歴史を紐解く(廃藩置県)- 愛媛県編



今回は愛媛県の歴史を紐解いてみました。ついに四国です。本州に行こうか四国に行こうか、はたまたいっそのこと北海道に飛ぼうかと迷いましたが、薩長土肥の一翼を担う四国に落ち着きました。
四国は、残念ながら一度も行ったことがありません。詳しい地域情報は無理かもしれませんが、出来るだけ興味が沸くように構成していきたいと思います。自分自身も大変興味がありますのでワクワクしています。まずは、愛媛県からです。

下表は、1869年の版籍奉還から現在の愛媛県になるまでの変遷です。

意外にすっきりしています。伊予国全土がそのまま愛媛県になったイメージです。ただ、讃岐国(香川県)と一時併合され、伊予と讃岐を併せて愛媛県となっていた時期があったようです。詳しくは香川県編で見て行こうと思います。

松山藩
伊予松山藩(いよまつやまはん)は、江戸時代、伊予国温泉郡(愛媛県松山市)を中心に久米郡・野間郡・伊予郡などを知行した藩です。藩庁は、松山城に置かれました。一口に松山藩と言っても全国に色々と存在しています。他には、出羽松山藩・武蔵松山藩・宇陀松山藩・備中松山藩があります。藩庁も同様に松山城と称している地域があります。ここでは、当然ながら松山藩=伊予松山藩、松山城=伊予松山城として記載します。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」にて東軍徳川氏に味方した「加藤嘉明」が20万石で立藩しますが、寛永4年(1627年)に陸奥国会津藩42万石に加増転封されます。
代わって、同年に出羽国上山藩より「蒲生忠知」が24万石で入封しますが、嗣子無く死去のため寛永11年(1634年)に蒲生氏は断絶しました。その後、寛永12年(1635年)、伊勢国桑名藩より久松松平家の「松平定行」が15万石で入封します。
江戸初期には経済的に豊かでしたが、寛文・延宝年間(1661年 – 1680年)に干ばつ・洪水などの飢饉に見舞われ、それ以後は財政難が続きました。特に第5代「松平定英」の時代、享保17年(1732年)の「享保の大飢饉」では、領民の餓死者は3,500人にのぼる甚大な打撃を受けました。この餓死者の中に藩士は1人も含まれていませんでした。定英は領民を蔑ろにしたとして、幕府より「裁許不行届」と咎められ差控え(謹慎)の処分を下されました。
このような財政難の中、第12代藩主「松平勝喜」は、天明4年(1784年)に落雷により焼失した松山城天守を、安政元年(1854年)に再建しています。また、第13代藩主「松平勝成」は、安政6年(1859年)に「勝海舟」の設計により、外国船舶に対処するため武蔵国神奈川(横浜市神奈川区)に砲台の築造を始め、神奈川付近の警備を行いました。幕末は親藩のため幕府方に付きました。特に長州征伐では先鋒を任され出兵し、財政難の極致に陥りました。この際に占領した周防大島において、住民への略奪・暴行・虐殺を行ったことが後に長州藩閥から冷遇される要因となります。
慶応3年(1867年)に第13代「松平勝成」は、かねてより隠居を願い出ており、それが許され家督を養子「松平定昭」に譲り、定昭が第14代藩主となります。慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」では、定昭と藩兵は大坂梅田に兵300を配置し、梅田方面の警備に当たっていました。しかし、「徳川慶喜」が、江戸に引き上げたと知り帰国します。この戦いにより朝敵として追討され、城内では先代藩主「松平勝成」の恭順論と現藩主「松平定昭」の抗戦論が対立します。1月27日に戦わずに城を明け渡して、土佐藩の占領下に置かれました。なお、円滑な開城が実現した背景には、碩学である「三上是庵」による恭順・抗戦両派への説得や長州藩の動きを警戒する土佐・松山両藩の思惑が一致したとされています。5月12日に松山藩は、財政難の中15万両を朝廷に献上し、藩主「松平定昭」は蟄居して先代藩主である勝成を再勤させる事や家老などの重臣の蟄居・更迭などを条件に赦され、5月22日に松山城が返還されました。こうして勝成が第15代藩主として幕末を迎えます。その後、明治政府より「松平」の姓から旧姓である「久松」に復するよう命が下りました。明治2年(1869年)に定昭が蟄居を免じられ、明治4年(1871年)には再び家督を相続し、松山藩知事となります。
第15代藩主「松平勝成」の時代に幕末を迎えていますが、廃藩となった明治4年(1871年)の最後の藩主は、第16代藩主「松平定昭」です。
元禄16年(1703年)2月には、幕府から江戸松山藩邸での預かりを命じられていた赤穂浪士10名が切腹した話は有名です。現在、江戸松山藩邸はイタリア大使館として使用されています。

松山城

松山城(まつやまじょう)は、別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)とも呼ばれ、現在は、城跡の主要部分が公園として整備されています。大天守(現存12天守の1つ)を含む21棟の現存建造物が国の重要文化財に、城郭遺構が国の史跡に指定されています。

江戸松山藩邸跡(イタリア大使館)

昭和14年(1939年)に当時の駐日イタリア大使によって、大使館敷地内に「大石主税ら十士切腹の地」の碑が建立されました。揮毫は「徳富蘇峰」によります。毎年10浪士の命日には、駐日イタリア大使がそこで供養を行っています。

