歴史を紐解く(廃藩置県)- 沖縄県編



今回は、沖縄県の歴史を紐解いてみました。
沖縄県は、かつて一つの独立国家であったことはご存知のとおりです。独立国家であったが故に通常の廃藩置県と言う概念は無く、沖縄県が設置されるまでの変遷を「琉球処分」と呼びます。
下表は、琉球処分により現在の沖縄県になるまでの変遷です。

琉球王国は、正式には「琉球國」(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と呼び、最盛期には「奄美群島」と「沖縄諸島」及び「先島諸島」までを統治していました。
沖縄県の歴史を紐解くことで、現在の沖縄問題が見えてくると思います。個人的には、考えるところがありますが、ここでは史実を記載するにとどめておきます。

琉球王国
琉球の名称は、7世紀の中国の史書「隋書」卷81 列傳第46 東夷 流求國條の記述によれば、610年(隋・大業6年)に「隋」が侵攻した国で、「流求」に由来しています。この「流求」がそのまま「琉球王国」(今日の沖縄県周辺)を指したわけではありません。「明」との交易が本格化した14世紀頃には、今日の沖縄県周辺の呼称として定着し、「琉球國」という国号が、1872年(明治5年)の日本政府による「琉球藩」設置(琉球王国の廃止)まで用いられました。
前述の「隋書」では、「流求」は福建省の東海上に位置する一介の島嶼としています。「元」の時代に完成した「文献通考」においては、「琉球」は、台湾と沖縄県周辺を混同して指す記述となっています。一方「沖縄」(おきなは)の語源は779年(唐・大暦14年)の「唐大和上東征伝」に「阿児奈波」と表記されたものです。
その後、13世紀まで奄美群島・沖縄諸島・先島諸島・台湾のいずれの地域も小勢力の割拠状態が続き、日本列島の役所が置かれた奄美以外は、中国大陸や日本列島の中央政権からの認識が薄い状態でした。14世紀に沖縄本島中部を根拠地とする「中山王」が初めて「明」の皇帝に朝貢したことで認識が高まり、朝貢した沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれています。その後、「琉球」は琉球王国(琉球国)の勢力圏を指す地域名称として定着していくことになります。
近代に入って、「琉球」(流求)が指す地理的領域の考察が進みます。1874年(明治6年)にフランスの学者「サン・デニー」が「文献通考」の一部を翻訳し、その琉球条により流求は台湾であるとする説を発表しました。1895年(明治28年)には、オランダの東洋学者「グスタフ・シュレーゲル」が、「元」の時代以前の「琉球」は台湾のことを指し、「明」の時代以降は沖縄県周辺のことを指すようになったとする説を発表しました。1897年(明治30年)に、当時、帝国大学文科大学(現東京大学)史学科教授「ルートヴィヒ・リース」は、著書「台湾島史」(吉国藤吉訳)において、「流求」は台湾を指すとしています。
このように「琉球」が指す領域は、奄美群島・沖縄諸島・先島諸島で、「流求」が指す領域は、台湾となっていったと考えられています。現在、奄美群島・沖縄諸島・先島諸島が日本に帰属し、台湾が中国に帰属している背景が分かるような気がします。

今度は、琉球王国の歴史に絞ってみていきたいと思います。

三山統一
1429年(永享元年)に、第一尚氏王統の「尚巴志王」の三山統一によって、琉球王国が成立したと見なされています。第一尚氏(だいいちしょうし)は、「尚思紹王」を始祖とし、7代63年間続いた琉球最初の統一王朝をつくりあげた王家およびその姓の通称です。正式には尚氏ですが、第二尚氏と区別するために、一般には第一尚氏と呼ばれています。「尚巴志王」は、「尚思紹王」の子で2代目の国王に当たります。
当時の沖縄本島は、南部の南山、中部の中山、北部の北山に、三つの王統が並立する時代でした。これを「尚巴志王」が統一し、首里城を居城として用いるようになります。
首里城の創建年代は明らかではありません。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されています。
第一尚氏王統は、大和(日本本土)や中国・朝鮮半島はもとよりジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大します。しかし、統一後も依然として地方の諸按司(日本の宮家に相当)の勢力が強く、ついに王府が有効な中央集権化政策を実施することはありませんでした。そのため王位継承権争いなどといった内乱が絶えず、さらに喜界島親征といった無謀ともいえる膨張政策を取ったため、政権としては63年間で幕を閉じました。

