歴史を紐解く(廃藩置県)- 鹿児島県編



今回は、鹿児島県の歴史を紐解いてみました。
前回、取り上げました宮崎県は明治時代の一時期、鹿児島県に併合されていました。「宮崎県編」と併せて読むと分かりやすいと思います。今回、日向国の属する藩には触れていませんので、「宮崎県編」を閲覧ください。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の鹿児島県になるまでの変遷です。

薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩です。沖縄県の歴史にも絡んできますので、琉球王国については、沖縄県編で詳しく調べますが、今回少しだけ触れておきます。

薩摩藩
薩摩藩は通称で、版籍奉還後に定められた正式名称は鹿児島藩です。藩庁は鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)に置かれました。鹿児島城は、別名「鶴丸城」(つるまるじょう)の名で呼ばれています。現地の案内図や看板などは「鶴丸城」表記でほぼ統一されており、「鹿児島城」での表記はほとんどありません。歴代の藩主は島津氏です。外様大名でありながら、琉球を含めた最高石高は90万石(籾高であり、実際の玄米高は約半分)と加賀藩に次ぐ大藩を形成していました。
幕末から明治維新にかけて、「西郷隆盛」や「大久保利通」などの有力政治家を数多く輩出しました。第一次世界大戦までの日本の政治を支配した藩閥政治では、「薩摩閥」と呼ばれ、長州藩とともに有力な政治勢力を形成していました。
島津氏は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3か国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名・戦国大名です。1587年(天正15年)に豊臣秀吉の九州征伐によって豊臣氏に服属し、薩摩・大隅・日向の一部に跨がる所領の支配を認められました。
豊臣秀吉の文禄・慶長の役の間、留守を預かる武士の青少年の風紀が乱れたことがあり、これを心配した留守居役の家老たちが考案した青少年教育システムが郷中教育(ごじゅうきょういく)と言われています。

郷中教育では、以下の教育理念を教えたそうです。

  • 武道が第一である。
  • 武士道の本義を油断なく実践せよ。
  • 用事でグループ外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな。
  • 何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である。
  • 仲間に無作法など申しかけず、古風を守れ。
  • グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである。
  • 嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし。
  • 忠孝の道は大仰にするものではない。その旨心がけるべきであるが、必要なときには後れを取らぬことが武士の本質である。
  • 山坂を歩いて体を鍛えよ。
  • 髪型や、外見に凝ったりすることが、「二才」(薩摩の若者)なのではない。万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが「二才」の第一である。この事は部外者には判らぬものである。
  • 負けるな。
  • 弱いものいじめをするな。
  • たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない。
  • 金銭欲・利欲をもっとも卑しむべきこと。

安永2年(1773年)に藩校「造士館」および武芸稽古場「演武館」が創設されると、造士館・演武館以外の場での武術教授や「郷中」における集団的活動は禁止されました。しかし、幕末に「鎌田正純」が郷中教育を活性化し、藩意の下、士風粛正の手段として文武を奨励し、剣術の稽古を出席制で行っていました。明治維新で武士階級は消滅しましたが、現在でも郷中の思想が受け継がれています。