今治藩
今治藩(いまばりはん)は、伊予国北中部と島嶼(とうしょ)を領有した藩です。藩庁は、今治城(愛媛県今治市)に置かれました。島嶼(とうしょ)とは、離島の事です。
豊臣時代に伊予国板島(後の宇和島市)で、7万石を領有していた「藤堂高虎」は、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の戦功により20万石に加増されました。同時に今治市内にあった国分山城に移り今治藩が立藩しました。しかし、国分山城は中世山城で城下町造営が不便なため、慶長7年(1602年)に今張浦に近世城郭建設と翌年に城下町建設に着手し、慶長9年(1604年)に現在の今治市街地となる城と城下町を完成させました。
高虎は、慶長13年(1608年)に伊賀国・伊勢国にて22万石に加増の上、領地替えとなり津藩に転出しました。しかし、越智郡2万石が残されたので、養子である「藤堂高吉」が今治城主となり残りました。その後、寛永12年(1635年)に伊賀国名張に領地替えとなり藤堂氏の支配は終了しています。同年、伊勢国桑名藩より「松平定行」が伊予松山藩15万石に転封となると同時に、その弟「松平定房」が、伊勢長島城7千石より3万石に加増され今治に入りました。寛文5年(1665年)に定房は、江戸城大御留守居役に任ぜられ、役料として武蔵国・下総国・常陸国から1万石を加増され4万石となります。
第2代藩主「松平定時」は遺言で、嗣子「松平定陳」に、弟「松平定直」に関東領地のうち5千石を分知するよう遺しました。このため石高は3万5千石となりました。
元禄11年(1698年)には、定直の関東領地5千石が収公となり、代替として伊予国内の宇摩郡5千石を与えられました。
藩の財政を支えた産業として、塩・白木綿・甘藷等があります。塩田開発を行い、塩を特産とし、白木綿の生産を奨励しました。
第7代藩主「松平定剛」は、文化2年(1805年)に藩校の前身である「講書場」を構えました。文化4年(1807年)には、「講書場」を拡充し、藩校「克明館」となっています。
第10代藩主「松平定法」の時代には幕末を迎えます。定法は、文久3年(1863年)に軍備を洋式に改革し、沿岸に砲台を建造しました。また、時勢を積極的に見極めようと、京に長く駐在し、幕府・勤王派の周旋に尽力しました。慶応元年(1865年)の第二次長州征伐の際、情勢を見極めた上、朝廷側に付くことを決意しました。慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」では、いち早く京に兵を進め御所の警護を行いました。その後も藩兵の一部は、官軍として残り、戊辰戦争では奥州まで転戦しました。今治藩の宗家であり隣藩でもある松山藩が、将軍家の親族であることを理由に「鳥羽・伏見の戦い」まで佐幕を通したこととは大きく異なりました。明治元年(1868年)に太政官布告により松平氏を返上し、菅原姓久松氏に復姓しました。

今治城

今治城(いまばりじょう)は、別名「吹揚城(吹上城)」とも呼ばれ、昭和28年(1953年)に愛媛県史跡に指定されています。

初代今治藩主の定房と松山藩初代藩主の定行は、実の兄弟であり「徳川家康」の異父弟にあたる「松平定勝」の子で、共に久松松平家の系譜です。しかし、幕末には、今治藩は勤王派、松山藩は佐幕派でした。やはり何代も続けば他人と同じという事ですね。また、元NHKアナウンサーの松平定知氏は、松山藩久松松平家の分家旗本の子孫にあたります。

