今回は長崎県の歴史を紐解いてみました。いよいよ九州最後の県です。
長崎県は、ご存知のとおり鎖国時代においても海外との貿易で大金が動いていた土地柄です。それ故に利権が渦巻き、江戸幕府としても重要視していたようです。また、竹内家のルーツは島原にあり、大変興味深いと感じています。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の長崎県になるまでの変遷です。
本題に入る前に年表について補足しておきます。
江戸幕府崩壊後 慶応4年(1868年)
2月2日 長崎裁判所を設置(前身は長崎奉行所)
京都の新政府が諸藩に属さない直轄地を治めるために設けた地方行政機関です。司法権を行使する現在の裁判所とは性格が異なります。
閏4月25日 富岡県を設置(長崎裁判所から分立)
5月4日 長崎府を設置
6月10日 富岡県を天草県に改称
8月29日 長崎裁判所と天草県を長崎府に編入
版籍奉還直後 明治2.7.1(1869年)
長崎府・天草県・平戸藩・平戸新田藩・福江藩・大村藩・島原藩・府中藩
明治2. 8. 7(1869年)府中藩を厳原藩に改称
明治2. 6.20 (1869年)長崎府を長崎県に改称
明治3(1870年)平戸新田藩を平戸藩に編入
廃藩置県 明治4.7.14(1871年)
長崎県・平戸県・福江県・大村県・島原県・厳原県
第1次府県統合 明治4.11.14(1871年)
長崎県(旧長崎府・平戸県・福江県・大村県・島原県)
八代県(旧天草県)
伊万里県(厳原県)
明治5. 5.29(1872年)伊万里県を佐賀県に改称
明治5.8.17(1872年)佐賀県から旧厳原県を長崎県に併合
第2次府県統合 明治9.4.18(1876年)
長崎県(旧天草県を除く)
明治9.8.21(1876年)佐賀県を長崎県に統合
明治16.5.9(1883年)長崎県から佐賀県を分離独立
大変複雑ですね。問題なのは「壱岐国」の存在です。かつて国司や守護が置かれ、日本で統治していたと考えられ、明治初期には平戸藩領となっています。その後廃藩置県により平戸県の管轄となり、第1次府県統合で長崎県の管轄となっています。
私が興味深いところは、長崎府の存在です。長崎は日本で唯一外国との貿易が許され、外国船が出入りしていました。何故長崎だけが許されたのかも考えてみたいと思います。
長崎府
長崎府(ながさきふ)は、江戸時代に設置された長崎奉行所に代わり、1868年(明治元年)に明治政府によって長崎に設置された行政機関です。1年あまりで長崎県となりました。
これまでは藩がそのまま県に移行することはありましたが、「府」の存在が分かりませんね。「府」について少し説明しておきます。
明治初年の地方行政制度として、府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)が制定されました。1868年6月11日(慶応4年旧暦閏4月21日)、政体書(法令第331号)公布に伴い、維新後の徳川幕府の直轄地に置かれていた裁判所を廃止し、そのうち城代・京都所司代・奉行の支配地を「府」、それ以外を「県」として、府に知府事、県に知県事を置きましたが、藩は従来どおり大名が支配しました。また、旗本領、寺社領、および大名・旗本の御預所などの管轄までは定められていませんでしたが、1868年7月13日(慶応4年旧暦5月24日) 旗本釆地の府県管轄指令(法令418号)により、旗本領(万石以下之領地)と寺社領が最寄りの府県の管轄となることが定められました。ただし、全国一斉に旗本領・寺社領が府県の管轄となったわけではありませんでした。つまり、藩に属さない幕府直轄地には、行政機関としての裁判所が設置されていましたが、この裁判所を廃止し、城代・京都所司代・奉行の支配地を「府」とした訳です。長崎府以外にも江戸府・神奈川府・京都府・大阪府・度会府・越後府・甲斐府・箱館府があります。大政奉還後において幕府直轄地は、幕府が無い以上、宙に浮いた存在となるので、廃藩置県などで国家が固まるまでの過渡期の行政機関として「府」を設置したという訳です。廃藩置県以前に「県」となったところも同様です。
次に分からないのは、役所の存在です。藩には「お城」や「陣屋」が藩庁として機能していましたが、長崎府の役所はどこなのかという事です。江戸時代は、松浦郡5村、彼杵郡6村、高来郡5村を幕府直轄地として長崎奉行が統治していました。その役所が「長崎奉行所」です。現在の長崎市万才町(旧本博多町)に置かれましたが、焼失のため寛永10年(1633年)に外浦町(現・長崎県庁)に奉行所を造築移転し、奉行2人制とします。西役所・東役所という2つの機関で構成され、その後、場所が隣接していると火災の際、類焼もまぬがれないことから東役所を立山(現・長崎歴史文化博物館)に移します。
