歴史を紐解く(廃藩置県)- 福岡県編



下表は、1869年の版籍奉還から現在の福岡県になるまでの変遷です。

福岡県民として興味深いところは、廃藩置県の当初は小倉城が藩庁ではなかったところと大分県中津が、小倉に含まれていたところです。また、石高の高いところが現在でも規模の大きな町になっています。その理由を紐解くことも今後のテーマとして面白いと思います。

福岡藩・秋月藩
福岡藩(ふくおかはん)は、筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。

福岡城南ノ丸多聞櫓

秋月城長屋門

福岡城・秋月城共に城跡として整備され、城郭は再建されてない。

久留米藩
久留米藩(くるめはん)は、筑後国御井郡の久留米城(現在の福岡県久留米市)に藩庁を置いた藩。1620年以降幕末まで摂津有馬氏が藩主を務め、21万石を領した。米藩(べいはん)とも称される。

久留米城坤櫓・石垣

柳河藩
柳河藩(柳川藩、やながわはん)は、筑後国に存在した藩。藩庁は柳川城(現:福岡県柳川市)。当初は筑後一国を支配する大藩であったが、のちに久留米藩の成立により筑後南部のみを領有する中藩となった。

柳河城本丸跡

三池藩
三池藩(みいけはん)は、筑後国三池郡を領した藩。藩庁として三池(現在の福岡県大牟田市)に三池陣屋を構えた。藩主家は三池立花氏であり、柳河藩の立花氏とは一族であるが、互いに独立した藩であり、同藩は柳河藩の支藩ではない。

三池陣屋跡

香春藩
小倉藩の藩庁は元来、豊前国小倉城(現在の福岡県北九州市小倉北区)に置かれていた。しかし幕末の1866年に勃発した第二次長州征伐において、小倉藩は長州藩の攻勢を受けて小倉城撤退を決定し、城を自焼した。このため小倉藩の藩庁として明治維新期に豊津陣屋(とよつじんや)が造営された。ただし廃藩置県が直後に実行された為、短期間で廃止された。
小倉藩(こくらはん)は、江戸時代の豊前国にあった藩。藩庁は小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に置かれた。幕末から明治維新にかけては香春藩(かわらはん)、のち豊津藩(とよつはん)となった。

小倉城

小倉城は、福岡県で唯一、城郭が再建されている。
天保8年(1837年)に失火によって御殿とともに焼失し、天守台には「御三階」と呼ばれる建築を建て、天守の代用としていたとされる。現在見られる天守は昭和30年代に『豊前小倉御天守記』『小倉城絵巻』『延享三年巡見上使御答書』等をもとに鉄筋コンクリート構造によって復興された。設計考証は藤岡通夫である。破風などは地元観光面への考慮から要望によって付加されたもので、大入母屋破風や千鳥破風・唐破風などの破風が見られる。

千束藩
千束藩(ちづかはん)は、小倉藩の支藩。当初は小倉新田藩(こくらしんでんはん)と称した。寛文7年(1667年)、小倉藩2代藩主小笠原忠雄の藩主就任時、弟の真方が1万石を領内に分与され立藩した。藩主家は参勤交代を行わない江戸定府の大名であった。明治2年(1869年)、千束(豊前市)に陣屋を構え千束藩と改称した。明治4年(1871年)、廃藩置県により千束県となる。のち、小倉県を経て福岡県に編入された。明治17年(1884年)、千束藩小笠原家は子爵となり華族に列した。

千束陣屋跡

中津藩
中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。廃藩置県の後、中津県・小倉県・福岡県を経て大分県に編入された。

中津城

如何でしたでしょうか。歴史に興味のない人には退屈だったかもしれませんが、福岡県民の方は、是非、知識として知っておくと良いと思います。
私自身、子供の頃「小倉」と「戸畑」で風土や方言などが違うことに何となく違和感がありました。このように調べてみて、小倉は豊前国、戸畑は筑前国となっていて、昔から国が違うことに気付きました。皆さんも何となく違いを感じていることがあれば、このように調べていくと違いが分かるかもしれませんよ。



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