造士館・演武館跡

島津氏は、関ヶ原の戦いで西軍につきますが、徳川四天王の一人「井伊直政」の取りなしで本領を安堵され、島津義弘の三男「島津家久」が当主と認められ、初代藩主となります。
1609年(慶長14年)、琉球に出兵して琉球王国を服属(琉球征伐)させ、琉球の石高12万石を加えられました。奄美群島は琉球と分離され、薩摩藩が大島代官、喜界島代官、徳之島代官、沖永良部代官を配置して直接支配しました。沖縄本島以南は那覇に琉球在番奉行を派遣して琉球王国を管理しましたが、実際には琉球王国は大幅な自治権を行使していました。薩摩藩の琉球支配は、年貢よりもむしろ琉球王国を窓口にした中国との貿易が利益をもたらしていました。また、薩摩には奄美産の砂糖による利益がもたらされました。その他加増を受けて従来の56万石から72万石の大藩となっています。(その後、石高の高直しなどにより、表高は77万石となります。)
旧来の支配者から転封を経ずに近世大名に移行した薩摩藩は、旧来の支配体制を残し、外城制(武士を鹿児島城下ではなく、領内に分散した拠点「外城」に居住させる。)や門割(農民を数戸ごとのグループ「門」に分け、土地を所有させる。)などの独特の制度を持ちました。しかし、多くの郷士を抱え、士分の者が全人口の約40パーセント(壬申戸籍における明治維新直後の華士卒族の割合は全人口の約6パーセント)を占めるうえ、藩内の土壌の多くは水持ちが悪く稲作には適さないシラス台地であったため土地が貧しく、表高は77万石でも実質は35万石ほどの収益しかありませんでした。かつ、南西諸島ほどではないが台風や火山噴火などの災害を受け易い立地であったため、藩政初期から財政は窮迫していました。さらに、徳川幕府の有力藩に対する弱体化政策の下で、大規模な御手伝普請を割り当てられました。特に1753年(宝暦3年)に命じられた木曽三川改修工事(宝暦治水)の多大な出費により、所領が現場から遠いこともあって藩財政は危殆に瀕しました。工事を指揮した薩摩藩家老平田靱負は、多くの犠牲者と藩財政の疲弊の責任を取って工事完了後に自害しています。
第8代藩主・島津重豪は、閉鎖的であったそれまでの藩政を改革し、1773年(安永2年)に、藩校「造士館」と「演武館」の設立を手始めに、「医学院」や「明時館」と次々に学校を設立します。「成形図説・百巻」(農業書)など各種図書の編纂事業も行いました。また、江戸幕府との結びつきを強めるため、三女の茂姫を第11代将軍・徳川家斉に嫁がせました。(外様大名から将軍正室を輩出したのは薩摩藩だけです。)これら重豪の豪奢な事業により薩摩藩の全国的な政治的影響力は格段に上がったものの、藩財政は更に困窮の度を増していきました。
その後1827年(文政10年)、調所広郷を中心に藩政改革が断行され、藩債整理、砂糖専売制の強化、琉球貿易の拡大などを打ち出して、財政は好転しました。1851年(嘉永4年)に第11代藩主となった島津斉彬の下で、洋式軍備や藩営工場の設立(集成館事業)を推進し、また、養女の篤姫を第13代将軍・徳川家定の正継室にするなど、幕末の雄として抬頭しました。斉彬の死後、12代目藩主「島津忠義」は、第14代将軍「徳川家茂」に謁見し、家茂から偏諱(「茂」の字)を授かって「島津茂久」と改名し、幕末を迎えます。
茂久の実父にして、斉彬の異母弟にあたる「島津久光」が実権を握り、「国父」・「副城公」と呼ばれました。公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動しますが、薩英戦争を経て西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移ります。幕末には公武合体論や尊王攘夷を主張し、その後長州藩と薩長同盟を結んで明治維新の原動力となり、明治以降の長きにわたって日本政治を支配する薩摩閥を形成することとなります。
琉球諸島を除く薩摩藩領は、直轄地の奄美群島とともに1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県を経て鹿児島県となります。

鶴丸城(鹿児島城)

鶴丸城俯瞰図

西郷隆盛銅像

天璋院篤姫

医学院跡

薩摩藩は、幕末から明治にかけて日本の政治に深く関わってきています。少し年表を整理しておきましょう。

室町時代
1543年(天文12年)
ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲伝来する。

1543年(天文18年)
マラッカ(現在のマレーシア)で出会った薩摩出身の元漁師の「アンジロウ」という日本人の案内で、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝える。

