葉道場」に遊学します。

安政5年(1858年)

1月、「千葉定吉」より「北辰一刀流長刀兵法目録」を伝授されます。
9月、剣術修行を終えて帰国します。

文久元年(1861年)

3月、「井口村刃傷事件」が起り、龍馬の属する下士と上士が対立します。
8月頃、土佐勤王党に加盟します。
10月、「武市瑞山」の密使として長州へ向かいます。

文久2年(1862年)

1月、萩で「久坂玄瑞」と面談します。
3月、「沢村惣之丞」とともに土佐藩を脱藩します。
8月、九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せます。
12月5日、幕府政事総裁職の「松平春嶽」に面会します。
12月、「勝海舟」に面会し、弟子となります。

文久3年(1863年)

2月25日、「勝海舟」の尽力により脱藩を赦免されます。
4月23日、将軍「徳川家茂」が、神戸海軍操練所と神戸海軍塾の設立を許可します。
5月、越前に出向し、「春獄」から千両を借り受けます。
10月、海軍塾塾頭をつとめます。

元治元年(1864年)

2月、帰国命令を無視して再脱藩します。
5月14、「勝海舟」の建言により幕府が、神戸海軍操練所を創設します。
6月17日、尊攘過激派浪士を蝦夷地へ移住させる開拓構想を「勝海舟」に提案します。
11月10日、「勝海舟」が軍艦奉行を罷免され、龍馬ら塾生は薩摩藩邸に保護されます。

慶応元年(1865年)

3月18日、神戸海軍操練所が廃止されます。
5月、薩摩藩の援助により、長崎で「亀山社中」を結成します。
閏5月21日、長州「桂小五郎」、薩摩「西郷隆盛」の下関会談斡旋に失敗します。
8月、長州藩に薩摩藩名義で、長崎グラバー商会からの銃器弾薬購入を斡旋します。
9月、「大久保一蔵」の書簡を長州藩重役に届けます。

慶応2年(1866年)

1月22日、龍馬の斡旋で、桂・西郷・小松らが京都で会談し、薩長同盟が結ばれます。
1月23日、伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷します。(寺田屋遭難)
2月5日、「桂小五郎」に求められて、盟約書の裏書を行います。
3月~4月、負傷治療のために妻のお龍と共に鹿児島を旅行します。
6月、亀山社中の船「ユニオン号」で、長州藩の第二次長州征伐を支援します。

慶応3年(1867年)

1月13日、土佐藩参政「後藤象二郎」と会談します。
4月上旬、亀山社中を土佐藩外郭組織とし、「海援隊」と改称します。
4月23日、海援隊運用船「いろは丸」が、紀州藩船と衝突して沈没します。
5月、御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させます。
6月9日、「後藤象二郎」とともに船中八策を策定します。
6月22日、薩土盟約が成立します。
10月16日、王政復古後の職制案の原形となる「新官制擬定書」が策定されます。
11月上旬、維新後新政府設立のための政治綱領「新政府綱領八策」を起草します。
11月15日、京都「近江屋」で、刺客に襲撃され暗殺されます。(近江屋事件)

坂本龍馬

坂本龍馬には、色々な説が存在しています。明確には分かっていない部分もありますので、私の個人的な見方を付け加えます。龍馬は、土佐藩下級武士の二男であり、跡を継ぐ責任もなく、若い頃は都会や西洋文化に憧れた普通の青年だったのではないかと思っています。道に迷っているうちに「土佐勤王党」に明確な動機も無く加盟したのではないでしょうか。恐らく面白そうだという程度の理由だったと思います。しかし、そこで色々な人との出会いや話から「政治で世の中が変えられる」と思ったのではないでしょうか。
そんな中で、「勝海舟」と運命的な出会いが訪れます。暗殺を目論んで「勝海舟」を訪問した龍馬は、海舟の開国論に心を奪われます。恐らく龍馬が考えているようなスケールをはるかに上回る話を説いたのではないでしょうか。龍馬は益々、「政治で日本を動かすことが出来る」と思い、海舟から色々な事を吸収して行き、海舟の後ろ盾を得ながら己の道や日本の進むべき道を明確にしていったと思います。その後、海舟は罷免され後ろ盾を失うものの、海舟の口入れにより薩摩藩の庇護を受けることになります。薩摩藩の出資を受け、現在の株式会社に類似する組織の「亀山社中(のちの海援隊)」を設立します。これには仲の悪かった薩摩と長州を結び付けようとする思惑もあったようです。そのおよそ一年半後には、薩摩、長崎、上海などで海外貿易を研究した「後藤象二郎」と出会い、龍馬が策定した「船中八策」を政治綱領として後藤に提案します。薩摩藩の主導のもとに成立した四侯会議での実現を目指しましたが、その時には果たせませんでした。後に「船中八策」の意を汲む「新官制擬定書」を「尾崎三良(戸田雅楽)」が新政府職制案を策定し、龍馬を通じて「後藤象二郎」を経て「岩倉具視」の手にわたり、王政復古後の職制案の原形となっています。
明治新政府の元の元となる組織作りが、龍馬のアイデアだったとは驚きです。現代風に言えば、何の変哲もない若者が時代の潮流に乗り、運命付けられたかのように日本の礎となっていったと言うところでしょうか。だからこそ伝説のヒーローとなったのではないでしょうか。龍馬のアイデアがどこまで取り入れられたかは定かではありませんが、影響を与えたことは事実です。
「尾崎三良」による「新官制擬定書」では、幕府に代わる新しい政府の職制を「関白」一人、「議奏」若干人、「参議」若干人とし、参議の候補として「坂本龍馬」も含まれていたようです。
王政復古の大号令において、幕府や摂政・関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に総裁・議定・参与の三職からなる官制が施行されました。総裁には「有栖川宮親王」、議定には「皇族・公卿」と「薩摩・長州・土佐・越前」などの藩主が、参与には「公家と議定についた藩主の家臣」が就任しました。しかし、明治天皇はまだ年少であるため、それを補佐する体制がすぐに必要となりました。そこで、慶応4年閏4月21日、政体書の公布により、太政官を中心に三権分立制をとる太政官制(七官制、政体書体制)が採られ、さらに翌年(明治2年)7月には、版籍奉還により律令制の二官八省を模した二官六省制が発足しました。なお、明治2年の主な組織と役職者は次のとおりです。

輔相(三条実美)
議定(岩倉具視、徳大寺実則、鍋島直正)
参与(東久世通禧、木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎、副島種臣、板垣退助)

そして、明治4年7月の廃藩置県の後には、正院・左院・右院による三院制が採られました。

如何でしたでしょうか。土佐藩は藩史よりも幕末から廃藩置県までの過程で「坂本龍馬」が果たした役割が注目されます。最終的には龍馬のイメージ通りとなっていないかもしれませんが、慶応3年の「大政奉還」から明治4年の「廃藩置県」までに政府組織が目まぐるしく変わったことが分かります。その初期段階で、「坂本龍馬」は新政府組織の人事案を構想していたのです。「近江屋事件」で龍馬が暗殺された経緯は諸説ありますが、下級武士でありながら新政府の人事構想まで画策するようになった龍馬は、どこから刺客を差し向けられてもおかしくないような気がします。

 

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