戦国時代の長崎は、大村氏の所領でしたが天正8年(1580年)以来イエズス会に寄進されていました。九州を平定した豊臣秀吉は、天正16年(1588年)に長崎を直轄地とし、肥前佐賀藩主「鍋島直茂」を代官に任命しました。文禄元年(1592年)には、奉行として肥前唐津藩主「寺沢広高」が任命され、長崎奉行の前身となります。
秀吉死後、「関ヶ原の戦い」で勝利した「徳川家康」は豊臣氏の蔵入地を収公し、長崎行政は江戸幕府に移管されました。江戸時代初期の頃は、「竹中重義」など「徳川秀忠」側近の大名が奉行に任ぜられましたが、やがて小禄の旗本が、のちには1000 – 2000石程度の上級旗本が任ぜられるようになりました。長崎奉行職は幕末まで常置され、福岡藩と佐賀藩が交互に警護を務めました。長崎奉行職は外国商人を支配する役職であって、外国人を重要視しないためにも、あえて低い地位の人を長崎奉行に任じてきたようです。
長崎奉行は、天領長崎の最高責任者として、長崎の行政・司法に加え、長崎会所を監督し、清国、オランダとの通商、収益の幕府への上納、勝手方勘定奉行との連絡、諸国との外交接遇、唐人屋敷や出島を所管し、九州大名を始めとする諸国の動静探索、日本からの輸出品となる銅・俵物の所管、西国キリシタンの禁圧、長崎港警備を統括しました。長崎港で事件が起これば佐賀藩・唐津藩をはじめとする近隣大名と連携し、指揮する権限も有していました。
現在で言えば外務大臣級なので、低い地位の人を長崎奉行に充てていたという事は、当時の幕府が外国を甘く見ていた様子が伺えます。しかし、長崎奉行は、低い身分でありながら輸入品を関税免除で購入する特権が認められ、それを京・大坂で数倍の価格で転売して莫大な利益を得ていました。いわゆる横流しですね。更に舶載品をあつかう長崎町人、貿易商人、地元役人たちから八朔銀と呼ばれる献金(年72貫余)や清国人・オランダ人からの贈り物や諸藩からの付届けなどがあり、一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしができるほどだといわれました。そのため、長崎奉行は人気のポストであり、旗本は長崎奉行就任のために3000両(現在の価値でおよそ3億円)もの運動費を使ったそうです。それでも遥かに上回る余得収入があったといいます。長崎奉行と結託した商人の悪行などが時代劇で取り上げられるのはこのためですね。
「河津祐邦」が最後の長崎奉行となって幕末を迎え、幕府軍敗北の報の後、長崎を脱出しています。その後、「旧長崎奉行西役所」を「長崎会議所」に改め、各藩の合議制によって治安の維持にあたることが決定されます。新政府により「澤宣嘉」が、九州鎮撫使兼外国事務総督に任命され、長崎裁判所の設置を経て「長崎府」に改められ、九州鎮撫長崎総督府が廃止され、「澤宣嘉」が府知事に就任します。最後の長崎奉行から府知事の誕生まで、僅か4ヶ月であることからも行政の混乱を避けるために「府」の設置を急いだことが伺えます。
長崎県庁(長崎奉行所西役所跡)
長崎奉行所西役所跡石碑
長崎奉行所西役所は、長崎県庁敷地内にありました。佐賀県編で取り上げた「佐野常民」が第一期生として学んだ海軍伝習所やイエズス会本部もここにあったそうです。
長崎歴史文化博物館(長崎奉行所立山役所跡)
長崎奉行所立山役所跡
長崎奉行所立山役所(復元)
長崎奉行所立山役所とは、東役所の事です。現在は長崎歴史文化博物館となっており、敷地内に奉行所陣屋が復元されています。
大村藩
大村藩(おおむらはん)は、肥前国彼杵地方を領した藩です。藩庁は玖島城(長崎県大村市)に置かれました。
藩主家である大村家の経歴は明確ではありませんが、平安時代または鎌倉時代よりこの地の領主であったようです。第12代当主とされる日本初のキリシタン大名「大村純忠」は、天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定に長子の「大村喜前」を従軍させ、戦後の九州国分では領地を安堵されました。喜前は「関ヶ原の戦い」では東軍に属し、江戸幕府開府後も本領を安堵され初代藩主となります。その後も転封もなく古来よりの領地のまま明治維新を迎えた極めて稀な藩です。そのためか、江戸時代に入っても家臣の整理が行われず、石高に対する家臣の数が多かったようです。家臣の城下集中もされておらず、幕末においても約2/3は大村ではなく各郷村に居住していました。戦国時代には長崎を有し、南蛮貿易を通じた豊かな経済力を誇っていました。しかし、豊臣政権・江戸幕府と長崎は中央政権直轄領となり、貿易利潤を喪失することになります。慶長4年(1599年)の検地では、藩の石高は2万1427石4斗でしたが、藩主直轄領はわずか4,454石しかなく、逆に大村庶家一門15家の領地合計は8,000余石にのぼっていました。第2代藩主「大村純頼」は、慶長12年(1607年)に財源確保と藩主権力強化のため、「御一門払い」と呼ばれる一門の領地没収を強制的に実行しました。これにより藩石高の36%にあたる6684石が収公されています。この後に行われた慶長17年(1612年)の検地では、2万7973石8斗7升7合と、6500石近く多く打ち出されています。この検地に基づき、寛文4年(1664年)には将軍「徳川家綱」より知行地の表高を27,900石余とする朱印状を受けています。