小松藩
小松藩(こまつはん)は、伊予国東部に所在した藩です。藩庁は小松陣屋(愛媛県西条市小松町)に置かれました。
寛永13年(1636年)に松山藩24万石の藩主となった「蒲生忠知」は、松山藩の項で触れておりますとおり継嗣なく没したために改易され、その所領は分割されました。このうち旧松山藩領東部に当たる西条6万8600石は、伊勢国神戸藩主「一柳直盛」に与えられましたが、直盛は采地に赴く途中の大坂で没しました。直盛の遺領は、男子3人によって分割され、伊予西条藩主を継いだのは長男「一柳直重」で、西条周辺の3万石を領しました。次男「一柳直家」は、川之江一帯の1万8600石に播磨国小野の飛び地領1万石を加え、都合2万8600石を領し、川之江藩(小野藩)が成立します。そして、三男の「一柳直頼」には、西条の西1万石が分与され、そこに小松陣屋を構えて小松藩が成立します。小松の地名は付近に背の低い松が群生していたことに由来すると言われています。
こうして伊予国東部には、西から小松藩・西条藩・川之江藩(小野藩)と一柳家の兄弟の所領が連なることとなりましたが、寛永19年(1642年)に川之江藩(小野藩)の直家が没すると伊予国内の所領1万8600石が幕府に没収されて天領となりました。播磨国小野の飛び地領1万石は、播磨国小野藩として直家の系統を藩主として廃藩置県まで続いています。寛文5年(1665年)には、西条藩の直重の子「一柳直興」が改易され、小松藩のみが残ることとなりました。
寛文年間から元禄年間(1661年 – 1704年)にかけて、第2代藩主「一柳直治」の治世により、広江村(西条市広江)で干拓を行うなどの300町歩の新田開発を行いました。第3代藩主「一柳頼徳(直卿)」は、書の達人で当時の大名の中でも随一と絶賛されています。
享保17年(1732年)の享保の大飢饉では、小松藩でも救済を必要とする「飢人」が住民の4割を超える事態となりましたが、隣藩の松山藩が多くの餓死者を出したのに対し、餓死者は皆無でした。小藩であるがゆえに領内の不作の兆候の把握が早く、対策が立てられたことと日頃からの備蓄米が功を奏したことによるものです。その後も天災や飢饉に際し、領民の状況の把握と救済米の支給など、きめ細やかな対応を行っています。18世紀後半には、大規模な逃散や、首謀者の領外追放で幕を閉じた騒動などはあるものの、流血を伴う事件は記録されていません。
第7代藩主「一柳頼親」のもと、享和2年(1802年)には、奉行「竹鼻正脩」によって藩の学問所「培達校」が設置されました。翌享和3年(1803年)には、朱子学者「近藤篤山」を招聘し、「養正館」と改名しています。
石高1万石の小藩で、江戸時代初期の1636年から廃藩置県まで、外様大名の一柳氏が9代約230年にわたって治め、第8代藩主「一柳頼紹」の時代に幕末を迎えます。慶応4年/明治元年(1868年)の戊辰戦争において、小松藩は新政府軍に加わり、総勢51人が出兵しました。小松藩兵は京都で明石藩・小野藩・三日月藩・足守藩などの諸藩兵と合流し、越後国の「北越戦争」に出陣、新潟・長岡・村上などを転戦しました。この中で、戦死者1名・重傷者1名・軽傷者1名を出しています。
明治2年(1869年)6月の版籍奉還にともない、「一柳頼紹」は藩知事に任命されましたが、間もなく病没します。第9代藩主「一柳頼明」が、藩知事を継ぎ、明治4年(1871年)に廃藩置県によって、小松藩は廃止されました。
頼紹で幕末を迎えていますが、廃藩となった明治4年(1871年)の最後の藩主は、第9代藩主「一柳頼明」です。

小松陣屋跡

太鼓櫓(明勝寺に移築)

養正館跡

通常、藩校は藩士子弟とその関係者のみが通うものですが、小松藩「養正館」においては藩士の子弟に留まらず、農家や商家の者であっても入校を許しました。これは当時としては画期的な方針でした。

初代藩主の「一柳直頼」は三男でもあり、小さな領地しか与えられませんでした。しかし、石高は少なくとも領民を財産と考え、大事にしたのではないかと私は考えています。藩主と領民が良好な関係にあったが故に飢饉においても一人の餓死者も出していません。また、そうした関係は末代まで受け継がれ、藩士の子弟に留まらず、農家や商家の者であっても藩校「養正館」への入校を許したことからもその様子をうかがい知ることが出来ます。

西条藩
西条藩(さいじょうはん)は、江戸時代に伊予国に存在した藩です。藩庁は西条陣屋(愛媛県西条市)に置かれました。
初代藩主は、小松藩の項で触れておりますとおり「一柳直盛」ですが、直盛は采地に赴く途中の大坂で没し、長男「一柳直重」が継いでいます。一柳家の支配は3代続き、第3代藩主「一柳直興」は、職務怠慢や失政などを理由として改易処分を受け、西条は一時幕府直轄地となります。その後5年の空白を経て、寛文10年(1670年)紀伊国紀州藩初代藩主「徳川頼宣」の三男「松平頼純」が、紀州藩の支藩として3万石で入封します。これは、紀州徳川家(紀州藩主家)が絶えた場合に備えたと考えられています。
第2代「松平頼致」は、紀州藩主「徳川吉宗」が将軍となったため紀州徳川家・紀州藩主を継ぎました。西条藩松平家は参勤交代を行わない定府の大名でした。
元禄7年(1694年)には、藩士の「菅野六郎左衛門」と「村上庄左衛門」が高田馬場の決闘を行い、「堀部武庸」の助太刀をした話は有名です。
松平家の支配は10代続き、「松平頼英」の時代で幕末を迎えます。
藩主松平家は、徳川一門の親藩でありながら明治維新の際には、いち早く新政府に恭順の姿勢を示し、官軍として戊辰戦争に参戦します。

西条陣屋跡(大手門)

西条陣屋跡(水堀)

