歴史を紐解く(廃藩置県)- 徳島県編



今回は徳島県の歴史を紐解いてみました。徳島県は、「阿波踊り」や「鳴門の渦潮」、高校野球で一世を風靡した池田高校くらいしか知りません。どんな歴史があるのか楽しみです。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の徳島県になるまでの変遷です。

現在、兵庫県に帰属している淡路国(淡路島)が、徳島県に入っています。また一時期、富田藩という支藩が存在していたようです。変遷を見ると廃藩置県では徳島県となっていますが、第2次府県統合では、名東県となっています。いつから現在の徳島県となったのか、廃藩前後の動きを少し整理しておきます。

版籍奉還直後 明治2.7.1(1869年)
徳島藩(淡路国・阿波国)

廃藩置県 明治4.7.14(1871年)
徳島県(淡路国・阿波国)

第1次府県統合 明治4.11.14(1871年)
徳島県(淡路国の一部を兵庫県に編入)
明治4.11.15(1871年)名東県(淡路国の一部を兵庫県から復活)
明治6.2.20(1873年)名東県に香川県を編入
明治8.9.5(1875年)名東県から香川県を分離

第2次府県統合 明治9.4.18(1876年)
名東県存続(淡路国・阿波国)
明治9.8.21(1876年)名東県を廃止(淡路国を兵庫県に、阿波国を高知県に編入)
明治13.3.2(1880年)高知県から阿波国を分離し徳島県が復活

淡路国(淡路島)の帰属には、庚午事変(こうごじへん)が大きく関わっています。明治3年(1870年)に当時の徳島藩淡路洲本城下で、洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老「稲田邦植」の別邸や学問所などを襲った事件です。稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれています。結果的に淡路島の帰属をめぐる重要な事件となり、この事件がなければ淡路島は、現在も兵庫県ではなく徳島県であった可能性が高いと言われています。
徳島藩洲本城代家老「稲田家(1万4千石)」は、主家である徳島「蜂須賀家」との様々な確執が以前よりありました。幕末期、蜂須賀家側が佐幕派であったのに対し、稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、蜂須賀家側との対立をさらに深めていくようになりました。そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島「蜂須賀家」の家臣は士族とされましたが、陪臣(蜂須賀家の家臣の家臣)である稲田家家臣が卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけました。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指すようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになります。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいました。
明治3年(1870年)、稲田家側のこうした一連の行動に怒った蜂須賀家側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃しました。また、その前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、脇町(美馬市)周辺にある稲田家の配地に進軍しました。これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいました。これにより稲田家側は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷が25棟の被害を受けました。
政府は一部の過激派だけの単独暴動なのか、徳島藩庁が裏で過激派を煽動していたりはしなかったかを調査しました。少なくとも洲本では意図的に緊急の措置を怠った疑いがありました。そのような事実が少しでもあれば、徳島藩知事であった「蜂須賀茂韶」を容赦なく知藩事職から罷免するつもりでした。
当時の日本は、版籍奉還後もかつての藩主が知藩事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態でした。政府にとって、この問題は中央集権化を推進していく上で是非とも克服してゆかねばなりませんでした。しかし、下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされました。
結局、政府からの処分は、蜂須賀家側の主謀者「小倉富三郎」「新居水竹」ら10人が斬首刑を命じられますが、後に「蜂須賀茂韶」の嘆願陳情により切腹になっています。これは日本法制史上、最後の切腹刑となりました。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に及びました。知藩事の茂韶や参事らも謹慎処分を受け、藩自体の取り潰しはなかったものの、洲本を含む津名郡は翌明治4年(1871年)5月に兵庫県に編入されています。
稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の「士族」として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていきました。この静内移住開拓については「船山馨」の小説「お登勢」や、映画「北の零年」でも描かれています。当時、卒族とは足軽や同心などの武士身分を有さない下級の家臣でした。稲田氏は、徳島藩に帰属し淡路洲本城の城代を務めていたことから、その家臣たちは、稲田氏を実質的な城主として淡路国を統治している意識が強かったと考えられます。明治5年(1872年)に作成された戸籍「壬申戸籍」では、「士族」の身分が記されますが卒族は平民の扱いです。納得できなかったのも無理はありませんね。「士族」の身分と引き換えに北の大地へと旅立った人たちのその後が興味深いですね。
廃藩置県が実施された当時は、領有地域の問題と同時に武士の処遇も問題となったようです。これは、他藩でも同じことが言えます。

徳島藩
徳島藩(とくしまはん)は、阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島)の2国を領有した藩です。藩庁は、徳島城(徳島県徳島市)に置かれました。また、淡路国には洲本城を構え、城代家老を置きました。
豊臣秀吉の信頼できる家臣で、播磨国龍野を領していた「蜂須賀正勝」は、天正13年(1585年)の四国征伐の後に阿波国を与えられましたが、高齢を理由に嗣子の「蜂須賀家政」に家督を譲り、徳島藩初代藩主となりました。入府当時の石高は17万5千石で、板野郡の一部が他領であり、阿波一国ではありませんでした。同年、家政により徳島城が築造されます。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、家政は西軍により強制的に出家させられた上で高野山に追放され、阿波国は毛利家の軍勢が進駐して、その管理下に置かれました。その一方、妻が「小笠原秀政」の娘で徳川家康の養女(万姫)である嗣子の「蜂須賀至鎮」は、会津征伐に従軍しており、9月15日の本戦では東軍として参加しました。この結果、戦後改めて、至鎮に旧領が安堵されることとなりました。この時より実質的に徳島藩が成立したと言えます。至鎮は大坂の役において、第2代将軍「徳川秀忠」より7つもの感状を受ける働きをしました。これにより淡路一国8万1千石を与えられ、25万7千石を領する大封を得ました。
吉野川流域では藍の生産が盛んで、特に第10代藩主「蜂須賀重喜」の時代になると徳島の藍商人は、藩の強力な後ろ盾により全国の市場をほぼ独占するに至りました。藍商人より上納される運上銀や冥加銀は、藩財政の有力な財源となりました。領石高25万石と言われていますが、実際には阿波商人が藍、たばこ、塩などで得た利益を合算すると四十数万石になるともいわれています。
第14代藩主「蜂須賀茂韶」の時代に幕末を迎えます。明治4年([1871年)、廃藩置県により徳島藩は徳島県となりますが、前述のとおり名東県を経て、一旦は高知県に編入され、明治13年(1880年)に徳島県として再び分離されています。