三山時代地図

首里城(中山城)

首里城・瑞泉門

今帰仁城跡(北山城)

島尻大里城跡(南山城)

第二尚氏王統
1462年(寛正3年)に尚泰久王(第一尚氏王統第6代国王)の重臣であった「金丸」と言う人物が、「尚円王」と名乗り、第二尚氏王統初代国王となります。
尚巴志王(第一尚氏王統第2代国王)の七男にあたる「越来王子」(尚泰久王)は、「金丸」を尚思達王(第一尚氏王統第4代国王)に王府官僚として推薦し、重臣に取り立てます。
尚金福王(第一尚氏王統第5代国王)が薨去後「志魯・布里の乱」で、尚金福王の子(志魯)と尚巴志王の六男(布里)が後継争いを繰り広げ、双方が共倒れになったことから、「金丸」らに推され「尚泰久王」が国王として即位します。尚泰久王(第一尚氏王統第6代国王)が薨去後、尚泰久王の三男「尚徳王」が、側室の子でありながら長兄「金橋王子」を退けて第一尚氏王統第7代国王に即位します。尚徳王の薨去後、「金丸」が王位を継承し、「尚円王」となります。
王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されていますが、クーデターによる即位だったのではないかとの説もあります。

分かりにくいので、第一尚氏王統の系譜を整理しておきましょう。

尚思紹王(第一尚氏王統初代国王)1406-1421

長男「尚巴志王」の三山統一により、始祖として即位。

(父不詳、母不詳)

尚巴志王(第一尚氏王統第2代国王)1422-1439

尚思紹王の長男として、尚思紹王の死去により即位。

(母は、美里子の娘※伝承)

尚忠王(第一尚氏王統第3代国王)1440-1444

尚巴志王の次男として、尚巴志王の死去により即位。

(母は、伊波按司の妹)

尚思達王(第一尚氏王統第4代国王)1445-1449

尚忠王の子として、尚忠王の死去により即位。

(母不詳)

尚金福王(第一尚氏王統第5代国王)1450-1453

尚巴志王の五男、尚忠王の弟として、尚思達王の死去により即位。

(母不詳)

尚泰久王(第一尚氏王統第6代国王)1454-1460

尚巴志王の七男として、尚金福王の死去により即位。

(母は美里伊波按司の娘)

尚徳王(第一尚氏王統第7代国王)1461-1469

尚泰久王の三男で、長兄「金橋王子」を退けて即位。

(母は側室、屋比久大屋子)

その後、第二尚氏王統は、尚真王の時代に地方の諸按司を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功しました。彼の治世において、対外的には1500年(明応9年)には石垣島にて「オヤケアカハチの乱」を平定し、さらに1522年(大永2年)には与那国島を制圧して、現代まで続く先島諸島の統治権を確立しました。1571年(元亀2年)には奄美群島北部まで進軍して勢力下におさめ、最大版図を築きました。
第二尚氏王統初代国王の尚円王(金丸)は、農民の出身で、越来王子(尚泰久王)に拾われて家臣となり、下役から出世している点は、「豊臣秀吉」に似ています。王の座を虎視眈々と狙っていたとしても不思議はありません。