西条陣屋跡は、愛媛県立西条高等学校の敷地として使用されており、周囲は往時と同様に水堀で囲まれています。

宇和島藩
宇和島藩(うわじまはん)は、伊予国宇和島(愛媛県宇和島市)周辺を治めた藩です。藩庁は、宇和島城に置かれました。
平安時代の宇和島は、宇和島湾の西方約28kmの沖合に日振島と呼ばれる島があり、海賊の巣窟でした。「藤原純友の乱」では、純友配下の海賊が根拠地としていました。天慶4年(941年)に純友は、大宰府を攻めて占領しましたが、「小野好古」率いる朝廷軍の追討を受けて撃破され、伊予に逃亡します。しかし、「橘遠保」に捕縛され、息子の「重太丸」とともに斬殺されて「純友の乱」は平定されました。
室町時代になると、宇和郡は室町幕府の命により藤原北家傍流の伊予「西園寺氏」の公経が知行国守となります。
戦国時代になると、「大内義隆」「毛利元就」「大友宗麟」「土佐一条氏」「長宗我部氏」など周辺諸大名により宇和島地方は侵略を受け、「西園寺氏」はこれらの勢力と敵対と同盟を繰り返しながら存続しました。「長宗我部元親」の四国制覇の際、「西園寺公広」は宇和島で抵抗しましたが、敗れて降伏します。直後に「豊臣秀吉」の四国攻めにより元親は降伏しますが、土佐一国を安堵されます。伊予は、四国平定で功績があった「小早川隆景」の領土となり、南伊予支配は、隆景の養子で異母弟の「小早川秀包(毛利秀包)」に任され、家臣の「持田右京」が実際の支配を担当しました。隆景は、九州平定でも戦功を上げ、筑前・筑後に新たな領土を与えられて移封となります。同じく九州平定で戦功を上げた秀吉の家臣「戸田勝隆」が、伊予大洲10万石(実際は7万石)の領主となりました。ところが戸田は、隆景と違い苛酷な統治を行い、元領主の「西園寺公広」や土居・観修寺・法華津ら西園寺旧臣をことごとく追放し、後に公広を謀殺しました。戸田は合戦には強いが、殺人を平気で行う狂人だったとされ、その統治では一揆がたびたび起きています。「清良記」による脚色説も根強くありますが、戸田は、一揆を鎮圧すると反徒の大量虐殺を行ったり、板島(宇和島)城下で殺人・強奪・強姦を行ったりしたといいます。ただし異説もあり、日振島の年寄に対して年貢を免除したり、一揆鎮圧後に旧城主に懐柔策を取っていたり、荒地の開発や紅花の栽培奨励とその買上を行ったりと、戸田なりに民政の安定と殖産振興に尽力していました。戸田は秀吉の朝鮮出兵が始まると、「福島正則」の副将格として出兵しましたが、この際に宇和島地方の社寺の銘木・霊木まで伐採して船材としたということから、暴君として非難されています。文禄の役では講和交渉を務め、帰国中に巨済島で発病して文禄3年(1595年)に狂死し、嗣子がなく戸田家は断絶しました。
戸田家が断絶した後、宇和郡7万石の領主として秀吉の家臣「藤堂高虎」が入りました。高虎は6年を費やして板島(宇和島)城築城工事を行っています。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で高虎は東軍(徳川方)として参戦し、その功績により戦後、「徳川家康」より伊予今治藩20万石に加増移封され、板島(宇和島)には、高虎の従弟「藤堂良勝」が城代として置かれました。高虎は、家康の下で順調に出世を遂げ、慶長13年(1608年)に伊勢津藩22万石の藩主として加増移封されました。その後、伊勢津藩5万石の藩主だった「富田信高」が、「徳川秀忠」から宇和郡10万1,900石を与えられて板島丸串城主として入ったことにより、宇和島藩が立藩します。(富田信高の時代ではなく、伊達秀宗の入領で立藩とする説もあるようです。)
「富田信高」の正室は、「宇喜多忠家」の娘(直家の姪・秀家の従妹)です。この正室は、「関ヶ原の戦い」で「毛利秀元」軍相手に奮戦し、敵兵数名を自ら突き伏せたと伝わる女武者で有名です。ところが、この正室の兄とも弟とも伝わる「坂崎直盛」が、甥の「宇喜多左門」と対立して事件を起こしました。直盛が寵愛した美童が、左門と密通したため直盛が激怒し、家臣に美童を斬らせたのが発端です。左門は、この家臣を斬って素早く逃げ、叔母にあたる信高の正室を頼って、当時、津藩主であった信高に庇護されます。これを聞いた直盛は、信高に左門を差し出すように求めましたが、信高がとぼけたために直盛は激怒し、武力衝突寸前にまでに至りました。幸い家臣の諫言があって留まりますが、直盛は大御所家康と将軍秀忠に訴えて、左門の引渡しを求める始末でした。左門は、信高の下を辞去して肥後熊本藩主「加藤清正」、日向延岡藩主「高橋元種」の下に身を寄せました。この際に信高の正室は、延岡にいる左門に300石の米を送りましたが、左門の家臣で、行動をともにしていた「篠原某」が裏切り、左門に宛てた信高の正室の書状を盗んで直盛に帰参を願い、直盛はこの書状を証拠にして再度、家康と秀忠に訴え出ました。
慶長18年(1613年)、家康・秀忠同席の前で直盛と信高・元種は対決し、直盛は勝訴しました。左門隠匿が勝訴の原因になったとされています。信高・元種は改易となり、信高は奥州磐城平藩主「鳥居忠政」預かりとされ、伊予に帰国することもなく配所に向かわされました。騒動の原因となった左門は獄死したとも斬殺されたともいわれています。
つまり、三角関係のもつれから将軍家をも巻き込んだあまりに見苦しい騒動で、将軍家としても富田家には一国を任せられないと判断したのでしょう。
富田家の改易に関しては、「大久保長安」事件による連座説や富田家の塩成掘切工事不正説がありますが、前者はともかく後者はかなり疑わしいとされています。
