明治日本の産業革命遺産【エリア2 鹿児島】



今回は、第二弾として「鹿児島」がテーマです。前回同様、年表を見ながら読んでいくと分かりやすいと思うので、年表をリンクしておきます。
この年表を見ても分かるとおり、日本の産業革命は長州藩(現山口県萩市)から始まって薩摩藩(鹿児島県鹿児島市)へと舞台が移っています。薩摩藩は通称で、鹿児島藩が正式名称です。時代背景とともに詳しく見ていきましょう。

エリア2 鹿児島

関吉の疎水溝

1852年に建設された集成館事業の水車動力用水路跡です。現在の鹿児島市下田町関吉にある稲荷川上流から取水し、吉野町磯地区の集成館まで送水していました。もともと島津氏の庭園である仙巌園へ、水路(吉野疎水)が設けられていましたが、それを島津斉彬の命により改修しました。現在は一部が灌漑用水として利用されており、取水口や集成館内の水路などが現存しています。

寺山炭窯跡

1858年に建設された木炭製造用の石積み窯跡です。旧集成館」の附(つけたり)として国の史跡に指定されています。集成館事業に必要な大量の燃料を補うため、島津斉彬の命により建設されました。

旧集成館

欧米列強に対抗するため、薩摩藩主「島津斉彬」は、1851年から現在の鹿児島市吉野町磯地区に工場群を設けて軍事強化と産業育成を図りました。これを集成館事業と言い、製鉄・造船・紡績など幅広い分野を手掛けていました。1863年の薩英戦争や1877年の西南戦争では被害を受け、その度に再興しましたが、1915年に廃止されました。国の史跡に指定されています。

旧集成館(反射炉跡)

残念ながら反射炉全体は現存せず、反射炉下部の遺構です。萩反射炉(山口県萩市)と同様に、佐賀藩が有していたオランダの技術書の日本語訳を基にしつつ、在来工法による石積みや薩摩焼の技術を用いた耐火煉瓦など、和洋折衷の技術で反射炉が建設されました。

旧集成館(機械工場)

金属加工や船舶の修理、部品加工が行われた機械工場です。建物は、国の重要文化財に指定されています。薩英戦争により初期の集成館は一度焼失しています。その後島津忠義は、幕府直営の長崎製鉄所を手本に、オランダから工作機械を輸入して再興を行い、1865年に建物が完成しました。1926年に「尚古集成館」という博物館として公開されています。1863年製造のオランダ製形削盤も「尚古集成館」に現存しており、こちらも国の重要文化財に指定されています。

旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

イギリス人技術者の宿舎として建設された洋館で、洋風の外観ながら、柱には尺寸法が用いられたほか、屋根裏小屋組が和式であるなど、和洋折衷となっています。建物は国の重要文化財に指定されています。島津忠義は、1867年に鹿児島紡績所を建設しましたが、その際イギリスから7名の技術者を招いて、工場の設計と技術指導を依頼しました。イギリス人技術者帰国後は、大砲製造の支配所などに使用されていました。1882年に鹿児島城本丸跡に移築され学校などに使用された後、1936年に再び現在の場所に移築され、「異人館」として公開されています。

アクセス

関吉の疎水溝
(新幹線鹿児島中央駅からタクシーで15分、徒歩5分)

寺山炭窯跡
(関吉の疎水溝からタクシーで30分、徒歩15分)

旧集成館(反射炉跡・機械工場)
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)
(寺山炭窯跡からタクシーで35分)
(新幹線鹿児島中央駅からタクシーで20分)

バスで巡るモデルコース

鹿児島中央駅

(バス30分)

仙巌園前

(徒歩すぐ)


旧集成館

(徒歩すぐ)


仙巌園前

(バス2分)


稲荷町

(バス16分)


三州原学園前

(徒歩20分)


寺山炭窯跡

(徒歩20分)


三州原学園前

(バス24分)


金生町

(バス21分)


関吉の疎水溝入口

(徒歩8分)


関吉の疎水溝

(徒歩8分)


関吉の疎水溝入口

(バス30分)


鹿児島中央駅

 

薩摩藩での産業革命を語るうえで、薩摩藩主「島津斉彬」と「集成館事業」の存在は欠かせません。ここで簡単に触れておきます。
島津斉彬(しまづ なりあきら)は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主であり、島津家の第28代当主でもあります。薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人で、西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てました。
歴史好きの方は、良くご存知かと思います。ご存知ない方は、2008年放送のNHK大河ドラマ「篤姫」で、女優の「宮﨑あおい」さんが、主演したことは記憶していると思います。
天璋院篤姫と言えば、島津斉彬が、「将軍継嗣問題」に関して、自らの推す一橋慶喜(後の徳川慶喜)を将軍の跡継ぎにするために、将軍家定との縁組みを発案し、島津家の一門である今和泉領主・島津安芸忠剛(しまづあきただたけ)の娘であった篤姫を自らの養女とした後、近衛家の養女とし、最終的に将軍家定の正室として輿入れさせたと伝えられています。
この「島津斉彬」が名君と呼ばれる理由の一つが「集成館事業」です。集成館事業は、日本最初の洋式産業群の総称を指しています。
時代背景としては、清国(中国)でのアヘン戦争などで、イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国がアジア各地で植民地化を進めていました。その実情は、日本でも正確に知られていました。東洋一の大国が、敗戦して植民地化されていった事に、日本人はかなりの衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感がありました。
当時、薩摩藩の支配下にあった琉球へ、異国船が度々来航するようになっており、それらは逐一琉球から薩摩藩へ報告されていました。島津斉彬が藩主に就任する1851年には、しきりに異国船が琉球に来航するようになっていました。
そうした状況の中で、藩主就任前の島津斉彬は、日本の植民地化を憂慮して軍事力強化の重要性を唱え、富国強兵、殖産興業をスローガンに藩政改革を主張していましたが、藩内では資金が掛かり過ぎることが問題視され、財政再建論と富国強兵論で藩論が二分される状況となり、藩主交替の際のお家騒動「お由羅騒動」に発展していったのです。
このお家騒動を経て1851年に薩摩藩主に就任した島津斉彬は、藩主に就任するや、それまで長年温めていた集成館事業の計画に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心としてアジア初の近代洋式工場群の建設に取り掛かりました。
特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開しました。この当時、佐賀藩など日本各地で近代工業化が進められていましたが、島津斉彬の集成館事業は軍事力の増大だけではなく、社会インフラの整備など幅広い分野まで広がっている点が他藩と一線を画しています。
1858年に島津斉彬が亡くなった後、財政問題などから集成館事業は一時縮小されましたが、1863年の薩英戦争においてイギリス海軍と交戦した薩摩藩は、集成館事業の重要性を改めて認識し、集成館機械工場(現尚古集成館)、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造するなど日本の近代化に貢献したのです。

如何でしたでしょうか。前回紹介した「吉田松陰」にしても、今回の「島津斉彬」にしても先を見通す類稀なる才能があり、きっと100年先まで未来予想図を頭に描いていたのではないでしょうか。私は、この登場人物にも旅のロマンを感じます。何も観光しなくても、そこに行くだけで、この歴史上の偉人たちが何を考えていたのかを感じ、胸が躍ります。

 

 

バックナンバー

序 章:明治日本の産業革命遺産【序章】

第1回:    〃      【エリア1 萩】

第2回:    〃    【エリア2 鹿児島】



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