「大村純頼」は、元和5年(1619年)に28歳で急死し、跡継ぎを届けていなかったため藩存亡の危機に陥りました。かつて純頼は国元で子を儲けていましたが、理由は定かではありませんが、その子を堕胎させるよう命じていました。しかし、家老の「大村純勝」はひそかに出産させ、純頼を説得してその子「松千代」を助命させました。大村家は、純頼が松千代を末期養子に迎えたように装い、近隣大名や幕閣を説得にかかりました。この時、純勝は老中から将軍の直臣に取り立ててもよいと言われましたが、これを断りあくまで大村家存続を訴えました。元和6年(1620年)5月に松千代(のちの「大村純信」)の家督相続は認められました。この功により純勝とその子孫に、主家の家紋使用と大年寄の地位を代々与えられました。寛永8年(1631年)の検地では4万2730石を打ち出し、藩主「大村直轄」領も2万3322石に達しています。しかし、長崎御用役もあったほか、江戸での出費により藩財政は苦しく、親類大名からの借金や、家臣からの上米を行っています。
純信も病弱だったため、正室の父であり勘定奉行を務めるなど幕府の要職にあった甲斐徳美藩主「伊丹勝長」の4男権吉を養子に迎えようと交渉を行っていました。家臣団の中には一族の「大村虎之助」を迎える意見もあり、純信の死の時点でも養子披露は済んでいませんでした。権吉は純信の末期養子として迎えられ、「伊丹勝長」の奔走もあって跡目相続が認められました。これが第4代藩主「大村純長」です。明暦3年(1657年)城下北部の郡村3村より多数の隠れキリシタンが発覚し逮捕されるに至りました。「郡崩れ」と呼ばれるこの事件は、キリスト教禁教令より45年を経過した後のことであり藩の存亡を揺るがす重大事件となりました。しかし、藩主の実父「伊丹勝長」を通じ、幕府に対し即座に事件の実情報告を行い恭順したため咎を受けませんでした。これ以後、キリシタンへの徹底した予防と探索を行い、領民に対し仏教・神道への信仰を強化しました。九州地方では最も早く、全国でも七番目の藩校「集義館」を開校しました。また、「伊丹勝長」の縁により、譜代大名に近い扱いを受けるようになります。
元禄8年(1695年)の検地では5万37石9斗1升1勺となり、新田開発は限界に近づきつつありました。藩内の豪商として重要なのが捕鯨業者の深澤家であり、たびたび大村藩は借金を重ね、深澤家に藩士待遇を与え、一時は藩主の意向をも上回る権勢をみせました。第7代藩主「大村純庸」は家臣知行を蔵米知行とし、膨大な借金の整理を行いました。深澤家は衰退し、かえって藩の庇護を受ける立場となりました。第8代藩主「大村純富」は父の意向を継ぎ、藩政改革を押し進めました。
水田耕作に向かない地形の多い大村藩は、薩摩藩と並んで18世紀前半にサツマイモを日常食材として導入しました。そのため「享保の大飢饉」での被害も比較的軽微で済んでいます。サツマイモの主食化によって大村藩は名目の石高以上に食糧事情が良く、享保6年(1721年)の大村藩の人口は65,000人ほどでしたが、安政3年(1856年)の人口は117,300人と1.8倍に増加しています。幕末期の検地では5万9060石7斗6升5合3勺4才でした。
最後の藩主である第12代藩主「大村純熈」の時代は幕末であり、藩論は佐幕と「渡邊昇」らを中心とする尊皇に大きく分かれました。文久2年(1862年)「大村純熈」が長崎惣奉行となると佐幕派が台頭し、尊皇派はこれに対し改革派同盟(大村三十七士)を結成しました。元治元年(1864年)、純熈の長崎惣奉行辞任により逆に尊皇派が台頭しました。慶応3年(1867年)改革派同盟の盟主である「松林飯山」が暗殺され、「針尾九左衛門」も重症を負いました。逆にこの「小路騒動(こうじそうどう)」と呼ばれた闘争を契機に藩論が一気に尊皇倒幕へと統一され、在郷家臣団を含む倒幕軍が結成されました。以後、薩摩藩・長州藩などとともに倒幕の中枢藩の一つとして活躍しました。特に「鳥羽・伏見の戦い」の直前、近江国大津を固めるために大村藩が50名と少数ながら真っ先に大津に兵を派遣したことが幕府側の援軍の京都侵攻を阻むことになりました。「大村純熈」は、維新後の賞典禄として3万石を受給しましたが、これは薩摩藩・長州藩の10万石、土佐藩の4万石に次ぐものであり、佐賀藩の2万石を上回っています。