富田家改易により宇和島は幕府直轄領となり、幕府代官として「藤堂良勝」が入りました。富田家中では、宇和島を退去する際に年貢未徴収のために困っていましたが、蔵米3000俵を良勝が貸し与えて残らず退去させました。その後、信高は寛永10年(1633年)に小名浜(福島県いわき市)において死去しました。富田家は、信高の長男「富田知幸」が水戸藩士として、次男「富田知儀」が7,000石の幕府旗本として存続しました。藩主大名としての立場は奪われたものの家名は存続したという事ですね。
宇和島市内における富田家ゆかりのものとして佐伯町と佐伯橋があり、これは富田家家老の「佐伯権之助」の屋敷があったことからこの町名と橋の名がつけられています。また、信高の正室の肖像画が宇和島市大宮町(旧北町)の真宗大谷派最勝山立正寺(瓦寺)に所蔵されています。なお、この立正寺は南予最初の瓦葺きの寺院であったと伝わっています。
富田家改易後、慶長19年(1614年)、「伊達秀宗」が「徳川秀忠」より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)に板島丸串城(宇和島城)に入城したことから、宇和島藩が正式に成立しました。前述のとおり、これをもって立藩とする説が存在することに対し、富田家のあまりに見苦しい騒動に、歴史に残したくないとする人たちが、曖昧にしていったのではないかと私は考えています。
「伊達秀宗」は、戦国の世に「独眼龍」と称された仙台藩主「伊達政宗」の庶長子(側室の長男)です。政宗と正室愛姫との間に男子が生まれず、秀宗は周辺も認める政宗の世子でしたが、天下の覇権が豊臣家から徳川家に移り、政宗と正室愛姫との間に「伊達忠宗」が生まれたこともあって、秀宗はその立場が問題になりました。徳川家に秀宗の身が成り立つように政宗が嘆願し、大坂冬の陣で政宗と秀宗がともに徳川方として従軍すると、幕府は政宗の戦功と秀宗の忠義に報いるとの理由で宇和島藩を与えました。宇和島藩伊達家は仙台藩の支藩ではなく新規に国主格大名として取り立てられ、将軍「徳川秀忠」より「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶ」ように命じられました。ただし、幕府の有力外様大名統制政策の一つで、伊達家を東西に分断し、豊臣家に近い秀宗を僻遠の四国に遠ざける必要があったためともされています。秀宗入府のときの家臣団は米沢時代の「伊達57騎」の中から選ばれたものだったため、仙台藩とは直接関係がない成立でしたが、仙台藩は支藩と主張し、特に秀宗の時代はもめごとが絶えませんでした。なお、この57騎は政宗が選抜したといわれています。「伊達政宗」としては、戦国時代を戦い抜いてきた武将として、忠宗に何事かあれば秀宗を復帰させようとの思惑があったのではないかと私は考えています。時の主君の名前を一字もらっており、将軍「徳川秀忠」でさえ豊臣秀吉の名前をもらっています。もしかしたら隙あらば、まだ天下を狙っていた可能性もあります。
宇和島藩は、秀宗が入府するまで、短期間で領主・藩主の交替が続いたために疲弊しており、「桜田元親」を侍大将、「山家公頼」を惣奉行として始まった藩政は前途多難でした。元和3年(1617年)頃に板島丸串城は宇和島城と改名し、地名も板島から宇和島へと改名されました。藩財政は非常に苦しく、秀宗は宇和島入府にあたって父の政宗から創業資金として黄金3万両(6万両説あり)を借用しており、返済をめぐって藩論が紛糾することになりました。山家は仙台藩と政宗の関係を重視し、政宗隠居料の名目で毎年3万石を返済にあてることにし、元和4年(1618年)には、宇和島城下の北口に仙台藩の役所が置かれて、寛永12年(1635年)まで18年間、3万石を返済にあてました。ただし、政宗は寛永13年(1636年)の死去まで隠居していないため、これは事実上宇和島藩領を仙台藩に分知したようなものであり、宇和島藩士の多くが減俸を余儀なくされることになりました。この献策を行なった山家は、「桜田元親」らに大いに恨まれました。また、秀宗も借金返済問題をめぐり、山家と対立するようになりました。
つまり宇和島藩10万石の内、3万石が仙台藩に分知していることと同じであり、実質7万石の中から宇和島藩士の給料を捻出しなければならず、侍大将の「桜田元親」は大いに不満であったという事ですね。
元和6年(1620年)、幕命により大坂城石垣工事を担当することになり、山家と桜田は奉行として大坂に赴きました。しかし、工事の進捗状況の報告に関して山家と桜田の間に食い違いがあり、桜田のでっちあげにより山家は宇和島に帰国し謹慎することになりました。そして、秀宗の命令を受けた桜田一派により山家とその息子ら一族は殺害されました。事件を知った政宗は激怒して秀宗を勘当し、さらに幕府に対して「秀宗は大虚けで到底10万石を治める器にあらず。召し上げてほしい。」(和霊騒動)と幕府に願い出るほどでした。これに対しては、秀宗正室の兄である「井伊直孝」と「土井利勝」による政治工作により収拾されています。
政宗としては、秀宗の実が成り立つように配慮してきたこともあり、忠義を尽くしてきた山家を蔑ろにした秀宗が許せなかったとしても不思議ではありません。
宇和島藩の藩政は、秀宗期にほぼ確立しました。ただし、肝心の秀宗は寛永14年(1637年)に中風に倒れ、実際の藩政は次男で継嗣の「伊達宗時」が担当しました。宗時は寺社造営、植樹、領内検地を実施し、この検地を基にして定免法を採用し、さらに家臣の知行を従来の給地制(地方知行制)から蔵米制(米現物支給)に移行しました。しかし、承応2年(1653年)に宗時は早世し、弟の宗利が継嗣となります。
宗時の死後、五男「伊達宗純」が、秀宗による3万石のお墨付き(分知状)により明暦3年(1657年)、秀宗の隠居後、宗利が正式に第2代藩主に、宗純が正式に伊予吉田藩3万石の初代藩主となりました。これには経緯があり、吉田藩の項で詳述します。
