歴史を紐解く(廃藩置県)- 大分県編



今回は大分県の歴史を紐解いてみました。
前回の掲載を閲覧された方はご存知のとおり、天気予報などでは、明治以前の国名を未だに使っていることから大変面白いテーマだと思うので、是非、ご一読ください。これまで福岡県、熊本県を取り上げましたので、九州から取り上げた方が前のテーマとのつながりが分かりやすいと思うので大分県を選んでみました。

下表は、1869年の版籍奉還から現在の大分県になるまでの変遷です。

私が興味深いところは、小さな藩が寄せ集まっている事、美々津県(現在の宮崎県)が日田県(現在の大分県)に含まれているところです。また、元々、大分藩というものは存在していないところも面白いと思います。
1979年に当時の大分県知事である平松守彦氏により提唱された「一村一品運動」は、このように伝統的に独立性の高い土地柄を考慮したのではないかと考えられます。

中津藩
中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩です。藩庁は中津城に置かれました。(一時、藩庁は小倉城に移る。)廃藩置県の後、中津県・小倉県・福岡県を経て大分県に編入されました。年表を見ても分かる通り、大分県では最大の藩です。最終的に大分県に編入されることとなりましたが、政治に翻弄された側面があったのかもしれません。中津と言えば慶應義塾の創設者で「学問のすすめ」で有名な「福澤諭吉」がいます。福沢諭吉は、摂津国大坂堂島浜(現・大阪府大阪市福島区福島1丁目、通称 (ほたるまち)にあった豊前国中津藩(現・大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の次男(末子)として生まれ、翌年には父の死去に伴い中津に帰藩しています。

中津城

福沢諭吉旧居

杵築藩
杵築藩(木付藩、きつきはん)は、江戸時代の豊後国国東郡・速見郡内を領した藩です。藩庁は杵築城(大分県杵築市)に置かれました。細川忠興は、関ヶ原の戦いの戦功により木付と呼ばれたこの地も領地の一部となり、小倉藩で所領していました。

杵築城

日出藩
日出藩(ひじはん)は、豊後国速見郡に存在した藩です。藩庁は日出城に置かれました。豊臣秀吉の正室・高台院(於禰)の兄・木下家定の三男である木下延俊は、「関ヶ原の戦い」での功績により戦後、徳川家康から5千石加増の豊後国速見郡日出3万石に封じられました。その後16代にわたって木下氏は日出を支配し、幕末を迎えています。

日出城跡

府内藩
府内藩(ふないはん)は、豊後国大分郡府内周辺を支配した藩です。藩庁は府内城(大分県大分市)に置かれました。府内藩には、政治に翻弄された歴史があります。
府内城は大友氏の居城でありましたが、大友吉統は文禄の役で卑怯なる振る舞いをしたとされ、豊臣秀吉の怒りを買って改易されました。その後、豊後高田領主の竹中重利は、「関ヶ原の戦い」で西軍から東軍に寝返ったため、戦後に徳川家康から賞されて高田1万石から府内2万石に加増移封されました。重利の跡は子の重義が継いで、徳川秀忠の寵を得ましたが、罪を得て改易されています。
代わって下野国壬生藩より「日根野吉明」が2万石で入りますが、無嗣改易(跡継ぎがいないか認められない。)されました。その後、豊後高松藩より松平忠昭が2万1000石で入り、大給松平家が10代にわたって支配し幕末を迎えています。

