歴史を紐解く(廃藩置県)- 香川県編



今回は香川県の歴史を紐解いてみました。香川県の瀬戸内海沿岸には、大小の島々が点在しており、本州側との関わりが深いようです。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の愛媛県になるまでの変遷です。

現在、香川県に帰属している江戸時代の藩は、3つしかありません。しかし、現在の形になるまでには色々と歴史ドラマがあったようです。廃藩前後の動きを少し整理しておきます。

版籍奉還直後 明治2.7.1(1869年)
高松藩・丸亀藩・多度津藩・津山藩の飛地・徳川幕府の直轄地(天領)

明治4. 2. 5(1871年)多度津藩廃藩後、倉敷県に編入

廃藩置県 明治4.7.14(1871年)
高松県・丸亀県
津山県(津山藩の飛地)
倉敷県(多度津藩と天領)
同年直後
丸亀県(倉敷県の管轄地を編入)
香川県(高松県と丸亀県が合併)

明治5年(1872年)小豆島西部を香川県に編入
明治6.2.20(1873年)香川県を名東県(後の徳島県)に編入
明治8.9.5(1875年)香川県として名東県から分離
明治9.8.21(1876年)香川県を愛媛県に編入
明治21.12.3(1888年)香川県が復活

あっちに行ったりこっちに行ったり大変ですね。地理的要因や地域文化・住民意識などで食い違いが発生し、香川県として単独の設置を望む声が高まったようです。

高松藩
高松藩(たかまつはん)は、江戸時代に讃岐国を領有した藩です。生駒氏の代は、讃岐一国を領していましたが、松平氏(高松松平家)の代になり半国の東讃地域を領しました。藩庁は、高松城(香川県高松市)に置かれました。
「長宗我部元親」の四国統一後、「豊臣秀吉」による四国征伐で平定後の天正15年(1587年)、「生駒親正」が秀吉から讃岐1国、17万3000石を与えられたことに始まります。親正の子「生駒一正」は、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」において東軍に加担したため、戦後に所領を安堵されました。しかし、第4代藩主「生駒高俊」の代の寛永17年(1640年)のお家騒動(生駒騒動)により改易され、出羽国矢島藩に転封されました。
その後一時、隣国伊予国の3藩、西条藩主「一柳直重」、大洲藩主「加藤泰興」、今治藩主「松平定房」により分割統治されました。
寛永18年(1641年)、西讃地域に「山崎家治」が入り、丸亀藩が興りました。
寛永19年(1642年)、東讃地域に常陸国下館藩より御三家の水戸徳川家初代藩主「徳川頼房」の長男「松平重頼」が12万石で入封し、東讃地域に高松藩が成立しました。頼重は入封にあたり、幕府より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられたといいます。
水戸徳川家の長男でありながら松平姓となっていることが不思議ですよね。頼房は、兄である尾張藩主「徳川義直」・紀州藩主「徳川頼宣」に先だって男子をもうけたことを憚って、頼重を認知せず、幕府への届出が出されたのは弟の光圀が世嗣に決定した後であったそうです。それで、徳川の分家として松平姓を名乗ったようです。
頼房の次男「亀丸」は、幼少期に亡くなっており、三男の光圀が水戸藩主となります。しかし、水戸藩主となった光圀は、後嗣を頼重の子である綱条に譲り、自身の子である頼常を高松藩主に据えました。つまり、本来であれば水戸藩を継ぐべき本家の立場であった頼重の子を水戸藩に招き、本来なら高松藩に行くべき分家の立場の光圀が自分の子を高松藩に行かせたという事です。
頼房は、兄二人に遠慮し長男「松平重頼」を認知しなかった経緯を知っていた「徳川光圀」が家督を正常化したのだろうと私は考えています。さすが、天下の水戸黄門様ですね。
松平氏は入封当初より、高松城下に水道を引き、灌漑用に溜池を造るなど、水利の悪い讃岐の地を整備し、塩田開発を奨励しました。藩財政は、江戸後期に至るまで比較的安定していたましたが、幕末には財政は逼迫しました。
第5代藩主「松平頼恭」は「平賀源内」を起用し、城下の栗林荘(栗林公園)に薬草園を作らせました。また、医師の「向山周慶」に製糖技術を学ばせ、白糖の製造を可能にしました。これにより塩・綿と並ぶ讃岐三白の一つである讃岐和三盆糖の製造技術が確立し、現在も香川県の名産品の一つとなっています。第9代藩主「松平頼恕」は「久米通賢」を登用し、坂出の浜辺に日本最大級の塩田を開発しました。
第11代藩主「松平頼聰」の時代に幕末を迎えます。幕末は宗家である水戸藩が尊皇に傾き、一方で頼聰の正室「弥千代」が「井伊直弼」の娘という立場から、苦しい立場に立たされました。結局、慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」では旧幕府方に就いたため、朝敵となりました。高松藩の庇護を受けていた京都の興正寺は高松に使者を派遣し、責任者の処罰を行って新政府に謝罪することを勧めました。そこで、家老2名を切腹させて恭順の姿勢を示すことになり、頼聰も浄願寺にて謹慎し、同様に第10代藩主「松平頼胤」も江戸にて謹慎しました。一方、高松藩が恭順の見通しであることを知らず、土佐藩を中心とする討伐軍は、丸亀藩・多度津藩を従えて高松に向かっていました。高松藩と縁戚である徳島藩が協力に消極的で、松山藩討伐にも兵力を割く必要があった土佐藩や整備されていない丸亀・多度津両藩では攻略困難と見込まれたところに高松藩が恭順の見通しであることが判明し、1月20日に高松城は無血開城され、直ちに同城に入って接収を完了させました。
興正寺などの取り成しによって2月には、藩主「松平頼聰」に上京・謝罪が命じられ、土佐藩も高松城を返還して撤退しました。その結果、4月15日に新政府への軍資金12万両の献上と引換に宥免されました。これで一件落着とはならず、この一連の動きに対する藩内の不満が高まり、明治2年9月に尊王派の「松崎渋右衛門」が暗殺されます。この事件を頼聰以下の藩首脳は、新政府に「松崎が新政府への反逆を企てた事が発覚した事による自殺」として届け出ました。しかし、松崎と知己である「木戸孝允」らはこれを疑い、弾正台に再調査を命じます。その結果、藩内保守派による殺害と判明し、藩主「松平頼聰」は廃藩置県直前の明治4年7月に閉門処分を命じられるなど、多くの藩士が処分されました。