宗利の時代は36年間に及び、秀宗・宗時時代の統治を踏襲して諸制度の整備充実を図りました。この時代は後世の模範になったとされていますが、一方で日照り、落雷、洪水、大火、土佐藩や吉田藩との境界線争いなどが相次ぎ、貞享4年(1687年)頃には、藩財政が逼迫して衣服や食事を粗末にし、元禄元年(1688年)には、5か年計画を立てるに至りました。元禄6年(1693年)、宗利は宗贇に家督を譲って隠居しました。
第3代藩主「伊達宗贇」は、仙台藩の第3代藩主「伊達綱宗」の三男で、宗利の婿養子です。元禄9年(1696年)、吉田藩分知で7万石になっていた宇和島藩は高直しが行われて再度10万石となりました。ただし、藩や商人で進めていた新田開発や収穫のない荒田まで加えて無理矢理10万石にしたようなものであり、しかも、幕府の普請役では10万石格を負担しなければならなくなり、湯島聖堂の造営等により藩財政はますます逼迫しました。
正徳元年(1711年)に宗贇は死去し、三男の村年が第4代藩主となります。この時代には旱魃・飢饉・風水害が続き、藩札の発行と被災者の救済、植林・植樹から、難民の緊急雇用対策のための土木事業、倹約令、人材登用など様々な藩政改革が試みられましたが、肝心の村年が享保20年(1735年)に31歳で急死しました。
第5代藩主「伊達村候」は村年の子で、在任60年間の長期にわたった中興の祖です。寛保3年(1743年)に倹約令を発し、藩政改革に乗り出しました。学問・武芸を奨励し、寛延元年(1748年)に藩士と庶民共学の藩校「内徳館(のちの明倫館)」を開きました。また、木蝋を藩の重要産品とし、紙を専売としました。さらに農政改革をはじめ、博打や好色の禁止、役職勤務の見直し、風俗矯正や奢侈の禁止から租税改革など大規模な藩政改革を行ないました。これらの改革は成功しましたが、天明の大飢饉により藩は深刻を極め、疲弊した藩では一揆や村方騒動が相次ぎ、その最中の寛政6年(1794年)に村候は死去しました。なお、村候死去の前年に吉田藩での紙の専売をめぐって「武左衛門一揆」が起こり、一揆の解決に宇和島藩が当たっています。
第6代藩主には、村候の子「伊達村寿」が就任し、有能な藩士の登用、倹約令と歳出抑制、商品作物栽培や養蚕等による歳入拡大、被災民救済などを中心とした藩政改革を行いました。しかし、この時代にも風水害が8回、旱魃が1回と天災が相次ぎました。また、文化9年(1812年)には「萩森騒動」と呼ばれる財政再建をめぐる重臣の意見の対立から刃傷事件が発生しています。さらに文化5年(1808年)夏に「伊能忠敬」が宇和島に入って測量を行っていますが、この伊能一行の接待は幕命によりかなり大仰に行われ、宇和島にかなりの負担をかけ、藩も領民も不時の出費に大いに苦しんだといわれています。
村寿は文化14年(1817年)から病気により継嗣の「伊達宗紀」に藩政を代行させ、文政7年(1824年)に隠居し、宗紀が第7代藩主に正式に就任しました。宗紀も5か年にわたる倹約をはじめ、奢侈の禁止や文学の奨励、産業の振興と統制、人材の育成などを中心とした藩政改革を行いました。宗紀は長男と次男を早くに失い継嗣がなかったため、旗本山口家の出身で祖父「山口直清」が村候の次男だったことから養子に迎えられることになったのが「伊達宗城」です。
宗城は、前藩主からの殖産興業を引き継ぎ、さらに西欧化を推し進めて富国強兵政策をとりました。「高野長英」「村田蔵六(後の大村益次郎)」を採用しています。また、幕政にも関与し、福井藩主「松平春嶽」、土佐藩主「山内容堂」、薩摩藩主「島津斉彬」と並び幕末の四賢侯と称されました。斉彬を除く他の賢侯同様、「井伊直弼」による「安政の大獄」では、将軍継嗣問題で一橋派に与したために隠居謹慎を余儀なくされ、第9代藩主には、宗紀の三男で宗城の養子の「伊達宗徳」が就任し、幕末を迎えます。ただし、宇和島藩政の実権は宗城が大半を掌握し、宗紀がそれを補佐し、宗徳は飾りに近い立場でした。また、宗紀・宗城・宗徳3代の藩主妻子に家臣と奥女中が付いたため、藩財政はさらに逼迫することになりました。
「桜田門外の変」で井伊が暗殺されると宗城は表舞台に復帰し、孝明天皇に拝謁して国事に奔走しました。以後、宗城は幕府と朝廷の間を渡り歩きながら幕末を駆け抜け、戊辰戦争では、新政府の議定(新政府軍参謀兼務)に任命されましたが、「徳川慶喜」が朝敵になると薩長の陰謀であるとして「山内容堂」とともに議定を辞任しました。以後、宗城は非戦中立の立場をとりました。これは藩財政が枯渇し、町人や農民から献金を募らねばならないほどであり、また、支藩の吉田藩主「伊達宗孝(宗城の実弟)」が、佐幕派として行動したため宗城はその説得に当たらざるを得なくなっていたためでした。しかし、仙台藩13代藩主「伊達慶邦」が奥羽越列藩同盟の盟主となったために逆賊になると、縁戚にあたる宗城(慶邦の養子は宗城の次男宗敦)は、仙台藩存続に奔走し、使者を送って降伏を勧めるなどしました。
明治時代になると、宗城は海外事情に通じていたことから新政府の外国掛・外国事務総督・外国官知事となりました。明治4年(1871年)、宗城は全権大使として日清修好条規の締結に当たりました。その後、廃藩置県により宇和島藩は廃藩となります。
宇和島藩は幕末においては宗紀・宗城ら藩主の存在が大きく、一方で宇和島藩が明治政府で有力な藩閥を持てなかったのは、幕末において流血沙汰がほとんどなかったためとされています。薩摩・長州・土佐いずれも藩内抗争や討幕戦争で多くの藩士を失っていますが、宇和島藩だけは、宗城の強力な指導力の下で藩論が統制されて脱藩者も数名ほど、対外戦争でも常に中立を保つなど平穏を保ったためとされています。