江戸時代の大村家は、数々の危機を乗り越えています。戦国時代までの大村家は長崎を領し、海外との交易で、経営手腕や根回しのノウハウを培ったのではないかと私は考えています。幕府に長崎を取り上げられても復活し、跡継ぎ問題でも周到な根回しが行われたのではないかと考えられます。これまでに取り上げてきた藩は、跡継ぎがいなければ改易となるのが普通でしたが、大村家は二度の跡継ぎ問題をクリアしています。また、維新後の賞典禄として3万石を受給したことは、見事な経営手腕と言えるでしょう。現代風に言えば、状況に応じて要領よく柔軟に立ち回って生き延びてきた藩と言えると思います。
玖島城①
玖島城②
別名「大村城」と呼ばれ、大村湾に突き出した半島の先端に築城された連郭式平山城です。本丸、二の丸、三の丸から構成され、本丸は比高15m程度、面積9,458平方メートル(2,861坪)のほぼ四角形(東西約55間、南北約45間)です。石垣で囲まれており、西に虎口門、南に台所門、北に搦手門の3つの虎口を持ちますが、天守は建造されませんでした。
島原藩
島原藩(しまばらはん)は、肥前国島原周辺を支配した藩です。初期は日野江藩(ひのえはん)と呼ばれ、藩庁は、初期は日野江城(長崎県南島原市)、のち島原城(長崎県島原市)に置かれました。
島原は戦国時代、有馬氏が治めていました。キリシタン大名で有名な「有馬晴信」は、「関ヶ原の戦い」で東軍に与して本領を安堵されましたが、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて発生した疑獄事件「岡本大八事件」により、甲斐国都留に幽閉の上、切腹に処されました。しかし、子の「有馬直純」は、父の晴信と疎遠で幕府とも親しかったことから事件の累が及ばず遺領を継承しました。直純は慶長19年(1614年)、日向国県藩(延岡藩)に加増の上、転封となりました。
その後しばらく幕府領となりましたが、やがて元和2年(1616年)、「松倉重政」が大和国五条藩より4万石で入ります。松倉氏は戦国時代、「筒井順慶」の家臣として仕えました。特に重政の父「松倉重信」は「島清興」と共に「右近左近」と称されるほどの名将でしたが、重政は父に似ず暗愚で、領民に苛酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく弾圧しました。また、彼の代に島原城が築かれ、政庁は日野江城からこちらに移っています。
そして重政の後を継いだ勝家は、父以上の苛酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく取り締まりました。勝家の残酷さを示すものとして、年貢を払えない者には蓑を着せて生きたまま火あぶりに処すという、いわゆる「蓑踊り」という処刑方法があったといいます。また、年貢を払えない者の子女を捕らえて処刑したり、幕府の歓心を得るために4万石の取立てを10万石と申告したりするなど、島原はまさに地獄そのものだったといいます。この苛酷な勝家の政治に遂に領民の怒りが爆発し、寛永14年(1637年)に「天草四郎」を総大将として有名な「島原の乱」が起こります。領民の怒りは凄まじく、松倉軍の中にも領民側に寝返る者が現われたため、松倉軍単独ではとても鎮圧できませんでした。ここに至って江戸幕府も事態を重く見て、「板倉重昌」を総大将とした鎮定軍を派遣しますが、重昌は功にあせって戦死してしまいます。代わって「知恵伊豆」で有名な老中「松平信綱」が総大将となります。信綱は九州諸大名およそ12万を総動員して、原城を兵糧攻めにしました。この中には戦国時代の古強者「立花宗茂」らも加わっています。反乱軍も兵糧攻めにはかなわず、3ヵ月後に反乱は鎮圧し、「天草四郎」をはじめとする反乱軍は皆殺しとされてしまいました。その一方、領主の「松倉勝家」も苛酷な政治を敷いて領民に反乱を引き起こさせた責任を厳しく問われ、乱の鎮圧後に斬首刑に処されました。勝家が大名の身分でありながら武士としての名誉の刑である切腹さえも許されず一介の罪人として斬首刑に処された点からも、幕府が勝家の罪をいかに重く見ていたかがうかがえます。
「松倉勝家」の後、徳川氏譜代の家臣「高力忠房」が遠江国浜松藩より4万石で入ります。忠房は乱で荒廃した島原地方を復興することに尽力しました。そして巧みな農業政策や植民奨励政策などを行なって、島原の復興を成し遂げたのです。しかし、忠房の後を継いだ隆長は藩の体制確立に躍起になったためか失政が多く、幕府より咎を受け寛文8年(1668年)に改易となりました。
代わって丹波国福知山藩より深溝松平家の「松平忠房」が6万5000石で入ります。松平氏は5代にわたって島原を支配しましたが、寛延2年(1747年)に下野国宇都宮藩の「戸田忠盈」が7万7000石で入り、入れ替わりで松平氏は宇都宮へ移封となります。戸田氏は2代続きましたが、安永3年(1774年)に宇都宮へ移封されていた松平氏が6万5000石で再び戻ってきます。戸田氏も入れ替わりで宇都宮へ戻ります。以後、松平氏が8代にわたって支配し、「松平忠和」で幕末を迎えます。