安土桃山時代
1574年(天正2年)
大隅の肝付氏が島津氏に降伏し、島津氏が県本土(薩摩・大隅)を統一する。

1577年(天正5年)
伊東氏を日向から追い出し、島津氏は三州のほぼ全域を統一する。

1587年(天正15年)
島津義久は、ほぼ九州全域を征服したが、豊臣秀吉に屈服し、領国は薩摩・大隅・日向(諸県郡)に押し込められる。

1609年(慶長14年)
薩摩藩は琉球出兵を行って琉球王国を服属させ、奄美群島を領土に組み入れ、当地を使った砂糖業を成功させ、莫大な利益をあげる。

江戸時代については、本文に記載のとおり。

幕末(江戸時代)
1846年(弘化3年)
大久保利通が、薩摩藩の「記録所書役助」として出仕する。

1850年(嘉永3年)
大久保利通は、お由羅騒動で、父「大久保利世」とともに連座して罷免され謹慎処分となる。

1851年(嘉永4年)
島津斉彬が43歳で薩摩藩主となり、集成館事業に着手する。
※集成館事業については「明治日本の産業革命遺産【エリア2 鹿児島】」を参照してください。

1853年(嘉永6年)
今和泉島津家の娘一子が、島津斉彬の養子となり名を篤姫と改める。
※天璋院篤姫については「明治日本の産業革命遺産【エリア2 鹿児島】」を参照してください。

1854年(安政元年)
西郷隆盛が、島津斉彬の江戸参勤に同行し、「御庭方役」となり、斉彬から直接教えを受けるようになる。碩学「藤田東湖」にも会い、国事について教えを受ける。

1855年(安政2年)
島津斉彬が計画する、幕府を中心とした中央集権体制作り、開国・富国強兵政策を推進するため、西郷隆盛はその手足となって活動する。

1856年(安政3年)
島津斉彬養女篤姫が、右大臣「近衛忠熈」の養女となり敬子と名を改める。
「近衛忠熈」養女敬子(篤姫)が、徳川家定と婚礼する。

1857年(安政4年)
大久保利通は、西郷隆盛とともに徒目付となる。

1858年(安政5年)
島津斉彬が死去する。
西郷隆盛は、斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、尊皇攘夷派の僧侶「月照」らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意する。
尊王攘夷派による倒幕の動きを警戒する幕府からの追及を恐れた薩摩藩は、「月照」らを日向国へ追放することを決定する。
西郷隆盛は、「月照」らとともに大坂を出航し、日向国へ向かう途中、前途を悲観して「月照」とともに入水自殺を諮るが、救助され西郷隆盛だけは運良く蘇生する。
薩摩藩は、幕府の目から隠すために西郷隆盛の職を免じ、奄美大島に潜居させる。
大久保利通は、失脚した西郷隆盛に代わり、新藩主・島津茂久の父「島津久光」に接近する。
※篤姫の兄で吉祥院の住職・乗願が島津久光の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。

1860年(万延元年)
大久保利通は、島津久光と初めて面会し、「勘定方小頭格」となる。

1861年(文久元年)
大久保利通は、「御小納戸役」に抜擢され藩政に参与し、家格も「一代新番」となる。

1862年(文久2年)
武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、島津茂久の父「島津久光」の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷する。(生麦事件)
大久保利通は、島津久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の「岩倉具視」らとともに公武合体路線を指向する。「御小納戸頭取」に昇進し、島津久光側近となる。

1863年(文久3年)
生麦事件の解決を迫るイギリスと、薩摩藩との間で鹿児島湾において「薩英戦争」が勃発する。
大久保利通が、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する。

1866年(慶応2年)
薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟である「薩長同盟」を締結する。
大久保利通は、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵を拒否する。

1867年(慶応3年)
大久保利通は、「雄藩会議」の開催を西郷隆盛らと計画し、四侯会議を開催させる。しかし四侯会議は「徳川慶喜」によって頓挫させられる。これにより改めて大久保利通は、公武合体路線から武力倒幕路線を指向する。
江戸幕府第15代将軍「徳川慶喜」が政権返上を明治天皇に奏上し、天皇が奏上を勅許する。(大政奉還)

1868年(慶応4年)
王政復古を経て、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った「戊辰戦争」が勃発する。
大久保利通が、太政官にて大阪への遷都を主張する。

明治時代
1869年(明治2年)
大久保利通が、参議に就任し版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。
議事体裁取調所による調査を経て、新たに立法議事機関として公議所が設置され、同年、集議院に改組される。