宇和島城

宇和島城は、標高74メートルの丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸を中腹に配置されています。麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接した「海城(水城)」となっています。

こうして見ていくと宇和島藩はトラブル続きですね。何とか幕末まで繋がったという印象です。「伊達村候」や「伊達宗城」などの優秀な藩主が出ているにもかかわらず、藩の財政は好転せず、再三にわたりトラブルに見舞われています。江戸時代以前の「藤原純友」率いる海賊や「戸田勝隆」の悪行の怨念としか言いようがありませんね。「伊達政宗」に対する秀宗の親不孝が末代まで祟ったとも言えそうです。

吉田藩
伊予吉田藩(いよよしだはん)は、宇和島藩の項で少し紹介しておりますとおり、明暦3年(1657年)、宇和島藩の初代藩主「伊達秀宗」の五男「伊達宗純」が、宗藩より3万石を分知されて立藩した支藩です。三河国の吉田藩と区別するため伊予吉田藩と呼ばれました。藩庁は、伊予吉田陣屋(愛媛県宇和島市吉田町)に置かれました。
「伊達宗時」の死後、秀宗の五男で宗時と宗利の異母弟にあたる宗純が秀宗による3万石のお墨付き(分知状)を持ち出し、宇和島藩では、「和霊騒動」以来の騒動が起こりました。これには秀宗の縁戚で幕府の宿老である「井伊直孝」、仙台藩の実力者「伊達宗勝」を巻き込み、さらに宗純や配下の家臣らによる陰謀などもあったとされています。結局、直孝の説得により宗利が折れざるを得なくなり、宗純に3万石を分知して伊予吉田藩を創設しました。しかし、吉田藩領の主要部分は肥沃な穀倉地帯の上、飛び地を有していたため、宇和島藩との境界線が複雑になり、領地の帰属をめぐっての争いが絶えませんでした。明暦3年(1657年)に秀宗は隠居し、宗純が正式に伊予吉田藩3万石の初代藩主となりましたが、宗利は吉田藩創設にあたり、高禄の家臣を宗純に押し付けるという報復に出たため、両藩の反目は長く続くことになります。
この3万石分知の経緯については諸説あります。秀宗は宗純を寵愛しており、父「伊達政宗」が死去するまで支出していた隠居料3万石を宗純のために分知したと一般に言われています。一方で、2人の兄が相次いで早逝するなかで、世継となった三男「伊達宗利」を妬んだ宗純が、仙台藩の「伊達宗勝(政宗の十男で秀宗の異母弟)」と共謀し、秀宗の遺言書を偽造したとも言われています。当時の秀宗の病状は悪く、筆を取るのもままならない状態であったとして、宗利は不審の念を呈する書簡を仙台藩第2代藩主「伊達忠宗」に送っています。なお、宗勝は後の伊達騒動の首謀者として断罪されていることも一考に価します。結局、彦根藩主「井伊直孝」の仲裁により3万石分知は果たされましたが、吉田伊達家と宇和島宗家は、領地の帰属を巡って激しく対立しました。
要するに兄弟による相続争いを親戚にあたる「井伊直孝」が仲裁し、何とかまとまったものの兄弟の確執は続いたという事ですね。これも伊達政宗の祟りかもしれません。
両藩の確執は、元土佐藩浪人の身から吉田藩の家臣となり専横を奮った「山田仲左衛門」を巡る一件(山田騒動)に仙台伊達家の指示で宇和島藩が介入するまで続きました。以後、吉田藩に対する宇和島藩の発言権は大きくなりました。
第7代藩主「伊達宗翰」は、宇和島藩主「伊達村寿」の子、第8代藩主「伊達宗孝」も宇和島藩主「伊達宗城」の実弟で、いずれも養子として藩主となっていることから、この事件を機に宇和島藩に従属し、支藩的扱いを受けていたと考えられます。
享保の大飢饉では大被害を受け、2万7,000石の損失がありました。さらに幕府の公役負担などにより財政は苦しくなります。このため、吉田藩は重税を強いて、さらに製紙を専売化するなどしましたが、このために寛政5年(1793年)に吉田藩最大の一揆である「武左衛門一揆」が起こり、藩は百姓の要求を受け入れて製紙の専売を取りやめました。寛政6年(1794年)には、藩校「時観堂」を創設し、「森退堂」を登用しました。
第8代藩主「伊達宗孝」の時代に幕末を迎えます。実兄「伊達宗城」と不仲だったことから佐幕派として行動し、慶応4年(1868年)戊辰戦争で幕府側に与したことに責任を取る形で隠居となったため、宗孝と宗城の実兄である旗本「山口直信」の仲介で、その次男が養子として家督を継ぎ、第9代藩主「伊達宗敬」となり、新政府より許されています。
宗敬は、明治2年(1869年)の版籍奉還で吉田藩知事に任じられ、藩校「時観堂」を「文武館」と改称して文武を奨励しました。明治4年(1871年)の廃藩置県で廃藩となり藩知事を免官されています。