島原の乱の教訓からか、松倉氏の後に入った高力・松平・戸田の3氏はいずれも、徳川氏譜代の家臣です。なお、島原は気候温暖であるが火山地帯で土地がやせており、実際の年貢の収穫高は表高よりも少なかったと言われています。
島原も転勤が多い藩のように思いますが、「宮崎県編の延岡藩」や「佐賀県編の唐津藩」とは性格が異なると思います。鎖国前の島原は長崎と同様、海外との貿易で利益を得ており、これを重視して一時的ではありますが天領となったのではないかと考えています。鎖国によって島原が海外との貿易が出来なくなってしまえば火山による痩せた土地でしか無くなり、大名の支配に戻しています。
父「松倉重信」の庇護のもと大和国五条藩を引き継いだ「松倉重政」は、この痩せた土地に転封となり心が荒んだのではないかと考えています。それが悪政に繋がり、その子の「松倉勝家」の代まで及び、たまりかねた領民の怒りが爆発し、「天草四郎」を要した「島原の乱」に発展しています。江戸幕府も反乱は鎮圧しなければならないが、「松倉勝家」の悪行による領民の怒りに理解を示し、勝家に切腹を許さず斬首刑に処しています。
島原半島は陸路からの進入は半島の括れた部分からしか出来ず、外様大名の統治では、やりたい放題になってしまうと考え、その後は譜代大名に統治させたのではないかと考えています。島原の復興を高力氏の手腕に託し、復興を成し遂げた時点で「徳川家康」と共通の祖を持つ深溝松平家から「松平忠房」が統治することにより江戸幕府の安泰を諮ったと考えられます。また、戸田氏は深溝松平家とは姻戚関係にあり途中交代は、単に刺激を与えるためだったと考えています。
島原城
島原城(しまばらじょう)は、長崎県島原市城内にあり、別名「森岳城」や「高来城」と呼ばれ、城跡は長崎県指定史跡に指定されています。現在、島原に多くの方言があるのは、「高力忠房」が各国の武士の次男・三男や農民などの植民を奨励して、様々な国の人々が島原に土着したためと言われています。因みに私の父方の祖父は島原の出身で、この中にご先祖様がいたかもしれません。
平戸藩・平戸新田藩
平戸藩(ひらどはん)は、肥前国松浦郡と彼杵郡の一部、および壱岐国を領した藩です。藩庁は平戸城(長崎県平戸市)に置かれました。
現在の長崎県北部の豪族だった松浦党より台頭した「松浦隆信」は、肥前北部及び壱岐を征す戦国大名となりました。その子の「松浦鎮信(法印)」は、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の折、旧領である北松浦郡・壱岐を安堵されました。続いて慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で東軍に与した松浦氏は「徳川家康」より6万3千石の所領を安堵され、平戸藩が確立しています。
第4代「松浦重信(鎮信、天祥)」は、従弟の「松浦信貞」に今福領1500石を分知しました。寛永18年(1641年)重信の時代にオランダ商館が平戸から長崎に移されます。幕府は例外措置としてそれまで公儀御料の遠国奉行支配地にしか認められていなかった生糸輸入の独占的卸売権を与えた「糸割符制度」に平戸商人が参加することを許したものの、藩財政は大きな痛手を被ることとなりました。以後は藩の内政を立て直すべく検地を行い、農・漁・商の振興を推進して、藩財政の基礎を固めました。貞享4年(1687年)には、家臣の給与制度を改革し、知行制から俸禄制へと切り替えました。
第5代藩主「松浦棟」は、元禄2年(1689年)弟の「松浦昌」に1万石を分与し、平戸新田藩を立藩しました。棟は、外様大名でありながら「奏者番兼寺社奉行」に累進しましたが、これに伴う出費と宝永4年(1707年)の平戸城再建により藩財政は困窮するに至りました。
平戸新田藩(ひらどしんでんはん)は、平戸藩の支藩で、藩庁として館山(長崎県平戸市)に陣屋が置かれました。平戸館山藩(ひらどたてやまはん)とも言い、明治3年(1870年)に本藩に併合され廃藩となりました。なお、「本所七不思議」の一つ「落葉なき椎」は、江戸藩邸上屋敷内にありました。
第9代「松浦清(静山)」は、平戸藩で最大となる「寛政の改革」を断行し、国許・江戸の政治と財務の大幅な組織改革を行いました。静山は全278巻に及ぶ随筆集「甲子夜話」を著したことで広く知られています。娘の愛子は明治天皇の祖母にあたります。
第12代「松浦詮」の時代に幕末を迎え、第二次長州征伐の後、藩論は倒幕に傾斜し、慶応4年(1868年)戊辰戦争勃発直後、官軍方への参加を明確にしました。同時に軍制改革により洋式の銃部隊を編成し、奥州へと転戦しました。
壱岐島は、中世には松浦党の勢力下に置かれ、鎌倉時代中期、モンゴル帝国(大元ウルス)とその属国「高麗」により二度にわたり侵攻を受けます。一度目の「文永の役」の際には、壱岐守護代「平景隆」ら百余騎が応戦しますが、圧倒的な兵力差の前に壊滅して壱岐は占領され、島民が虐殺を受けるなど大きな被害をこうむりました。