1871年(明治4年)
大久保利通が、大蔵卿に就任し岩倉使節団の副使として外遊する。
外遊中に問題になっていた朝鮮出兵を巡る論争では、西郷隆盛らと対立する。

1871年(明治4年)
廃藩置県が実施され、太政官官制が改革される。
太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となる。

1873年(明治6年)
大久保利通が内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握る。
学制や地租改正、徴兵令などを実施し、「富国強兵」をスローガンとして殖産興業政策を推進する。政変にて西郷隆盛を失脚させる。

1874年(明治7年)
佐賀の乱が勃発する。大久保利通が、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征し鎮圧する。
民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であるとの「民撰議院設立建白書」が左院に提出される。これを契機として、薩長藩閥による政権運営に対する批判が噴出し、各地で政治結社が名乗りを上げ、自由民権運動が起こる。各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安は極めて悪化する。

1875年(明治8年)
大久保利通や伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允や板垣退助らの民権派が大阪に会して談判した「大阪会議」の結果、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言した「立憲政体の詔書(漸次立憲政体樹立の詔)」が渙発される。

1876年(明治9年)
明治天皇は、元老院議長「有栖川宮熾仁親王」へ「国憲起草を命ずるの勅語」を発する。

1877年(明治10年)
西郷隆盛(薩軍)を盟主に、士族による武力反乱が勃発する。(西南戦争)
大久保利通(官軍)が、西南戦争で京都にて政府軍を指揮する。
西郷隆盛は、城山決戦にて政府軍の総攻撃により被弾し覚悟を決め、同志の「別府晋介」に首を刎ねさせる。死後、賊軍の将として遇され、「行在所達第四号」により官位を褫奪(ちだつ)される。

1878年(明治11年)
地方の政情不安に対処するため、府県会規則を公布して各府県に民選の地方議会である府県会を設置し、これが日本で最初の民選議会となる。
大久保利通が、石川県士族および島根県士族により暗殺される。(紀尾井坂の変)

1880年(明治13年)
元老院は「日本国国憲按」を成案として提出し、大蔵卿「大隈重信」も憲法意見を提出する。しかし、岩倉具視・伊藤博文らの反対にあい、両意見共々不採択となる。

1881年(明治14年)
岩倉具視を中心とする勢力は、政変によって「大隈重信」を罷免し、その直後に御前会議を開いて「国会開設」を決定し、国会開設の勅諭が発っせられる。この勅諭では、第一に、国会(議会)開設を約束し、第二に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第三に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、政府は政局の主導権を取り戻す。

1889年(明治22年)
大日本帝国憲法(明治憲法)発布
西郷隆盛の人柄を愛した明治天皇の意向などで、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈される。

1890年(明治23年)
大日本帝国憲法(明治憲法)施行

廃藩置県前後の歴史を紐解くことで、日向国(宮崎県)が鹿児島県に併合された背景が分かるような気がします。江戸幕府から地理的にも遠く、独自の制度で発展してきた薩摩藩は、琉球王国を通じて海外からの情報をいち早く捉え、知識を蓄えて行きました。また、郷中教育により精神的にも鍛錬された人材が出てきたようです。「西郷隆盛」や「大久保利通」などが、近代日本の礎を築いて行った背景には、このような歴史があったのかと感動しました。また、西郷隆盛を育てたとも言える「島津斉彬」の存在も大きいと思います。明治天皇からもその人柄は愛されており、西南戦争では、明治天皇も心を痛められたようです。一方、「大久保利通」は野心家であり、常に政治の中枢に身を置き、その知識と野心で政治の近代化に尽力しています。しかし、士族(武士)の特権を次々と剥奪し、不満を募らせた士族(武士)から暗殺されたことは、西郷隆盛とは対照的です。

如何でしたでしょうか。鹿児島は、火山とシラス台地により痩せた土地が多く、肥沃な土地を持つ宮崎が欲しかったとしても、当時の日本としてはおかしくありません。まして、政府の中枢で薩摩藩が実権を握っていたとすれば、廃藩置県で有利に動いたとしても不思議はありませんね。また、明治憲法下の日本の教育方針は、郷中教育の影響を色濃く感じます。

 

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