府内城跡

佐伯藩
佐伯藩(さいきはん)は、江戸時代に豊後海部郡に存在した藩です。藩庁は佐伯城(大分県佐伯市)に置かれました。
初代藩主の毛利高政は、豊臣秀吉の中国征伐や九州征伐、そして文禄の役に参戦して功績を挙げ、日田郡と玖珠郡にある豊臣家の蔵入地8万石と佐伯2万石の代官に任ぜられます。慶長の役では秀吉の命令で軍監を勤め、秀吉の死後、日本に帰国しました。
秀吉の側近であった石田三成一派とは対立しており、朝鮮では水軍の将を務めた武断派であったことからも三成とは不仲でした。関ヶ原の戦いでは、当初こそ西軍に属していましたが、盟友の藤堂高虎の説得および九州で留守部隊を率いていた東軍の黒田如水より東軍への勧誘工作もあり、東軍に寝返りました。高虎の取り成しもあり、徳川家康の命令で高政は同じ石高での日田から佐伯栂牟礼城以下2万石に移封されています。
その後、第3代から第6代までの御家騒動や家督問題で、佐伯藩は断絶の危機もありましたが、第12代「毛利高謙」まで続き幕末を迎えています。

佐伯城跡

臼杵藩
臼杵藩(うすきはん)は、豊後国に存在した藩です。藩庁は海部郡臼杵城(大分県臼杵市)に置かれました。
鎌倉時代から戦国時代までの豊後国は、大友氏の支配下にあり、豊臣政権下でも大友氏は豊後一国の領有を許されました。しかし、文禄の役で大友義統(大友宗麟の子)が卑怯なる振る舞いをしたとして、秀吉の怒りを買い改易されています。
その後、豊後国には豊臣家臣団が分散配置されることとなり、臼杵には太田一吉が6万5000石で入りました。6万5000石は、豊後に分散配置された諸大名の中では大封であります。「関ヶ原の戦い」で一吉は石田三成との誼の経緯から西軍に与したために、戦後に改易された後、稲葉貞通が、「関ヶ原の戦い」で西軍から東軍に寝返り、関ヶ原本戦に参加して武功を挙げたことにより、美濃国郡上八幡4万石から臼杵5万石に加増移封され、臼杵藩の初代藩主となります。江戸時代中期以降、財政の逼迫や嗣子に恵まれないなどの不遇を乗越え、第15代「稲葉久通」まで続き幕末を迎えています。
臼杵と言えば、臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)が有名です。一般には臼杵石仏(うすきせきぶつ)の名で知られており、国の特別史跡に指定されています。

臼杵城跡

臼杵石仏

岡藩
岡藩(おかはん)は、江戸時代の豊後国(大分県の一部)にあった藩です。藩庁は岡城(大分県竹田市)に置かれました。豊後国の大野郡・直入郡・大分郡を領し、豊後国内にあった藩の中では最大です。
初代藩主の中川秀成は、織田信長、豊臣秀吉に仕えた中川清秀の子で、播磨国三木城主でありましたが、66,000石で岡城に入封しました。その後の検地によって、約7万石となります。秀成は、「関ヶ原の戦い」において東軍に属したため徳川家康より所領を安堵され、一度の移封もなく第13代「中川久成」まで続き幕末を迎えています。
大分県竹田市は、「荒城の月」で知られる音楽家、「瀧廉太郎」が12歳から14歳まで暮らしたことで有名です。瀧廉太郎は、岡城跡で「荒城の月」の曲を構想したとされています。

岡城跡

瀧廉太郎記念館

森藩
森藩(もりはん)は、江戸時代に豊後国日田郡・玖珠郡・速見郡内を領した藩です。藩庁として森(現在の大分県玖珠郡玖珠町)に森陣屋が置かれました。
初代藩主の来島長親(のち康親)は、瀬戸内海で村上水軍の一軍として活躍した来島水軍の子孫です。「関ヶ原の戦い」では西軍に属しましたが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで、本多正信を通じ家名存続の沙汰を得ました。2代通春は、姓を久留島と改めます。
幕末、藩論は勤王倒幕で統一され、放棄された日田の西国筋郡代代官所警備を任され、第12代「久留島通靖」まで続いています。
飛び地の速見郡鶴見村(別府市)を所領していた当時、渡辺五郎右衛門が、湯の花小屋(明礬温泉)で、明礬の製造に初めて成功しました。明礬温泉にて湯の花を本格的に生産し、藩の重要な財源となっていました。この伝統的な明礬製造技術は、別府明礬温泉の湯の花製造技術として、国の重要無形民俗文化財に指定されています。また、藩庁が置かれた森陣屋のある大分県玖珠郡玖珠町の中心駅である豊後森駅の機関庫及び転車台は、「旧豊後森機関区の関連遺産」として近代化産業遺産に認定されています。

