歴史を紐解く(廃藩置県)- 宮崎県編


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今回は宮崎県の歴史を紐解いてみました。
前回、取り上げました大分県は大変複雑で、政治に翻弄されてきた側面がありました。宮崎県も政治に翻弄されてきたようです。
下表は、1869年の版籍奉還から現在の宮崎県になるまでの変遷です。

本題に入る前に年表について補足しておきます。

慶応4年閏4月25日(1868年)
富高県・日田県 発足
慶応4年8月17日(1868年)
富高県 廃止(日田県に編入)

版籍奉還直後 明治2.7.1(1869年)
日田県・延岡藩・高鍋藩・佐土原藩・飫肥藩

廃藩置県 明治4.7.14(1871年)
日田県・延岡県・高鍋県・佐土原県・飫肥県

第1次府県統合 明治4.11.14(1871年)
美々津県(旧富高県・延岡県・高鍋県・佐土原県・飫肥県の一部)
都城県(飫肥県の一部・鹿児島県東北部)

第2次府県統合
明治9.4.18(1876年)
宮崎県(美々津県全域・都城県を鹿児島県と分割)
明治9.8.21(1876年)
鹿児島県(宮崎県の全域を鹿児島県に統合)

郡区町村編制法施行 明治12.2.17(1879年)
鹿児島県に諸県郡が発足
明治16.5.9(1883年)
諸県郡の一部を分離
宮崎県(北諸県郡)、鹿児島県(南諸県郡)

大変複雑ですね。私が興味深いところは、美々津県(現在の宮崎県)が日田県(現在の大分県)に含まれているところと一時、宮崎県は無くなり、鹿児島県になっているところです。何故そうなったのかを考えながら見ていきたいと思います。

富高県
富高県(とみだかけん)は、1868年(慶応4年)に日向国内の幕府領を管轄するために明治政府によって設置された県です。県庁は富高陣屋(宮崎県日向市)に置かれました。
江戸時代、日向国内の幕府領は西国筋郡代の管轄下に置かれていました。その管轄地域のうち、豊前国・豊後国には日田県、日向国には富高県が設置されました。
「日向国」の文献上の初見は、「続日本紀」(698年)だそうです。成立時期は明らかではありませんが、当初は、薩摩国・大隅国を含む領域を有していたそうです。大宝2年(702年) に唱更国(後の薩摩国)、和銅6年(713年)に大隅国が分立したとされています。
南北朝時代には、北朝方より南九州の大将として「畠山直顕」が日向国に派遣され、南朝方の勢力と対立しましたが、島津氏など在地勢力は、かく乱作戦により、畠山直顕の支配に抵抗したそうです。直顕は観応の擾乱において島津氏と争い敗れました。その後も九州探題が南九州に影響を伸ばそうとするも失敗し、やがて日向国の守護職は島津氏が世襲するようになっていきます。
南北朝から室町時代中期にかけては、群雄割拠の状況となり、勢力争いが展開されました。
戦国時代になると、何でもありの領地争いとなっていきます。最終的に島津氏が1578年の「耳川の戦い」において大友氏に大勝し、日向国一円を支配することになります。その後、秀吉の九州征伐を受け、島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知されることになります。
日向国を幕府直轄地(天領)とし、強大な勢力を持つ島津氏が迂闊に手を出せないようにしたのではないかと考えられます。

富高陣屋跡

富高陣屋の鎮守稲荷社と称していましたが、現在は「幸福神社」と呼び、富高陣屋跡の碑が立っています。宮崎県発足当初、臨時的に旧富高県庁が宮崎県庁として使用されていました。