続く「弘安の役」でも元軍の上陸を受け、大きな損害を受けましたが、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、苦戦を強いられた元軍は壱岐島から撤退しました。江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となりました。
平戸城
隅田河岸旧椎木屋敷
平戸城は、山城でとても眺望の良いところです。肥前平戸新田藩の江戸上屋敷は、現在の同愛記念病院の南側半分あたりに位置していました。このお屋敷は、しいのき屋敷と呼ばれ、うっそうとした森のような景観から、付近の目安になっていましたが、どんな風の強い日でも葉っぱが落ちたことが無いというので、本所七不思議の一つとなっていました。
福江藩
福江藩(ふくえはん)は、江戸時代の肥前国において、五島列島全域を治めた藩です。五島藩(ごとうはん)とも呼ばれ、藩の成立から版籍奉還まで外様大名の五島氏が藩主を務めました。石高は1万5000余石(一時、富江領に3000石を分知し1万2000余石となります。)で、藩庁は当初、江川城に置かれ、のちに石田城(長崎県五島市)へ移転しています。
文治3年(1187年)「平家盛(平忠盛次男、平清盛の異母弟)」が、宇久島に上陸し、宇久姓を名乗ります。観応2年(1351年)「宇久覚」が、宇久より福江島岐宿に移り、天正15年(1587年)「宇久純玄(すみはる)」が五島姓へと改めます。 藩の成立は江戸時代初頭の慶長8年(1603年)に初代藩主「五島玄雅(五島純玄の嗣子)」が、「徳川家康」に謁し、1万5千余石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まります。
第2代藩主「五島盛利」が、玄雅の養子として慶長17年(1612年)に、その後を継ぎました。元和5年(1619年)玄雅の実子「五島角右衛門」の養子であった「大浜主水」が、後継者の権利主張と盛利の失政を幕府に対し直訴しました。しかし、幕府は盛利の正当性を認め主水の訴えを退け、盛利は主水とその一派を処刑(大浜主水事件)しました。この事件を機に藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築きました。兵農分離の徹底と、各知行地に居住していた家臣団に対し、「福江直り(ふくえなおり)」と呼ばれる福江城下への移住を強制しました。福江直りは寛永11年(1634年)に完了しています。寛永12年(1635年)には領内の検地を実施し、曖昧であった家臣団の知行高・序列を決定しました。更に、慶長19年(1614年)に焼失した江川城に代わって、寛永14年(1637年)に石田陣屋を建設して藩庁の整備を行ないました。承応元年(1652年)には、漁場として最盛期を迎え、居住者の増えていた男女群島に「女島奉行」を新たに設置しました。
第4代藩主「五島盛勝」は幼少で藩主となり、寛文元年(1661年)に、その後見役で叔父の盛清に富江領3000石が分知されました。この地は捕鯨が盛んで藩財政の基盤となっていました。しかし、富江領成立直後から福江領有川村(南松浦郡新上五島町)と富江領魚目村(新上五島町)の漁民の間で流血にまで至る漁業権問題が発生しました。幕府の仲介により元禄2年(1689年)に入会制度が成立して問題は解消しました。その後、捕鯨による利潤で藩財政は潤うこととなりました。
捕鯨で潤っていた藩財政も江戸時代後半になると度重なる飢饉により逼迫することとなりました。このため、第6代藩主「五島盛佳」は、領内の労働人口を把握して確保するため、享保6年(1721年)より「人付け改め」と呼ばれる徹底した人身把握政策を開始し、各世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく人付帳に記載しました。
第7代藩主「五島盛道」は、宝暦11年(1761年)「三年奉公制」と呼ばれる藩政史上最大の悪制を開始しました。これは、領民の長女を除く娘が16歳に達すると福江の武家へ3年間無給で奉公に出されるといういわば奴隷制度に近いものでした。3年の奉公の後、里に帰り結婚するのであるが、離婚すると再度、3年間奉公に出されました。米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除されるという抜け道もありましたが、相当に裕福な領民でなければ捻出できる額ではなく、殆どの領民は奉公に出されました。「人付け改め」とともにこの制度は幕末まで続きました。
嘉永2年(1849年)幕府より築城の許可を富江藩主「五島盛貫」が受領し、第10代藩主「五島盛成」が着工しました。文久3年(1863年)、第11代藩主「五島盛徳」によって、日本で最も新しい城として石田城が竣工し、幕末を迎えます。
石田城