薩摩による琉球侵攻
16世紀後半、豊臣秀吉が「明」とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢を命じたが、「明」の冊封国(従属国)であったため国王は一旦拒否しました。しかし、実際に「文禄・慶長の役」で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時には、琉球は日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担っていました。
1609年(慶長14年)に薩摩藩の島津氏による琉球征伐が行われます。
1602年(慶長7年)に仙台藩領内に琉球船が漂着しましたが、徳川家康の命令により琉球に送還されます。これ以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されましたが、琉球は最後までこれに応じませんでした。
1608年(慶長13年)には、家康と徳川秀忠が舟師(水軍)を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて「大慈寺龍雲」らを遣わして、「尚寧王」及び「三司官」(実質的な行政の最高責任者)に対し、家康に必ず朝聘するよう諭しましたが、三司官の一人「謝名利山」は聴従せず、かえって使者をののしり辱めました。こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となりました。つまり徳川幕府に礼物を持って、挨拶に来るよう促したが従わなかったので薩摩藩の島津氏に征伐を命令したという事です。
琉球征伐の原因は、「謝名利山」の非礼な振る舞いとされていますが、島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求して、琉球側がこれを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつあり、その両者の緊張関係が琉球征伐に至る過程に大きく影響したと考えられています。
こうして薩摩藩の島津氏による琉球征伐が始まり、僅か2か月で琉球軍は島津軍に敗れ、「尚寧王」が和睦を申し入れて首里城は開城しました。
これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国(半主権従属国)となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣しました。その後、「明」に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である「清」にも朝貢を続け、薩摩藩と「清」への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持してきました。琉球が支配を始めてから年月の浅かった奄美群島は薩摩藩直轄地となり王府から分離されましたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていました。

黒船来航
1853年(嘉永6年)に黒船が那覇に来航し、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めました。黒船は翌1854年(嘉永7年)にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港します。ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することを「ミラード・フィルモア大統領」から許可されていました。

琉球処分
1871年(明治4年)に明治政府は、廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄とします。1872年(明治5年)には琉球藩を設置し、琉球国王「尚泰」を琉球藩王に「陞爵」(爵位を格上げ)して華族に列しました。つまり、琉球王国を藩として扱い、国王を藩主と同格にしたという事です。
明治政府は、廃藩置県に向けて琉球王国に対し、清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号を使用し、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫りましたが、琉球は従いませんでした。そのため1879年(明治12年)に処分官「松田道之」が、随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉し、武力的威圧のもと、首里城で廃藩置県を布達します。その後、首里城明け渡しを命じ、琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として前肥前鹿島藩(佐賀藩の支藩)主の「鍋島直彬」が赴任し、王統の支配は終わります。
琉球の王族は、日本の華族とされました。しかし、琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引きました。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領「ユリシーズ・シンプソン・グラント」の熱心な調停もあって調印の段階まで進展しましたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産ます。その後、日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定しました。

沖縄問題が、非常に複雑で根深いものだという事が理解できたと思います。中国では、現在でも琉球処分そのものが無効であり、琉球は中国の領土であると主張する現役軍人も存在しているようです。しかし、過去の冊封関係をもって、現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、琉球処分が無効である根拠も明らかではありません。

沖縄県民の怒りが米国のみならず日本政府にも向けられている意味が分かるような気がします。ポルトガル人の「トメ・ピレス」は、1515年頃の東方についての書物を著しています。琉球が中国と盛んに交易した様を伝え、琉球人の気質について「彼らは正直な人間で、奴隷や娼婦を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこれについては死を賭ける。琉球人は偶像崇拝者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」と記しているそうです。
私の個人的見解ですが、一番理想的なのは「琉球国」として独立することなのかもしれません。しかし、独立しても中国の恰好のターゲットになってしまうのは必至です。日本と米国との歴史に翻弄され、沖縄県民としては怒りが治まらないのは理解できます。
日本が道州制を導入して、「琉球州」(仮名)として独立自治をするのが最善ではないかと考えています。州になれば独自の法律も作れますし、独自の外交もできます。独自に軍隊を持つこともできますが、沖縄県民の気質としては望まない事でしょう。そうなると日本の自衛隊が安全を担うことになり、日本の安全を担っているのは米軍に依存していますから安全保障の面からは、沖縄にとっての大きなメリットは無いのかもしれません。しかし、米国とは日本政府を通さずに独自の外交が出来ますから、今よりは基地交渉などは沖縄の想いを直接伝えることが出来るようになると思います。

如何でしたでしょうか。沖縄は元々独立国家であり、その主権は尊重されるべきではないかと思います。しかし、安全保障上は昨今の中国情勢を見る限り、日本に帰属している方が有利ではないかと考えます。沖縄県民の方にはお叱りを受けるかもしれませんが、日本の沖縄県としての歴史よりも琉球王国としての歴史の方が長い訳ですから、これから100年200年と歴史を積み重ね、日本の沖縄県となっていくしかありませんね。個人的には沖縄の海や自然が大好きです。

 

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