延岡藩
延岡藩(のべおかはん)は、旧日向国北部と現在の宮崎市の北部を領有した藩です。別名、縣(県)藩(あがたはん)とも呼ばれています。藩庁は延岡城(宮崎県延岡市)に置かれました。牧野氏以降明治維新までは豊後国等の一部と共に領有していました。また、有馬氏期までの延岡は縣(県)と称していたので、縣藩(あがたはん)とも呼ばれています。
縣(あがた)とは、県(けん)の原形で、江戸時代には「地方」や「田舎」の意味に用いられていたようです。今でも古い戸籍などは「宮崎縣」と記載されています。もちろん他県でも同様です。
豊臣秀吉の九州征伐後、「高橋元種」が豊前国香春領主から延岡南部の松尾城5万石に封ぜられます。その後、関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り、江戸幕府より旧領を安堵されています。元種は縣城(延岡城)を築城し、松尾城より移り、初代の藩主となっています。慶長18年(1613年)、幕府の罪人「水間勘兵衛」を高千穂に匿ったとして改易処分となり、陸奥棚倉藩主「立花宗茂」預かりとなります。その後、慶長19年(1614年)、肥前国日野江藩より「有馬直純」が入封しています。有馬家の支配は3代続き、3代目「有馬清純」は、百姓一揆により、その首謀者の処刑と同時に改易され、改めて陣屋大名に格下げの上、越後国糸魚川藩に転封となりました。
元禄5年(1692年)、譜代大名「三浦明敬」が下野国壬生藩より入封し、高鍋藩との国境問題や山陰・坪谷村一揆の後処理に尽力し、正徳2年(1712年)、三河国刈谷藩に転封となっています。代わって三河国吉田藩より「牧野成央」が入封し、日向国内のみならず豊後国大分郡・国東郡・速見郡を領有しました。2代目「牧野貞通」は、京都所司代に出世するも、経費が嵩み藩財政は困窮し、延享4年(1747年)、三方領地替えにより牧野氏は常陸国笠間藩に転封となります。代わって陸奥国磐城平藩より「内藤政樹」が、前領地だった磐城平藩で起った「磐城騒動」の責任を取らされ、懲罰的に延岡に移封されています。内藤氏の支配は、最も長く続き8代目までの全てが養子という珍しい記録を持っています。内藤氏の統治時代は、財政難とそれに伴う百姓一揆に悩まされ続けたものの、第8代藩主「内藤政挙」の時代に幕末を迎えます。要約すれば転勤に悩まされた藩とも言えそうです。

延岡城跡

高鍋藩
高鍋藩(たかなべはん)は、現在の宮崎県児湯郡の東部(高鍋町、川南町、木城町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市(瓜生野・倉岡の一部)、国富町(木脇)を領有していた藩です。藩庁は高鍋城(宮崎県児湯郡高鍋町)に置かれました。高鍋は財部(たからべ)と称していたので、財部藩(たからべはん)とも呼ばれています。
豊臣秀吉の九州征伐後、「秋月種実」が筑前国領主から日向国串間3万石に封ぜられます。その後、種実は家督を嫡男の「秋月種長」に譲って隠居します。「秋月種長」は関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り、江戸幕府より旧領を安堵されています。種長は居城を財部城(高鍋城)に移し、初代の藩主となっています。
江戸時代中期、6代目「秋月種美」の次男は、米沢藩(上杉氏)の養子となり、名君で有名な上杉鷹山(治憲)となります。その兄に当たる7代目「秋月種茂」も、1778年(安永7年)には、藩校「明倫堂」を開き高鍋藩の歴代藩主の中の名君と呼ばれています。その後、第10代藩主「秋月種殷」の時代に幕末を迎えます。
藩校明倫堂は、県立高鍋農業高校の敷地内に石碑が建てられています。

高鍋城跡

藩校明倫堂跡石碑

佐土原藩
佐土原藩(さどわらはん)は、江戸時代に日向国那珂郡及び児湯郡を領有した藩です。藩庁は佐土原城(宮崎県宮崎市)に置かれました。
島津貴久の弟・忠将の子である「島津以久」が、日向国那珂郡・児湯郡内で3万石を与えられて独立し、居館を佐土原城に構えます。この地は元々島津一族の一人であった島津家久・豊久親子の領地でありましたが、関ヶ原の戦いで豊久が死去し無嗣断絶扱いになり、改めて江戸幕府より「島津以久」に与えられ、初代藩主となります。この時、家久・豊久来の譜代の家臣に加え、以久が松木氏など新参の家臣を垂水より引き連れてきたため、後の門閥対立の原因となります。
6代目「島津惟久」の出生後まもなく、父「島津忠高」を失い、成長まで番代として忠高の従兄弟である久寿が養子となって家督を継ぎます。藩内では、5代目「島津久寿」の父「島津久富」や重臣「松木左門」の台頭によりお家騒動(松木騒動)となります。その後、薩摩藩の介入により、久寿は16歳に成長した惟久に家督を譲りますが、幕府の意向により3000石を島之内に分与され、佐土原藩の石高は27000石に減じられています。
佐土原は元々城下町であったため、1699年(元禄12年)に城主の格式が与えられています。その後、第11代藩主「島津忠寛」の時代に幕末を迎えます。
忠寛は、1869年(明治2年)に戊辰戦争の激戦の功により、賞禄3万石を与えられています。佐土原藩は版籍奉還後にも関わらず、明治政府からの許可を得た上で佐土原城から新しく築城する広瀬城へ移るよう転城令を出しています。
2代目「島津忠興」が武道奨励のために組織した「弓場組」が、幕末には政治結社化し、横行していたのと新しい組織替えを意図しての転城令でしたが、廃藩置県により広瀬築城は中止されました。
薩摩藩との関係は仙台藩と宇和島藩あるいは盛岡藩と八戸藩との関係に近いもので、薩摩藩支藩ではないとの見解もあります。大名ではあるものの、代々の佐土原藩主正室には、島津氏の姫や薩摩藩家老の娘を含む薩摩藩出身者が多いことと、薩摩藩から佐土原藩への介入はあっても佐土原藩から薩摩藩への介入はなかったことなどから従属関係にあったことは間違いありません。