吉田陣屋跡(簡野道明記念吉田町図書館)

陣屋址は昭和63年(1988年)に伊予吉田藩士の子として生まれた漢学者「簡野道明」を記念して建てられた「宇和島市立簡野道明記念吉田町図書館」が陣屋風の建物として建てられ、周囲には石垣が一部残っています。

大洲藩
大洲藩(おおずはん)は、伊予国大洲(愛媛県大洲市)を中心に南予地方北東部から中予地方西部の伊予郡(伊予市を中心とした地域)などを領有した藩です。藩庁は、大洲城に置かれました。
江戸時代初期の大洲は「藤堂高虎」の所領であり、大洲城主として「丹羽長秀」の子で高虎の養子「藤堂高吉」が在城しました。慶長13年(1608年)に高虎は伊勢国津藩に転封となりましたが、大洲は高虎預かりの地のままでした。しかし、同年、「脇坂安治」が淡路国洲本藩より5万3千石で入府し、大洲藩が立藩しました。
第2代藩主「脇坂安元」は、元和3年(1617年)に信濃国飯田藩に転封となりました。同年、「加藤貞泰」が伯耆国米子藩より6万石で入府しました。
元和9年(1623年)、貞泰が跡目の届け出をしないまま急死しましたが、長男「加藤泰興」が将軍「徳川秀忠」に御目見し、相続を認められました。その際、弟の泰但(後の直泰)は1万石分知の内諾を得て支藩として新谷藩が成立しました。これがきっかけとなり寛永16年(1639年)まで、お家騒動が続き、結局「内分分知」ということで決着しました。
加藤家には好学の気風があり、藩もこれに倣い好学・自己錬成を藩風としました。初期の大洲藩からは儒学者の「中江藤樹」が出ています。
第13代藩主「加藤泰秋」の時代に幕末を迎えます。大洲藩は勤王の気風が強く、幕末は早くから勤王で藩論が一致していました。このため勤王藩として、慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」でも小藩ながら参陣し、活躍しました。また、「坂本龍馬」が運用したことで知られる蒸気船「いろは丸」は、大洲藩の所有であり、大洲藩より海援隊に貸与していたものです。明治4年(1871年)の廃藩置県により廃藩となります。

大洲城

新谷藩
新谷藩(にいやはん)は、大洲藩の項で触れておりますとおり大洲藩の支藩です。藩庁は、新谷陣屋(愛媛県大洲市新谷町)に置かれました。
元和9年(1623年)、大洲藩2代藩主「加藤泰興の弟「加藤直泰」が幕府より1万石分知の内諾を得て成立しました。内紛の後、寛永16年(1639年)に藩内分知ということで決着し、寛永19年(1642年)に陣屋が新谷に完成しました。藩内分知は本来、陪臣の扱いですが、新谷藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例です。
寛永9年(1632年)に「中江藤樹」は、当藩に任地替えとなりましたが、母への孝養を理由に故郷の近江国へ脱藩しました。
江戸時代後期になると、肱川の氾濫による水害や火災に見まわれ、藩財政は困窮を極め、一時は大洲藩が藩政を執行しました。明治初頭での実高は9,693石と、表高の1万石を割り込んでいました。
第9代藩主「加藤泰令」の時代に幕末を迎え、明治4年(1871年)の廃藩置県により廃藩となっています。

新谷陣屋跡

麟風閣

陣屋は「麟鳳閣」として現存し、愛媛県指定文化財となっています。陣屋のあった敷地は明治時代になると、幾つかに分けて売却され、金蔵がかろうじて現存しています。現在、陣屋のあった敷地は新谷小学校となっています。

如何でしたでしょうか。領民と良好な関係を構築し、9代続いた「一柳家」と、お家騒動が絶えなかった宇和島藩・吉田藩の「伊予伊達家」は対照的でしたね。伊予伊達家が御取り潰しにならなかったことが不思議です。旗本「山口直信」、宇和島藩第8代藩主「伊達宗城」、吉田藩第8代藩主「伊達宗孝」は実の兄弟であり、旗本「山口直勝」が実父です。長男の直信が山口家の跡を継ぎ、次男・三男を伊予伊達家の養子に出したことは分かるのですが、山口家と伊達家のつながりが紐解けませんでした。とても残念ですが、この辺にしておきます。

 

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