高松城(旧太鼓櫓跡)

高松城(たかまつじょう)は、別名・玉藻城(たまもじょう)とも呼ばれ、国の史跡に指定されています。

栗林公園

栗林公園(りつりんこうえん)は、紫雲山を借景として6つの池と13の築山を配した大名庭園で、回遊式庭園の南庭と近代的に整備された準洋式の北庭からなっています。面積は、約75haと特別名勝に指定されている庭園の中では最大の広さです。
公園の起源としては、元亀・天正(16世紀末)の頃、豪族佐藤氏(佐藤志摩介道益)によって西南地区(小普陀付近)に小さな別邸として築庭されたのに始まります。その後、寛永2年(1625年)頃に讃岐国主「生駒高俊」によって南湖一帯が造営され、寛永19年(1642年)に初代藩主「松平頼重」に引き継がれ、100年以上をかけて造営を行い、延享2年(1745年)、第5代藩主「松平頼恭」の時代に完成し、「栗林荘」の名で高松藩別邸として使われました。
2009年3月16日発売の「ミシュラン観光ガイド」に「わざわざ訪れる価値のある場所」として最高評価3つ星に選定されました。高松歴史文化道に指定され、2012年には、アメリカの庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」の「2011年日本庭園ランキング」にて、足立美術館(島根県)、桂離宮(京都府)に続く3位を獲得しています。

丸亀藩
丸亀藩(まるがめはん)は、讃岐国西部を領した藩です。藩庁は、丸亀城(香川県丸亀市)に置かれました。
廃藩までの間、生駒氏、山崎氏、京極氏が統治していました。生駒氏は、高松城を本城とし讃岐一国を領していましたが、丸亀藩の歴史の一部として語られることが多いため、ここにも含めます。
天正15年(1587年)「織田信長」と「豊臣秀吉」の下で功のあった「生駒親正」が讃岐国へ封じられ、慶長2年(1597年)に丸亀城を築き始めます。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では、「生駒親正」在国のまま西軍に与して、丹後国田辺城攻めに家臣を代理として派遣しました。子の「生駒一正」は、東軍に与しました。これには、西軍決起時に在坂していたため西軍に付かざるを得なかったという説と、どちらが敗れても生駒氏が存続できるよう配慮した説があります。一正が東軍に与した経緯から生駒氏の所領は安堵されます。
親正は戦後に剃髪し、高野山に入りました。西軍に与した責任を取るためとされてきましたが、関ヶ原で戦闘が行われる前に高野山入りしており、東軍寄りの行動の責任を問われたためとする説もあります。
慶長7年(1602年)に丸亀城が完成し、親正の嫡子である「生駒一正」が居城とし、親正は高松城に居城して讃岐一国を支配します。その後、元和元年(1615年)、一国一城令により丸亀城は破却を命じられます。生駒氏の時代は、第4代藩主「生駒高俊」まで続きますが、寛永17年(1640年)の生駒騒動で改易となり、一時的に隣国伊予国3藩による分割統治となります。
寛永18年(1641年)に「山崎家治」が肥後富岡より西讃に入封し、丸亀城を本城として丸亀藩が立藩します。寛永19年(1642年)に丸亀城の改修に着手し、ほぼ現在の領地となります。山崎氏は3代で断絶し改易となり、万治元年(1658年)には、代わって「京極高和」が播磨龍野藩より入封します。
元禄7年(1694年)に第2代藩主「京極高豊」死去後、五男「京極高或」が、兄3人が早世したため第3代藩主となります。
第5代藩主「京極高中」は、安永9年(1780年)、勘定奉行の「村井忠左衛門」を登用して銀札を発行しました。さらに備蓄米の法を制定し、窮民救済に努めました。また、儒者である「渡辺半八」を登用し、学問所である「正明館」を拡大して学問を奨励し、「福島甚浦」を建設して船舶の利便を図っています。
丸亀藩は、金刀比羅宮への参道である丸亀街道、多度津街道の起点を持ち、参拝客を相手とした観光業は藩財政を大きく潤おしていました。金毘羅街道の一つである丸亀街道の起点の目印として、江戸に住む人々の浄財により、天保9年(1838年)に太助灯篭が作られています。
第7代藩主「京極朗徹」の時代に幕末を迎えます。財政再建のため、奢侈を戒めて倹約令を出し、産業奨励、輸入の制限、不正の厳罰化、上納米の督促、銀札の一部発行停止などを行なっています。幕末の動乱の中では尊王派として行動し、御所警備のためにたびたび出兵しました。慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」では、隣藩の高松藩が朝敵に指名されると、新政府の命令で土佐藩・多度津藩と共に高松藩の追討にあたりましたが、高松藩主「松平頼聰」から新政府に対して赦免を嘆願してもらうように仲介を依頼され、新政府に取り次いで頼聰を赦免させています。

