歴史を紐解く(廃藩置県)- 熊本県編



福岡県編が比較的好評だったので、今回は熊本県の歴史を紐解いてみました。
前回の掲載を閲覧された方はご存知のとおり、天気予報などでは、明治以前の国名を未だに使っていることから大変面白いテーマだと思うので、是非、ご一読ください。私の父方、母方、それぞれの祖母が熊本県出身であること、阿蘇の風景が大好きで、一日も早く美しい風景を取り戻してもらいたいとの想いから熊本県を選んでみました。

下表は、1869年の版籍奉還から現在の熊本県になるまでの変遷です。

私が興味深いところは、天草が長崎県に含まれていたところです。私の父方の祖父母、つまり、直系のおじいちゃんとおばあちゃんは、祖父が長崎県の島原の出身で、祖母が熊本県の天草の出身です。祖父母が出会った当時は、既に長崎県と熊本県に分かれていたはずですが、まだ、廃藩置県当時のご先祖様がご存命だったに違いありません。そう考えると明治時代には盛んに交流があったのではないかと考えられます。

熊本藩・高瀬藩・宇土藩
熊本藩(くまもとはん)は、肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行(ちぎょう)した藩。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(現在の熊本県熊本市)に置かれた。知行とは、日本の中世・近世において、領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念。江戸時代においては、間接支配を意味していると考えられる。鶴崎・佐賀関は別府湾に面しており、現在で言う飛び地のようなものであったと思われる。詳しくは「大分県編」で調べてみたいと思う。

熊本城(国の特別史跡)

熊本地震で大きな被害を受けたのは周知の事実である。

高瀬陣屋跡

写真のとおり現在は標識が建っているだけである。
肥後新田藩(高瀬藩)は、熊本藩の支藩である。寛文6年(1666年)熊本藩3代藩主・細川綱利の弟・利重が熊本藩の蔵米より3万5千石を分与され立藩した。江戸鉄砲洲に住み参勤交代を行わない定府大名であった。 しかし、明治維新により慶応4年(1868年)に仮藩庁を高瀬町奉行所(玉名市)に置いた。これにより、高瀬藩と改称した。明治3年(1870年)玉名郡岩崎村(玉名市)に正規の高瀬陣屋が完成し移った。しかし、同年には熊本藩に合併し廃藩となった。

宇土陣屋跡

写真のとおり現在は住宅街となっており、この付近であったとしか分かっていない。
宇土藩(うとはん)は熊本藩の支藩である。藩庁として宇土(宇土市)に宇土陣屋が置かれた。 正保3年(1646年)熊本藩2代藩主細川光尚の従兄弟行孝(初代忠利の弟・立孝の子)が宇土郡・下益城郡に3万石を分与され、現在は新小路町と称される「本町筋南側」の一角に陣屋(御屋敷)を構えた。6代立礼と8代立政は熊本藩主として迎えられている。11代225年在封し、明治3年(1870年)熊本藩に合併し廃藩となった。
江戸藩邸は永田町に上屋敷、愛宕の下と神保こうしに中屋敷、白銀猿町に下屋敷があった。また、大阪中ノ島常安町に大阪藩邸があった。

宇土古城跡

かつて宇土藩は、肥後国宇土郡、益城郡、八代郡あわせて17万5,000石(諸説あり)を所領していた。宇土城は小西行長によって宇土古城の東に位置する丘に築かれた平山城である。3重の天守などが建てられたが、小西行長が関ヶ原の戦いに敗れ、同時期に肥後国緑川以北と葦北郡を所領していた加藤清正が、宇土城攻略の功績によって小西領を併合して肥後一国の大守となり、宇土城を所有した。
寛永9年(1632年)の加藤氏改易によって細川領となった後は、宇土藩の藩庁である宇土陣屋が現在の新小路町に置かれ、跡地は荒蕪地とされた。
現在、宇土古城跡(宇土市神馬町)は国の史跡に指定され、歴史公園「史跡宇土城跡」として整備され建物跡・横堀・城門など一部の遺構が復元整備されている。また、近世宇土城跡は本丸跡が城山公園として整備され石垣、堀などが残っている。

人吉藩
人吉藩(ひとよしはん)は、肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩である。藩庁は人吉城(現在の熊本県人吉市)に置かれた。
1871年の廃藩置県実施当初、熊本藩は熊本県、人吉藩は人吉県とされたが、肥後南部を統括する県庁が八代に置かれる決定に伴い、人吉県は八代県に改名され、これに天草地方が編入された。また、熊本県も設置される県庁の所在地から白川県に名称が変わった。1873年に両県は合併して白川県に一本化されたが、県庁の熊本城移転を経て、1876年熊本県へと改名された。

人吉城跡(国の史跡)

現在の城跡は「人吉城公園」として整備され櫓や塀が復元されている。人吉城(ひとよしじょう)は、相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。

富岡藩(天草藩)
富岡藩(とみおかはん)は、肥後国天草郡(熊本県天草郡)を領有した藩である。藩庁は富岡城(苓北町富岡)に置かれた。天草藩ともいう。
1671年に戸田忠昌は、幕府に対し天草は天領であるべきと主張し認められた。戸田忠昌は奏者番兼寺社奉行となった当日に関東へ転封となり、以後、天草郡は天領として明治維新を迎えた。富岡藩の歴史は大変複雑であり、興味のある方は調べてみると良いだろう。

富岡城跡

富岡城跡からの眺望

富岡城は天草下島の北西、砂州で繋がった陸繋島の富岡半島の南東部の丘陵上にある梯郭式の平山城である。城の南には堀の役割を果たした袋池があり、東部には砂嘴に囲まれた巴湾が天然の土塁となって海からの外敵を防衛する役割を果たしていた。また、陸からの攻撃は砂州のみしかない。極めて攻撃し難い天然の要害を形成していた。

1994年より城の発掘・復元が計画され、国立国会図書館にある『肥前甘艸富岡城図』をもとに丘陵上の本丸に復元作業が行われた。2005年復元作業が終了し石垣や櫓が復元された。本丸の櫓は展示施設「富岡ビジターセンター」となり、天草の歴史・文化・自然などが紹介されている。
私は、富岡城跡に行ったことがある。城跡から望む景色はとても美しかったと記憶している。

如何でしたでしょうか。熊本県民の方は、是非、知識として知っておくと良いと思います。
熊本県民のみならず全国民が、美しい熊本城を早く見たいと思っているのではないでしょうか。今回、阿蘇についてはなにも掲載していませんが、早く阿蘇の雄大な風景を見に行きたいものです。

 

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