森陣屋栖鳳楼

明礬温泉湯の花小屋

豊後森駅転車台

日田藩
日田藩(ひたはん)は、日本の豊後国日田郡にあった江戸時代の藩です。永山城、日田陣屋に藩庁が置かれました。
安土桃山時代末期、大友氏が改易となったことで宮城豊盛が、蔵入地となった日田・玖珠郡の代官として赴任し、日隈城を築きます。その後、播磨国明石から毛利高政が2万石で移封し、宮城氏に替わって日隈城に居城します。この毛利氏支配の藩を隈藩(くまはん)ともいいます。
「関ヶ原の戦い」ののち、毛利氏が2万石で豊後国佐伯に移封されると、小川光氏(おがわ みつうじ)が日田に入ります。この年に日田郡は3分割され、豊後国玖珠郡森に入封した来島氏の所領と佐伯藩毛利氏の預かり地、そして小川氏の治める分を所領することになります。その後、石川忠総が美濃国大垣から日田郡に封じられ丸山城に入りますが、下総国佐倉に転封となり、領地は、小笠原氏2藩(中津藩・杵築藩)の預り地となっています。
日田郡領は森藩領を除いて幕府直轄領として管理されるところとなり、初代代官に小川藤左衛門、小川九左衛門の2名(二人制)が入領します。第2代小川代官の時、百姓一揆である日田騒動が起り、代官は改易となり、新任の代官が送られるまで、肥後国熊本藩(細川綱利)の預り地となります。
その後、播磨国姫路から減封で松平直矩(結城松平家)が入封しましたが、出羽国山形へと転封となり、これ以降、日田郡は幕府直轄領として幕末を迎えます。

複雑なので少し整理します。
【日隈城(ひのくまじょう)】

1592年(文禄元年)宮城豊盛(みやぎ とよもり)により築城
1615年(慶長20年)一国一城令の発布により廃城

【永山城(ながやまじょう)「旧称丸山城(まるやまじょう)」】

1601年(慶長6年)小川光氏(おがわ みつうじ)により築城
1639年(寛永16年)初代代官2名入領により廃城
城跡の南に日田陣屋・代官所を設置し、幕府の拠点とする。

豆田町(まめだまち)は、大分県日田市市街地北部の花月川沿いにある地区です。江戸時代以降に建てられた建築群が現存し、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、天領日田の風情を残しています。

日隈城跡

永山城跡

日田陣屋跡

天領日田・豆田町

日向国(宮崎県)に存在した富高県は、4か月間存在したのちに日田県に編入されています。藩庁は富高陣屋に置かれました。こちらにつきましては、宮崎県編で詳しく見ていきましょう。

如何でしたでしょうか。大分県(豊後国)が、政治に翻弄されてきたことが良く分かると思います。今回のキーワードは「関ヶ原の戦い」でした。この戦で功績はあったものの秀吉や家康は、心から信用することは出来ず、大きな街道が無い不便なところを領地として与え、遠ざけていたと思われます。また、小藩同士での小競り合いなどもあったのではないかと推察できます。
冒頭で申し上げました通り、平松守彦氏により提唱された「一村一品運動」は、このような歴史を考慮したものと考えています。
逆に観光地としても、独自色のある見どころが沢山あります。有名な別府温泉もありますので、温泉と歴史散策で色々と楽しめるところでもあります。

 

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歴史を紐解く(廃藩置県)- 熊本県編
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