石田城竣工の僅か5年後には、明治になります。築城当時は、三方を海に囲まれた海城であり、幕末期の海上防衛や異国船の来訪に備えるために必要だったと考えられます。現在は、五島市の中心街に位置しています。
府中藩(厳原藩)
対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、一般には、単に「対馬藩(つしまはん)」と呼称される事が多く、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩です。別名厳原藩(いづはらはん)とも呼ばれています。「府中」は、厳原の城下町を当時「府中」と称していたことに由来します。藩庁は当初、金石城(対馬市厳原町西里)に置かれ、のちに桟原城(対馬市厳原町桟原)に移転しました。藩主は、宗氏で初代藩主「宗義智」以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守「侍従」を称しました。
対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保ちました。
1587年(天正15年)豊臣秀吉の九州平定に際して、宗氏は事前に豊臣政権への臣従を決め、本領安堵されました。1590年(天正18年)には「宗義智」が、従四位下侍従「対馬守」に任ぜられ、以後、宗氏の当主にあたえられる官位の慣例となりました。
秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、出兵に先立つ1591年(天正19年)厳原には古代の金石城の背後に清水山城、上対馬の大浦には撃方山城が築かれて中継基地となり、対馬からは「宗義智」が5,000人を動員しました。義智率いる対馬勢は一番隊から九番隊に編成された派遣軍のなかでも最先鋒部隊にあたる「小西行長」の一番隊に配属されました。義智は、戦闘だけでなく行長とともに日本側の外交を担当する役割も担っており、行長とともに常に講和を画策していたといいます。30万の軍隊がここを中継地として渡海したため、対馬ではたちまち食糧が底をつき、駐留する兵士が鶏・犬・猫などを住民から奪う禁令が出されたといいます。義智は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では西軍に加わって、みずからは伏見城攻撃に参加し、大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を派遣して参陣しました。西軍敗北後は「徳川家康」から許され、以後代々徳川氏に臣属し、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担うこととなりました。日本側の外交を担当する役割も担っていたことから「徳川家康」も必要としていたと考えられます。
1609年(慶長14年)には、己酉約条(慶長条約)が締結され、釜山には倭館が再建されました。倭館は、長崎出島の25倍におよぶ約10万坪の土地に設けられ、500人から1,000人におよぶ対馬藩士・対馬島民が居留して貿易が行われました。
第2代藩主「宗義成」の代には、1615年(元和元年)に「大坂の役」に徳川方として参加しました。その後、義成と対馬藩家老「柳川調興」とのあいだに、日本と李氏朝鮮との間で交わされた国書の偽造を巡って対立した「柳川一件」が起こっていますが、1635年(寛永12年)第3代将軍「徳川家光」によって裁可され、調興敗訴となりました。1637年(寛永14年)から翌年にかけては、「島原の乱」に幕府側として参加しました。佐須鉱山を再掘したのも義成の時代でした。
対馬府中藩は、参勤交代制度に基づき、3年に1度、江戸の征夷大将軍に出仕することとされ、江戸に藩邸を構え、厳原との間を藩主自らが大勢の家臣を率い、盛大な大名行列を仕立てて往来しました。
対馬全島の検地は1661年(寛文元年)から1664年(寛文4年)にかけて実施されましたが、その際には4尺8寸の検地竿が用いられました。そして、田・畑・木庭も厳重に調べ、一切の土地をいったん収公したうえ、あらためて農民に均分し、1年ごとに用益者の交替を行うという「均田割替の制」が実施されました。
外交面では、鎖国体制のなか朝鮮通信使を迎えるなど日朝外交の仲介者としての役割を果たしました。また、日朝それぞれの中央権力から釜山の倭館において出貿易を許されていました。現在の釜山市は対馬の人びとによってつくられた草梁の町から発展したものです。「柳川一件」以来、日朝外交の体制が整備され、府中の以酊庵(いていあん)に京都五山の禅僧が輪番で赴任して外交文書を管掌する「以酊庵輪番制」が確立するなど幕府の統制も強化されました。1663年(寛文3年)には、対馬藩により5基の船着き場が造成されており、現在「お船江跡」という遺構として当時のつくりのまま保存されています。