丸亀城

丸亀城(まるがめじょう)は、別名、亀山城、蓬莱城ともいいます。

金刀比羅宮本宮拝殿

金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社です。「こんぴらさん」と呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれます。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は、真言宗の象頭山松尾寺金光院であり、神仏習合で象頭山金毘羅大権現と呼ばれました。現在は、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部です。全国の「金刀比羅神社」「琴平神社」「金比羅神社」の総本宮でもあります。

太助灯篭(太助灯篭)

かつて「金毘羅詣で」で賑わった丸亀港のシンボルです。旧金毘羅五街道・丸亀街道の出発点にあたり、琴平の高灯籠までの 150丁(約12km)の道のりを、参拝客はこの太助灯籠を目印に丸亀港に入港したものです。

多度津藩
多度津藩(たどつはん)は丸亀藩の支藩で、多度津周辺(香川県仲多度郡多度津町)で1万石を領していました。藩庁は、多度津陣屋に置かれました。(前半は、丸亀城内に居館を置いていました。)

「京極高或」の「若死に」による家の断絶を恐れた父「京極高豊」が、高或に宗家を継がせ、異母兄の「京極高通」に1万石を分けるよう遺言しました。高或が3歳で丸亀藩第3代藩主となったため、異母兄である「京極高通」を後見人として幕府に分封を願い出ました。元禄7年(1694年)に1万石の分封が認められ、ここに多度津藩が成立しました。後見人とはいえ高通自身も4歳での封襲であったため、陣屋は構えず、丸亀城内に居館を置きました。高通は1711年(正徳元年)になって実質的に多度津藩主として政務を執行しました。その後、第3代藩主「京極高文」まで丸亀城内に居住しました。
文政10年(1827年)に第4代藩主「京極高賢」は、幕府に陣屋の建設を願い出て認められ、その年に陣屋を構えました。
第6代藩主「京極高典」の時代に幕末を迎えます。慶応4年(1868年)に天領「倉敷」の「倉敷代官所」が「倉敷県」となっており、明治4年(1871年)廃藩置県の同年2月に他藩に先駆けて、倉敷県に編入され、廃藩となっています。

多度津陣屋御厩跡

多度津陣屋蓮堀跡

如何でしたでしょうか。香川県は、全て合わせても18万石程度の石高です。当時としては、愛媛県や徳島県と併合した方が良いと考えても不思議ではありませんね。しかし、高松藩は、水戸徳川家との関わりが強く、他県に属する藩とは別格であるとの意識が、領民や藩士の間にはあったのではないかと推察できます。この事は、格式高い庭園の栗林公園や現在でも全国の信仰を集めている金刀比羅宮の存在からも伺い知ることが出来ます。
また、長男が分家で三男が本家と言う歪な状態を水戸黄門様の代で正常化を図ったのは、お見事です。さすが、先の副将軍「水戸光圀公」にあらせられますね。水戸藩(茨城県)の歴史を紐解くのが楽しみです。

 

バックナンバー

四 国

歴史を紐解く(廃藩置県)- 愛媛県編

九 州

歴史を紐解く(廃藩置県)- 長崎県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 佐賀県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 沖縄県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 鹿児島県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 宮崎県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 大分県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 熊本県編
歴史を紐解く(廃藩置県)- 福岡県編



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です