佐土原城跡

佐土原城跡は、平成元年(1989)に発掘調査が行われ、柱穴・根石や石組・木組の暗渠などの遺構が見つかりました。これらの遺構に基づいて、二の丸跡に大広間・書院・数寄屋が復元され、平成5年6月に宮崎市佐土原歴史資料館(鶴松館)が開館しています。

飫肥藩
飫肥藩(おびはん)は、日向国那珂郡のある南部(宮崎県日南市の全域および宮崎市南部)を支配した藩です。藩庁は飫肥城に置かれました。
日向伊東氏は鎌倉時代に日向国の地頭に任じられ、1335年に「伊東祐持」が「足利尊氏」によって都於郡300町を宛がわれて下向した事に始まります。一時は島津氏との争いに敗れ日向を追われますが、「伊東祐兵」が豊臣秀吉の九州平定に付き従い、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により飫肥の地を取り戻し、初代藩主となります。
関ヶ原の戦いでは祐兵が大坂で病を得ていた為、成り行きで西軍につきますが、密かに黒田如水を通じて東軍に味方をしました。嫡男祐慶を下向させて宮崎城(宮崎市池内町にあったと言われる。)を攻撃し事無きを、得ました。元和3年(1617年)2代将軍「徳川秀忠」より飫肥藩5万7千石の所領を安堵され、朱印状を受けます。
3代目「伊東祐久」は、弟の「伊東祐豊」に3千石を分与して「旗本寄合」とします。4代目「伊東祐由」は、弟の「伊東祐春」に3千石を分与して「表向御礼衆交代寄合」としたため、以後、石高は5万1千石となっています。
温暖で湿潤な気候を利用し、杉・檜などの林業を発展させ、今日でも「飫肥杉」はこの地の特産として残っています。また、同時に漁業も藩財政の一翼を担っていました。
11代目「伊東祐民」は学問所を設け、これが藩校「振徳堂」となりました。
14代目「伊東祐帰」の時代に幕末を迎えます。幕末の飫肥藩は、藩士の家禄を1/3に減じ、倹約令を出すほどの極度の財政難に陥っていました。
なお、明治時代、外務大臣となりポーツマス条約締結を行った小村寿太郎は飫肥藩の出身です。

飫肥城跡

藩校振徳堂

旗本寄合とは、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の格式のことです。簡単に言えば名誉ある家柄を与えられることです。
表向御礼衆交代寄合とは、表向御礼衆のことで、大名と同じ扱いを受け、登城の際は表御殿でそれぞれの間に詰める大名嫡子の後に将軍と拝謁できる格式のことです。簡単に言えば大名と同格の家柄を与えられることです。

宮崎県の県庁所在地である宮崎市は、大淀川の右岸の河口付近にある城ヶ崎という地域に町を開いたのが始まりです。この城ヶ崎は赤江港を控えた商人の町として上方との交易が行われ、俳句などの町人文化が発達し、江戸時代が終わるまで繁栄しました。それ以外の地域は、前述のとおり政治に翻弄された変遷をたどっています。廃藩置県で美々津(みみつ)県と都城(みやこのじょう)県が誕生した時、現在の宮崎市域は、大淀川を県境とする県境地帯でした。その後、1873年に美々津県と都城県東部が合併し、県の中央部に県庁を置く必要から、宮崎郡上別府村に県庁が置かれることになりました。一時、宮崎県は鹿児島県に併合され、宮崎県庁は鹿児島県の宮崎支所となりますが、1883年に「川越進」らによる分県運動によって宮崎県が再置されることになります。再び宮崎県庁が上別府に置かれ、宮崎町を経て宮崎市となりました。こうして、地理的に県の中心部に位置し、広い宮崎平野を後背地とする宮崎市は、県庁を中心として発展していくこととなったのです。

宮崎県庁

如何でしたでしょうか。現在の宮崎県の南部や宮崎市域まで島津氏の息がかかっており、かなりの影響を与えていたことが分かります。一時、鹿児島県に併合されていることから、明治政府になってからも島津氏の影響はあったと考えられます。これらの事は、鹿児島県をテーマにするときに見えてくると思います。
飫肥(おび)ですが、随分昔に行ったことがあります。内陸部にあり、あまり宣伝されていませんが、風情ある城下町です。管理人お勧めです。
写真のとおり宮崎県庁も風格がありますよね。「そのまんま知事」として有名な東国原英夫氏の発案で見学ツアーも実施されています。

 

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