対馬府中藩は、当初は肥前国内1万石を併せて2万石格でしたが、幕府は朝鮮との重要な外交窓口として重視し、初代藩主「宗義智」以来、対馬府中藩を国主10万石格として遇しました。しかし、山がちで平野の少ない対馬では稲作がふるわず、米4,500石、麦15,000石程度の収穫であり、肥前国の飛領を除くと実質的には無高に近く、藩収入は朝鮮との交易によるものでした。対馬では、作付面積のうち最も多いのは畑で、それに次ぐのは「木庭」とよばれる焼畑であり、検地では「木庭」も百姓持高に加えられました。また、石高制に代わって「間高制」(けんだかせい)という特別の生産単位が採用されていました。
対馬の行政区域は、城下の府中(厳原)のほか、豊崎、佐護、伊奈、三根、仁位、与良、佐須、豆酘の8郷に分け、郷ごとに奉役があり、その下に村が置かれ、村ごとに下知役が土着の給人家臣から任じられ、また、各村には在郷足軽より選ばれた肝煎、血判などの村役人がおかれました。農業生産の乏しい対馬では、後述するイノシシ狩りのほか甘薯栽培、新田開発などさまざまな農業政策が積極的に実施されました。
17世紀後半は、日朝貿易と銀山の隆盛から対馬藩はおおいに栄え、「雨森芳洲」や「陶山鈍翁(訥庵)」、「松浦霞沼」などの人材も輩出しました。往時の宗氏の繁栄のようすは、菩提寺万松院のみならず、海神神社や和多津美神社の壮麗さが今日に伝えています。1685年(貞享2年)には、第3代藩主「宗義真」が府中に「小学校」と名づけた学校を建て、家臣の子弟の教育をおこないました。これが、日本で「小学校」の名称のつく施設の最初であるといいます。「木下順庵」門下の「雨森芳洲」を対馬に招いたのも「宗義真」でした。
18世紀初めには、第5代藩主「宗義方」の郡奉行であった「陶山鈍翁」の尽力で10年近い歳月をかけて「猪鹿追詰(いじかおいつめ)」がおこなわれました。それにより、1709年(宝永6年)、当時は焼畑耕作の害獣であったイノシシは絶滅しています。これは、5代将軍「徳川綱吉」によって生類憐れみの令が出されているさなかのことであり、鈍翁は死罪になることを覚悟して断行したもので、人びとからは「対馬聖人」と崇められました。
なお、1778年(安永7年)に家督相続を許された第11代藩主「宗義功」と1785年(天明5年)に第12代藩主となった「宗義功」は同名ですが、これは第11代の義功が将軍御目見前に急逝し、弟を身代わりとして藩を承継させたためです。
江戸時代も末葉になると、木綿や朝鮮人参の国産化が実現したこともあり、肝心の朝鮮との貿易がふるわなくなりました。島民の生活は困窮をきわめ、極度の財政難から対馬藩は幕府に訴えて朝鮮通信使接待の費用や貿易不振の援護金の下付や貸付を受けました。さらに、周辺海域に欧米の船が出没するようになり、1858年(安政5年)、この地の守りを重要視した幕府は、朝鮮貿易を幕府直轄とし、宗氏を河内国に10万石(20万石説もあり)で転封する計画を立て、家臣のなかにも移封を唱えるものがありました。しかし、宗氏は中世以来の対馬の領主という誇りがあり、家臣の多くもこの地に根ざした生活を保っていたため、宗氏転封計画は実行には至りませんでした。
1861年(万延2年)、ロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠する事件が起こりました。ポサドニック号は芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留し、第15代藩主「宗義和」に土地の貸与を求めました。対馬藩は対応に苦慮しましたが、5月には幕府外国奉行の「小栗忠順」が派遣され、7月にイギリス公使オールコックの干渉もあってロシア軍艦が退去しました。これを「対馬事件」あるいは「ポサドニック号事件」と呼んでいます。芋崎には、現在もロシア人の掘った井戸が残っています。
1869年(明治2年)「宗義達」は版籍を奉還し、新藩制により厳原藩と改称され、厳原藩知事となりました。これとともに「対馬府中」の地名も「厳原」に改められました。
金石城跡
桟原城跡
桟原城高麗門(復元)
如何でしたでしょうか。長崎・島原・平戸・対馬は、海外とのつながりがあり、個別に一本ずつブログテーマにしたいところです。個人的には、島原に先祖のルーツがあるので大変興味深く、今後も研究していきたいと思います。明治19年の改製原戸籍までしか調査することが出来ず手詰まり状態でしたが、今回、「高力忠房」が各国の武士の次男・三男や農民などの植民を奨励し、様々な国の人々が島原に土着していることから、忠房の前任地「遠江国浜松藩」に同じ家紋を持つ「竹内家」が無いかを調べてみるのも面白いと思います。尚、富岡藩(天草藩)につきましては、「歴史を紐解く(廃藩置県)- 熊本県編」を閲覧ください。
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