徳島城跡(三の丸石垣と城山)

徳島城(とくしまじょう)は、吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる連郭式の平山城です。現在の城跡は、国指定史跡「名勝(表御殿庭園)」となっています。
徳島城は、明治6年(1873年)に明治新政府により発布された廃城令により存城処分となり、明治8年(1875年)には、「鷲之門」を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去されました。平成18年(2006年)に、日本100名城の76番目の城に指定されています。

徳島城(鷲の門)

最後まで残っていた「鷲の門」は、昭和20年(1945年)の第二次世界大戦中、徳島大空襲により焼失したものの、平成元年(1989年)に再建されています。

洲本藩
洲本藩(すもとはん)は、江戸時代初期に淡路国(兵庫県洲本市)に存在した藩です。藩庁は洲本城、由良城に置かれました。現在は兵庫県に帰属しますが、徳島藩との関わりが強いのでここで紹介しておきます。
洲本は、紀伊水軍の一派である安宅氏の分家である洲本安宅氏が支配していました。戦国時代、淡路守護であった細川氏が三好氏により滅ぼされ、また、安宅氏本家も内紛により衰退すると、洲本安宅家の「安宅治興」は、「三好長慶」の弟を養子に迎え、「安宅冬康」として、三好氏の傘下になります。三好氏が「織田信長」によって滅ぼされた後は、冬康の子の「安宅信康」は、織田氏の支配下に入ります。信長の死後、淡路は豊臣氏の支配下に入り、「豊臣秀吉」は、譜代の家臣である「仙石秀久」を5万石で淡路に入れました。秀久は、四国攻めで軍功を挙げたため、讃岐国に加増移封となります。
その後、「賤ヶ岳の七本槍」の一人である「脇坂安治」が3万石で入ったことにより、淡路洲本藩が立藩します。安治は、九州征伐・小田原征伐に従軍し、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)においては、水軍の将として軍功を挙げました。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」においては、安治は成り行き上、西軍に与しましたが、「藤堂高虎」と内通していたため、「小早川秀秋」が寝返ったのに乗じて東軍に寝返り、西軍の「大谷吉継」隊を壊滅に追い込みました。戦後、その戦功により本領を安堵されました。
慶長14年(1609年)、「脇坂安治」は伊予大洲藩に移され、代わって淡路は「藤堂高虎」の属領となり藩は消滅ました。
その翌年、播磨姫路藩主である「池田輝政」に淡路一国が加増され、淡路は姫路藩の属領となります。慶長18年(1613年)1月に輝政が死去すると、淡路は輝政の三男「池田忠雄」に分与され、再び洲本藩が立藩しました。元和元年(1615年)、忠雄は岡山藩主で早世した兄「池田忠継」の後を継いで岡山藩に移ったため、洲本藩は廃藩となりました。なお、淡路はその後、大坂の陣で軍功を挙げた「蜂須賀至鎮」の阿波藩(明治以降に徳島藩と改称)領となり、洲本には阿波藩が派遣した城代「稲田氏」が置かれることとなりました。

洲本城跡

洲本城(すもとじょう)は、兵庫県に帰属しますが、廃藩置県の経緯から徳島県で紹介しておきます。
現在ある模擬天守は、昭和3年(1928年)の昭和天皇の即位式(御大典)を記念して、鉄筋コンクリート製で築造されたもので、江戸時代の天守を復元したものではありません。模擬天守としては、日本最古のものです。展望台に特化した建物で、天守台までが建物の一部となっている姿は特徴的です。
洲本城は、戦国大名「三好氏」により築城され、「池田忠雄」が領主になった際に廃城となり、忠雄は当初「岩屋城」に居城し、次に「由良城」に居城します。「大坂夏の陣」の後、徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、筆頭家老の稲田氏一族が由良城代となりますが、交通の便が悪いなどの理由から1631年から1635年にかけて由良城を廃し、洲本城に再び本拠を移しました。城下町ごとの大移転であったため、俗に「由良引け」と呼ばれています。

富田藩
富田藩(とみだはん)は、徳島藩の支藩として江戸時代中期に存在した藩です。延宝6年(1678年)に「蜂須賀隆重」が、徳島藩5代藩主「蜂須賀綱矩」より5万石の分知を得て、名東郡富田(徳島市内)に居所を営み立藩しました。第3代藩主「蜂須賀正員」は、宗家の嫡子となり徳島藩第6代藩主となったため、徳島藩に所領を返納し、享保10年(1725年)に廃藩となりました。分知の経緯、藩庁の存在等は不明です。

如何でしたでしょうか。淡路島の帰属については、色々と考えさせられました。江戸時代初期には、姫路藩領となっており、その後、阿波藩(徳島藩)領となって明治を迎えています。また、淡路洲本藩が存在していた時期もあり、庚午事変(稲田騒動)が無ければ徳島県に帰属していたかもしれない事情も納得できます。稲田家家臣が、北海道の開拓にどのように関わったのか、北海道の歴史を紐解くのが楽しみです。

 

四 国

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九 州

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